○集会所が使えない西土佐・・地区(20-?)
「若松さんですか。実は今日予定していた集会が、地区内に不幸があって集会所が使えなし、地区の人の殆どが関係者で、出席もままならないので今日の集会は延期したいと思うのですが」と早朝を待って電話が架かってきました。「そりゃあ仕方がありません」と電話を切りました。そのようなことで昨日は予定もなく、締め切りの過ぎかけた原稿書きを思い立って、頭に鉢巻の出で立ちで集中して原稿を書くつもりでした。午前中は何とか集中できたのですが、午後からは講演依頼の電話やメールがたくさん入ってきて、日程を時刻表で調べたりインターネットで検索したりとおおわらわの一日となりました。それでもどうにか原稿用紙30枚の短編が出来上がり、メールで送ってホッとしました。
田舎はこうした突発的な出来事が時々あることはよく承知をしています。特に集会所といわれるものは田舎にとって冠婚葬祭の重要な場所で、私の町のある集落などは葬式まで集会所でやる場所もあるのです。そんな場合いくら重要な会議を前もってセットしても、住民の生死に関わる重要事項として最優先されるのです。それにしても20回を予定して始めた集会でしたが15回の前回までは不思議にそんな機会にも出会わずスムースに日程を消化してきたものです。
最近は葬祭も都会に葬祭ホールのようなものが沢山出来て、病院で死ぬと遺体は家へ帰らずそのまま葬祭センターへ直行し、そこで通夜と葬式、それに49日の法要まで済ませるまるでエスカレータにでも乗っているような葬祭のやり方が一般化してきました。毎日見る新聞のお悔やみ欄に目をやるとそれは一目瞭然で「葬儀は自宅」なんて書かれていると、「ほう、珍しい」と思える程の変貌ぶりなのです。「せめて住み慣れた家で通夜を」とか、「せめて地元の知人友人の列席できる葬式を」なんて思わないのでしょうか。確かに家でやると煩わしいし、金さえ出せば簡単に何でも滞りなくやってくれる葬祭ホールは便利この上ないものなのですが、何か割り切れないものも感じるのです。多分葬祭ホールのない私たちの地域のような所では、葬祭ホールが隣の町で遠いため慣れ親しんだ知人友人でありながら行けないお年寄りたちは沢山いるのです。勿論葬式を出す家の配慮で送迎のバスが出るのですが、それでもおっくうで中々出席できないと言っているようです。
田舎の暮らしも知らず知らずのうちに随分変わってきました。四万十市といっても最近まで村だった西土佐は私たちの町から比べると田舎らしさがまだまだ残っており、それらの数々は文化的価値が高くなんとか残したいと思うのは私ひとりではないと思うのですが、多分時代の流れに逆行することも、それを残す想いを持った人も少なく、多分数年のうちには消えてゆく運命を持っています。でも何とか民俗学的にも残しておきたいものです。
先日写真で見た権谷地区の施餓鬼の伝統的行事や、玖木地区の藁草履つくり技術も魅力あるものなのです。鮎やウナギや川海老、カニは美味珍味と喜んで食べますが、それらを捕獲する川魚漁師の伝統的漁法はスポットが当たらなし、マタギの狩猟技術も消えてなくなりそうです。
「集会所 今日は葬式 使えない 電話一報 田舎らしいね」
「病院へ 入院嫌がる 高齢者 家へ帰らず 葬祭直行」
「訪ね来し 田舎の部落 オシメ干す 家は少なく 陽だまりおばん」
「道祖神 見まがうほどの じじばばが 道端日向 何やら話す」