shin-1さんの日記

○オードリー・ヘップパーンの言葉

 昨日テレビを見ていたら、「あなたはどんな映画が記憶に残っていますか」と訪ねた質問に、団塊の世代の人たちが文句なしナンバーワンに挙げたのは「ローマの休日」でした。私たちが若い頃は映画全盛時代でしたが、田舎の映画館は時代劇が幅を利かせていましたから、洋画となると松山の洋画専門の映画館へ行かないと見ルことが出来ませんでした。それでも若者たちは休みになると連れ立って映画を見に行ったのですが、血気盛んな私たちはどちらかというとジョン・ウェイン主演のカウボーイやピストルに憧れていました。

 でも「ローマの休日」に出演しているへップパーンを見てからは女性観が変わったような気持ちになりました。昨日のテレビでヘップパーンのその後を紹介していましたが、「ローマの休日」で富と名声を得たヘップパーンは、その後福祉の分野で恵まれない人のために生涯を捧げた話は、余り知られていないようです。

 彼女の言葉がテレビで足早に紹介されていましたが漫然と見ていて、メモを取る暇もなく終わってしまいました。おおよそのことなので性格には言えませんが「耳は不自由な人の声を聞くためにある。口は人を褒めるためにある。目は見えない人のためにある。両手は手伝うためにある。両手や両足があることを感謝し人のために尽くす人でありたい」みたいなことを言っていました。

 栄華を極めた人は得てして弱者のことなど耳も口も目も、ましてや両手両足を貸すなどしないものですが、あの爽やかな笑顔のへップパーンの言葉だけに印象深く聞き入りました。

 そういえば今の世の中はへップパーンの言葉とは裏腹な人が余りにも多いように思います。またそんな人が政治家や実業家となって社会をリードしているのですから余計世の中が混沌とするのです。

 人のことではありません。私たちの日々の暮しでもそんな状況を作り出し、些細なことが喧嘩になって、取り返しのつかないことになるのです。夫婦を例にとってもあれ程華やかな結婚式を挙げたはずなのに、一年もすれば破局が来るのです。それはヘップパーンが言っている逆の事を相手に求めているからかも知れません。私たち夫婦も若い頃は何度か夫婦喧嘩をしました。仲直りして振り返れば何で?と思うささいなことが喧嘩の原因になっているのです。さすがに今は鍋やお皿が飛ぶような喧嘩をする馬力はありませんが、妻の言葉に耳を傾ける努力をしませんでした。相手を褒めるような言葉も掛けなかったように思います。また妻の粗を探すような目つきで見ていたし、両手両足を貸すような行動は男のプライドが許さないと思っていました。全てが勘違いで、全てが間違いでした。でも今からでも遅くはないと、ヘップパーンの言葉を聞いて自戒の念に駆られたのです。

 私たち夫婦にとって老後はもう来ています。お互いがいがみ合って生きたところでろくな生き方はできないのですから、その事を肝に銘じて生きて行きたいと、今日は少し妻を相手に内緒で練習をしてみました。それとはなしに気付いた妻が、「まあ珍しい、雨でも降らなければいいが」でした。私は「・・・・・・・」でした。でも雨が降っても少しだけ心を入れ替えて日々を送ろうと思いました。ふと見た妻の頭はいつの間にか白髪が目立っていました。

  「この歳に なってもプライド 持ち上げる 今に俺など 見放されるか」

  「ヘップパーン あれ程の人 世のために 尽くし尽くして 光り輝く」

  「ちょっとだけ 心変えれば 世の中は 丸く収まる 特に夫婦は」

  「求め過ぎ だから世の中 ののしって 最後は破局 与えましょうよ」

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shin-1さんの日記

○芋端会議②

 10月27日の芋掘り作業やクッキングの様子を教育委員会の福岡さんが撮影してくれた写真で紹介します。

 この日は前日の雨も上がり、風は強いもののまずまずのコンディションだったようです。楽しみにしていた2年越しの芋掘り作業ですから、みんな気合が入っていたようです。芋のツルを刈り取って外に出し、鍬やスコップで掘る度にあちこちで大きな歓声が起こりました。

