shin-1さんの日記

○二宮金次郎の銅像

 私の町には小学校が三校ありますが、その翠小学校と由並小学校二校に二宮金次郎の銅像があります。確か私の母校である下灘小学校にも私が小さいころ手の折れた二宮金次郎の銅像が建っていましたが、その像がいつの間にか野口英世に変わっていました。野口英世は教科書にも出てくる歴史上に名を残す人なのですが、二宮金次郎となると町内に二つも銅像があるというのに、その素顔や銅像の建ったいわれなどについては意外と知られていないことに驚くのです。

 左手で本を読み、背中には焚き木をしょっている二宮金次郎の姿はちょんまげを結っていることもあってとても凛々しいのです。しかし二宮金次郎を見ても現代の子どもたちは果たしてこの銅像が何を訴えているのか、教育をしてこなかった学校や先生の不徳も垣間見ることができるのです。


 昨日友人の豊田渉さんからかまど開きのお礼状がメールで届きました。豊田さんはメールに添えて以下のような新聞記事のスクラップを送ってくれました。私も独学の結果どうにか送られてきた写真や資料をこうして使うことができるようになったのです。平成2年この記事によると松山に住む山内さんという方が5年間県内各地の小学校を訪問して金次郎の銅像を写真に収め写真集まで発行しているというのですから驚きです。

若松進一ブログ

 年輪塾でこれから始めようとしている二宮尊徳シリーズの手始めに、県内各地の二宮金次郎の銅像を調べようという矢先のことだったので、いい道しるべになったと内心喜びましたが、私たちはもう少し手の込んだ調べ方をしなければならないと秘策を練っているところです。その節は二のみゃ金次郎の銅像に関する情報をお寄せくださることを願っています。


 先日このブログにも書きましたが、私の友人高橋啓一さんの案内で突然訪ねた西条市千町の既に廃校となっている千町小学校の跡地で、偶然にも草むら中で二宮金次郎の銅像を見つけ感動しました。雑草に覆われ見る人もない藪の中にすっくと今なお立っている銅像を放置している姿もにも、これまた日本教育の貧困を感じたものでした。この像が校庭の隅にあったころの学校の風景の写真を手に入れれば、これこそ物語だとも思いました。

若松進一ブログ

 こんなことを考えると、これから年輪塾でスタートする二宮尊徳の学習会が何かワクワクしてきます。二宮金次郎の銅像はその意味でプロローグかも知れないのです。二宮尊徳は1787年小田原に生まれ、1856年70歳で生涯を閉じていますが、明治36年から昭和20年まで国定教科書の修身に出てくる知る人ぞ知る人物です。没後15年余りを経ても未だに銅像が残り話題になる人ですから不易な教えがあるのです。


  「金次郎 大学一節 本を読む 大学出ても 読む人少な」

  「友よりの メール添付に 驚きぬ 既に気付いて やっている人」

  「死んでから 150年も 経ってるが 未だ教えは 陳腐化せずに」

  「後5年 尊徳死んだ 歳になる 慌て走るも 到底叶わず」


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○あちらが立てばこちらが立たず

 「風が吹けば桶屋が喜び、雨が降れば傘屋が喜ぶ」ということわざがあります。雨と傘はよく分るのですが、風と桶屋はどんな関係があるのだろうかと、子ども心に考えたものでした。何のことはありません。風が吹けば空っ風が吹いて桶・樽類の木部が乾燥して桶を締めている竹で作った輪が緩んで水が漏れ出すから、桶屋に修理に出され桶屋が儲かるというのです。

 「上州名物はかかあ殿下と空っ風」という言葉もあります。上州群馬は赤城山から吹き下ろす風が強くて冬の寒さは堪えるそうです。そして上州の女性は女性に比べとても強くかかあ殿下だそうです。愛媛県宇摩地方のやまじ風や愛媛県大洲市長浜町のあらせなど、こうしてみると日本各地には風にまつわる様々な気象言葉が言い伝えられたり残っているのです。

 この一週間日本列島はこの冬一番の寒気団が南下して、まるで冷蔵庫に入っているような寒さに見舞われました。主に北日本や日本海側ではシベリヤ寒気団の影響で北西の季節風が吹き、雪も沢山降ったようで、テレビによる天気予報では雪マークが沢山並んでいました。それまで「今年も暖冬傾向」を思わせるポカポカ陽気が続いていたので、デパートでは冬物衣類や暖房器具が売れないと嘆いていました。また冬野菜を作っている人にとっては、気温の上昇で予想以上に野菜の成長が進み、冬野菜と言われる白菜やキャベツが安く出回って金にならないと嘆いていたし、スキー場も早々とスノーマシンで降雪するものの焼石に水の状態でした。ところがこのところの寒波でスキー場は全てオープンし、関係者はとどめなく降る雪を見て、「お金が空から降ってきた」と喜んでいました。

