人間牧場

〇コスモスの咲くJR下灘駅での出会い
 2日前、西条から私を訪ねて来た友人を、人間牧場へ案内した帰り道、JR下灘駅に立寄りました。いつもは下灘駅を横目で見上げながらバイパス道路を通りすがるのですが、遠くから来た人を人間牧場を案内する時にはやはり下灘駅とセットとなるのです。この日も平日で午前中なのに下灘駅には、かなり沢山の人が来ていました。

 

京都から来たという女性たち

 私「どこから来ましたか?」。女性3人組「京都からです」。私「えっ京都から?、それはそれはようこそお越し下さいました」と言葉を交わしました。見ず知らずの高齢者の、しかもマスクをした私を不審者?とは思わなかったのか、はたまた私の誘導尋問が上手かったのか?会話が弾み、JR下灘駅で福井さんたちとともに、ボランティアガイドと思しきことをやっている三好先生も集まり、蜜を避ける程度の人の輪ができてしまいました。

 持ち合わせた似顔絵入りの私の名刺を差し上げ、「またお会いしましょう」とその場を離れました。何ということでしょう。今朝私のブログに友だち承認依頼と、私と出会ったその時の様子や私のブログを読んだ感想などが、少し長めのコメントとして書き込みがありました。唯一私が撮った写真だけが頼りで、顔も分からないのに依頼承認と相成り、また一人日本のどこか(京都)に住む見知らぬ人とお友達になってしまいました。

JR下灘駅構内には綺麗なコスモスの花が満開です

 いまJR下灘駅は少し遅めの、少し低めのコスモスの花が満開です。何もない長閑な無人駅ですが、地域の人たちの育てた人をもてなす思いの詰まったコスモスが訪れた人の心を癒してくれています。ひょっとしたら、新型コロナの影響で疲弊した心に癒しを求めて来るのかも知れないと思うと、納得の手合いでした。一期一会、若い女性たちとの心温まるいい出会いでした。

「どこから?と、いきなり初老の 私が 声をかけると
『京都からです』」

「『へえ、京都』 ここは下灘 双海町 双海言葉で 熱弁PR」
「JR  下灘駅は コスモスが 今が盛りと 綺麗に咲いて」
「名も知らぬ 若い女性に 似顔絵の 名刺渡した 早速書き込み」

 

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人間牧場

〇千客万来
 今年の締めくくりともいえる私が代表をしている、地域教育実践ネットワークえひめの交流集会や、松前いいとこ見つけ隊の子ども夢会議も無事終わり、一区切りついてホッとしていますが、待ち構えていたかのように、このところ毎日のように来客があり、その対応を楽しんでいます。

 来客の希望も、人間牧場や海の資料館海舟館など様々ですが、基本的には私のゲストハウスである私設公民館「煙会所」に案内し対応しています。この時期本当は「煙会所」の囲炉裏に火を入れて来客をもてなしたいと思いつつも、ついつい火を起こしたり炭を準備するのに手間がかかり、2~3時間くらいならダイニング用の石油ストーブを持ち込んで暖を取っています。

 昨日は親友浜田さんが2人の人を伴ってやって来ました。一人はまちづくり学校双海人に高校生時代足繁く通っていた石井さんです、彼は愛大卒業後山口や岡山に就職していましたが、父親の病気で退職し今は松山に戻って浜田さんと交遊しているようでした。もう一人は町内松尾集落に住む演歌の好きな福井さんです。福井さんは「松尾ひろし」の芸名でCD「夕陽の向こうに」を出すなど農業者とは思えない秀でた才能を持っていて、浜田さんが一押し応援しているのです。

 3人それぞれの生き方が交錯し合い、1時間余り楽しい話に花が咲きました。福井さんの歌は有線カラオケにも登録されていて聞くことができるようですが、次2作目の製作に思いを巡らせているようで、つい最近各駅に掲示が始まった青春18きっぷのキャンペーンポスターに、福井さんのお膝元である「串駅」が登場したこともあり、夕日や海、港、線路、駅など演歌の似合う素材が揃っているだけに、また新しいドラマが始まりそうです。

「今年の 大きな仕事 一段落 ホッと一息 するもつかの間」
「このところ 私の元に 次々と 千客万来 楽しい話」
「自由人 故に暇だと 勘違い しているようだが 私は多忙」
「あれやこれ 夢を語ると 暖かい コロナ禍ゆえに 忘れていたな」