 同行してくれた農家の西岡栄一さんも驚くようなこんな立派な芋がゴロゴロ出て来ました。どうですかこの芋、子どもの顔と同じくらいの大きな芋に、子ども達も満足な様子でした。

 

 収穫した芋はキャリーに入れられましたが、食べきれないほど掘りました。赤土土壌で芋の適地らしく真赤な芋に育ったようです。

 芋は焼き芋にしようと焚き火をして火を起しました。水洗いに水を沢山使い過ぎてタンクの水が空っぽになるハプニングもあったそうです。水洗いした芋をアルミホイルで包んで焦げないようにして火の中に入れました。最後は少し蒸し焼きにするのがコツで、美味しいホカホカの焼き芋ができたようです。焼きたての芋は美味いです。みんな美味しいと大好評でした。


 クッキングは芋の天ぷらと芋ケンピ作りです。あちこちにできた野外調理台の上にポータブルのガスコンロを置き、鍋に油を入れて調理しました。ボランティアのおばちゃんたちに教えてもらい、手際よく作業をしました。

 さあ出来上がりです。ウッドデッキの上にビニールシートを敷いて芋端会議のはじまりはじまりです。

 秋も深まって、周りの山々にはハゼ紅葉が赤く色づきはじめました。海も空も少しずつ秋色に変化し、人間牧場のススキが長閑に風になびいています。芋植えから始まった人間牧場の活動も芋掘りや芋端会議で一応終わりました。事故もなくプログラムを成果を上げて終わって、スタッフの方々もホッとしているのではないかと思います。こうした活動は主催者が自燃しなければ可燃の子どもたちには感動が伝わらないものです。そういう意味で社会教育に携わる人は伝道師なのです。私も地域活性化担当大臣から「地域活性化伝道師」の称号をいただいていますが、これからも力の続く限り伝道師として地域の活性化に貢献したいと思っています。

  「芋食えば パンツ破れる 屁の力 辺り一面 田舎の匂い」

  「百姓の 苦労が分る 芋の味 一個の芋も 汗知恵なくば」

  「顔ほどの でっかい芋を 掘り当てて 有頂天なる 子どもの笑顔」

  「あのツルが こんなでっかい 芋になる 不思議なことが 自然の中で」

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○ついにイノシシに勝った子どもの話①

 あれは確か5月26日だったと思います。60人を超える応募者の中から30人余りの子どもたちが抽選で選ばれ、「少年少女おもしろ教室」がスタートしました。行き掛かり上実行委員長を頼まれた私は、人間牧場を開放し様々なプログラムを考えました。教室の実行委員会が主催ですから、かつて私が無人島由利島でやったようなサバイバルや安全な冒険はできないものの、少しでも子ども達に感動を与えようと、既存プログラムに知恵を授けました。お陰で今年のプログラムは子ども達にとってとても魅力的で、感動するものとなりました。

(回想写真①芋畑の開墾)

(回想写真②、芋植え作業)
(回想写真③、ネット張り作業)
(回想写真④、看板設置)
(回想写真⑤、完成した芋畑)

 5月26日には人間牧場の農場に芋を植えました。農場と言っても猫の額ほどの小さな段々畑です。そこを耕し黒いマルチシートを敷いてイモヅルを差し込んでゆくのです。あいにく植えた頃は雨が降らず何本かは根付かず枯れてしまいましたし、その後の異常とも思える猛暑でイモヅルは悲鳴を上げましたが、それでも植物は偉いもので、土の中に芋を蓄え今日に至ったのです。その間事務局の職員が何度も見回り、成長の記録も残しましたし、子ども達も夏のキャンプ時に草取りや草刈りをして芋を助けたのです。

 最も気を配ったのはイノシシ対策でした。というのも昨年は収穫間際になってイノシシの攻撃を受け、ツル以外何も残らないように食べられ、全滅の被害に遭ったのです。近所に住む西嶋さんが猟銃でイノシシを獲ったそうですが、イノシシは無数にいるのでその対策をしないと昨年の二の舞を踏むと思い、色々作戦を考えました。

