shin-1さんの日記

○金にもならないことだから意味がある

 昨晩は子どもおもしろ教室の実行委員会があって夕方市役所支所へ出かけました。リタイアしてもう4年が過ぎるというのに未だに現職の頃からのボランティア活動を引きずって、請われるままに今年も実行委員長を引きうけてしまいました。

 昨日役所に勤めていたころの友人に会いました。彼は天下りほどの美味しい職場ではありませんが、それでも再任用制度で役所の出先機関に再就職しているのです。在職中は社会教育やまちづくりの現場を経験し、ボランティア活動の必要性を人々に説いてきた人なのに私にこんな発言をして、一瞬その人の心を疑いました。

 「あんたまだそんな金にもならない活動に首を突っ込んでいるのか。そんな暇があったらもっと自分の人生を楽しんだ方がいい。協働や参画などと甘い言葉を言って、ボランティアと称するタダ働きをさせ、自分は汗をかかない役所の姿は頭にきている。あんたも早く足を洗った方がいい」というのです。そして現在の再任用された職場への不満なのでしょうが、「給料も安いのでその程度の働きをすればいいと割り切っている」のだそうです。

 普通であれば「そうよなあ」と同調するのでしょうが、私の虫の居所が悪かったのか少し反論してしまいました。「世の中不景気だというのに、あんたはこうして退職してからも働けるのだから、給料が安くても仕事があるだけ有難いと思わなけりゃいかんぜ。社会教育やボランティア活動はお金じゃないと、あんたも昔言いよっとろがい。退職金も年金も出るのだから、もう少し社会に貢献するようなことを考えないといけん。わしはあんたと違う」と説教してやりました。

 彼からの反論はなくそのことについては「・・・・・・・・・・・?」でしたが、彼の奥さんと出会ったとき聞いた、「遊んでいてもボケるだけ。自分の食いぶちぐらいは稼いでもらわないと。今まではペコペコして言うことも言えず生きてきたんだから、これからは胸を張って生きてゆきたい」という話と良く似た夫婦の会話を思い出しながら、どこでボタンをかけ違えたのかしみじみと考えさせられました。


 昨夜は打ち合わせが終わって単車で帰りました。田舎の道は街灯も殆どなく暗くて、単車の弱くて鈍い灯かりが前を照らしてくれました。民家の家のあちこちの窓に明かりが見えました。ふと昔聞いた「聖窓」のことを思い出しました。江戸の頃は夜道に街灯は殆どない時代でしたが、夜道を照らしたのが箱型の聖窓だったようです。遊郭や見世や町家入り口脇などに設けて内側に油火をともしました。門燈や客引きが目的だったのでしょうが、前を通る人々の足元を照らし、道しるべになったのです。聖窓の語源は僧「高野聖」が背負っていた箱が語源とされていますが、足元を照らすと同時に歩との心を明るく照らしたに違いないのです。私が子どもの頃は懐中電灯もなくもっぱら提灯が使われていました。提灯にせよ懐中電灯にせよ、足元を照らし人を先へと導くのです。友人の生き方も人生なら私のような提灯人生、聖窓人生、懐中電灯人生もおつなものだと思いつつ家に帰り「ただ今」と声をかければ、「お帰り。早かったのね」と弾んだ妻の声が迎えてくれました。

  「まだそんな ことをしている 止めとけと 言う友哀れ 俺は提灯」

  「ボランティア 仕事ですから やっていた 嘆かわしいな 心浅はか」

  「給料の 安さ嘆いて 仕事する それで働く 意味があるのか」

  「聖窓 思えるような 明かり見え 時はいつもと 変わらぬ流れ」


 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○不便な暮らしが感謝の気持ちを育む

 5月に入って雨らしい雨が殆ど降らず、ひと雨欲しいと思っていた矢先の2~3日前の夜、お湿り程度の雨が降って家庭菜園の野菜類が息を吹き返したように元気になりました。と同時に畑の雑草もぐんぐん伸び始め、菜園の仕事が一気に増えてきました。親父は相変わらず愛用の草削り鍬で手当たり次第に雑草を削っていますが、親父の草削りのスピードより雑草の勢力の方がはるかに早く、「綺麗に草を除けていたのにもう生えた」と愚痴をこぼすようになっているのです。