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人間牧場

〇4年前の写真
 昨日パソコンを使っていつものようにfacebookに記事を書いていると、いきなり4年前の写真が自動的にアップされました。こんな目まぐるしく進化する現代、特にこの2年間は新型コロナの影響で、何もかもが一変するような年月ですから、4年前といえどすっかり懐かしくなりました。

 その写真は毎年12月第一土日に、国立大洲青少年交流の家を会場に開いてきた、地域教育実践交流集会の模様でした。この2年間は新型コロナの影響で集まることもできずリモートでの集会となりましたが、ゆえに200人もの人がマスクもつけずに集まっている写真は異常なほど新鮮でした。

 ふと、果たしてこの先、こんな集会を再び開けるのはいつになるのだろう?と思いを巡らせましたが、今は沈静化しているものの第6派と思われるオミリオン株の日本上陸やお隣韓国の流行再燃など、新たな不安材料が毎日のように報じられていて、まだまだ先が見えない状態です。

 人間・時間・空間と書くように、人は一人で生きていくことは出来ず、本来地球上の空間で時間を使い人間同士が寄り添い助け合って生きるものです。新型コロナで「間」のあり方が大きく変わり、顔の半分をマスクで隠し、息遣いや笑顔さえ、それに言葉さえも話さず、息を凝らして生きています。早くこんな暗いトンネルを抜けて、元の姿に戻って欲しいものです。

「パソコンの 画面いきなり 4年前 熱気の写真 懐かしく見入る」
「そういえば 人間・時間 空間の 間という文字を 忘れた世界」
「息凝らし 笑顔や言葉 消え失せて 生きてる実感 無きに等しい」
「神仏に 来年こそはと 祈ってる 人間弱い 動物実感」

 

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人間牧場

〇アンケートの集計結果

 私は色々な場所で講演したり、時には討論のファシリテーターなどをしますが、最近はその場あるいは後日、その様子を見たり感じたたりした率直な意見を、アンケートに答える場面によく出会います。しかし講演やファシリテーターをした本人からすれば、もし「つまらなかった」とか「不満足」などに丸を付けられたら、それこそ折角努力した甲斐もなくなるのですから、その結果を講師やファシリテーターだけに背負わされるような雲行きで、気になって仕方がありません。

 先日松山市であった公民館研究大会の全国大会で、私は尿トラブルを抱えた最悪の体調で、メインプログラムであるインタビューダイアローグのインタビュアーをやりました。前述したような個人的体調もあり、かなり難儀をしましたが、それでもステージ上でに届いた会場からの反応は上々だったので、自己満足ながらホッとしていました。ところが先日、その時取ったアンケートの集計結果が、県教委の担当者から送られてきました。

 集計結果はとても参考になった49%、参考になった49%で98%の肯定率ですから大満足をしてもよいようでした。また記述式の感想欄には沢山の好意的な書き込みがあり、嬉しい限りでした。「〇若松さんは最高だった。ウイットに長けていて、会いたい方である」とか、「〇インタビュアーの若松さんのお話に、とても感銘を受けた。もっとお話をうかがいたかった。(若松さんの体験談など)」などの記述もあり、やれやれといった感じです。この意見に甘んじることなく更なる高みを目指したいと心を新たにしました。

「アンケート 取られ本人 気になって どうしたものか 時々ドキドキ」
「忘れてた 頃に集計 届きたる 結果それなり 満足手合い」
「書き込みの 意見数々 参考に 更なる高み 目指す意気込み」
「最悪の 体調臨んだ インタビュアー 最高結果 ホッと一息」

 

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人間牧場

〇怒りっぽくなった私

 若い頃から色々な社会活動に参加し、それなりに生きて来た私ゆえ、他人の目から見れば一見良識派のように見えるそうですが実際はそうではなく、口では「妻に感謝している」と愛妻ぶりな振る舞いをしているのに家庭では、妻の名前は呼び捨て、何かにつけて亭主関白な生き方をしています。ゆえに一方的で私が悪いと自覚しているものの、人並みに夫婦喧嘩もするのです。

