shin-1さんの日記

○道後老舗ホテルでの講演会

 今日は午前中、道後のホテルで大和ハウスさんから講演依頼があり出かけました。会場の大和屋本店という老舗のホテル周辺はすっかり整備が整って、訪れる度に日本最古の温泉らしい姿に変わりつつあり、観光にいささかのかかわりを持っている一人として嬉しい限りです。大和屋の奥村社長さんは最近まで県観光協会の会長さんをされていて再三出会っている方ですが、今日も講演が終わって帰り際お会いすることができ、観光について立ち話をさせてもらいました。

 講演は11時からでしたが、先約があって9時半にホテルへ入りました。先約の相手である平野さんとは電話でしかアポを取っていませんでしたが、聞けば先月25日に香川県高松市三谷地区三渓小学校で開かれた私の移動落伍講演会を聞かれたらしく、是非地域の活性化についてご助言をいただきたいということでした。ホテルのロビーに私が到着すると奥まった所にいたヒューマンテクニカの大津さんという方が平野さんより先に見えていて、ポータルサイトについて微細な説明を資料に基ずいて話し始めました。私にとっては寝耳に水でしたので多少面食らいましたが、話はとても良く理解することができました。やがて高松から来た平野さんや木村さん、ヒューマンテクニカの浜崎さんも加わって、様々な議論を1時間にわたって行いました。

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(大和屋本店のロビーにて)

 第一線を退いているとは言いながら、地域活性化について未来戦略を語ることは私にとっても望むところであり、私の手がけたシーサイド公園の未来についても検討を進めて行かねばならないテーマであると実感した次第です。

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(この壇上でお話ししました)

 約束の時間が来たのでお別れし4階の会場に上がりました。聞けば今日は大和ハウスさんが仲介している方々のお集まりで、詳しく聞くこともないので言われるまま壇上に上がりました。驚いたことに金亀会の会長である安高会長さんは旧知の人で、私が若いころセスナ機をチャーターして空から古里を見る運動をやった折、空港近くの南吉田集会所をお借りして随分お世話になった方で、私の講師紹介も念入りにしてくださいました。

 私を講師として仲介した人は新家さんとう人らしく、私の話をどこかで聞かれ今日の講演になったのです。新家さんは帰宅後わざわざ電話をくださり、感想を述べていただくなど気配りをいただきました。

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(私を紹介していただいた新家さん)

 講演は約1時間ほどで終わりましたが、講演の終わりに立派な花束まで贈呈していただき恐縮しました。大和屋本店は能舞台まである立派なホテルで、昼食懇親会は能舞台が見える部屋が用意されていました。ここで行われる薪能を見ながら食事をしたらさぞ風流だろうと、BGMで流れることの調べを聞きながら想いを馳せました。

 午後には約束があって食事もそこそこにお暇しましたが、今日も様々な人に会い未来に希望が持てるいい一日となりました。

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(大和屋本店の見事な能舞台)


  「情報化 時代どこまで 進むのか 聞けば聞くほど 便利世の中」

  「あの人の 話を聞けと 紹介す 人あり壇上 立って話ぬ」

  「薪能 いつか見たいと 思いつつ 未だにその機 訪れぬまま」

  「帰るなり 今日の話は 良かったと お褒めの電話 顔を赤くし」

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shin-1さんの日記

○旧友兵頭正兼さんの死を悼む

 第一報が入ったのは13日の昼ころでした。「○○ですが覚えていますか。あなたの友人の兵頭正兼さんが昨日の12日亡くなりました。旧友でしょうから失礼とは思いますがお知らせします。葬儀は○○というセレモニーホールで15日2時から行われるそうです」。電話の声は聞き覚えのある人で、信じられない友人の死を悼みながら、死亡に至った出来事や思い出をを少しの間お話ししました。

 兵頭正兼さんは旧宇和町の役場職員でした。3年前に退職し、その後は請われて西予市宇和文化会館に館長として勤めていました。若い頃には私と同じく公民館に勤務し、住民活動の先頭に立っていました。宇和町といえば当時は社会教育の先進地として県下にその名をはせていて、国和館長さんや末光さん、三好さんなどそうそうたる論客を自認するメンバーが、「花と緑と太陽の町へのアプローチ」などというキャッチフレーズを掲げて情報発信していました。

 負けず劣らず公民館の仕事を生涯の仕事と思い込んでいた私は、特に南予地域の公民館主事仲間とあい図り「煙仲間」という公民館主事集団を作り、暇さえあれば集まって大いに飲み、大いに夢を語り、大いに仕事をしたり学習を行いました。その舞台となったのは国和館長さん引きいる宇和町の公民館であったり、大洲市に住んでいた松田先生の自宅でした。