 まあこのようにあちらを立てればこちらが立たないという世の常を見事に言い表しているこの一週間だったように思うのです。私を含めて関西、特に暖かい地方といわれている四国や九州に住む人にとって寒さは苦手で、雪などが少し降っただけで交通はマヒするし、氷点下を少し下がると水道管が破裂したりのパニックに陥るのです。まあこの一週間の大風と寒さは骨身に堪えてしまいました。それでもわが町では氷点下に下がることは滅多にないのですから、北国の人にとってみれば、何をたわけたことをと笑われそうなのです。

 この寒さから身を守るために、二日前のかまど開きの日などは下ズボンを履き、靴下を2枚重ねて履き、首にはマフラーを巻き、その上からウインドブレーカーを着るという完全防寒をして臨みました。お陰さまで暖かく風邪もひきませんでしたが、熱々のご飯やみそ汁を食べた時には逆に大汗をかいてしまいました。

 91歳の親父もすっかり冬ごもりモードで、堀コタツとストーブを両用して風と寒さが通り過ぎるのをじっと待っているようです。明日は一年中で夜が一番長い冬至の日です。春はまだ2ヶ月余り先のこと、暖冬で2週間も早く咲き始めた水仙の花が寒さに震えているような一週間でした。


  「寒いねえ 朝の挨拶 まず枕 首をすぼめて 足早歩く」

  「海沿いの 町に早くも 水仙が 寒風揺れて 春来る告げる」

  「ストーブの 灯油減るのが 目に見えて 足繁ストーブ 給油寒々」

  「遠出する 目的場所に 雪マーク ちょっと気がかり 顔が曇りて」 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○丸山勇三元双海町長の死を悼む

 昨日はかまど開きのイベントも終わり、お餅を配って自宅へ帰り、やっと一息ついたころ看護師をしている次男から電話が入り、「久しぶりに食事に帰ろうとわが家を目指したものの、交通事故があったらしく、上りも下りも車が渋滞して双海町へ入ったというのにもう1時間も車が止まったままだ」と言うのです。聞けば町内の高野川付近で事故があったらしく、パトカーやレスキュー隊が出ていたようでした。

 昨日は警察官をしている三男一公が松山市全日空ホテルであった友人の結婚式に出席したため、久しぶりに帰郷するらしく、松山まで妻と二人で夜9時に迎えに行った頃には交通事故による交通渋滞は解消していました。「大きな事故がよくあるねえ」という妻の言葉に納得しながらもその事故のことなどすっかり忘れて朝を迎えました。

若松進一ブログ
(今朝の愛媛新聞)

 いつものように妻の作ったリンキャベを食べながら新聞を開き5面の社会欄記事を見てびっくりしました。「車同士が衝突」「元双海町長死亡」「伊予市の国道」と小文字ながら見出しが三本立っていました。とっさに私の頭の回路は昨晩次男が見た事故が元町長さんが巻き込まれた事故であることと結び付け納得仰天しながら短い事故を知らせる記事を読みました。

 新聞によると丸山さん運転の軽乗用車と宇和島市吉田町トラック運転手の大型トラックが衝突し丸山さんが全身を強く打って死亡し、相手の運転手も首などに軽いけがをしたと書いていました。突然の町長さんの訃報は私の脳裏にあらん限りの出来事を思い出させました。

 私が丸山さんと出会ったのは丸山さんが上灘農協に勤めていた頃でした。その後丸山さんは合併した伊予農協の専務として岡本組合長さんの元敏腕をふるわれ、町名変更でリコール運動に揺れる双海町の町長に立候補するも現職に敗れ初戦苦杯をなめましたが、その後現職を破って初当選を果たし、以来5期連続当選した後勇退しましたが、最後は愛媛県の町村会長を務めるなど多くの足跡を残されました。

 私は役場で町名変更の事務局をしていたこともあって、丸山さんとは相反する生き方をしていたため、町長一期目の殆どは距離を置いた場所に異動して別の仕事をしていましたが、四期16年余りは丸山さんの元でまちづくりを担当させてもらい、夕日によるまちづくりやシーサイド公園の建設運営など、県内はおろか広く全国にその名を知らしめ、多くの成果を収めることができました。

 経済に明るく特にシーサイド公園の建設や運営には、反対者も多かったためお互い心血を注ぎました。私と丸山町長さんの共通点は①町を愛する、②町のためにやる、③町を正しい方向に導くという3点でいつも目指す方向は一致していました。大変失礼ながら町長さんに①金出せ、②口出すな、③責任を取れなんて暴言を吐いたこともありましたが、金を出してくれたし責任こそ取らさなかったものの口を出さずに、私のやることをいつも暖かく容認してくれたように思うのです。