 妻に言わせれば私の日常は相変わらず忙しいものの、最近新型コロナの影響で不用不急の外出を自粛する風潮もあって、家にいる機会が多少多くなったためでしょうか、多少「怒りっぽくなった」そうです。「頑固」は年寄りの特徴だし、「自我」を通そうとするのもある意味無理からぬことでしょうが、気焦らしい性格は一向に治らず、「狭い日本そんなに急いで何処へ行く」と思いながらも、朝4時に起きて夜11時に床に就く間、「早く早く」の一日を繰り返しているようです。

 妻から「怒りっぽくなった」との指摘を受けて、「これではいけない」と反省して治そうとしていますが、言う口の下も乾かぬうちにすぐにその誓いも忘れて怒ってしまう有様で、まだまだ人間としての修行が足らないようです。そこでいつものことながら、書斎の板壁に「急ぐな怒るな一呼吸」と書いた紙を貼りつけました。妻はこの貼り紙を見て笑っていました。

「良識派 見えるそうです 実態は わがまま親父 関白宣言」
「怒りっぽく なったと妻の 指摘受け 反省しきり 修行が足りぬ」
「板壁に 『急ぐな怒るな 一呼吸』 書いて貼り出す 愚かな私」
「気が付いた やはり私は 凡人でした 多分このまま 一生終わる」

 

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人間牧場

〇松前町子ども夢会議(その2)

 午前中の体験活動を終えた子どもたちは大ホールで、テイクアウトを意識し松前町の特産であるはだか麦を使って、高校生が作った弁当を食べました。鱧のから揚げに使った鱧は双海町下灘で水揚げされたものだそうで、松前町内で採れた麦や野菜もふんだんに使い、中村さんの料理レクチャーも楽しい学びでした。

高校生が作った鱧活麦ご飯弁当

 午後からはいよいよ本番の話し合い活動です。小学生、中学生、高校生がそれぞれ2班に分かれ、前もって宿題として出していた、①私が見つけた松前町のいい所、②松前町のちょっと気になる所、③松前町をこんな町にしたい私の夢を、休憩時間にポストイットに書込み、机の上に並べました。さあ私の出番です。アイスブレイクレクリェーションで緊張をほぐし、矢田会長さんにショートな話をしてもらい、会議の進め方を説明し、15分ずつ2回の班別討議や発表を行い、それらを戒能先生にホワイトボードに板書してもらいました。

 その後、「もし私が松前町長だったらこんな町にしたい」というテーマで話し合い、代表6人による町長選挙立候補演説会をアドリブでやりました。小学生は小学生なり、中学生は中学生なり、高校生は高校生なりの素晴らしい演説に会場は激励の声が飛び交い、最後は目をつぶって一人一票の手を挙げる投票によって、高校生が松前町長選挙を勝ち抜きました。いやあ、その盛り上がりにはコーディネーターを務めた私も大いに驚きました。今の子どもたちのしっかりした主張は大人顔負けで、未来は明るいと感じました。

 18歳までの子ども時代にまちづくりに関わると、大人になってからもまちづくりへの参加や参画意識は高まります。この3年間の子ども夢会議はそういう意味からも、種蒔きの小さな一歩と思えます。私は合併前の旧双海町で、まちづくりの一環として本物の議会を利用し、子ども模擬議会を開いた経験があり、その後のまちづくりに多くのヒントを得ました。願わくば町議会をお借りして、模擬子ども議会みたいなものを松前町でも開いてみたいものです。(夢のまた夢です)

「夢会議 子どもしっかり びっくりポン もっと大人は しっかりせねば」
「隣町 何故か出会いが 多くなり コーディネーター 少し手助け」
「3年で 世の中ガラリ 変ったと 実感しつつ コロナ対応」
「もし私 町長なったら どんな町 夢は広がる 演説立派」

 

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人間牧場

〇歓迎のあいさつ15分間

 昨日開かれた地域教育実践交流集会での私の役割は「歓迎のあいさつ」でした。あいさつのためにいただいた時間は15分でしたが、オンライン集会と言いながら、参加した約200人の元へ届くとあって、気を抜くこともできず、分かりやすくパワーポイントを使って話そうと、少し準備をして臨みました。