 煙仲間の仲間たちは、維新の志士坂本龍馬の生き方に自分たちの生き方をダブらせながら、公民館活動で理想郷をつくろうとある意味の競争をしていました。当時明間公民館の主事だった兵頭さんは私より一つだけ若いものの、酒がめっぽう強くて晩年には本場である島根県で習ったどじょうすくいを覚えて披露するなど、一芸を持った涙もろくて温かみのある南予人特有の無骨な男でした。

 兵頭さんの家に泊まったこともあり、奥さんは公民館に一時期嘱託として勤めていたり、最近は自宅で民宿などを始めたとい話をう風の噂に聞いていいました。5月の2日に明間の佐藤さんの招きで交流会に出かけましたが、その折国道の奥まった所に「民宿兵頭」の看板を横目でチラッと見ながら、「正兼さんは元気じゃろうか」と思って通り過ぎたのが彼の面影を思い出した私の最後の意思だったようです。

 昨日は長浜町豊茂に住む親友菊地邦求さんに電話連絡し、大洲で落ち合い彼の車に乗せてもらって葬儀が営まれる旧宇和町まで出かけ告別式に参列させてもらいました。


 告別式にはよその町とはいいながら知人友人も多く、正兼さんと共有する多くの人に出会いました。そして昔の思い出話をしました。祭壇に飾られた普段着の遺影やスクリーンに流れる在りし日の姿、弔辞や息子さんの挨拶を聞きながら、若くして逝った正兼さんの姿を思い出し涙が出て止まりませんでした。それにしても退職間もないと言いながら一役場職員の葬儀とは思えないような立派な葬儀にびっくりしてしまいました。そしてやがて何年か後には嫌でも辿らなければならないであろう自分の道に思いを馳せました。

 大洲、宇和間を菊地さんの車に乗せてもらい往復している間、菊地さんと過ぎ越し人生や今、そして将来のことについて大いに話しました。二人には酒を愛し、夢を語る当時の姿はどこにもなく、彼も私も大病を患ったせいで、空気の抜けたフーセンのように痩せこけていて、「お互い健康には注意をしよう」と慰め合うのが精いっぱいでした。人生80年という長寿の時代に、楽しみにしていた年金も殆ど貰わず63歳の若さで亡くなった正兼さんの冥福を祈りながら、健康への誓いを新たにした悲しい一日でした。


  「俺よりも 若い親友 先に逝く 遺影に無言 語りかけつつ」

  「痩せこけた 俺の顔見て 遺影言う もっと元気で 長生きしろよ」

  「大酒を 飲んで大いに 夢語る ありし日姿 昨日のように」

  「地球から 姿消したる 友思う 何年か後に あの世再会」

  

 

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shin-1さんの日記

○金にもならないことだから意味がある

 昨晩は子どもおもしろ教室の実行委員会があって夕方市役所支所へ出かけました。リタイアしてもう4年が過ぎるというのに未だに現職の頃からのボランティア活動を引きずって、請われるままに今年も実行委員長を引きうけてしまいました。

 昨日役所に勤めていたころの友人に会いました。彼は天下りほどの美味しい職場ではありませんが、それでも再任用制度で役所の出先機関に再就職しているのです。在職中は社会教育やまちづくりの現場を経験し、ボランティア活動の必要性を人々に説いてきた人なのに私にこんな発言をして、一瞬その人の心を疑いました。

 「あんたまだそんな金にもならない活動に首を突っ込んでいるのか。そんな暇があったらもっと自分の人生を楽しんだ方がいい。協働や参画などと甘い言葉を言って、ボランティアと称するタダ働きをさせ、自分は汗をかかない役所の姿は頭にきている。あんたも早く足を洗った方がいい」というのです。そして現在の再任用された職場への不満なのでしょうが、「給料も安いのでその程度の働きをすればいいと割り切っている」のだそうです。

 普通であれば「そうよなあ」と同調するのでしょうが、私の虫の居所が悪かったのか少し反論してしまいました。「世の中不景気だというのに、あんたはこうして退職してからも働けるのだから、給料が安くても仕事があるだけ有難いと思わなけりゃいかんぜ。社会教育やボランティア活動はお金じゃないと、あんたも昔言いよっとろがい。退職金も年金も出るのだから、もう少し社会に貢献するようなことを考えないといけん。わしはあんたと違う」と説教してやりました。

 彼からの反論はなくそのことについては「・・・・・・・・・・・?」でしたが、彼の奥さんと出会ったとき聞いた、「遊んでいてもボケるだけ。自分の食いぶちぐらいは稼いでもらわないと。今まではペコペコして言うことも言えず生きてきたんだから、これからは胸を張って生きてゆきたい」という話と良く似た夫婦の会話を思い出しながら、どこでボタンをかけ違えたのかしみじみと考えさせられました。