 今朝ご自宅で涙の対面をさせてもらいましたが、私の人生にとってこれほど大きな影響を与えた人はいないだけに、余りにも早い旅立ちを悔やんでいます。最近は自宅から余り外に出なかったため、何日か前冨岡さんのご葬儀でご一緒したのが最後となりました。それでも1年前、ひょっこりひとり人間牧場へ訪ねて来て、足湯をしながら海を眺め、他愛のない昔話やこれからのことについて半日も二人で話し合いましたが、願わくばもう一度過ぎ越し人生を語り合いたかったと悔やんでいます。亡くなる二日前丸山さんから電話があり、短い話をさせてもらったことも少し心残りです。

 明日は出張で高知県へ出かけなければならず、帰りが遅くなるため通夜には出れませんが、明くる日の葬儀には最後のお別れのために出席したいと思っています。安らかにお眠りください。


  「ああ何て 悲しい事故が 起きるのか 元町長の 訃報記事読む」

  「夕日など 沈むものだと 叱られた 説得折れて 思うがままに」

  「この人と 出会わなければ わが人生 どちら向いたか 分らなかった」

  「一日中 思い出す度 涙出て 冬の寒さが 更につのりて」

 

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○かまどで炊いたご飯と味噌汁は飛びきりな味でした

 かまど開きの餅つきと同時に進行したのはご飯と味噌汁を炊くことでした。餅蒸し作業が一段落したはがまのお湯を捨て、あらかじめ妻が前夜研いでおいた、大河内さんの用意してくれたお米をし掛けました。ご飯を炊くには水加減が大事です。基本的には米と同量の水を入れるのですが、指や手の甲を米の上に置いて目分量手分量で量るのです。この日は百戦錬磨の大河内さんや調理師の晴美さんがいるので、教えてもらい準備を整えました。「始めチョロチョロ中パッパ、赤子泣いても蓋取るな」の例え通り、火の番を担当してくれた井上登さんと井上浩二さんに頼みましたが、肝心な火を引く加減は熟知している私が担当しました。

 火の燃え方は友人の稲葉さんが前もって杉の木の薪を沢山作ってくれていたので大助かりでした。ご飯は二つのはがまでそれぞれ一升ずつ合計2升炊きましたが、少しお焦げが食べたいという人もいたので、残り火を残して仕上げました。

 炊き上がったご飯のはがまを一方だけ下ろして、持参した煙会所用の南部鉄製大鍋を乗せ換え、水をたっぷり張って味噌汁づくりをしました。30人分の味噌汁なので多少大目かなと思うほどの量のお湯の中に出汁と豆腐を入れるだけのシンプル味噌汁です。ギノー味噌の田中社長が直接持参した味噌を味噌濾しで濾し、松本さん夫婦の作業と味見で最後に高橋啓一さんが作ってくれた蕎麦がき団子と、カットワカメを入れて香りの高い味噌汁が出来上がりました。

 それらの作業をしながら米湊大番頭の司会進行でかまどにまつわる私の話と田中社長の味噌汁の話をしました。私は神棚に備えた氏神様のお札を持って荒神さんや水神さんの話、それにかまどの話をしました。一部の人を除けばかまどは思い出の彼方にすらないのですから、聞く人にはまるで昔話のようだったに違いありません。それでもご飯や味噌汁の思い出は自分の目の前にある食べ物だけに記憶に残ったことと思うのです。


 お昼も少し過ぎていたので、ご飯の入ったはがまと味噌汁の入った大鍋を部屋に直接持ち込み、食べたい人が食べたい量だけ自分でよそう、早速大宴会ならぬ大食事会が始まりました。ご飯に味噌汁、それに漬物と梅干しだけで他に何もないシンプルさでしたが、みんな餅を食べた後とは思えない大食漢で、2升のご飯も大鍋の味噌汁も底ざらえするほど完食となりました。私も含めてみんな大満足でした。私が用意した妻手造りの沢庵も麹漬け物も大好評で、これも完食でした。

 やがて好き者メンバー朝フル合唱隊が歌の指導を行い、みんなで3曲ほど合唱しながら楽しい催しは終わりました。井上登さんが持参した虎の尾のような粟の話も中々滅多に聞けない話でしたし、井上浩二さんが拭いてくれたホラ貝の腹に響く音も心地よい余韻として残っています。


 今回はギノー味噌の田中社長に太っ腹なところをお願いし、麦味噌、梅とトマトのドレッシング、それに伊予さつまなどをセットにして大人の参加者にはお土産としていただきました。これには参加者も大喜びで、三々五々時折小雪の降る山道を下りて行きました。