 「イノシシに知恵で勝とう」とリベンジを誓った子ども達は漁師さんから貰った魚網を芋畑の周囲に張り巡らし、ジュースの空き缶を沢山吊り下げました。また使わなくなったCDや人間の髪の毛もまるでおまじないのように取り付けたのです。僅か5ヶ月の間に網にカズラや雑草が絡み、何度か網囲いも倒れそうになりましたが、人間牧場に行く度に補修をして望んだのです。

 芋端会議と銘打った芋掘りとクッキングをセットにした収穫祭が先日10月27日に行われました。私はあいにく島根県へ出張中で参加できませんでしたが、人間牧場の全てを教育委員会の日山さんに委ねての旅立ちとなりました。昨日教育委員会の福岡さんがその様子をデジカメで写したものを届けてくれたので、早速記録に留める事にしました。

 写真には子どもたちの芋を掘る様子が写っていましたし、ボランティアの人たちの手助けでクッキングしたり、食べたりする様子が楽しそうでした。総じて大豊作とまではいかなくても、農政局の発表に準じると作柄は「やや良」といったところでしょう。それでもイノシシに知恵で勝とうと誓った成果ですから素晴らしいの一言です。

 様々なハプニングをみんなの力で克服しました。来年はこの芋を種にしてツルまで育てるプロジェクトを考えていて、既にそのプログラムが水面下でスタートしています。

 皆さんご苦労様でした。

  「イノシシに 勝とうと誓い 芋植える 子どもの願い 天に通じて」

  「昨年は 見事食われた 芋畑 今年は子ども 歓声響き」

  「携帯の 電話の向こう 賑やかに 島根の地まで 感動届く」

  「今頃は イノシシたちも リベンジを 虎視眈々と 狙っているかも」

 

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○松山市二つの集会

 昨日と今日、松山市の二つの集会に招かれ参加しました。一つは公民館役職員研修会、もう一つは幼稚園での研修会でした。

(公民館役職員研修会)

 昨日の公民館役職員研修会は主に公民館運営審議会委員さんが対象で、会場となった松山市青少年センターの三階ホールには沢山の方が参加していました。私にとって一番お箱の話だけに熱を帯びて話をしました。私の話は主に三つの視点から公民館について述べました。まず今の社会情勢を分析しながら、私の目から見た公民館の弱点を「公民館ないないづくしの10か条」として話しました。それはとりもなおさず裏を返せばいい公民館を作るための処方箋のようなものです。続いて「公民館の活性化ステップアップ7段階」についてまちづくりの視点から話をしました。最後は公民館職員の心構え10のポイントについて話し締めくくりました。私の公民館に勤めた時代と今の時代はかなり公民館の置かれている時代感覚が違っているものの、やはり公民館は今も昔人の良し悪しだと協調しました。

 会の終了後若い公民館主事さんが控え室に見えられ、「どうしたらあんなに上手く喋られるようになるのですか」と質問されました。人の前で喋れるようになるには場を踏むこと、失敗を繰り返すこと、日頃勉強をすること、5分刻みの小話を沢山作り自分の心の引きだしに入れて小出ししながらつなぐことだと、話してあげましたが、さて実行するかどうか・・・・・・。

 今日は午前中三津浜幼稚園へ金銭教育の話をしに出かけました。愛媛県金融広報委員会の依頼によるもので、金融広報アドバイザーをしている私にとっても、金銭教育は十八番の十八番なのです。私は昭和51年からこの仕事を副業的にやっていますが、お陰様で随分生活設計などについて学び、自分自身の生き方に影響がありました。

(金銭教育講演会)

 三津浜幼稚園は昨年度と今年度、金銭教育指定園になっていて、私がその担当なので今回で3回目の訪問となりました。私の話は「家庭の変化」について10項目に渡ってお話しました。また最後は「親のあり方10のポイント」について話をしました。子どもに感動を与える話で、即興でハーモニカを吹きました。何人かのお母さんたちは「夕焼けこやけ」と「みかんの花咲く丘」のしんみりした音色に聞き入り、驚いた事に思わず涙ぐむ人さえいました。嬉しい反響でした。金銭教育はややもすると肩苦しく感じたりするものですが、この研究の中心になって推進している教頭先生のお陰で随分浸透しているように思えました。今日の講演会の参加や、講演を聞く態度を見ても凄い成長だと感心しました。公民館と同じように金銭教育も人の存在が大きいと実感し、ほのぼのとした気持ちで帰りました。