 昨夜は打ち合わせが終わって単車で帰りました。田舎の道は街灯も殆どなく暗くて、単車の弱くて鈍い灯かりが前を照らしてくれました。民家の家のあちこちの窓に明かりが見えました。ふと昔聞いた「聖窓」のことを思い出しました。江戸の頃は夜道に街灯は殆どない時代でしたが、夜道を照らしたのが箱型の聖窓だったようです。遊郭や見世や町家入り口脇などに設けて内側に油火をともしました。門燈や客引きが目的だったのでしょうが、前を通る人々の足元を照らし、道しるべになったのです。聖窓の語源は僧「高野聖」が背負っていた箱が語源とされていますが、足元を照らすと同時に歩との心を明るく照らしたに違いないのです。私が子どもの頃は懐中電灯もなくもっぱら提灯が使われていました。提灯にせよ懐中電灯にせよ、足元を照らし人を先へと導くのです。友人の生き方も人生なら私のような提灯人生、聖窓人生、懐中電灯人生もおつなものだと思いつつ家に帰り「ただ今」と声をかければ、「お帰り。早かったのね」と弾んだ妻の声が迎えてくれました。

  「まだそんな ことをしている 止めとけと 言う友哀れ 俺は提灯」

  「ボランティア 仕事ですから やっていた 嘆かわしいな 心浅はか」

  「給料の 安さ嘆いて 仕事する それで働く 意味があるのか」

  「聖窓 思えるような 明かり見え 時はいつもと 変わらぬ流れ」


 

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shin-1さんの日記

○不便な暮らしが感謝の気持ちを育む

 5月に入って雨らしい雨が殆ど降らず、ひと雨欲しいと思っていた矢先の2~3日前の夜、お湿り程度の雨が降って家庭菜園の野菜類が息を吹き返したように元気になりました。と同時に畑の雑草もぐんぐん伸び始め、菜園の仕事が一気に増えてきました。親父は相変わらず愛用の草削り鍬で手当たり次第に雑草を削っていますが、親父の草削りのスピードより雑草の勢力の方がはるかに早く、「綺麗に草を除けていたのにもう生えた」と愚痴をこぼすようになっているのです。

 その言葉を聞きながら、息子の私も最近では暇さえあれば菜園畑に出て草を削っているのです。5月の太陽は初夏と呼ぶにふさわしく以外とさわやかながら強烈で、幅の広い麦わら帽子を被って作業するのですが、妻が「お父さん色が焦げたねえ。真黒になって・・・」と言うとおり、日焼けで顔がくすんでいるのです。昔は言葉は悪いのですが貧乏人や労働者の代名詞は日焼けとやせ型でした。お金持ちは概して色白で肥え気味とされていたようです。しかしつい最近はその概念が崩れ、ゴルフやアウトドアー趣味のお金持ちは戸外で健康的に遊ぶので日焼けしているようで、逆に日稼ぎにあえぐ人は陽に当たらないから色白で、しかも運動不足で肥満気味だと言われています。そのことから考えれば私は日焼けしてやせ型ですから、実態と違っていたって貧乏ながらお金持ちのイメージを備えているのです。


 5月に入ってから殆ど毎日、夕方太陽が西に傾くころ畑に出て苗植えした野菜に水をやりました。畑には親父が作った井戸水をエスロンパイプで引いているのですが、ホースで水をやると強烈過ぎて土の表面をはねて固くするので、しっかり根付いていない苗にはジョロに水を汲んで優しく頭からかけてやるのです。

 お陰さまで植えた苗も今のところは順調に活着してトマトもピーマンもナスもトウモロコシも成績はいいようです。それにしてもジョロにいちいち井戸水を汲んでやるのはかなり手間暇がかかります。特に成長著しいブルーベリーの鉢植えは排水を良くしているため、2~3日ほおっておくと新芽がしんなりするほど乾燥するのです。ブルーベリーは早いものは受粉して実が大きくなっていて、遅い花は今が受粉の時期なのです。この時期に水を枯らすと折角の実が太らないばかりか落下する恐れがあるので注意をして水やりをしているのです。ブルーベリーはジョロなどの水では不足気味で、バケツに一杯たっぷり根元にかけるのです。ブルーベリー栽培の指導を受けている西岡さんの話だと、カルキの入った水は根を傷めるので水はバケツに汲み置きしたものを使用するよう言われましたが、わが家は井戸があってその心配はないようです。


