shin-1さんの日記

○何気なく読む雑誌の中に自分を発見

 毎日のようにわが家の郵便受けに届く手紙や書類、ダイレクトメールなどを受け取る度に、私の知らない場所で私の名前と住所が書かれているのかと思うと、個人情報重視の時代に故に少々不安になったりします。しかし私のように名刺を配る人間として生きている者にとってはそれは宿命だと諦めていて、むしろ金銭関係のガードをしっかりしていれば、そんなにトラブルに巻き込まれることもないと割り切っているのです。

 昨日届いたメール便の雑誌を昼食を食べながら何気なくめくっていると、私の顔写真入りの記事があってびっくりしました。エヴァプレスという「街の香りをお届けする地域交流デザインマガジン」と書かれた無料配布の雑誌です。平井鳥取県知事や村井宮城県知事のリレー対談などの特集が組まれているため、その記事を読みながら地方の苦悩や元気を考えました。

 34ページに観光カリスマ100選という本の著書と著者が紹介されているコーナーが載っていました。著者は私もよく知っている前山梨県立大学教授市原実先生です。先生とは手紙をやり取りする間柄で昨年は愛媛県で開かれた地域づくり団体交流研修全国大会でわが町にもお越しいただきました。

若松進一ブログ

 観光カリスマの認定は小泉首相の時慶応義塾大学の島田晴雄教授を選考委員長に2002年12月にスタートして、その後全国から100人の人が選ばれました。おこがましくも私もその一人に選ばれていますが、その100人を取材紹介してこのほど出版されました。出版社からその本は送られてきましたし、仲間にもパンフレットなどを送って買い求めるよう市原先生の後方支援をさせていただきました。

 このページには3人の記事の写真が掲載されていましたが、岩手県奥州市綾野輝也さん、長崎建長崎市の林敏幸さんそれに私がしょうかいされているのです。虫眼鏡でないと確認できないほどですが、文章記事の末尾に「今回よりその中から勝手にご紹介させていただきといと思います」と注釈が載っていました。まあ私のこともインターネットで検索すると読むことも見ることもできないほどのかなりの数が載っているのですから、静観したいと思っています。

 昨晩遠くに住むある友人からパソコンにメールが入り、この雑誌を読んだと感想文が寄せられました。「私と同じような偶然見つけて嬉しくなった」と記されていました。私は早速返信をしましたが、こんなことで安否確認とはおかしな世の中になったものです。

若松進一ブログ
(写真の左から2枚目が初代のにっぽん丸で青年の船としてアメリカへ渡りました)


 息子が持ってきた商船三井客船にっぽん丸というパンフレットにも、めくると懐かしい写真が載っていました。あるぜんちな丸を改装して初代にっぽん丸となったその船で、私は青年の船班長として建国200年のアメリカへ行ったのです。もう30年以上も前の出来事ですが、当時の模様がありありと浮かんできました。

 雑誌や新聞、パンフレットを読みながら過ぎ越し人生の一コマにふれることができるのも、それだけ善き敬意見をしているからだと、改めて自分の64年間の人生を振り返った次第です。


  「えっ俺が 雑誌の記事に 虫眼鏡 観光記事載り わが目疑う」

  「そういえば 三十数年 前だった この船乗って アメリカ渡る」

  「思い出は 一瞬頭 蘇る だのに昨日は 思い出せない」

  「記憶する ことしか記録 されないと 記憶と記録 どっちだったか」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○子どもの日は私たち夫婦の39回目の結婚記念日

 昨日は子どもの日で、各地で子どもにちなんだ様々な催しがあったようです。お隣の内子町五十崎では恒例の凧合戦が行われたようで、高速道路の割引効果と好天ということもあって5万人もの人が詰めかけたとテレビが報じていました。そのため伊予~内子間の高速道路が6キロ渋滞したそうです。