 私の場合は講演だと90分や時には120分も長話をするのに、10分や15分はかえって短か過ぎて、どうまとめるか迷いました。結果的には「アドリブで何とかなるだろう」と、いつもの安易さ気持ちで未完成のまま作ったパワーポイントを、USBメモリーに入力して持って行きました。いつものことですがそのメモリーを中尾さんに渡し、中尾さんが私の話に沿って10枚余りのスライドを上手く投影してくれました。

 3年前、愛媛県公民館研究大会の折はまだパワーポイントを作ることができず、データーを中尾さんに届けて作ってもらい、阿吽の呼吸でステージの上で私の話に沿って、映像を上手く映写してもらったことを思うと、今は下手糞でも手作りできるようになったことは偉い進化だと自画自賛していますが、やはり今回も私の言葉に合わせて18枚のスライドを映写してくれた中尾さんに感謝しなければなりません。

 私はパワーポイントを使って講演することが苦手で、むしろ拒否し続けていました。ところが最近はそんな過去のことをすっかり忘れて、今ではなくてはならないものなっているのですから、いい加減な人間だとしか言いようがありません。それでも私の「歓迎のあいさつ」をオンラインで聞いたという参加者4~5人からお世辞ながら、むしろ肯定的な反応があって、ホッとしています。

「オンライン 4時間及ぶ 集会で 歓迎あいさつ 15分間」
「前もって 準備おさおさ つもりだが かえってどこか ギクシャク反省」
「最近は あれほど拒否の スライドを 使って話す 便利さ覚え」
「最近は パワーポイント 自作する 術を覚えて 何とか対応」

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人間牧場

〇窓の灯りの温かさ

 わが家は田舎ゆえ、広い敷地にこれまた広い古民家風の木造の日本家屋を建てて住んでいます。本宅の横にはこれまた古民家風の日本家屋が建てられていて、7年前まで親父が住んでいましたが今は空き家で、私がゲストハウスとして使っています。こんな広い敷地の広い本宅に私たち夫婦2人と、息子夫婦と孫4人の合計6人が住んでいるのですから贅沢です。

暗闇に見えるわが家の灯りは温かい

 息子たち4人は1階の広いダイニングと2階の4部屋を使って暮らしています。この夏孫たちが小6・中2と大きくなったため、2人にそれぞれ個別の部屋が与えられました。孫たちの勉強部屋は特に設けず、1階のダイニングの隅に学校から廃棄処分となったスチール製の机と椅子を貰い受け、宿題などの勉強をしていますが、故なるか2人とも成績は親に似てそれなりのようです。

 昨日あたりが暗くなった夕暮れ時、家の下の道からわが家を見ると、孫たちがいると思われる2階の部屋に明かりが灯り、サッシ窓の向こうに明かりに照らされた障子窓が映って見え、人のぬくもりを感じました。最近わが町でもあちこちに空き地空き家が目立つようになりました。人の進入を拒むように空き地には雑草が生え、空き家には明かりも人の気配もなく、寂しい限りです。

 このまま人口が減り続けると、閉校閉園となった学校や保育所なども加わって、町はゴーストタウンになるかも知れないと、打つ手もなく住む人の目途も立たない現状に寂しさがつのります。SDGsでは持続可能な社会の実現を17の目標を立てて25年後を目指していますが、一番肝心な足元の持続可能性が危うくなりつつあるようです。

「下の道 見上げた先の 暗闇に わが家の窓に 明かりが灯る」
「最近は 空き地雑草 人拒む 空き家に人の 気配も見えず」
「最近は SDGs よく耳に するが足元 持続危ない」
「妙案も なすすべもなく 朽ち果てる 公共施設 ゴーストタウン」

 

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人間牧場

〇一番風呂の思い出

私が子どもの頃のわが家では、家の中で一番偉いのは戸長である父親でした。ゆえに暮らしの中心は親父で、私たち家族は何の疑いもなく親父の言うことに従って暮らしていました。食事で座る親父の場所には、いつも少し分厚い座布団が敷かれ、家族みんながちゃぶ台を囲む食事時、母親はご飯をよそう時も、まず神様や仏様に備えた後、晩酌を終えてご飯を食べる父親の茶碗にほんの少しだけよそい、それから家族の分をつぎ分けていました。子ども心に「親父は偉い」と思いました。