 同じ街であり名から全く違った性質の集会に相次いで参加して思うことは、地道なこのような研修会が市民の教育的価値を高めてゆくのだと思いました。世の中が随分と変わり、社会悪が渦巻いているようにも見えますが、見方を変えれば気候温暖で日本でも住みたい街の上位にランクされている松山ですから、みんなの力でいい町にして欲しいと願っています。松山は痩せても枯れても愛媛県の代表選手です。松山がよくなれば愛媛県のレベルも高まることでしょう。今日鳥取の旧友宮本さんから入ったメールだと鳥取県民の数がついに60万人を割ったそうです。松山市は51万人もの市民を抱えています。人口の多さが街の良し悪しではないのですが、凄い数だと思います。公民館も幼稚園も単なる市民ではなく住民の意識を持った人を育てる最前線であることの地震と誇りを持って欲しいと願っています。

  「俺十八番(おはこ) 自信に満ちて 話する 聞いた人々 眠りもせずに」

  「ちらほらと 懐かしき人 顔見せて 聞き入りメモを やはり恥かし」

  「あんな風 話がしたいと 思いつつ 修行重ねて あんな風なる」

  「ああしもた あれもこれもと 反省す 次は失敗 しないようにと」

  

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○色づき始めた庭のシノブ

 南に面した私の書斎は急峻な山が家の近くまで迫っているため、石垣を利用した細長い畑や庭が見えて四季を感じることができます。山茶花や松、もみじ、クロガネモチなどが植えられていますが、畑に植えられている樹木の殆どは、子どもたちが12歳の少年式を迎えた時に森林組合から記念品で貰ったものなのです。子どもたちは貰ったことすら忘れているようですが、親父が孫の成長を確かめるように大切に育ててくれています。

 そんな木に混じって高さ1メートルもある庭石にシノブという蔦のような植物が絡まっている場所があります。これも私がふるさと七名山のひとつ黒山から30年も前に採取してきたシノブを親父が絡ませて作った秀作なのです。今では石にしっかりと絡まって夏の強い日差しにも耐えて生きているのです。「耐え忍ぶ」という言葉がありますが、語源はこの植物から来ているのではと見まがう程に逞しく石にへばりついていて、この30年間、この過酷な条件の中にも関わらずたくましく生きている姿に深い感動を覚え、何度も励まされてきました。

 シノブには園芸種で年中葉っぱの落ちないトキワシノブというのがあり、鉢植えで持っていますが、庭のシノブは野生のもので石にへばりついた蔓から春になるとワラビのような芽が出て、それは綺麗なシダのような葉っぱが茂ります。青々とした姿は夏の暑さを和らげて涼を感じさせてくれたりもするのです。

 シノブは落葉植物です。紅葉が始まる秋になると色づき始め、11月には黄色く色づくのです。わが家のシノブも数日前から色づき始めました。あと10日もするとそれは見事に紅葉するのです。一昨日島根県へ行く途中、広島県の山奥の恐羅漢渓谷の入口を通りましたが、そこで見た松の木に絡まった蔦が真赤に紅葉した姿を感動の面持ちで見ましたが、車窓に広がる秋色の景色を身ながら、わが家のシノブを思い出したものです。


 「小さい秋見つけた」という歌があります。コーラスグループのボニージャックスかダークダックスが歌っているようですが、まさに石に絡まって四季を演出してくれるわが家の庭のシノブは「小さい秋見つけた」って感じなのです。昨日は間もなく始まる大相撲九州場所の番付も発表され、わが郷土の力士玉春日も2場所連続の勝ち越しで前頭9枚目まで順位を上げてきました。既に峠を越えた玉春日に多くは望みませんが、ひたむきに、ただひたむきに押し相撲に徹して生きている彼の姿にシノブを重ねました。九州場所とともに日本列島に北西の季節風が吹き始め、私たちの町の前に広がる瀬戸内海も次第に波の高い日が多くなってくるのです。

