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○孫は泣いたり笑ったり

 長男家族が今年から私たち夫婦と同居するきっかけとなったのは、孫希心の保育所への入園です。東日本大震災の影響で家の改造が大幅に遅れたため、今月いっぱいは別々に暮らしているので、孫は松山のマンションを朝早く出て、双海町上灘の上灘保育所に通っています。

 友だちが一人もいない、ましてや5人の入園児の中で4人までが女の子で、男の子は孫一人という不安がそうするのでしょうか、いきなり登園拒否との反抗に及び、見送りに行く母親と毎日涙の別れのようだそうです。園長さんからは「よくあることですから心配は要りません。そのうち慣れますよ」と、優しい言葉をかけられていましたが、その言葉通りこの2~3日は、「僕泣かなかった」と喜び勇んでひとまずわが家へ「ただ今」と言って帰って来るのです。

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 親父はその姿が嬉しくて、朝な夕な孫が来たり帰ったりするのが楽しみで、水戸黄門のテレビよりも嬉しいらしく、ソワソワしながら迎え、時にはお菓子を、時には小遣いを渡しているようですが、降って湧いた曾孫の入園を一番喜んでいるのは親父かも知れないのです。

 今一番大変なのは長男嫁のようです。まず朝早く起きて長男の弁当を作り、下の子ども奏心を連れて希心を保育所へ送ってきます。それが終るとこれから住むであろうわが家の二階を片付け、住んでいるマンションの荷物を片付けて運び込むのです。家族4人の暮らしを移動するのですから大変なようです。加えてなれない生活への不安や私たち夫婦への気兼ねもあると思うのですが、持ち前のファイトで頑張っているようです。

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 妻の手助けも相当なもので、大蔵大臣として資金計画を立てなければならずリタイア年金暮らしゆえに、頭が痛いようです。さて私ですが、今回の二世代同居で一番楽なのは私のようです。しかしこれからは私も育爺としての役割が待っているようです。好かれる甘い爺ちゃんと嫌われる口うるさい爺ちゃんの二つを使い分けなければなりません。そのためにも少し孫育ての勉強をしなければならないと思っています。

 孫は幸い男の子だけなので、娘の子どもたちを相棒として関わった経験を生かして、逞しい子供に育ててやりたいものです。

 今日ももうそろそろ孫が保育所に行くために「おはよう」と言って来る時間です。気がつけば親父と同じで私もソワソワしているようです。


  「毎日が 泣いたり笑う これもまた 楽しからずや 家族っていいな」

  「登園を 泣いて拒否した 二三日 早くも孫は 泣かない成長」

  「ソワソワと 孫が来るのを 楽しみに している親父 実は私も」

  「おはようと 元気な声で 朝向かえ 今日も一日 始まりますよ」


 

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○昨日の愛媛新聞の二つの記事からの学び

 昨日の愛媛新聞の四季録と門欄に面白い記事を見つけました。同じような気持ちで同じ新聞を見ていたのでしょうか、年輪塾の松本小番頭がPDFファイルに加工して年輪塾ネットの会員宛に配信してくれました。清水塾頭を始めネットの心ある会員は折につけこのように様々な情報を流してくれるのですから、せめて見たとか読んだとか乾燥ぐらいは流して欲しいと願っています。

 門欄の「さようなら私たちの田処小」は、大洲市柳沢に住む徳田糸江さんです。糸江さんは双海町から大洲市田処へ嫁いでいる筆まめな方で、これまでにもメールやお葉書をいただきました。田処で西田さんや亀本さん率いる大杉塾の強力なメンバーとして活躍されています。先日人間牧場近くに住む布田さんが亡くなられましたが、布田さんと親類らしく葬儀会場でもお会いしましたし、何度か他の仲間と共に人間牧場へも足を運んでいる顔見知りの方なので、記事を興味深く読ませていただきました。

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 記事の内容は、今年の3月末日をもって閉校となった田処小学校の閉校式の模様でした。文字数の制限もある欄なので短文ですが、実に上手くまとめられていて、当日の模様や歴史が手に取るように分かりました。田処小学校には講演に招かれたり、ホタル祭りに参加したりするため何度も訪れているので、亀本さんから閉校の話を聞いた時、またこの記事を読んだ時、同じような寂しさを大いに感じました。願わくば学校跡地を再度訪ねてみたいと思っています。