 風呂も当然親父が一番風呂で、その後家族が順番に入り、終い風呂は母親で、風呂から出るとそのままふろの残り湯で洗濯をしていました。いつかは「一番風呂に入れるようになりたい」何て、馬鹿なことを考えていましたが、長男夫婦と二人の孫、それに私たち夫婦の今時珍しい6人の大家族のわが家での風呂に入る順番は、先ず早く寝る小6と中2の孫たちが一番風呂で、その次が息子、若嫁、そして偉いはず?の戸長である私が入り、最後の終い風呂は今も昔も変わらず戸長妻の順となっています。

 時折野良仕事や魚の粗調理をした時などは、早目に風呂をためてもらい私が一番風呂に入りますが、五番目に風呂の順番が落ちても、私に対する家族の敬愛心は変わらず、良き家族関係を保っています。私は子どもの頃親父から「風呂焚き大将」に任命されました。薪を焚いて沸かす五右衛門風呂でしたが、野良作業や漁を終えて帰った親父が、私の沸かした風呂に浸かりながら歌う、浪花節のような曲を窓越しに何度も聞きました。風呂から上がった親父が「お前が沸かしてくれたお湯はいい湯だった」と頭を撫でてくれました。その親父も7年前97歳で亡くなりました。よき時代の一番風呂の思い出です。

「子ども頃 何でも親父 一番で 暮らしていたが 今は違って」
「わが家では 昔は親父 今は孫 一番風呂の 順番変る」
「いつの間に 私の順番 5番目に 変ったけれど それもまたよし」
「変わらずは 妻の終い湯 すまないと 思いながらも 黙認の日々」

 

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人間牧場

〇早起きは三文の得

 私は家にいると殆ど毎日、朝4時に起床します。「歳をとったら朝が早い」と言われますが決してそうではなく、若い頃からこの習慣は続いていて、そのお陰で現職の頃退職するまで、自分が整備に関わったふたみシーサイド公園の海岸清掃を、午前5時から毎朝出勤するまでの3時間、何と12年間もやったのですから驚きです。お陰様でその何でもないような功績が認められ、国土交通省の観光カリスマ百選に選ばれました。まさに「早起きは三文の得」でした。

 私は毎朝午前4時に起きると自分の書斎に入り、パソコンの置かれた机に向かって座り、アメーバブログ「shin-1さんの日記」と、Wordpressブログ「人間牧場」というブログ記事を2本書いています。退職して間もなく始めたので、これももう17年間も続いている活動です。それまでは下手糞ながら手書き文字の日記を書いていましたが、パソコンの優れた記憶装置に魅せられて、今では日々の暮らしの一部として、ある意味楽しくやっています。

 しかしパソコンを学校で習っていない世代の私にとって、パソコン操作は難解で、時々故障したりして書けなくなったりします。先日も突然画面操作ができなくなりました。パソコントラブルは私の幼稚な知識では治しようがなく、その都度大学の先生をしている娘婿に助け舟を出してもらい、遠隔操作で治してもらい、やっとの思いで一昨日復旧しました。2本のブログを書き終わると私は毎日午前6時に一万歩を目指しているウォーキングに出かけます。夜明けが遅くなったこの頃の家を出る朝6時はまだ暗くて、懐中電灯を持って、足元を照らしながら歩きます。

 午前7時にウォーキングから帰ると、キッチンで新聞を読みながら朝食です。何気ないブログ書きとウォーキングに費やする毎朝の3時間は、私の脳力を磨き体力を保持するための修行でもあるのです。かつて存命だったころ親交のあった永六輔さんは、私のこの生活習慣を見て、「早起きは三文の得は禅の修行に似ているので是非続けなさい」と激励してくれました。人間は自分というもう一人の人間と対話しながら生きています。ブログ書きは脳(一文)を、ウォーキングは体(一文)をそれぞれ鍛え、自分を強くします。もう(一文)を加えればまさに「早起きは三文の得」なのです。(もう一文は時間軸で三文です)

「漁師した 習慣身につき 早起きに 毎朝4時に 起床の癖が」
「人様が 寝ている間に 一仕事 脳と体と 時間を使い」
「早起きは 三文の得 禅修行 脳と体を 元気にしてる」
「さあ今日も ファイトで行こう リポビタン まるでCM 面白一日」

 

 

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