  「庭石に しっかり絡まり 生きている シノブあやかり 今日まで生きた」

  「幾葉か 色づき始めた シノブの葉 小さい秋を 見つけカメラに」

  「そこここに 探せば見える 秋の色 季節移りて 今朝は一枚」

  「盆栽の ようにも見える 庭の石 日本の四季を 表現するよに」

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○五右衛門風呂

 定かな記憶ではありませんが、何年か前真砂に来た時は学校の運動場と道路の間の敷地に五右衛門風呂が一つポツンとありました。「あんな公衆の面前で風呂に入るには水着でも着ないと恥かしい」と思って見ていました。その後寺戸一朗君や大畑信幸君から届く風の便りでは、「五右衛門風呂が三つになった」とか「囲いと屋根が出来ました」「今度は地元のおじいちゃんの指導で釜戸も出来ました」と次々に進化の様子が届いていたのです。ですから今度のフォーラムが真砂であるというので密かに楽しみにしていました。

 到着した日はあいにくの雨の中を到着し、事前打ち合わせや分科会、それに交流会と息つく間もないスケジュールだったものですから、結局一日目は見ずに益田駅のの前のビジネスホテルへ帰ってしまいました。浜田先生や佐々木先生など悪友が夜も誘いに来て、「いろはにほへと」という居酒屋へ大勢でなだれ込みました。そして午前様まで付き合って床に着いたのは1時頃でした。

(早朝の空にぽっかり浮かんだ十五夜の月)
(区画整理ができてすっきりした益田駅前界隈)

 しかし習慣とは恐ろしいもので、早朝4時に目が覚め寝付かれなくなってしまいました。私もやはり歳なのでしょうね。6時まで読書にふけり、外が騒がしくなったので部屋のシャッターを開けると、早朝の青い空にくっきりと十五夜の残月が見えました。益田駅前も区画整理が進みすっきりした感じになっていましたが、その分だけ余計月が寂しく感じられました。

 研修会が終わったのは12時でした。島根県の松嶋さんが運良く益田で研修会があって来られていて、途中まで送ってくれるというので、彼女の到着を待ちました。その間約30分ばかりでしたがそこここを訪ね、見れなかった部分の散策をしました。

 まず五右衛門風呂です。立派な五右衛門風呂が3基も完成していました。

(五右衛門風呂棟の内部です)
(五右衛門風呂の外観です。もう一つは釜戸と一緒に別棟でした)

 まるで田舎旅館の露天風呂のような立派さで、昨晩入浴したかったと悔やみましたが後の祭りでした。風呂の側に立派な釜戸ができていました。人間牧場に欲しい施設です。写真に撮ったり寸法を計ったりしましたが、私にはとても真似のできる代物ではないので、どうするか考えなければなりません。

(湯沸しまでついた2連式の釜戸)

 全体を五右衛門広場と名付けて看板まで立っていました。横には二日間の舞台となった真砂小学校の木造講堂が堂々と建っていました。これも、原風景として利用できる真砂の財産なのです。

(真砂小学校の講堂)

 いい雰囲気で真砂の地域づくりが行われ、かなり成熟してきました。お豆腐を作る有限会社真砂のトウフマン1号岩井賢朗さんにもお会いしました。昨晩食べた豆腐の職人さんです。人有り、食べ物有り、風呂有り、資源有り、グリーンツーリズムの形が出来つつあるようです。

  「少しずつ グレード高め 進化する 様子眺めて 頼もしかりけり」

  「俺の風呂 比較するもの あればこそ ああもしたいと 夢は広がり」

  「まず釜戸 次の目標 見えにけり 資金ぐりなど 更に厳しく」

  「学校も 今時珍し 木造で これも似ている 私の町と」


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shin-1さんの日記

○交流会

 一昨日は分科会終了後、大交流会が学校講堂で行われました。高津川の鮎の塩焼きと真砂のザル豆腐、それに猟友会が協力して造ってくれた猪鍋やおでん、合鴨米のおにぎりなど、思い出せばツバが出るくらい美味しいご馳走を堪能しました。酒の飲めない私にとっては、お茶ばかりで少々きついものですが、それでも飲むほどに酔うほどに酔うほどに交流の輪は広がり、持って行った一箱100枚の名刺はあっという間に無くなってしまいました。