 今年の春には私が代表を務める21世紀えひめニューフロンティアグループの企画事業である、千本桜の森づくり事業に呼応して、田処小学校周辺に、下灘中学校と共に桜を植樹していただき、よき記念になりました。

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 四季録の記事は松井宏光松山東雲短期大学教授のの書かれた記事です。内容は二宮金次郎の銅像に関するものです。私が塾長を務めている年輪塾では昨年から二宮金次郎をテーマに学習会をしていますし、今月末を目途に県下各地に点在する180体もの金次郎像を会員が手分けして訪問し調査をしているので、余計興味のある記事でした。二宮金次郎の背中にしょっている薪について暮らしの視点から含蓄ある内容が書かれていました。私たちの年輪塾では学びの中で、二宮金次郎、後の尊徳翁が復興の祖であることを学んでいます。時あたかも東日本大震災の復興に心を痛めていますが、尊徳翁の夜話には沢山のヒントが隠されているのです。夜話に詳しい清水塾頭から届くメールには再三再四このことが書かれていて、その度に配信された夜話綴りを開けて読み返しているところです。


  「小番頭 メール便にて 配信す 二つの記事を スキャンし保存」

  「閉校の 憂き目に遭いし 学校を 何度訪ねた 指折り数え」

  「また一つ 日本の田舎の 灯が消えた 寂しくもあり 腹が立つやら」

  「金次郎 背中背負ってる その薪は 日本の暮らし そのものでした」

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○障子の張替え

 わが家の二階座敷には障子が6枚あります。今時の家はサッシ窓なのでカーテンで外の射光を遮っていますが、和室ということもあってサッシの内側に障子をはめ込んでいるのです。私は純日本人なのでしょうか、この障子が大好きで、春夏秋冬それぞれ季節によって異なる外の光が畳の温かさと重なり、何ともいえない雰囲気を醸しているのです。

 わが家では毎年秋祭り前に障子を張り替える習慣になっていますが、今年は息子たち一家が同居を始めるため、先日張り替えました。刷毛にたっぷり水を含ませて算木に付けてゆくと障子紙は面白いように綺麗にはがれるのです。はがした紙で算木を拭き取り畳の上に新聞紙を敷いて寝かせ、風を入れて乾燥させました。

 やがて妻と二人が夜なべ作業でホームセンターから買ってきた障子紙を、糊を付けて張って行きました。

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 この日は近所の雑貨屋で買い求めた水糊を刷毛で付けるのですが、これが少し古い糊なのか上手く貼ることが出来ませんでした。それでも6枚を1時間ほどの時間をかけて張り終わり、霧吹きをして作業を終えました。ところが少し風を入れようと外のサッシ窓を開けていたのを忘れていたため、折からの南風が吹き込んで、折角張った障子紙は所々はがれてしまいました。

 外から見るとそれがとても見苦しく見えるので、今度はホームセンターへ行き、ガイドのついたプッシュ式の糊で再挑戦です。同じ障子を2回も張り替えるなんてどじだと二人で笑いながら真剣に張って行きました。一度失敗したことが功を奏し今回は30分で6枚全てを張り終えました。

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 障子が新しくなると家の中までどこか新しい空気に包まれたような気持ちになるものです。畳も新調し終えました。これでフスマを張り替えれば息子たちを迎える準備も第一段階はクリアーします。今日から2階のトイレをやりかえる工事が始まりました。

 私のように古い人間は便座に座って用を足す日本式トイレがいいのですが、若い人たちは洋式トイレがいいというので、トイレもやりかえることにしました。間もなく洗面台も新品になって、息子たち家族の新しい暮らしが始まります。私たち夫婦も心のリフォームをしなければ、若い夫婦と同居することは出来ません。戸惑うことが多く、はてさて上手く行くかどうか、いやうまく行かせねばならないのです。