 皆を送った大番頭と小番頭も再び上がって来てこの日の反省や今後の進め方について議論を交わしました。これで年輪塾の今年の事業や行事は全て終了です。来年からはいよいよ二宮尊徳シリーズが始まります。既にそのプロローグは始まっていて、具体的なプロジェクトが決まれば年輪塾ネットで皆さんにお知らせする予定です。宮本常一プロジェクト同様いい学びと進化ができるよう頑張りたいと思っています。

 全員が帰った人間牧場で後片付けや戸締りをして一人山を下りました。途中日ごろお世話になっている地元の人たちにつきたてのお餅を配り一年の謝意を述べました。私の今回の役割は「雑用係」と明記されていましたので、雑用係に徹して働きました。お陰で少々心地よく疲れました。


  「今回は 雑用係と 肝命じ 様々雑用 黙々こなす」

  「はがまにも 大鍋さえも 残らずに 底見え嬉し 食欲の跡」

  「白ご飯 味噌汁それに 漬物と たったそれだけ シンプルベスト」

  「それぞれが それぞれ知恵と 持ち物を 持ち寄り作る イベント楽し」 

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○かまど開きと餅つき

 今日はかまど開きというイベントを年輪塾の主催でやりました。かまどを使った餅つきとご飯に味噌汁という日本食に挑戦するのです。餅は殆ど家でつかなくなったし、ご飯もかまどで炊くなんてこともなくなりました。ゆえに餅つきもかまどのご飯も、若い人たちには思いでさえもなく興味深々なのです。

 まず餅つきですが、餅つきは意外と手間暇がかかります。もち米を購入したら持つ付きの日の2~3日前にもち米を洗い水につけておきます。蒸し器やセイロ、臼や杵などを洗うのですが、これらの作業は水の冷たいこの時期には身を切るような感じがします。ほかに餅とり粉、あんこなどを用意しますが、勿論かまどにくべる薪だって用意しなければなりません。

 今朝は北西の季節風が吹き荒れて、気温は氷点下にまで下がる朝を迎えました。前日用意のこまごましたものを軽四トラックに積んで8時に家を出て人間牧場へ向かいました。牧場には既に井上さんや晴美さんが到着していて、鍵の付いていないかまど小屋で待っていてくれました。急いで大きなストーブに火を入れ、トラックの荷物を下ろしてもらい、さっそくハガマにポリタンクで持参した水を入れ火を焚き始めました。この日は二連式のかまど両方を使って同時に2臼ずつ進行しようという目論みです。最初は寒くて水温が低いので中々温もりませんでしたが、そのうちかまどが熱くなるに従って一気に温度が上がって吹き上がりました。やがて後発隊も徐々に揃った10時に開会をすることになりました。

若松進一ブログ

 今日は白い餅3臼、よもぎ餅1臼、みかん餅1臼、粟餅1臼の合計6臼をつく計画でした。この日のもち米は亀本さんが作ったものと、西岡さんにいただいたもの、それに野村の井上さんが持参した雑穀餅ですが。白い餅からはじめるというセオリー通り、つき進んで行きました。最初のうちは物珍しさも手伝って俺が俺がという雰囲気でしたが、そのうちバテ気味で銅度どうぞと譲るようになり、子どもにもつかせたいというそぶりを見せてずるがしこい知恵を働かせていました。

 皆さんの関心はもっぱらみかん餅で、薄皮の早生ミカンのヘタをとってセイロで蒸して餅地中へつき込んで行くのです。私はこねる役を担当しましたが、みかん餅は繋ぎのような粘りが出るのに少し時間を要しましたが、それでも綺麗な黄色の餅ができたころは皆さん感心して食味をしていました。

若松進一ブログ
若松進一ブログ

 子どもたちは大人の指導を受けて小豆餡を丸める作業をしました。最初は大粒の餡でしたが、足りくさくなり中粒くらいに変更していました。大河内さんと青木さんが小さくちぎってくれて、それを丸める作業も順調に進みました。餅を丸めたりついたりしながらあんこ餅を食べたり、時には浜田さんのすりおろした大根と醤油で味見するなど、おやつ時期、昼飯前も手伝って皆さん沢山食べました。

 出来上がったお餅は持ち帰り用にパックに色々な種類を6個ずつ入れて行きました。せっかく集まったので持ち帰って家族とお話ししながら食べてもらおうという算段です。


  「つきたての 餅をほおばる 子どもたち 笑顔の向こう 幸せ感ず」

  「ストーブの 薪赤々と 暖かく 杵音ペッタン 軽やか響く」

  「臼と杵 セイロもち米 薪までも 皆それぞれに 持ち寄り集う」

  「おいちゃんと 言われてドキリ 振り返る おいちゃんならぬ 爺さんなのに」

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○今年最後の理事会と忘年会

 昨日は今年最後のコープえひめの理事会が午前中あり出かけて行きました。昨日の天気は大荒れで、特に南予地方はこのところの冷え込みで、この時期としては珍しい大雪に見舞われ、南予地方に住む地域理事さんたちは出席するのに四苦八苦したそうです。同じ愛媛県内なのに久万高原町では積雪15センチなどと報じられていましたが、お城下松山はやはり都会でそんな素ぶりは微塵も見れないのです。

