○孫を連れて夕日を見に行く
「今時の子どもたちは夕日を見ない」と北条出身の作家早坂曉さんが、「四国にビタミン」というテレビに競演したとき控え室でしみじみ話していたのを思い出しました。私も同感で夕日の見える時間に子どもたちは、塾に通ったり家でテレビゲームに興じたりしてそんな暇がないのだといわれています。でもたとえそれが本当だとしても、夕日を毎日見なさいという訳でもないのですから、たまには親が夕日の沈む時間に子どもを海岸へでも連れ出して、親子で夕日を見ながら会話をしたらよいのにとしみじみ思うのです。多分親の言い分は「そんな時間はない」とか「夕日を見て腹が太る訳でもなし、一銭の得にもならないようなことhあしない」とせいぜい言われるのが落ちなのです。
娘の体調がこのところ思わしくなく実家であるわが家に帰っているため何かと孫の世話をやっていますが、今日は松山の幼稚園へ連れて行く当番が次男で、お迎えが私という役順だったため3時に迎えに行きました。運動会が今週末にあるのでその練習で疲れるのか、孫は車に乗ると直ぐにチャイルドシートでウトウトし始めます。片道40分の間すやすや眠り、帰ると母親に抱きつきます。寂しいのか少しぐずるので、思い切って夕日を見に行かないか誘ってみました。孫は「単車に乗りたい」と精気をよみがえらせて言うのですが、もう戸外の風は少し冷たく感じられますので娘の車に乗せて、10分ほどの人間牧場へ連れて行きました。
本当は「もぎたてテレビの取材でロケ風呂のボイラースイッチを入れたまま忘れていたため、切りに行かねばならなかったのです。5時過ぎの人間牧場は快晴ながら山の端に太陽が傾き、緑陰では薄暗ささえ感じるほど夕闇が迫っていました。それでも水平線の家の前のウッドデッキには夕焼けの光が孫の姿を映し出し、長い人影が尾を引いていました。
孫はテレビの影響かはたまた幼稚園の仲間の影響か、このところ写真を撮ると必ずといっていいくらい変身ポーズをとるのです。何とも奇妙な写真です。スイッチを切り再び戸締りをして帰宅の途につきましたが、途中念願のふたみシーサイド公園の夕日を写真に収めるべく立ち寄りました。今日は天気もよく夕焼けショーが期待できそうなので、急いで孫をおんぶして恋人岬の見える場所まで行き、早速撮影開始です。孫はその意味がまだ分らず、靴を車の中に忘れたため、素足で走り始めました。
私はそれを無視して写真を撮り続けましたが、孫はかまってくれない寂しさか、「おジーちゃん、おじいちゃーん」と大きな声で周囲をはばかることなく叫ぶのです。その都度位置と安全を確認しながら周辺のカメラスポットに移動してはシャッターを押し続けたのです。
私の狙っていた夕景は秋分の日前後にしか見ることの出来ない、恋人岬のモニュメントの穴の中に入る夕日です。かつて私が
構想した施設なのでその景観的価値とシャッタースポットは心得ているため、沢山のカメラの方列の前を迷惑のかからないように移動しながら撮影しました。
撮影の都度孫に夕日が綺麗と指を差して見るよう促すのですが、孫にとっては遊びの方が重要で、石張りの上を歩いたり石席の上によじ登ったりと活発に動いていました。やがて西の彼方に夕日が沈んだので再び孫をおんぶしてシーサイドの駐車場まで歩きました。運良く町のミュージックサイレンから「赤とんぼ」の曲が流れてきました。孫と二人で夕闇迫る道を大きな声で歌いました。夕食の終わったその夜は「男同士」なんて言葉を口にする孫と二人で風呂に入り、歌を歌ったり夕日の話をしました。孫にとっても夕日のことが思い出されるのか、風呂上りに今日撮った夕日の写真や孫の写真をパソコン画面で見せるようせがむのです。
写真はまあまあ綺麗に撮れていました。孫は満足そうに「綺麗やね」と相槌を打ちながら見ていました。孫の記憶に夕日はまだ残像として残るとは思いませんが、それでも束の間だけでもじいちゃんと美しい夕日を見たことはマイナスにはならないでしょう。むしろこれからも折につけ夕日を見せてやりたいものです。
「大声で 二人で歌う 童謡に 若いカップル 思わず拍手」
「この夕日 二度と見えぬと 思うから しみじみ眺め 写真収めて」
「孫背負い 孫の指差す 海辺り 長い尾を引き 夕日が沈む」
「ミュージック サイレン郷愁 かき立てる 一日の終わり 静かに暮れる」