(講堂の中が割れんばかりの盛り上がりでした)

 参加者は広島県・千葉県・神奈川県・大阪府・静岡県・岩手県・群馬県・山口県・愛媛県・山口県・東京都・福岡県・宮城県・栃木県・島根県・大分県と覚えているだけでも16都府県にまたがり、それぞれ自慢の産品が披露されてセリに掛けられました。

 交流会では石見神楽が披露されました。その見事さは言葉や文章、それに写真では表現できないほどのもので、度迫力に盛んな声援が飛び交いました。私もかぶりつきのような前の席でしばし口を開けて見とれていました。


(居合わせた島根県の教育長さんが絶賛するほどの立ち居振る舞いに鳥肌が立つほど興奮をしてしまいました。

 しかしこれらの伝統芸能も過疎化や高齢化、それに少子化による後継者不足で、思うに任せないのが実情のようです。真砂に来る道すがら、国道沿いのどこかの町で立派な神楽会館が朽ち果てて崩れ行く姿を目の当たりにしました。この神楽を伝承するためにどれ程の人がどれ程の練習をしているのでしょう。こんな伝統文化への援助こそ、美しい国づくりなのだと思うのですが・・・・・。


 今回の集会を企画運営したのはこの人たちです。多分真砂地区にこれ程の人が集まったのは久しぶりだと思うのですが、人を温かくもてなす心が充分に伝わってきました。

 来年は松山で開かれるのだそうです。他人事だと思っていた訳ではありませんが、交流会の最後に松山の人たちが壇上に上がりおらが松山を紹介していました。いいことです。こうして交流の輪が広がり、多くの人が学社融合について論じ合い、自分に出来る事をやるようになるのです。

 仕事柄私もこれまで沢山の大会にお邪魔してきました。千人を超えるものもあれば、100人単位のものもあります。今回の大会は人数的には小ぶりな方ですが、思いとアイディア、それに暖かさでは何処にも負けない、そして心の温かさを感じるような大会でした。

 近くのお寺の本堂まで分科会場にしていました。多分真砂の先祖は「一体何事が起きたのか」と目を丸くしたに違いありません。これこそ私が目指す「人でも仕事でも愛する所に集まって来る」なのだと思いました。子どもが少なくなり、あるいは学校がなくなるかも知れません。でも転ばぬ先の杖としてどうすれば地域が自立するか考えたこのフォーラムの意義は大きいに違いありません。ただ何もせず時の流れに身を任せていたのでは、地域はよくならないのです。

  「今までに 子どもの司会 見るもなし 嬉し恥かし それで堂々」

  「三年の 時の流れが 逞しい 人を作りて 私感激」

  「学校の 講堂古く 木造で 一周遅れの トップランナー」

  「神楽(舞) 合鴨(米)も 同じ(まい) 俺は(まい)った 鍋に(まい)茸」 

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○フォーラムに参加して「学校が危ない」と叫びました

 「きっと 子どもたちのために きっと もっと あなたのために」、サブテーマである「~子どもがいるから学校がある 学校があるから地域も元気ななる~」を全体テーマにしたフォーラムが島根県益田市真砂小学校の講堂で行われました。

(会場のステージを飾ったアート作品の数々はこの方が作りました。前回真砂に来た時工房を訪ねましたが、中々の趣味でした)
(会場を埋めた260人の参加者)
(子どもたちが司会進行をしました。いい雰囲気でした)
(前の席には地元のおばちゃんが陣取りエールを送ってくれました)