 私の町も牛の峰山のパラグライダーテイクオフ場には白い積雪が見えて、海は白馬走るが如き様相で、しぐれの群れが幾つも沖合を通り過ぎて冬将軍到来を思わせ、カモメたちは漁に出ない漁船に舳先に止まって首をすぼめ冬籠りに入っていました。

 前回は大学の授業日とバッティングして理事会を休んだため2ヶ月ぶりの出会いゆえ、各理事さんの顔がとても懐かしく感じられました。昨日は一年を総括するため4つの分散会に分かれて討議を行いました。私はAグループに振り分けられてその輪に加わりましたが、いつも思うことながらその場で司会や記録に指名された理事さんは即興ながら絶妙に役割をこなしており、感心するばかりです。

 大川理事長さんからコープえひめの学識理事を頼まれ、総代会で承認されてから4年目を迎えています。最初は戸惑うことの多かったこの世界ですが、慣れとは恐ろしいもので、今ではすっかりその気になって深く関わり、その気になって仕事をこなしているのです。

 昼食を食べて閉会後、地域理事さんたちは毎回研修会が予定されていますが、私はお払い箱なので午後のは久しぶりに自由時間となったので、夕方5時から道後のホテル茶波瑠で行われる忘年会まで、本屋さんに行ったりホームセンターで買物をしたり、また道後の娘の家へ立ち寄りました。街中は華やかな飾り付けですっかりクリスマスムードのようでしたが、このところの冷え込みで県都松山でも道行く人はまばらで寒そうな顔をして足早に歩いていました。あいにく娘婿は東京へ出張中でしたが、久しぶりに出会った孫たち二人も元気で、少しの間遊び相手になって遊んでやりました。

 ホテルは目と鼻の先なので20分前に車で到着しました。一番乗りでしたが受付で6番のくじを引き、次々やって来る皆さんと雑談しながら時間の来るのを待ちました。

若松進一ブログ
若松進一ブログ

 やがて稲葉理事さんの司会進行で忘年会は始まりました。理事長さんの開会あいさつや石井監事さんの乾杯音頭で楽しい食談会です。ホテルの料理に舌鼓を打ちながら隣に座った稲本理事さんと在宅の親の介護や近況など色々な話をしました。

 理事長さんから耳打ちされていた余興出演依頼も、仕方がないと諦めて少々の小噺とハーモニカしか芸がないのでやりましたが、皆さん義理立てして乗ってくれました。大野理事さんのいつも変わらぬギターと歌はとても魅力的でした。松本専務と田中社長も飛び入りで長淵剛の乾杯を熱唱しました。

若松進一ブログ
若松進一ブログ

  「ホラならぬ ハーモニカ吹き お茶濁す 忘年会の 余興頼まれ」

  「殆どが 女性だけなる 集会は 持てそ気するが 持てもせず何故」

  「くじ運が 悪いといつも 思ってる ゆえに今宵も 当たりもせずに」

  「人の妻 着飾り化粧 する故か わが妻よりか 綺麗に見えて」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○八万円の収入でも七万円で暮らせば一万円の黒字になる

 私の友人には官公庁に勤めている人が多いのですが、最近は会えば何処となく元気がなく不機嫌言葉が返って来るのです。その第一はやはり毎月いただく給料が年々右肩下がりで、夫婦の人間関係もこれが原因と言わんばかりの雲行きです。確かにこの数年世の中の不景気を反映して給料は横ばいならぬ右肩下がりの数字を指名しているのですから、子育てやマイホーム、マイカーなど、将来の生活設計さえも不安になるのですから、晴々しい顔など出来ないのです。今月は年に二度ある冬のボーナス月でしたが、前年比6パーセント減という話しを聞けば、昔ボーナスを貰っていた私だって同情するのですが、ボーナスどころか職さえもない人のことを思えば、それは甘えのような気もするのです。

 そんな中、強権傲慢ぶりが目立ってきた民主党小沢幹事長がソウル大学で講演し、学生の質問に対し「ニートは子どもを甘やかせている親が悪い」と答え波紋を広げています。一利あると拍手をしている人もいますが、不景気で就職内定率が下がる一方の国内事情を知っている人は、与党の幹事長の失言に顔を曇らせ、「ニートにならざるを得ない世の中を変える政治ができないのはあなたでは」とか、「毎月千五百万円もお小遣いをママから貰っている鳩山総理は親の甘やかせの代表ではないの」と様々な意見が飛び交っているようです。