 蛇口をひねれば水が出て、スイッチを入れれば電気がつく便利な時代に、あえてこんなまどろこしい方法でみずをやるのは、少々面倒くさいし違和感を感じますが、あえて不便を感じるようなこんな作業は逆に新鮮で、これまで見えたり感じたりしなかった部分が見えてきて結構水やりを楽しんでいるのです。

 私の祖父や祖母の時代、つまり戦前は水道も電気もまだ不自由で、家には水をためる飲料水専用の大きな水瓶がありました。今は水道が普及して家の中には洗面所までありますが、その当時は水汲みは子どもの日課だったと祖母が語っていたのを思い出しました。そのことを考えれば今はお殿様のような暮らしで、何の不自由もなく水の恩恵を受けて暮らしているのです。

 便利さゆえに失い、不便さゆえに見えてくるものはいっぱいあります。ジョロに水を汲んで運ぶと一滴の水も無駄にしたくないような水への感謝の気持が湧いてきます。これこそ現代人が忘れている水への感謝なのです。便利が当たり前の現代だからこそ不便を体験して感謝の気持ちを復活させたいと思いました。


  「水を汲み ただひたすらに 水をやる 恵み感じて 野菜活き活き」

  「水を汲み 重さと不便 実感す 水への感謝 思い出しつつ」

  「今までは 親父の苦労 など忘れ 当然実ると 信じて食べた」

  「色黒く なった顔見て 驚きぬ 元気そうだと 友に褒められ」 

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shin-1さんの日記

○束の間の長閑な昼下がり

 昨日は頼まれていた長い長い原稿用紙50枚もの原稿を書き上げ、どこか解放されたような気分になって、雨上がりの陽気に誘われるように単車で町内を走ってみました。初夏の風は爽やかに頬を撫で、一年中で一番いい季節だと感じながら、日頃疎遠となっている地域事務所の公民館と商工会、保健センター、翠小学校、それに観光イチゴ園を相次いで訪問しました。相手は忙しいので直ぐにでもお暇しようと思ったのですが、お茶を差し出されたのをいいことに、少し会話を交わしました。

 公民館には宮栄館長さんがこの4月から常勤で勤めていて、間近に迫った芋づる植えの相談を職員としながら喋りました。商工会では人間牧場の近くに住んでいる梶野さんと牧場周辺の最近の動きやミツバチの話に花を咲かせました。保健センターには井上保健師さんがいてご家族の安否や私の健康について色々と話しました。翠小学校はエコ改修が始まっていて、職員室も教室も運動場に作られたプレハブの仮校舎に移っていて、和田校長先生と学力について意見を交換しました。また最後に訪れた大畑観光イチゴ園では運よく事務所にご家族が揃っていて、色々なことをお話ししました。大畑さんご夫婦は若いころ結婚披露宴の司会を私がしたこともあって何かと交流していて、この日はあまおとめという珍しい品種の大粒なイチゴを摘んでいただき恐縮してしまいました。

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(プレハブ校舎もすっかり出来上がり移転していました)
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 行った先々、出会った人々は全て私の日々の忙しさを知っているだけに、私がゆったりのんびり過ごしている姿を見て、安心した様子でお話をしてくれました。特に翠小学校の和田校長先生は私の心を見抜いて、立ち話のような姿なのに熱心にメモを取りながら議論に応じていただき、いつもながらの研究熱心さには少々驚きました。

 中井さんの案内で移ったばかりの学校の仮校舎や体育館下の仮特別教室を見学させてもらいましたが、翠小学校の今年の新入生は1人だそうで、わが町も来春は下灘中学校が統合するなど、いよいよ少子化の激しい波が押し寄せているのです。それでも先生たちは一生懸命学校をもっと立派にしたい、子どもたちをもっといい子どもにしたいと頑張っていて、頭の下がる思いがしました。

 今年は20数年にわたって翠小学校で行ってきたほたる祭りも、運動場に仮校舎ができたためが使えないようで変更を余儀なくされているようです。ここは知恵の出しどころ、イベントのあり方や見直しには丁度良いのかも知れません。

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(たわわに実った7期目のイチゴの果実)
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(ご馳走になったあまおとめの瑞々しい果実)

 ブルーベリーの世話をしていただいた西岡さんのイチゴ園にお礼を言うべくお邪魔しましたがあいにくの留守でした。大畑さんのイチゴ園に立ち寄り見せてもらいましたが、年末から今までの半年間、7回もイチゴが収穫できる最後の時期を迎えていました。大畑さんには「地域の自立を考える」というトークバトルを清水さんと手がけた時に脇田さんがDVDを制作してくれたものが手元にあって、その映像に夫婦が出演してくれているのです。講演の度に上映しているので届いていると思っていましたが、意外や意外届いていないというのです。早速清水さんにお話しして取り寄せたいとお詫びをしました。