  「障子紙 残念ながら 失敗し 張替え作業 妻と二人で」

  「同じこと 二回もすれば 上手なり 今度バッチリ エヘン自慢」

  「障子越し 春の日差しが 差し込んで 畳寝そべり 天井見上げ」

  「外からも 綺麗に見える 窓の内 何処とはなしに 暮らしの匂い」

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○さてこれからどう生きようか

 私は昭和19年10月3日の生まれです。昭和19年といえば日本がアメリカを相手に戦争をしていた時代です。「親父は大陸に出征していたのに何故私は生まれたのだろう」というのが私の小さいころの疑問でした。そのことを母や親父に聞くことも出来ず悩んでいると、隣のおじさんなどはそのことを面白おかしく皮肉って、「お前の親父はお前が生まれたころ大陸へ戦争に行っていたのに、お前が生まれるとはどう考えてもおかしな話だ。お前の親父は大陸からお前の母ちゃん目がけて、大きな大砲を打ったものよなあ」などと悪ふざけて、私の心を大いに揺さぶったりしました。

 最近になって親父の兵歴などを聞く機会があり、戦争末期に傷痍軍人となった親父は国内の陸軍病院を転々として、何度か帰省や面会をしていることが判明し、自分が親父の子であることの確信が持てた時は内心ホッとし、内心親父の息子であることの喜びを感じたものでした。

 私は昭和19年生まれですから戦争の記憶はまったくありません。子どものころは敗戦後間もないこともあってそこここに戦争の傷跡が残っていました。親父たちは酒を飲めば生々しい戦場の様子を語り、軍歌を歌っていました。また祖母は徴用先の大阪で空襲に会い死んだ二人の娘のことを涙ながらに語っていました。

 私の家には親父が趣味で倉庫を改造した海の資料館「海舟館」があって、その中には戦争を語る幾つかの兵器が展示されています。機関銃、薬きょう、魚雷のエンジンなどなど、考えようによっては戦争を賛美するような物騒なものが沢山あるのです。92歳になった親父はこれまで戦争については多くを語りませんでした。これらの展示物はなくなった戦友への鎮魂のつもりだと話していますが、これらの兵器を受け継ぐであろう私は、残念ながら戦争について語ることは出来ない年代なのです。でも戦争がいかに愚かなことであったかや平和の尊さを語ることは出来るだろうと、親父の話を聞いて記録にとどめようと、少しずつ始めていますが、私の思いついた動機が、「暇が出来たら」で退職後の今になったため、親父が高齢になり、残念ながら記憶を遡ることができない年齢になってしまいました。

 それでも少しずつ少しずつ始めていますが、あっという間に1日、1週間、1ヶ月、1年が過ぎ、まさに光陰矢の如き初老の日々が蓄積され、残された余命を気にする年齢を迎えようとしているのです。人は何のために産まれ、何のために生きるのか、考えれば考えるほど難しい思考のトンネルの中に身を置きながら、昨日も今日を過ぎて行くのです。

 「若松進一の民俗学」なるものも考えて見ましたが、考えた当時は民俗学の本を読んだり、軸足を民俗学に置いてブログの記事を書いたりしましたが、これも焦点がぼやけて今に至っています。この4~5日少し暇が出来たこともあって、書斎で過ごすことが多くなったせいか、自分の思考回路に変化が現れ始めています。もう一度ゼンマイを巻き直して、日々を充実したものにしたいと思い始めた朝でした。


  「年老いた 親父見てると あのように なるのか俺も 何年後かに」

  「毎日が あっという間に 過ぎて行く これじゃダメだ これもまた良し」

  「もう一度 ゼンマイ巻いて 生き直す そんな気がする 朝を迎える」

  「とりあえず 今日を楽しく 生きようと 背筋伸ばして 思いも新た」

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○後楽園を訪ねる(その③)

 姫路城、閑谷学校、それに〆は水戸の偕楽園、金沢の兼六園とともに、日本三大名園の一つに数えられる後楽園を見学しました。姫路城は黒田孝高についで池田輝政が、閑谷学校は池田光政が、そして後楽園は綱政がそれぞれ作ったものですが、それぞれ日本はおろか世界に誇る文化遺産なのです。

 私たち四国に住む人間は姫路城は兵庫県姫路市、閑谷学校は岡山県備前市、後楽園は岡山県岡山市にそれぞれあるものの、高速道路網が発達して同じような場所にあるような感じがするのです。

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 後楽園は江戸時代を代表する大名庭園で、延養亭や能舞台を中心とした亭舎、園内各所に置かれた茶室や祠には歴代藩主の思いが込められているようです。広い芝生地や池、築山、茶室が園路や水路で結ばれ、歩きながらうつり行く季節を眺められるよう工夫された回廊式庭園です。

