○最近の野鳥事情
私たちが子どものころは、戦後間もないこともあって物の乏しい時代でした。ゆえに遊び道具は親から買ってもらった「肥後の守」という切れ味鋭い小刀一本を、暇さえあれば砥石で研いで、竹や木や紙を切ったり割ったり削ったりしながら、遊び道具を作っていました。今流に言えばアウトドアー感覚でしょうが、時にはイタドリなどの食べ物までも小刀で収穫したものです。最近は刃物は危ないという理由で小刀などを子どもの手の届かない所へ隠したため、「肥後の守」という言葉さえ覚えている人が少なくなって、死語に近くなっているようです。
秋から冬になって小鳥の食べ物が不足する頃になると、小鳥の餌となる木の実を集めてきて、「きびち」という罠を仕掛けて遊びました。小鳥の通りそうな場所に小鳥の餌場を作り、餌を食べるとはね木が小鳥の首を絞めて生け捕るのです。小鳥も最初は簡単に捕れるもののそのうち利口になって、ちゃっかり餌だけをしっけいするようになりましたが、それでも捕った獲物の野鳥の毛をむしり、肥後の守でまるで実験台のように腹を開けて内臓を取り出し、焚き火で焼いて食べたりもしました。それは動物虐待という世界ではなく、私たちの遠い祖先が生きるためにやって来た狩のようなものでした。残った骨や内臓類は石の上に置いておくと、いつの間にかカラスなどの他の動物が恩恵にあずかり持って行きました。
そんな生々しい遊びをしていたため、子どものころから自然の中にある食べられるものと、食べられないものの見分け方やあり場所をちゃんと知っていて、今でも人間牧場界隈を訪ねる度に、少年時代自分だけのとっておきの場所だったところを懐かしく思い出したりするのです。
私たちが子どものころに見た野鳥といえば空腹がそうするのか、モズやヒヨ、雀などでした。勿論メジロやウグイス、カラス、トンビ、カモメ、イシタタキ(セキレイ)なども記憶にありますが、サギや水鳥などは余り見かけなかったのに、わが家の池に水鳥がやって来て、池の鯉類を狙ったり、先日も自宅付近に住み着いているカワセミが、耕運機で耕した後ろでミミズをせっせと啄ばんでいて驚かされました。
2~3日前漁師をしている叔父さんからの連絡で魚を頂に豊田漁港まで行きました。港の漁船に乗る歩み板の上に何やら見かけぬ水鳥がとまっていました。ほんの手を差し伸べれば届くような場所なのに、逃げるどころか餌が欲しい仕草で私を見ているのです。
港・船・海=カモメのイメージが一辺に崩れました。この水鳥はサギ類の仲間でしょうが、羽根を広げるととても大きな水鳥で、最近よく海辺で見かけるようになりました。野鳥や獣は自然の変化に敏感です。里山にイノシシやカラスが出没するのも、ある意味環境の変化かも知れないと時々納得するのですが、この水鳥は私たち人間にどんなメッセージを伝えようとしているのでしょうか。
「この鳥は 何という名の 鳥かしら? 私をじっと 観察してる」
「鳥事情 変ったことも 気付かずに 愚か人間 何の手だても」
「白カモメ 黒はカラスと 覚えてた 灰色鳥は 何と覚える?」
「今朝もまた ウグイスの声 賑やかに 朝の目覚めは 鳥の一声」