 みかん作りから転身して観光イチゴ園に取り組んではや5~6年が経ちました。最初は心配した観光客も、イチゴ栽培の技術も実額で越え自信にあふれた経営ができているようで、わがことのように嬉しくなりました。人は皆知らないところで悩みながら進化しているのです。私も大畑さん夫婦のように夢を持って生きて行きたいと思いました。


  「単車乗り そこいら辺を ブラブラと 尋ね歩きて 四方山話」

  「普段着で 話す会話に リラックス 田舎言葉が ポンポン飛び出」

  「新入生 たったひとりの この学校 一番かドゲ どっちなんじゃろ」

  「少ないと 競争力がないという 競争なくも 共生あれば」

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○恩人の消息が気になりつつ

 今治市大西町といえば岡島明夫さんを思い出します。私にとって岡島さんは恩人中の恩人なのです。ゆえに今治市へ行く途中時々顔を思い出して自宅を訪ねたりしていましたが、一昨日は大西町老人クラブの総会に招かれたので、少し早めに出て立ち寄ってみました。何度も訪ねている家なので一発で家は分かったのですが、訪ねてみると家は全て固く戸を閉ざしてカーテンが閉められ、人の気配は全くないのです。何年か前県公連で卒寿のお祝いを鈍川温泉でして以来会っていないので、90歳を超えて時々入院という風の噂をきいていたこともあって、そのことを頭でよぎらせながら出会うこともなくお暇しました。

 岡島さんが県公連の会長をしていた折、私はまだ駆け出しの公民館主事でした。私が県公連の主事部会長となって県内で活躍するようになってからは、県公連の運営にお互い心血を注いだものです。特に静岡県公連との刎頸の契りは思い出に残る交流でした。その頃私が全国大会の司会を6年連続でできたのは岡島さんの推薦に他ならなかったのです。

 当時の市町村の社会教育、とりわけ公民館は金なく物なく人もないと揶揄されるほど劣悪な教育環境でした。公民館主事が県外へ出張できるような余裕は殆どなかったのです。それでも全国の指導者の教えを請いたいという思いはいつも持っていて、司会術や活動成果を上げて全国大会の司会に推薦される機会などを伺っていました。好運にも岡島さんの推薦で公民館主事という肩書のない平の職員では全国で初めてその司会に大抜擢されて、司会の好運をつかんだのです。冬至双海町の教育長は中田豊さんで、岡島さんの申し出を快く引き受け冬至の仲野町長さんに掛け合って全国大会の武者修行に旅立つことができたのです。

 その司会ぶりは今でも語り草となるような秘策を連発して話題となり、以後6年間も連続して全公連からお声がかかる好運で、あっという間に全国の公民館関係者と深い深いネットワークを作ることができ、今もその交流は続いているのです。もし岡島さんに出会っていなかったら、もし司会役に推薦していただいてひのき舞台に立っていなかったら、今の私はなかったと恩人たる岡島さんに敬意を表しているのです。

 約束の時間にはまだ少し早いと思いつつ好奇心が頭を持ち上げ、国道196号線を通るたびに気になっていた古墳公園へ立ち寄りました。池の土手には綺麗に緑を刈りこんだFUJIYAMAという絵文字がありました。公園内は綺麗に整備され駐車場の上には妙見山古墳が展示されていました。

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 藤山資料館も池周辺の整備も、そして緑の芝生公園も綺麗に整備され驚きの連続でした。一度訪ねたいと思っていただけにこの日はラッキーでした。

 耐震工事を行っている今治市役所大西支所はドリルの音も賑やかで駐車場も満杯で仕方なく道路わきに駐車して中へはいりました。年輪塾の仲間である大河内さんが孫を連れて面会に来てくれていました。大河内さんは朝フルの会を結成したり生活改善グループで様々な活動をしている活発で知的な方です。この日は手作りのお味噌までお土産にいただき恐縮してしまいました。

 私の友人である佐賀山誠さんのお母さんも控室へ顔をのぞかせて面談し、賑やかで楽しい「ニコ・ピン・コロの人生」と題した1時間余りの講演会は無事終わりました。

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  「大恩を 忘れることなく 訪ねたが ひっそりカーテン 心痛めて」

  「FUJIYAMAと 緑で書いた 絵文字見つ 公園足早 カメラスケッチ」

  「孫連れて 会いに来てくれ 味噌までも 手土産持参 恐縮千万」

  「講演は ニコピンコロの 人生を 楽しく生きよう 訴えました」

 