 ある人は「あなたがニートで家に引きこもっているから、あなたに回る予定の仕事が相手に回るのです。どうぞご自由にニートや引きこもりをお楽しみください」と、むしろ意表を突く発言をして注目されていますが、年の瀬を控えこの寒空に働く場所も見つからず喰うものとてない人もいるのですから、戯言では済まされないのです。


 経済はいたって簡単で入力と出力のバランスです。十万円入っても十一万円使えば一万円の赤字です。逆に八万円しか入らなくても出費を七万円で収めれば一万円の黒字となるのです。こんな単純な計算が出来ない人が沢山いて、借金で首が回らなくなったり自己破産宣告する人も中にはいるのです。

 昔の人は借金を極端に恐れました。金を借りる苦しみは借りた人でないと分りませんが、保証人を立てて証文を書き金を借りるものの返せず、夜逃げをする話は落語の一節にも出てきます。今の世の中は殺菌は当然という風潮が強く、無担保でも本人を証明するものがあれば簡単に多少のお金を借りれるようになっています。どうやら世の中には儲けてから使うタイプと、使ってから儲けるタイプの二種類の人間がいるようです。

 儲けてから使うタイプの私も若いころは家を建てるためローンを組みました。一年に一回の銀行から届く返済結果報告書と将来の返済計画書を見て元金は減らず利子だけがやたらと大きい数字を見ていつもため息をついたものです。その甲斐あってローン完済しました。借金で思いは成就しマイホームを手に入れたのですが、ローンから学んだのは「借金はするな」でした。

 年金暮らしになった今は私のささやかで単純な経済学である「入るるを知りて出るを考える」生き方を、妻と二人でささやかながら実行しています。セミリタイアだった私も、いよいよ本当のリタイアとなりつつあり、つつましやかな暮らしに少しずつギアチェンジしているこの頃です。ただし心豊かに楽しく生きることをモットーにしながら生きています。


  「入りてから 使えばいいと 肝命じ 使ったお陰 借金もなし」

  「有り難い 世の中ですね 国民の 全てがまるで 公務員です」

  「どケチだと いわれるような 暮しより 節約術で 賢く生きる」

  「給料が 減ったと嘆く 人多し 仕方ないこと 嘆かず生きろ」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○タバコ(酒)をやめるくらいなら死んだ方がましだそうです

 先日講義に行った大学で、昔から顔馴染みの大学の先生に出会いました。その先生は酒もタバコも大好きで、タバコはともかく酒は若いごろ二人で松山の飲み屋街を深夜まで呑み歩くなど、沢山の武勇伝が思い出されるのです。酒を飲みながらタバコを吸う姿を見て、知ったかぶりの健康知識で、「先生たばこのニコチンはアルコールに溶けて体内に入るので、酒を飲む時だけでもタバコを止めたら」と何度も進めましたが、われ関せずを貫いて今日に至っているのです。

 大学の構内で見かけた先生の頭は少々薄くなって幾分老けたようにも見えましたが、相変わらず講義棟の隅に置いてある灰皿を前にして、さも美味しそうにタバコを吸っていました。「先生まだタバコを吸っているの?、もうそろそろ止めないと健康に悪いよ」と声をかけると、「タバコを止めるくらいなら死んだ方がましだ」と、少し強気の返事が返って来ました。とっさに私は「死んだ方がましなら死んだら」と、とんでもない反論の言葉を返してしまったのです。これには先生も返す言葉もなく、「そのうちな」でその場は分れ私は講義のため教室へ向かいました。

 ある友人からある友人の話を聞きました。その友人は無類の酒好きで、「暇さえあれば酒を呑む」といった表現がぴったりの男です。前述の大学の先生同様私の呑み友だちでした。ところが数年前胃の不調を訴え入院してガンが見つかり、胃の全摘出手術を行いました。約一ヶ月の入院療養中何度か病院へ見舞いに出かけた折は、「もう酒はこりごりだ」と殊勝なことを言っていましたが、一年後の検査の折主治医が順調な回復だったので、「酒も百薬の長」などと、「少しくらい」の許可を得たそうです。最初はまさにたしなむほどでしたが、いつの間にか体が覚えていた酒の味を呼び覚まし、今では胃もないのに昔と変わらぬ量を呑んでいるようで、先日奥さんから私に、「酒はほどほどにするよう主人に言ってください」と頼まれました。「奥さんが言って治らないものは私が言っても治らない」と言いましたが、先日出会った折「奥さんが心配している。酒は病気もしたことだし止めたら」と言うと、「酒を止めるくらいなら死んだ方がまし」と反論し、むしろ酒を止めた私に向かって、「酒を止めて何が楽しいの?」とあざ笑われてしまいました。