 正門入り口を入ると、公園の向こうに岡山城が控え目に見えます。園内の桜は前日満開宣言が出されてようで、とても美しく咲いていました。

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 この日は天気も良く日曜日、加えて桜が満開だったため、後楽園界隈は車が混雑して中々前へ進むことが出来ませんでした。幸運にも夕方だったため、加えて県外ナンバーだったため駐車することが出来ましたが、園内の休憩所で抹茶とキビ団子を買い求め、風流を楽しむことも出来ました。

 公レク縁を出た所に、「待てどくらせど来ぬ人の、宵待ち草のやるせなさ」という、ご存知岡山県出身の詩人で画家である竹下夢二の歌碑が建っていました。


  「名園の 誉れも高き 後楽園 仲間連れだり 園内散策」

  「茶屋椅子に 座りて抹茶 いただきぬ 水面のどけく 鯉二三匹」

  「満開を 宣言したと 看板に この上もなき 日より恵まれ」

  「昔人の 文化の高さ 感心し 風流抹茶 散りし花びら」

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○閑谷学校を訪ねる(その②)

 閑谷学校を訪ねたのは確かこれが5回目です。山が紅葉に映えた秋のころも、雪積もる冬のころも訪ねましたが、桜咲く春の閑谷学校は初めてだったので、とても楽しみでした。

 閑谷学校は堅牢な独特な石垣と赤い備前焼瓦の講堂(国宝)がまず目に飛び込んできました。満開の桜がその色調をよりいっそう引き立てっているようでした。受付で入場料を払いましたが、21世紀えひめニューフロンティアグループも6人までがするバー割引の恩恵を受けるとは驚きでした。ボランティアガイドの案内によると、現存する庶民を対象とした学校構造物としては世界最古のものだそうです。

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(聖廟の前で私も孔子にあやかり記念撮影をしてもらいました)

 閑谷学校の教育は儒学(朱子学)です。聖廟の大成殿には元禄時代に鋳造された孔子像が安置されていて、孔子の特を讃えています。聖廟の前には雄雌二本の楷の木が植えられ、特に秋のころには見事に紅葉するのです。講堂は入母屋造りで屋根や窓など随所に手の込んだ匠の技が垣間見えました。10本の欅の丸太柱は学者に学んだ人たちによって磨き込まれ、外から差し込む柔らかい春の日差しに鈍く光っていました。

 一昨年地域づくりの全国大会で佐賀県多久市を訪ね聖廟などを見て以来、浅学ながら論語に興味を持ちましたが、孔子の教えが日本の教育の基底に流れているような気がしました。


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 閑谷学校の聖廟の正門に楷の木がありました。別名学問の木とも呼ばれるこの楷の木は、当時農林省林業試験場長だった白沢博士が、大正4年に中国にある孔子墓所から採種して持ち帰り育苗、湯島聖堂雄木3本、閑谷学校雌木2本、多久聖廟雄1本を植えたのが始まりとされているようです。

 楷の木はハゼや漆の仲間ですが、ハゼや漆のように被れることはないそうです。秋になると見事に紅葉するようで、私も秋のころに見る機会を得ましたが、目の冷めるような紅葉でした。今は葉を落としていますが、芽吹き間近といったところでした。


  「日本人 孔子の教え 守るなら 世の中もっと 良くなるだろうに」

  「この次ぎは 紅葉のころに 訪ねたい そして講堂 論語聞きたい」

  「閑谷と 言う名のとおり 清閑な 学校訪ね 心洗われ」

  「学校に 比べ牧場 質素なり されど年輪 塾は歳々」 

 

 

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○世界遺産姫路城見学ツアー(その①)

 ひょうんな事から始めた21世紀えひめニューフロンティアグループの世界遺産を巡る旅も、今年で4回目となりました。最初の計画では2月に雪の白川郷へ行く予定でしたが、日程が合わずキャンセルとなり、急遽兵庫県姫路市の姫路城日帰りの旅となりました。私は姫路城へは何度も行った経験があるのですが、仲間の中には初めてという人もいました。

 今回は平成の大修理で天守閣をスッポリ工事機材で覆われていて、お城の全容を見ることは出来ませんが、逆に仮設エレベーターで8階まで上がり、日ごろ見ることが出来ない屋根や石垣、それに眺望を楽しむことが出来るのですから、まさに千載一遇のチャンスに恵まれたのです。