(開会前のくつろいだ雰囲気です)
 私は第3分科会「学校の地域における役割を考える」と、全体会「地域が育む学校、学校が育む地域」のパネラーを務めました。

 まず第3分科会は顔馴染みの学校地域の融合教育研究会副会長岸裕司さん(千葉県)をコーディネーターに、元佐伯市観光大使の矢野大和さん(大分県)、学校地域の糾合教育研究会副会長油谷雅次さん(大阪府)、それに私(愛媛県)をパネラーに迎えて、お互いが論陣を張りました。この分科会は凄いメンバーを揃えたもので、岸さんの巧みな司会に上手く絡んでいい分科会となりました。会場には真砂地区の人が沢山陣取り、自分たちの地域の見えない不安と向き合っているようにも思えました。

 真砂地区は高齢化率44.5パーセント、小中学生合わせて14人とか、134年の歴史を誇る学校だというのに、今は統廃合の見えない幻影に脅かされているのです。

 私流に考えれば、日本の社会がおかしな方向に向かい始めたと思うようになったのは高度成長期でした。それでもまだまだ田舎は第一次産業もそれなりに動き、過疎だと言ってもそれほど深刻なものではありませんでした。初めて田舎が危ないと意識したのは「国鉄の民営化」、つまり「始めの波」でした。公共交通機関に移動手段を頼っていた時代が、マイカーの普及や高速道路の整備によって大きく変化したのです。特に田舎の国鉄は赤字が膨らんで、このままだと政府の台所が持たないと、民営化になりました。当然私たちの町の予讃線海岸回りもその対象になりましたが、巧みな戦術で切り抜けて生き残り現在を迎えていますが、その将来は楽観を許さないのです。

 続いて「第一の波」がやって来ました。「農協の合併」です。町や村それぞれにあった農協は広域合併しました。そして私たちの町のきめ細かな営農指導は姿を消すと同時に、主産業であったミカンは放任園が増え始めミカンで飯が食えなくなったのです。当然飯が食えなくなると人は食えるところに生きる糧を求め、町から人がいなくなるのです。それでもみんな農協の合併は他人事だと傍観していました。

 「第二の波」は「市町村合併」でした。みんなここでやっとその重大さに気付きはしましたが、行政のメリット強調や議会の浅い議論と住民の人任せの無責任な気持ちが、現在の地方自治が持他なければならないはずの行政サービスが低下を招いているのです。

 「第三の波」は先日の「郵政民営化」です。郵便局が民営化すると効果効率です。国の持つ公共サービスの最後の砦はもろくも崩れ去ろうとしています。悲しいかな銀行もない地域ではお金の出し入れさえもできないのです。

今「第四の波」が押し寄せいてこようとしています。「学校の統廃合」です。なし崩しに行われようとしている学校統合は、子どもの成長した子どものいない家庭にとっては、それ程困った問題だとは受け止められていません。

 この問題が今回のフォーラムのテーマでした。「適正規模」などと訳の分らぬ言い分を錦の御旗にして学校が全国の地域から消えようとしているのです。学校がなくなれば町の三大企業だった農協・郵便局・役場が消えたのと同じように、地域のダメージはもう地域の存在意義すら消えるのです。

 「学校が危ない」と壇上から声高に叫びました。そして地域の人たちに不燃物のような不燃人になるな、せめて可燃物のような可燃人になって欲しい、そして自燃人になって欲しいとメッセージを送ったのです。会場に来た人は私の叫びに大きな拍手をしてくれましたが、残念ながら来ない人へは響かないメッセージなのです。

 普通フォーラムに参加すると元気を貰って帰ります。しかし今回は交流会で元気は貰ったものの、将来への暗い影が忍び寄っているようで、少し落ち込んだ疲れた気持ちで帰りました。これからは「学校が危ない」と、余力しか使えませんが訴えて行きたいと思いました。

 実は第五の波」である、「集落の崩壊」が密かに忍び寄っているのです。ご用心を。


(二日目の全体会です)

(この子どもたちが歌った歌にはジーンときました)


 
「学校が 危ないですよ 声高に 叫んでみるも 反応今一」

  「三回も 訪ねる真砂 あちこちに 無住とおぼしき 家が増えてる」

  「俺四人 子ども育てた 古い人 今は一人か 二人寂しや」

  「世の中が 進んでいるのに 田舎では 追々細り 線香のようだ」  



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shin-1さんの日記

○まあよく行く所もあるねえ

 家族も近所の知人や友人も、毎日のようにネクタイと背広姿で外出し、滅多に家にいない私を見て「まあよく行く所もあるねえ」と感心や感嘆の言葉をかけてくれます。その通り私は役場を退職して2年半余りが過ぎたというのに、相変わらず自分でも感心するくらい外出する用事が多いのです。