 大学の先生も役場の友人も偶然注意して返ってきた言葉が、「タバコ(酒)を止めるくらいなら死んだ方がいい」でした。確かに酒もタバコも止めづらいものです。「生きていて何が楽しいの?」と言われれば返す言葉は「長生きがしたいから」くらいでしょうが、「じゃあ長生きをして何なの?。もっと生きている時に楽しまなくっちゃ」という理論も成り立つ訳です。

 私はタバコは飲まなかったので酒を止めるにはそれなりの勇気と覚悟が要りました。ましてや地域づくりの世界はコミュニケーションならぬノミュニケーションという言葉もあるほど酒がついて回ります。その度に呑みたい気持ちになるのも事実です。でも酒を止めて10年になりますが、止めて良かったとしみじみ思うのです。妻が私の石の強さを時々褒めてくれますが、大学の先生も、役場の友人も先日相次いで入院しましたが、退院しても相変わらずの体たらくです。私も人のことなど言えるいい人間ではありませんが、酒を止めて良かったとしみじみ思う今日この頃です。人間は命あってのものだねですから・・・・・・。


  「酒(タバコ)止めろ 諭す私に 何とまあ 死んだ方まし じゃあ死ねよ」

  「タバコ吸う 時間換算 して見ろよ  無駄の指摘も 煙に巻かれ」

  「タバコなど 百害あって 一利なし 税金払う 言い訳しきり」

  「酒止めた 止めたいうより 辞めたかな 七回止めた 友は止めただ」  

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○かまど開きの準備

 今日は寒い一日でしたが、明日はコープえひめの理事会があって一日中留守をするので、今週土曜日に迫ったかまど開きの準備をしました。本格的な寒さなので妻はウインドブレーカーを用意し、首筋が寒いかも知れないマフラーまで用意してくれる念の入れようです。というのも昨年末から年始にかけて、大風邪を引いてしまい、40度近くの熱にうなされ、忙しい雑事の役に立たなかったから、転ばぬ先の杖なのです。折しも息子嫁と孫が一昨日からインフルエンザにかかって、妻も息子も右往左往なのです。息子は昨晩から仕事が終わるとわが家に緊急避難してインフルエンザの拡大を防いでいるようです。

 転げても痛くない程着込んだ私は、自宅の倉庫から餅つきの七つ道具といわれるモロブタや蒸し器(大河内さんからいただいたのを使う予定ですが、もし時間がかかるようだと両方のかまどでするかもしれないので)、ザル

などに加え味噌汁を作る大鍋を煙会所の自在から外して車に積み込みました。

 人間牧場は北西の季節風が強く吹き付ける場所ながら、多少軸がずれているためか思ったほど風当たりは強くないのです。まず最初に先日割ったクヌギの割り木をかまどの下の収納スペースに二段積みました。かなり深くて広いスペースなので奥に一段前に一段入るので、手箕に入れて運び美的感覚を持ちながら積み上げて行きました。かまどを造ってくれた本田左官さんに見せてあげたいような出来栄えについうっとりしました。

若松進一ブログ

 続いてハガマを洗って水を入れ焚き口に杉葉を入れて薪に火をつけお湯を沸かし始めました。その間臼をと杵洗ったり、モロブタを拭いたり、セイロを洗ったりしながら、北西の季節風が吹くウッドデッキに干して自然乾燥させました。その間かまど小屋の掃き掃除や拭き掃除をして、小道具を大理石でできた棚に戻しやっと一呼吸です。少し休憩をと思いましたが休むと寒くなるので昼ご飯も忘れてせっせとやりました。ついでに作業小屋の掃除も、ついでにロケーション風呂の下の整理もと、お客さんを迎えるため少し欲張って仕事をしました。またコンニャク畑と、ブルーベリー畑に牛フンペレットの肥料を撒き、草取りをして外の作業を終えたのです。

若松進一ブログ
若松進一ブログ

 最後の仕事は神棚づくりです。前もって親父に頼んでおいた三角形の板木を収まりそうな角に取りつけました。息子が設計したかまど小屋なので、息子の意見を聞かなければならず、とりあえず釘で止めるのを止めて仮置きし、かまど小屋の仕事始めに氏神様である天一稲荷神社で拝んでもらったお札を取り出して置いて見ました。中々いい雰囲気です。これで明後日のかまど開きの神事が滞りなく行なえそうです。水神様や荒神様は大切な神様だからと祖母や母から教わっていたので古風ながらこれで一安心です。

