○咲いても咲かずも寂しい今年の桜
昨日の夜、高知県四万十市西土佐に住む旧友の和田さんから久々に電話が入りました。「久々に声が聞きたかった」と泣かせるようなセリフを言って、近況を報告してくれました。西土佐村へは一年に20回も講演に行ったり知人や友人も多く、地理に精通しているため電話の向こうの様子を頭に描きながら会話しました。
和田さんの話によると西土佐当たりの桜は既に満開だそうで、私の町の桜などまだ一分か二分咲きなのにと驚きを隠せませんでした。実は桜というのは気温だけで開花を判断することは出来ないのです。私の町の桜がまだ一分か二分咲きのころ、温度の低い四国の山里で満開の桜を見て驚いたことは何度もありました。
私の身勝手な推測ですが、私の町の桜が遅いのは冬の間の北西の季節風が強いため、桜の花芽の表皮の水分を奪うためだと思うのです。
昨日は孫を連れてわが町の一・二を争う桜の名所である潮風ふれあい公園へ出かけました。園内の桜の中には旧八景山講演時代の古木の桜もありますが、殆どは私が役所にいる時手掛けた潮風ふれあい公園を整備した時植えた桜なので、思いでも一入です。その桜の殆どはまだ一分か二分咲きでしたがが、ここのところの温かい陽気に誘われて一気に開花が進むものと思われます。
和田さんが言うように、今年の桜は咲いても咲かずも寂しい感じがします。本来なら桜が咲けば仲間や家族と花見を楽しむのですが、今年は東北・関東大震災によって壊滅的被害を受けた東北や関東に住む人たちのことを思うと、とても花見を楽しむような気はなれないのです。政府は東北・関東大震災を東日本大震災と改名すると発表したそうですが、名前はどうであれ一日も早い復興を願っています。
(昨年見た今治市朝倉無量寺の枝垂桜)
それでも桜は自らの力と植わっている場所の気候風土の力を借り、一年をかけて咲くものですから、開花を待ち望んでいた私たちが今年の桜として、弁当やお酒で派手な花見はしなくて、しっかりとこの目で愛でてやらなければなりません。だって66歳になった私はまだ66回しか桜の開花の時期を経験していないし、85歳まで生きる予定の私にとってはあと29回しか桜の春を見れないのです。
来週の日曜日、21世紀えひめニューフロンティアグループの世界遺産を巡る旅で姫路城へ行く予定です。したがって仕事が休みの妻と桜を見れるのは明日の日曜日しかないのです。毎年桜の名所を一ヶ所ずつ心に焼き付けています。昨年は息子の転勤の引越しを兼ねて今治の枝垂桜を見て感動したものです。今年は何処にするかまだ決めていませんが、和田さんの話のように近場で満開の桜があるはずなので、見たいと思っています。
「満開と 友が知らせる 桜だが 今年は何故か 寂しく思う」
「ああ咲いた 今年も桜 忘れずに 愛でてやりたや 妻と二人で」
「あと何回 見れるのだろう 桜花 この目と体 しっかり開けて」
「ぱっと咲き ぱっと散り行く 桜かな こんな生き方 叶わぬ夢か」