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(天守閣相当の高さから見たお城の広場周辺)

 見学は予約が必要で、今回この旅を企画してくれたメンバーの河野さんの配慮で11時から見学が出来る予定でした。しかし時間差予約しているのも関わらず見学者が長蛇の列を成していたため、予想以上に時間がかかってしまいました。それでも大迫力の屋根の部分や、この日に合わせたように満開になった場内の桜も映えて、嬉しい見学となりました。

 お城の前の広場には近場からやって来た花見の客が沢山繰り出し、弁当を広げていました。

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(修理前の姫路城天守閣)

 ところで、姫路城が何故白鷺城というのか、少し疑問を持ちました。お堀に囲まれた城郭や何層もの入り組んだお城の構造は圧巻ですが、その疑問は直ぐに解決しました。この城の特徴は何といっても白い壁と屋根瓦に施された漆喰のようでした。漆喰は消石灰・貝灰・苆・銀杏草などを調合して作るのだそうですが、日本全国のお城でも姫路城と松山城、それに熊本城くらいしかこれを使っていないというのです。


 お城の前のお店で少しの時間土産を買うなどしましたが、昼食は郊外の王将という餃子のお店へ飛び込み出入り、思い思いのものを注文して満腹になりました。私はこの日財布をリュックの一番奥へ妻が入れてくれていたのを見つけることが出来ず、大野事務局長に800円もの借金をしてしまいました。その後バスの中で財布は見つかりましたが、私も歳を感じさせるほどの不始末に汗顔の思いでして。


  「白鷺と 言う別名の お城見る 修理途中の 天守間近に」

  「日本にも 世界に誇る 城ありて 世界遺産の 冠いただく」

  「天空に 翼広げる 日も近し その時再度 訪ねてみたい」

  「桜咲く 城のあちこち 花見客 かき分け進む 春の一日」 


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○リズムが狂って仕事がはかどりました

 朝起きて始まり夜寝て終る一日の暮らしは、ただ何となく過ごしているように思えるのですが、何かの拍子で少しリズムが狂うと、体の調子までが可笑しくなるようです。今朝はいつも通り午前4時に目が覚めました。身支度を整えて書斎へ入り、パソコンのスイッチを入れたまでは同じリズムでした。ところがアメーバブログにアクセスすると、今日は午前2時から午前8時までメンテナンスの時間で書くことも読むことも出来ないのです。

 仕方がないので読書に切り替えようとしましたが気が進まず、もう少し寝ようと妻の横の蒲団に潜り込みました。最初は寝付かれませんでしたが、前日の少し長めの旅の疲れが出たのか、気がつくと午前6時になっていました。リズムとは恐ろしいもので、メンテナンスのことなどすっかり忘れて、再び書斎に入って同じような動作をして、ブログ記事がかけないことに再び気付きました。

 8時まではまだ時間がると思い、裏山の急な坂道を歩くいつもどおりの散歩に出ました。今朝は少しひんやりしていましたが、空は快晴でした。道々「そうだ今日は天気も良いし人間牧場の草刈りをしよう」と思い立ちました。本来なら妻に弁当を作ってもらうのですが、今朝は間に合わなかったので果物やカステラなどおやつのような弁当を用意してもらい、トラックに草刈機を積んで8時に自宅を出ました。

 新品の草刈機を先日妻に買ってもらっていますが、今日は古い方の草刈機を持参しました。牧場に着くなり先日井上登さんに高接ぎしてもらった栗の木の蒔き割が残っていたので、チェンソーにガソリンを入れ、残りの薪を小切りして大きなマサカリで割りました。まだ生木なので面白いように割れました。割った薪はこのまま放置して乾燥させ、誰かの協力を得て片付けたいと思っています。

 さあ草刈りを始めようとエンジンをかけましたが、昨年来使っていないので中々始動しませんでした。少し時間を置いた方が良いかも知れないと諦め、ロケ風呂の下や倉庫の片づけをしました。人の値打ちはバックヤードを見れば分かると常々思っているので、思いを込めて掃除をしました。古くなったキャリーを処分するため、そこら辺の枝木を寄せ集めて一緒に野焼きをしました。キャリーはプラスチック製品なので多少黒煙が出ましたが、見て見ぬふりをして処分しました。