 昨日の子どもの日は私たち夫婦にとっても記念すべき日で、39回目の結婚記念日なのです。妻は旧姓二宮繁子といって南予八幡浜の出身です。生家は代々削り節屋をやっていて、近所の人の紹介で見合いをしました。役場に勤めてまだ日も浅かったのですが、当時私は愛媛県青年団連合会の会長として忙しい日々を過ごしていて、僅か5分程度の見合いで結婚を決意したのですからいい加減としか言いようがありません。結婚前のデイトも仕事と県連会長と国立大洲青年の家の誘致運動が重なって僅かに5~6回と極端に少なく、妻は相当不安だったと述懐してますが、当の私は平気で事を運びました。

 私たち夫婦は結婚する時、殆ど一方的に私が結婚式の日取りを決めました。いくら何でも子どもの日などという祝日に結婚式を挙げるのはどうかと親は乗り気ではありませんでしたが、むしろ私はこの日を吉日と思っていました。

若松進一ブログ
(今年39年目の結婚記念日を迎えました。これれから相合傘で・・・・)

 八幡浜と大洲の間の夜昼峠は難所でしたがトンネルがこの年に開通したため、花嫁衣装に身をまとったまま自宅からわが家まで延々3時間も車に揺られてお輿入れです。その当時はまだ海岸国道は未整備で曲りくねった道を下灘まで来る道中は極度の緊張感もあって生きた心地がしなかったようです。結婚式はわが家の座敷で指図人の仲人さんが執り行う古式豊かな三々九度の盃事でした。その後妻は田舎の古い風習である「歩き初め」というお披露目があって近所を練り歩いてあいさつ回りをしたようですが、私は県下各地からお祝いに駆けつけて来てくれた青年団の仲間と談笑していました。

 私たちの田舎は当時、結婚式の料理は大がかりな親族による手助けで全て手作りでした。250人分の食材はこれまたわが家が鯛網漁師をしていたため自前で、鯛づくしの料理が豪快にふるまわれ、新郎新婦の前にはこれでもかといわれるほど鯛の姿造りが並べられていたのを記憶しています。

下灘農協の2階の大ホールを借りた披露宴は延々6時間にも及び、いつ終わるとも思えぬ披露宴で酒を飲まされ、私も妻も夢心地の一日でした。

 あれから39年、生活設計通り4人の子宝にも恵まれ、家を新築したり子どもの自立など多少の波風はあっても貧乏ながら何とかここまでやってきました。その間の妻の苦労は私が地方公務員とは言いながらかなり破天荒な人生を歩んだため、家を守るために大変な苦労をかけたようです。夫婦喧嘩も多少はしましたが、別れることもなくまあ普通の家庭を築いてきました。

 いつもの年は結婚記念日など子どもの日ということもあって特別なことはしませんが、それでも私たち夫婦にとってはかけがえのない記念日なのです。昨日は長男夫婦に加え看護士の次男と警察官の三男も帰郷して賑やかな夕食会となり、記念日を祝うことができました。今のところ私も妻も健康で、妻は近所の歯科医院で働らき私もリタイアしたといいながら適当に働いて適当に人生を楽しく過ごしているのです。

 過去も今もそう不満はありませんし、二人の息子の結婚がまだなくらいで、これからもそんなに不安の材料は見当たりません。月並みなことかも知れませんが、健康に留意して二人仲良く、とりあえず11年後の金婚を目指して頑張りたいものだと二人で話をしました。

 私事で恐縮ですが、結婚記念日にはささやかながらプレゼントすることにしています。中身は内緒です。


  「夫婦とは いかなるものか 考える 知らぬ同士が 糸で結ばれ」

  「私たち 何もないから 加点派で 今日まで点数 加えに加え」

  「矢のごとく 三十九年が 過ぎました これから先も よろしく頼む」

  「とりあえず 金婚五十が 目標と ささやかながら 目標立てぬ」

[ この記事をシェアする ]