かまどにも息子の配慮で恵比寿様の小さな銅像が祭られています。これも親から子へと伝える大切な教育かもしれないと思いました。

若松進一ブログ

 かくして一人でささやかな準備を午後3時30分まで行い、粗方の準備は完了しました。帰ってからギノー味噌田中社長直伝の昨夕漬け込んだ一夜漬けを散りだし味見をしましたが、中々いい出来でした。早速キューリとニンジンを駅前の上田商店まで買いに走り、畑から引き抜いた大きなカブを洗って輪切りにして、秤で計量して漬け込みました。予想天気は冷え込むとのこと、大きなストーブも薪ストーブも全て整いました。皆様のお越しをお待ちいたしています。

  「いい準備 出来たと自分 納得す 後は皆が ワイワイガヤガヤ」

  「神棚が 出来ると何故か ホッとする 両手を合わせ 無事を祈りて」

  「つくばって かまどの下に 薪を積む 念願叶い クヌギ重厚」

  「あれやこれ 気がつきゃ何と 三時半 昼飯忘れ 夢中になって」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○ただ今かまど開きの準備中です

 かまど開きの日が近づいて、何かと落ち着かない日々を過ごすようになりました。というのもやはり年輪塾ネット画面上に、あれやこれや参加する皆さんの私信公信書き込みが飛び交うようになっているからです。これまでにも沢山の各種イベントや学習会をこなしてきましたが、それは年輪塾ネットなどがないころなので、天気や準備物を自分なりに心配すればよかったのですが、画面にそれぞれの思いや期待感が満ち溢れ、主催者としてはいやが上にも粗相がないようしなければという意識が働くのです。

 最初は「餅でも」「飯でも」なんて気楽な気持ちで始めた今回の企画でしたが、「せっかくだったら」とついつい皆さんが知恵を出し合い、力と持ち物を出し合って面白い展開になりつつあるようです。

若松進一ブログ

 昨日私は松前にあるギノー味噌の本社にアポイントを取り、田中社長に会いに行きました。味噌汁と漬物の打ち合わせです。ギノー味噌は間もなく本社工場が移転開業するので、私のわがままなど聞く暇はないと思うのですが、奥さんと二人で約束の10時に待ってくれていました。本題は味噌汁と漬物でしたが、話は商品開発や経営にまで及び、1時間半も会社の会議室にこもって熱を帯びた議論を行いました。田中社長は真面目な人で、私のような人間の話でも必ずメモ帳に要点を記入しながら聞き入るのです。

 奥さんは双海町出身ということもあって、私が会社に行けば必ずといっていいくらい同席して話しに参加してくれますが、子どもを多く生み育てていて、人間牧場へも家族で来てくれたり、何かと出会いの多い円満な夫婦なのです。帰り際奥さんが用意してくれたニンジン、キウリ、大根、紅心大根の短冊切りと麹漬け用の麹、それにレシピを書いていただき会社を出ました。

若松進一ブログ

 昨日は午後取材が一件入っていたので、寒いながら煙会所へ案内して取材に応じました。その人が帰った夕方ころ田中社長の奥さんからいただいた材料を使い、台所で麹漬けに挑戦しました。ジッパーのついた袋も材料も麹も全て用意してもらい、おまけにレシピまであるのですから、分量を台秤で計ってナイロンの袋に入れ揉むだけでいいのです。友人が持ってきてくれた猪肉で猪鍋を作るべく夕食の準備をしていた妻にも手伝ってもらいどうにか仕上げることができました。社長の話だと一昼夜置けばいいそうなので、明日の夜には試作品の試食が出来そうで、その味を見て今晩あたり19日用の漬物を漬け込みたいと思っています。

 親父が水洗いして天日干しし、妻が糠で漬け込んだ沢庵も予定通り4~5日前に水が上がって19日には間に合いそうです。今日は梅干し、みそ汁用の鍋、餅用のモロブタなどを水洗いして人間牧場へ持って行かなければなりません。明日は今年最後のコープえひめ理事会で終日留守にするため、準備は今日しかないのです。

 折しも暖冬だった年末なのにこの冬一番の寒気がやって来て、風雪注意報が出され山は雪化粧の寒い一日となりました。多分この分だと19日当日もあいにくの天気になるかも知れませんが、「天気が悪ければ悪いほど思い出は多く残る」というのは私の長年の経験名言です。楽しみして準備をしている今日この頃です。


  「もち米を この寒空に 水洗い 妻に感謝の 毎度おおきに」

  「巻き込むな 言いつつ準備 手際良さ 妻いなければ 生きれぬ私」

  「味噌汁と 漬物準備 これでよし あれこれ顔が 浮かびつ楽し」

  「おお寒い 日本列島 冷蔵庫 これが普通と 言いつつやはり」 

[ この記事をシェアする ]