 亀本さんからいただいた古い耕運機もキャブの故障で動かなくなっています。そろそろ農機具屋さんにお願いして修理しなければと思いつつ片づけしました。2時間ほどかかってやっと人間牧場のバックヤードは綺麗に片付きました。

 再び草刈機の指導を始めましたが、今度は上手く行って人間牧場の園内道路沿いと水平線の家周辺の草を刈りました。お陰様で3時間ほどですっかり綺麗になりました。本当は一回目の草刈りは連休前くらいがいいのですが、余裕のある時少し早めに刈ると跡が楽なのです。

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 種蜂が越冬している巣箱の中を掃除していなかったので、今日は先日買った防虫ネットを被り、底板の掃除をステンレス製のヘラで落としました。防虫ネットの裾からミツバチが一匹入りあわや刺されるところでした。この巣箱は今までの巣箱と形式が違っていて、四方八方何処からでもミツバチが出入りするタイプなのです。底板には井上さんが指摘したとおり、スムシがかなり溜まっていました。掃除後デジカメで撮影しましたが、この時期としてはかなり大きな巣に成長しているようだと思いました。

 午後4時になったので妻から頼まれていたシキビとつわぶきを採って今日の充実した作業を終えました。


  「メンテの日 すっかり忘れ 二度寝する リズム狂って どこかおかしい」

  「人値打ち バックヤードで 直ぐ分かる 整理整頓 久方ぶりに」

  「もうちょっと 働いてねと 草刈機 始動ぐずって 手間隙かかる」

  「心地よい 天気恵まれ 草刈りや 諸々仕事 随分片付く」


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○ミツバチ師匠井上さんの提案(その②)

 先週の金曜日は偶然にも8の字がついた日、私のミツバチ師匠である井上さんは自分の軽四トラックにミツバチの巣箱を積んで、人間牧場へやって来ました。あいにくの雨模様でしたが接木を終え、作業小屋の中でミツバチ談義に花が咲きました。

 井上さんが今回提案してくれたのは、人間牧場へやって来る子どもたちのためにミ、ツバチの巣箱を外から観察できるようにした、透明なガラスとアクリル板で出来た巣箱なのです。暗がりを好む習性のミツバチが、果たして明るい外の光が差し込むような巣箱の中で営巣するかどうかは疑問ですが、その巣箱には幾つもの木板で出来た小窓があって、必要な時観察が出来るようになっているのです。

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 井上さんには昨年と一昨年の2回にわたって、子ども体験塾のサツマイモを植える日に来てもらい、子どもたちにミツバチの話をしてもらいましたが、「ミツバチは危ない」という意識が働いて子どもたちは、ミツバチの巣箱の中をはっきりと見ることが出来なかったのです。

 この巣箱だと窓さえ開ければいつだってミツバチの観察をすることができるのです。一昨年は幸運にも恵まれ素人ながら蜂蜜を4升、昨年は3.7升も採取することができ、子どもたちの試食をさせることが出来ましたが、今年はこの改良型観察用巣箱で、さらにグレードアップしたミツバチの観察学習が出来そうで、今から楽しみです。

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 私の不注意でいただいたはずの蜜蝋や防虫ネットを紛失してしまいましたが、この日は全ての巣箱の掃除をして井上さんの指導で蜜蝋を塗り終え、人間牧場4箇所、わが家の裏山2箇所にそれぞれ巣箱を設置し終えました。人間牧場もわが家の裏山も越冬した種蜂が春の訪れと共に盛んに活動しているようです。

 先日はホームセンターへ防虫ネットを買いに出かけ、これまでの黒いものから白いものに替えて被り、裏山の巣箱の掃除をしました。多少抵抗的な攻撃を受けましたが、何とか掃除を終りました。突っ込んだデジカメがとらえた画像だと、巣箱の中は満杯のようで、井上師匠にどうすればいいか緊急に指導を仰がねばと思っているところです。

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 昨年井上さんから一鉢いただいたキンリョウヘンとう日本蘭も、一昨日よくよく観察してみると株元から赤味を帯びた花芽が何個か出ていました。馬路村の木下さんからはインターネットで買い求めたキンリョウヘンの花芽が見れないという話があったばかりなので、早速今朝でも連絡したいと思っています。