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○農地の借り手が見つかるかも知れません

 わが家には家の傍の家庭菜園と人間牧場以外にもう一ヶ所農地がありますが、母親が亡くなる前から手入れが行き届かなくて荒れたままになっていて、心を痛めていました。景観は人間牧場と同じく港が見えるなどすこぶる良く、人間牧場構想の候補地に挙げたほどなのです。4年前リタイアした折農地として利用しようと全ての草や木を取り除いたものの、その後忙しくて放置したため放任園となっていました。

 昨日今治へ講演に行く途中、ミツバチの師匠である野村の井上登さんからミツバチ分封の嬉しい知らせが携帯であって、何としても昨日中に確認したいと思い始めました。その時ピンときて顔を思い出したのは砥部町で自動車修理工場を営む稲葉さんでした。彼は少しばかりの農業を営む夢を持っていて、再三農地を探す相談を受けていました。これまでにも候補地を買いたいので見てほしいと同行したりしましたが、売り主と折り合いがつかず頓挫していました。先日宇和町明間の佐藤さんたちと交流した際に久しぶりに出会いましたが、まだ農地が見つかっていないようだったのです。「そうだ私の農園を使ってもらったら」と思い立ち稲葉さんに出先から電話を入れました。「午後6時に家に帰る予定。ミツバチの分封を見に行く予定。ついでにわが農地を見たらどうか」と誘ったのです

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(農地から見える下灘豊田漁港の眺望は人間牧場と同じ位置に見えます)

 私が自宅へ着いたのは午後6時に10分前でした。稲葉さんはあいなしにわが家へ見えられ稲葉さんの運転する車に乗って目的地へ出かけました。急がないと日が暮れると思いつつ現場に到着し鎌を片手に農地を見て回りました。

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(草に覆われた農地)

 草茂る中へ分け入りましたが、思ったほど密林にはなっていなくて、草を刈れば直ぐにでも農地に復元できるような雰囲気に稲葉さんは興奮気味で、早くも「ここへこんなものを植えたい」などと抱負を言いながらすっかり気に入った様子でした。他人の農地との境目を確認するように歩き現地説明を終えましたが、「農地は売らないので無償・無期限・無条件」という約束で検討するよう話をまとめました。稲葉さんは早速にでも取り掛かりたいと意気込んでいたようですが、妻から「お父さん、稲葉さんに押し付けたら人間関係が壊れるから駄目よ」と釘を刺されていたので、一晩二晩冷静になって考えてみるようお話をしました。


 稲葉さんは人間牧場の水平線の家が新築したとき、水平線の家の清掃作業に携わってくれた人です。また水平線の家の囲炉裏に敷く木灰をわざわざ砥部焼の窯元から譲り受けて運んでくれた恩人なのです。ひょんなことから知り合いとなり、お互いの息子の結婚式に出席したり、私の車の修理を頼むなど私的な人間関係が続いていますが、親父とも懇意にしてもらっているのです。

 稲葉さんと夕闇せまる人間牧場へ上がりました。井上さんから一報を受けたミツバチの分封を確認するためです。ミツバチは夕暮れ時とあって入口にたむろして羽を休めていました。第三の巣箱であるツリーハウス傍の巣箱にも沢山のミツバチが確認されました。第二の巣箱は井上さんの言うように勢力が弱く今後の成り行きが心配されていますが、第三の巣箱は楽しみが増えました。農地の耕作といい、ミツバチの分封といい人間牧場周辺は面白い話題がどんどん増えて、また新しい動きが始まりそうです。

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(分封が確認されミツバチが羽を休める第三の巣箱)

  「荒れ農地 借主できる かも知れぬ 無償・無期限 無条件」

  「分封の 知らせ嬉しく 牧場へ ミツバチ羽を 休めて眠る」

  「またひとつ 楽しみ増える 初夏のころ 人も仕事も 愛に集まる」

  「面白い こともある世を ことさらに もっと楽しく 心次第で」

 


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shin-1さんの日記

○「講演料はいかほど」とよく聞かれます

 私の所へ講演の依頼がある人の中には、講演の打ち合わせが終わってから言いにくそうに、「所で若松さん」と話しが続くのです。「実はお金がないので誠に申し訳ありませんが~」と講演料を口に出すのです。その度に私は「そちらの都合もおありでしょうからいいですよ」と提示した意見に耳を傾けるのです。だって講演の内容を詰めてから「そんない安いのだったら駄目です」なんて言ったら、それこそ破談になって両方が気まずい思いをするからです。私は社会教育や福祉、それに地域づくりに関する団体やグループの台所事情をよく知っているので、こちらの主張などできないのです。「私の話でも聞いてやろうという人たちがいる」と思うと、銭金でなくボランティアの心が頭を持ち上げるのです。「お米一俵で講演してほしい」という現物支給や、旅費の足しにもならないような場所へでも喜んで馳せ参じる心は、リタイアしてからこの4年間、しっかりと心に生きづいているのです。