 先日既にリタイアしている男子同級生にばったり出会ったら、彼は只今何もすることがなく、風呂とパチンコとくらいなものだと、気楽な年金暮らしを堪能している様子で、「お前が羨ましい」と言われましたし、同級生の女性からも旦那が年金暮らしだというのに再就職もせず、毎日ブラブラして、おまけに少ない年金の中から亭主持ち逃げという支出項目で小遣いを持って行くので困るとぼやいていました。「その点若松さんは色々と働き口があっていいね」と言うので、「あんたは私を好いて結婚していたらもっと幸せにしてあげたのに、私よりちょっと足が長く、ちょっと男前の旦那さんに憧れたからこんな結果になったんよ」と、冗談交じりに言って二人で大笑いをしました。

 それにしても、よく行く所があるものです。昨日と今日はブログにメモの走り書きをして周知していたとおり、島根県益田市へ行ってきました。第11回融合フォーラム、第7回子どもフォーラム綺羅星7、平成19年度全国ことばを育む親の会の中国ブロック代表者会議、という非常に長ったらしい三つの集会がドッキングした催しです。私の友人である大畑伸幸さんや寺戸一朗さんが中心になって、しかも私が過去3度も訪問したことのある真砂地区であるものですから、有無を言わせずの役割です。私は土曜日の分科会のパネラーと日曜日の全体会のパネラーを兼ねる、大変人使いの荒い重要な役目を背負いました。運悪く人間牧場では私が委員長を務める少年少女おもしろ教室の芋掘りと芋畑会議が予定されていて、、先に予定の入っていた真砂の集会を断ることも出来ず、板ばさみにあって悩みに悩みましたが、結局地元の集会を教育委員会のお職員にお願いし、人間牧場のカギを預けて出かけたのです。

 昨日はあいにくの小雨でしたが、松山観光港を早朝1番、午前7時発の高速船に乗って出発するころには雨もあがり、電車を乗り継いで紙屋町のバスセンターから高速バスに乗って広島県加計・島根県美都経由で峠を越えました。峠の道沿いはウルシやモミジの紅葉が既に始まっていて、山陰路に入る頃再び降り出した小雨に濡れた紅葉を今年初めて拝みました。今年は夏が暑かったせいか紅葉前線の南下や下山が1週間ほど遅れているようで、クヌギやケヤキはまだ紅葉していませんでした。それでも一足早いモミジ見学とあって、下車予定の美都総合支所までは、眠ることもなく車窓の紅葉に見とれていました。12時9分着はぴぅたりの到着で、あらかじめ迎えに来て貰っていた若い青年の車で、再び峠を越えて真砂地区へ入りました。道端の光景もどこか懐かしく、会場には先日私の留守中にバス一台で視察にこられたおばちゃんや、私の講演を聞いたことのあるおじさんが沢山いて、まるで同窓会のような賑やかな出会いとなりました。

 今日研修が終わって再び真砂地区を出発し、親愛なる島根の友人の車で元来た道、元通った峠、電車、高速船を乗り継いでわが家へ引き返しました。昨日の朝5時半に家を出て今日の夕方8時に家に到着するという、しかも研修会は全国から集う260人もの大集会で、思う存分話をさせてもらいましたが、かなりの強行軍に少々の疲れを見せながらも、心地よい気持ちで机に向っています。

 さあ今日は少し早めに床につき、明日の朝はまた元気な親父の顔を見て、午後の集会に出かけます。「まあよく行く所もあるねえ」

  「朝早く 家を出たけど 着いたのは 昼過ぎ何と 遠い旅です」

  「瀬戸内は 雨のち晴で 山陰は 時々雨か 列島広い」

  「今頃は 人間牧場 芋を掘る 子ども歓声 賑やかだろな」

  「道沿いの ウルシのモミジ 美しく 目を奪われて 峠登りぬ」 






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