 春の訪れは私の心にワクワク・ドキドキ感を運んで来てくれました。遅い寒さで芽が出なかった家庭菜園のジャガイモの芽も土を割って地上にお目見えです。あと一週間もすれば地元氏神様の春祭り、ナスやトマトの苗物を植える楽しみなシーズンがやって来ます。ミツバチとともにせいぜい季節を楽しみながら暮らしたいと思っています。


  「珍しき 師匠作りし 巣箱置き 今年もミツバチ 教えを請おう」

  「巣箱から はみ出すように 盛んなり 越冬ミツバチ 早くも全開」

  「愛情を 注げばそそぐ ほど成果 上がるもんだと 教え守りて」

  「去年より 進化したなと 鼻高く してはならない 泣き面思う」 

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○井上ミツバチ師匠が栗の高接ぎ(その①)

 私には色々な師匠がいますが、人間牧場で3年前ミツバチを飼い始めた時、自分勝手に師匠と決めていた人が愛媛県西予市野村町山奥組の井上登さんです。私が井上さんを師匠と呼ぶゆえんは三つあります。その一つはミツバチに関する研究に熱心で奥義を極めていること。二つ目は独自の人生観を持っていて謙虚であること。三つ目は人の面倒見がいいことです。これは私が人に接する時大切にしている姿勢の幾つかで、私自身も常々そんな人間でありたいと願望しているのです。

 3年前人間牧場で子ども体験塾にやって来ていた子どもが、「ミツバチがいなくなったというニュースをテレビで見た。出来れば人間牧場でミツバチを飼いたい」と言うのです。その子どもの夢を叶えてやりたいと、早速地域づくり人養成講座で知り合った井上登さんに懇親会の席上、雑談めいて話すと「私はミツバチを飼っているので、お手伝いしましょうか」とトントン拍子で話がまとまり、3年前の春開け切らぬころ、巣箱に種蜂を入れて人間牧場へ持ってきてくれました。その日から私は人間牧場へ行く度にハラハラ・ドキドキが始まりました。

 幸運にも高知県馬路村へ講演に出かけた折、村役場の木下彰二さんの仲立ちで、馬路村産杉板で出来た立派な巣箱を3個もいただいたのです。それ以来巣箱を人間牧場のあちこちに設置して養蜂は始まりました。しかしミツバチは私のような素人が手を出すほど甘いものではなく、これまでの殆どの作業は未だに井上師匠の手取り足取りの導きがなければ、殆ど何も出来ないような幼稚さなのです。

 それでもミツバチの生態は知れば知るほど面白く、またやればやるほど奥が深く多くのことを学ばせてもらっているのです。「ミツバチは飼い主の愛情によって決まる」という言葉は、人間関係の世界とまったく一緒であることも知りました。ミツバチを飼い始めて何度も蜂に刺されました。その都度「泣きっ面に蜂」の憂き目に会いましたが、「まだまだ愛情が足らないからだ」と自分を戒めながら、今年も心を新たにしてミツバチや巣箱に向かっているのです。

 これも偶然でしょうか、今年のミツバチの仕事始めは、井上師匠とメールのやり取りで決めた4月の8日(ハチの日)でした。この日は午前中由並小学校の入学式に列席し、急いで午後1時前に人間牧場へ行きました。あいにくこの日は強い南風が吹き雨も降っていましたが、井上さんは時間通りやってきてくれました。この日はまったく余談な話ですが、先日伐採した大きな栗の木の高接ぎをお願いしていて、私がチェンソーで切った枝に、穂木を接木してもらいました。雨の中合羽を着ての作業となりましたが、無事接木を終えることが出来ました。

 井上さんの話によると、もし接木が上手くいくと2~3年で幾つかの栗の実を収穫できるそうです。これまでは栗のイガしか出来ず、下の畑のおばさんにすっかり迷惑をかけていましたが、これで懸案事項が一つ片付き、人間牧場も充実の兆しです。

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(木の上に登って高接ぎをする井上さん)

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(高接ぎした後はビニール袋を被せました)

  「ミツバチの 師匠今度は 栗接木 雨濡れながら 手早い作業」

  「植物は 不思議といえば 不思議です 木と木くっつき 実がなるなんて」

  「さあこれで 下の畑のおばさんに 迷惑かけず 済むと思えば」

  「春四月 野山に春が 芽吹きたる 若草踏んで 畑作業す」

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