 よく聞かれる質問に、「講演料はいかほどでしょうか」と聞かれます。講演をする人たちの世界ではコンサルが介入して講師と講演を聞く側の間に入って講演料や講演条件などを全てマネジメントする場合が増えてきました。そんな場合はこちらの条件を求められるのでビジネスとして対応し、驚くことに時には見積書の提示まで求められるのです。

 私の友人たちで名前の売れている人の中には、一回の講演を50万とか10万とか決めている人がいます。教育や福祉、地域づくりの現場でそんな大金額を提示されるともうお手上げで、むしろその金額を提示した人に対して「あいつは金儲けでやっている」という悪評がはびこるのを何度も見たり聞いたりしてきました。確かに日本という国は講演などという形のないものに対して価値を測ることが下手で、お互い暗黙になり過ぎてトラブルの原因になることがしばしばです。私のような専門家でもない雑学な人間の話など値の付けようがないのです。私の話はむしろ講演をする私自身が「聞いてもらう」という、へりくだった感謝の気持ちで対応しているのです。

 さて私の話の値打ちはいかほどか、自分自身としてはこれまで社会教育や地域づくりの現場で得た論理を様々な場所で話し、それ相応の訓練をしてきたので、90分や2時間といった与えられた時間を飽きさせないようにする話芸は持っているつもりですが、それは話す私の値打ち感で、本当は聞いた人が値打ち感を感じなければ何の意味も値打もないのです。先日のように100人の学生たちに40歳も歳の離れた私が講演をした時などは、果たして私の話を受け入れてくれたかどうか、車を運転しながら帰り際に反省したり、多少不安になったりします。でも帰るなり感動のメールが幾つも届いたり、後日ハガキや来訪が相次ぐと、それこそ冥利に尽きて、世代を超えた付き合いへと交流の輪が広がるのです。

 青年団活動から身を起こし、社会教育やまちづくりの世界で腕をならぬ舌や話芸を磨いてきた私ですが、これからもしっかりと訓練して人々や地域の活性化にいささかなりとお役に立てるよう精進したいと思っています。


  「重さなく 長さ測れぬ 話芸にて なんぼと聞かれ そちら次第と」

  「俺値打ち 人様決める ものだから 良いと思えば それで良しとす」

  「金がない お米一俵 どうですか 言われ嬉しい 現物支給」

  「秘書もなく 自分で決める スケジュール 故に楽しい 講演旅行」 

 

 

 

 

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shin-1さんの日記

○老い先短い人生笑って生きて行きましょう

 わが家は長年地元紙といわれる愛媛新聞を取っています。別に理由はないのですがまちづくりに深く関わった仕事をしていると、どうしても県内のニュースが欲しいのです。確かに中央紙に比べると国内外のニュースは乏しいのですが、それをカバーできる県内のニュースが盛り沢山で、特にわが町が紹介されている記事はおびただしいもので、私のスクラップ歴は倉庫にしまっているだけでも相当な数になっていて、そのうちプレミアがつくのではないかと思われるのです。

 わが家には毎朝午前6時ころに新聞が届きます。新聞受けならぬ郵便受けに新聞が入る奇妙さですが、この時間は朝一本と決めているブログの書き込みが佳境に入っている時間なのです。新聞がポストに入る音がすると一旦パソコンの前を離れて新聞を取りに行きます。そしてざっと新聞に目を通し、再びブログ画面に戻るのです。

 そのうち妻が台所から「ご飯ですよ」と呼びに来て、食卓に新聞を広げ読みながら食事をするのです。「ご飯を食べながら新聞を読むのは止めて 」ともう何十回も注意をされましたが、癖は直らず今では妻も諦めているようです。一週間に一度文芸欄に川柳が出ます。投稿者の中には知人友人もいて、その度に「どこの誰々」と注釈をつけながら妻に読んで聞かせるのですが、今朝も松山市中島町の古野セキヱさんの句を読んで聞かせてやりました。古野さんの今朝の句は「ちぐはぐな 漫才をする 老いふたり」でした。確かに置いた二人に話は犬も食わないものが多くまるで漫才のようかも知れません。歳をとるとともに話題も頭髪・足腰ひざ・耳・目・歯などの衰えや食べ物・年金・孫・近所のうわさ話など、狭い範囲の話題やニュースに集中するようです。それでもそれを話題にして句を作り投句するとは粋な年の取り方です。

 早速久しぶりに古野さんに電話をかけました。電話口に出た古野さんは元気そうでした。句の批評をまるで評論家のように話しました。彼女もご主人も喜寿が近いようでした。お互いいきなり電話しても阿吽の呼吸で話せるのですから素晴らしいことなのです。