 その言葉を聞きながら、息子の私も最近では暇さえあれば菜園畑に出て草を削っているのです。5月の太陽は初夏と呼ぶにふさわしく以外とさわやかながら強烈で、幅の広い麦わら帽子を被って作業するのですが、妻が「お父さん色が焦げたねえ。真黒になって・・・」と言うとおり、日焼けで顔がくすんでいるのです。昔は言葉は悪いのですが貧乏人や労働者の代名詞は日焼けとやせ型でした。お金持ちは概して色白で肥え気味とされていたようです。しかしつい最近はその概念が崩れ、ゴルフやアウトドアー趣味のお金持ちは戸外で健康的に遊ぶので日焼けしているようで、逆に日稼ぎにあえぐ人は陽に当たらないから色白で、しかも運動不足で肥満気味だと言われています。そのことから考えれば私は日焼けしてやせ型ですから、実態と違っていたって貧乏ながらお金持ちのイメージを備えているのです。


 5月に入ってから殆ど毎日、夕方太陽が西に傾くころ畑に出て苗植えした野菜に水をやりました。畑には親父が作った井戸水をエスロンパイプで引いているのですが、ホースで水をやると強烈過ぎて土の表面をはねて固くするので、しっかり根付いていない苗にはジョロに水を汲んで優しく頭からかけてやるのです。

 お陰さまで植えた苗も今のところは順調に活着してトマトもピーマンもナスもトウモロコシも成績はいいようです。それにしてもジョロにいちいち井戸水を汲んでやるのはかなり手間暇がかかります。特に成長著しいブルーベリーの鉢植えは排水を良くしているため、2~3日ほおっておくと新芽がしんなりするほど乾燥するのです。ブルーベリーは早いものは受粉して実が大きくなっていて、遅い花は今が受粉の時期なのです。この時期に水を枯らすと折角の実が太らないばかりか落下する恐れがあるので注意をして水やりをしているのです。ブルーベリーはジョロなどの水では不足気味で、バケツに一杯たっぷり根元にかけるのです。ブルーベリー栽培の指導を受けている西岡さんの話だと、カルキの入った水は根を傷めるので水はバケツに汲み置きしたものを使用するよう言われましたが、わが家は井戸があってその心配はないようです。


 蛇口をひねれば水が出て、スイッチを入れれば電気がつく便利な時代に、あえてこんなまどろこしい方法でみずをやるのは、少々面倒くさいし違和感を感じますが、あえて不便を感じるようなこんな作業は逆に新鮮で、これまで見えたり感じたりしなかった部分が見えてきて結構水やりを楽しんでいるのです。

 私の祖父や祖母の時代、つまり戦前は水道も電気もまだ不自由で、家には水をためる飲料水専用の大きな水瓶がありました。今は水道が普及して家の中には洗面所までありますが、その当時は水汲みは子どもの日課だったと祖母が語っていたのを思い出しました。そのことを考えれば今はお殿様のような暮らしで、何の不自由もなく水の恩恵を受けて暮らしているのです。

 便利さゆえに失い、不便さゆえに見えてくるものはいっぱいあります。ジョロに水を汲んで運ぶと一滴の水も無駄にしたくないような水への感謝の気持が湧いてきます。これこそ現代人が忘れている水への感謝なのです。便利が当たり前の現代だからこそ不便を体験して感謝の気持ちを復活させたいと思いました。


  「水を汲み ただひたすらに 水をやる 恵み感じて 野菜活き活き」

  「水を汲み 重さと不便 実感す 水への感謝 思い出しつつ」

  「今までは 親父の苦労 など忘れ 当然実ると 信じて食べた」

  「色黒く なった顔見て 驚きぬ 元気そうだと 友に褒められ」 

[ この記事をシェアする ]