shin-1さんの日記

〇稲葉さんの農場にはためく鯉幟

 人間牧場の直ぐ近く、直線距離にする500メートルほどしか離れていない場所に、わが家の放任園がありました。お袋が存命中は綺麗に耕していましたが、お袋が亡くなってからは私の仕事が忙しい時期と重なって荒れるに任せていました。人間牧場を開設したのを機にこの放任園を第二農園にと目論んでいましたが、私の日常が相変わらず忙しいため手を入れることが出来なかったのです。そんな折砥部で自動車の修理屋を営む稲葉さんという旧友が土地を探していることの相談に乗っていた経緯もあって、いっそのこと使わないかと声をかけました。稲葉さんは畑の早速下見をし、一辺で海や港が見える美しいロケーションのすばらしさに目と心を奪われて、無料で条件なしという条件で入植したのです。

 多分砥部辺りから通いながらの農作業は途中で根を上げるだろうと思っていましたが、何と何と稲葉さんは想像以上の熱心さとしたたかさで頑張り続け、全てではありませんが農地をどんどん広げて見事に復活を果たしてくれたのです。

 稲葉さんはは閑さえあれば休みには朝早くから夕方まで、この農園で開墾三昧の日々を過ごしています。近所に畑を持つ叔父さんや叔母さんともすっかり仲良くなって、今では菜園談義に花を咲かせているのです。

 農園をお貸しして1年余りが過ぎました。畑では唐辛子が大豊作で随分おすそ分けをいただきましたし、スイカも何個か届けてくれました。二回ほどそのお礼にと草k理の手助けをしました、折に触れ稲葉さんが人間牧場へ来たり、私が菜園を訪問したりしながら近況を報告し合っているのです。

若松進一ブログ

稲葉さんが耕している農場の遠望、その上の同じ方向に見えるのが人間牧場です)
若松進一ブログ
(下灘漁港が見える農場に建った旗竿と鯉幟)

 今年の春稲葉さんから、「農園にこいのぼりを上げたい」という相談がありました。「えっ何で」と思いましたが、どうやらお仲間からこいのぼりを譲り受けたらしく、せっかくだから竹を立てて形容したいと言うのです。人間牧場近くの西嶋さんにお願いして竹林の竹を切らせてもらうよう頼みました。一昨日嶽を切り出して埋めたH工にセットできたらしく、昨日のこどもの日に合わせて貰った方を招待し早速のお披露目となりました。

 私も蜂の分封騒動の渦中だったためそんなに長居は出来ませんでしたが現場に立ち寄り色々なお話をしました。農場を借りてくれた稲葉さんは南予人らしくおおらかでいたって真面目です。また礼節を忘れる謙虚さも高官の持てる人です。砥部からわざわざ週末にやって来て菜園を耕す稲葉さんとこれからもお互い楽しい田舎暮らしを楽しみたいと思っています。


  「農場の 五月の風を 吸い込んで 気持ちよさそう 鯉の泳ぎて」

  「いい仲間 次から次と 集まりて 田舎暮らしを 楽しみ生きる」

  「何のため 人は生きるか 問われれば 俺は答える 人生楽しむ」

  「生き生きと 生きてる仲間 見習いて 俺も生き生き 今日も生き生き」

  「

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shin-1さんの日記

〇40回目の結婚記念日

 「お父さん、今日は何の日か知っている」と昨日の朝、妻がいきなり私に言うのです。私は「こどもの日」と答えると、「それもだけれど今日は私たち夫婦の結婚記念日でしょうが。結婚記念日を忘れるなんて・・・・」とやり返されました。そういえば昭和46年5月5日のこどもの日に私たちは結婚したのです。

 当時愛媛県青年団連合会長をしていた私は、忙しい公務をぬって見合いをし、結婚までに僅か5回しか合わない信じられないような交際を経て5月5日に結婚したのです。

 相手は八幡浜に住む二宮繁子、つまり今の妻で年齢は私より一歳年下でした。結婚式の当日は花嫁衣裳のまま直前に開通した長い夜昼峠を越えてのお輿入れでしたが、当時は長浜から双海町下灘のわが家に至る海岸線を縫うように走る道路は未整備で、花嫁衣裳の重さと不安、それに極度の緊張感で最悪の状態だったと当時を振り返り、妻は述懐しているのです。

 結婚式はわが自宅座敷で行いました。三々九度の杯事は仲人さんの指図で厳かに行われ、お披露目のために「歩き初め」をして近所や親類を回ったようです。

 料理は家が鯛網をしていたので鯛づくめで、全て親類総出で3日間かけて造りました。大きな鯛の活け造りが10皿も並ぶ豪華なもので、結婚披露宴は近所の農協の2階に座布団を持ち込み、200人近くの列席者が時間無制限のいつ終わるとも分からぬ長い時間の祝宴に、私たち夫婦はお色直しもせず付き合いました。新婚初夜は私が酒を飲んだため酔いつぶれて、気がつけば朝でした。

 あの日から数えると39年が終わり、昨日は節目の40回目の結婚記念日を迎えたのです。一口に40回と言いますが、その間田舎の大家族の長男に嫁いで来た妻にとっては、それはもう筆舌に尽くし難い苦労があったようです。

 夫の安月給のやりくり、仕事一点張りで家庭を顧みない夫、両親や小姑の軋轢、さらには近所親類づきあいなどなど、持ち前の笑顔とバイタリティーでこの40年間を乗り切ってきたようです。子どももそれぞれ定職につき独立独歩の道を歩んでいますが、今はパートや92歳の親父の介護など新たな思いが交錯して、知己時からだの不調を訴えるような年齢を迎えたのです。

 昨日はそんなこんなで40年間わが家と私を支え続けてくれた妻に、白い封筒に「40年間ありがとう。50周年の金婚結婚記念日目指して頑張ろう」と書き込み、薄謝ですがポケットマネーを入れて手渡しました。妻は大層喜んで受け取ってくれました。

若松進一ブログ
(嫌がる妻を座らせて自動シャッターで40年目のツーショットの写真を撮りました)

 機能はいつになく二人とも神妙で、連休最後の日と合ってテレビを消してこれまでの過ぎ越し40年をあれやこれやと話し込みました。これまでは色々ありましたが、問題はこれからです。私の生活設計だとあと20年生きるとしてどう生きるか、いよいよ正念場のようです。今朝ここまで書くと親父が隠居からやって来て、「体の調子が悪いので病院へ連れて行ってくれ」と言うのです。二人だけでなく年老いた親父を加えた生活も大きなテーマです。早速今日はこれから県病院へ行ってきます。


  「お父さん 今日は何の日 知っている 結婚記念日 すっかり忘れ」

  「四十年 一口言うが 山坂を 越えて今ある 幸せな日々」

  「ありがとう 白い封筒 したためて 心ばかりの お礼を渡す」

  「今あるは 妻のお陰と 思いつつ 口じゃ今でも 汚い言葉」

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