 「私は他は不足はないのだけれど脛が痛くてね」というから、「あんたは脛が悪くても顔がいいから、そのことを川柳にしたらどう」と話しました。「そう思っていても自分では顔がいいなんて言えません」というので、「脛悪い 顔がいいねと 人が言う」てなのどうかと、即興川柳を披露してあげました。「相変わらず楽しいねあんたは」と話は大笑いで終わりました。

 人生は色々と島倉千代子が歌っています。苦虫噛んで生きるのも一生、笑って楽しく生きるのも一生ですから、せいぜい笑って生きて行きたいものです。


  「川柳を 読んで聞かせて 妻笑う 友は人生 楽しく生きて」

  「ああ俺も あやかりたいと 思いつつ 笑売啖呵 四首 作りぬ」

  「元気かい 元気ですよと 跳ね返る 電話の向こう 今日も晴天」

  「人は皆 何か悩みを 持って生き 笑い飛ばせば 悩み吹っ飛ぶ」 


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shin-1さんの日記

○孫の誕生はまだかな

 昨日は長男の嫁の出産予定日でしたが、初産に引き続き今回も出産が遅れそうな雲行きです。嫁の実家も私たちも嫁の出産を心待ちにしているため、外から電話がかかれば「もしや?」と、電話がかかる度に一喜一憂しているのです。昨日は愛媛海区漁業調整委員会の委員をしているため、会議に出席するため愛媛県水産会館へ出かけましたが、途中息子の家に立ち寄りました。1年9ヶ月になる孫希心は出産が予定されているため、4月から近所の保育園に通わせていてあいにく留守で、嫁のあゆみさんが一人いました。

 息子も仕事に行っていたので久しぶりに二人水入らずで色々なことを話しました。出産のこと、子育てのこと、夫婦のこと、将来のことなどなどをしっかりと受け止めて暮らしている様子を聞いてひと安心しました。

 話の中では出ませんでしたが、やがて近い将来私たち親と双海町で同居する話が水面下で進んでいます。私たちは勿論91歳になる親父もそのことを望んでいて、親父からは「同居はいつごろから」と、老い先を考えてせかされていますが、息子と地にとってもそれ相当の覚悟と決断が必要なだけに、一つの目安として孫が小学校に入学する時期を選ぶことも考えているようです。

 息子は設計の仕事をしているので、2世代同居となると家の改造も考えなければならず、私たちが同居した時代とは随分考えを変えねば、お互いがいい家族の人間関係を保てないのです。妻は大家族の中で苦労してきただけにそのことに特に敏感で、息子や嫁の立場をしっかりと考えているようです。いずれにしても、孫の誕生を機にそろそろ同居の話を再燃させたいと思っています。

 昨日は実のところ、嫁あゆみさんの大きくなったお腹の姿を写真に撮りたくて伺ったのです。まるで大相撲の関取のような腹をしている妊婦に、「写真を撮らせて」といったら、例え親子でも「嫌よ」と拒否されるかも知れないとビクビクしながら切りだしました。「そういえば写真に撮ってなかったね。いいですよ」と簡単に応じてくれました。

若松進一ブログ
(堂々とした嫁あゆみさんの姿)

 どうです、この堂々とした姿。私はこの写真は大切にしておきたいと思うのです。というのもやがて生まれてくる孫が大きくなったら、「お母さんのこのお腹の中にお前がいたんだよ」、「お母さんはこうしてお前を産み育てたんだよ」と言ってやるための証拠写真にしたいのです。

 私たち人間はいつの間にか勝手にこの世の中に生まれてきたような錯覚をしていますが、人間が一人生まれるために母親はこんなに大きな仕事をしているのです。そのことを思うと母親に感謝しなければならないのです。「産んでくれと頼んだ訳でもない」と親をののしるような子どもにだけはなってほしくないのです。


 「大潮なのでもうそろそろ」と妻はいいます。人間は海から誕生した数奇な運命を持っています。そのため月の引力や潮の満ち引きなどは人間のバイオリズムを支配しているとまで言い切る学者もいるほどですが定かではありません。でもデーターだと大潮の出産事例が圧倒的に多いようだと授産師さんから聞いたことがあります。いずれにしても遅かれ早かれ生まれるのですが母子健康で孫が生まれることを心から願っています。


  「まだかいな 電話が入る その度に 一喜一憂 嫁の出産」

  「拒否もなく すんなり妊婦 写真撮る 大きくなったら 見せてやりたい」

  「同居する タイミング何時 親父聞く これはそったく 自分だけでは」

  「出産が 間近になって そわそわと 当の本人 意外冷静」

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