shin-1さんの日記

○四人目の孫誕生

 昨日は朝から長男の嫁が産気づいて慌ただし一日となりました。慌ただしいと言っても別に私が慌ただしいのではありませんが、入院出産や孫のことなどを考えると何となく落ち着きませんでした。朝息子から電話があって「出産予定日を過ぎているが、どうも陣痛のような感じがするので病院へ問い合わせところ入院するよう勧められたのでこれから病院へ行く」と連絡がありました。長男の長男である孫希心はこんな産前産後を想定して4月から嫁の実家の近くの保育園に入園させているため、昨日は保育園に通園させてから病院へ向かったようです。

 嫁の実家は喫茶店を経営していて、産前産後の面倒が見れないため、入院中は息子と孫希心はわが家へ疎開しわが家から仕事の行き帰りに孫希心を送迎する算段です。嫁は初産の時中々生まれなくて難儀をしたので今回も生まれるのは今日くらいだろうと息子は言っていました。それでも入院しているし孫のことも気になるので妻の仕事が終わってから病院に駆けつけその足で孫を連れて帰る予定で二人で出かけました。夕方5時ころに県立中央病院の周産期センター到着し見舞いましたが、明くる日になるかも知れないというし、その夜は保育園に行っている孫希心は嫁の母親が面倒を見るというので一旦引き揚げました。

 子どもを4人も生んだ妻の経験からすると2人目からは産道ができているのでおさんが一回目よりは早くなると思っていたようで、今夜あたり生まれるかも知れないと息子に告げていたのです。

 家に帰り食事を済ませて団欒していると息子から興奮した様子で「さっき子どもが生まれた。母子ともに健康、3150gの男の子だった」と電話がかかってきました。私たちは再び車で病院へ向かいました。私は分娩室へ入ったのは初めてでしたが、8時40分ごろに生まれたまだ1時間しか経っていない赤ちゃん、つまり私たち夫婦にとっては4番目の孫の誕生となりました。結果的には4人とも男の子ですが健康な赤ちゃんなので嬉しい限りです。

嫁は兄弟二人とも女姉妹で、お父さんの喜びも相当だと息子から聞かされました。息子はデジカメで生まれたばかりの孫と嫁、それに私たち夫婦を入れて記念写真を撮ってくれました。本当はデジカメを持参したかったのですが、息子や嫁に「こんな大変な時に」と叱られそうなので、忘れたふりをして持参しませんでした。息子の嫁に「よく頑張ったね。おめでとう」とねぎらいの言葉をかけて10時近くに病院を後にしました。

 病院は病気を治すところなので、ややもすると暗くなりがちですが産院だけは別で、人間誕生の産声が聞ける唯一の場所かも知れません。娘もこの病院で二人の赤ちゃんを産みました。また今は産休してますが助産師としてこの病院で働いています。少子かといいながら私たち夫婦にはこの7年間で4人の孫を授かりました。1+1=(4+2)+4=10、つまり私と妻の結婚は4人の子どもに加え長女の婿と長男の嫁に4人の孫が加算され合計10人に膨れ上がったのです。嬉しいネズミ算です。後二人の息子に嫁でも来れば嬉しいのですが今のところその気配は感じられず、妻の良いいつの悩みの種になっているようです。

 今回生まれた孫は5月19日が誕生日となりました。あわや娘の2番目子ども尚樹と誕生日が一緒になるのでは?と思われましたが、尚樹は5月18日と僅かなニアミスとなりました。5月生まれはこれから温かくというより暑い中で育てなければなりませんが正月ごろには7ヶ月の投げ座りといわれるように、座ることができるかも知れないと、伊予市民の一人となった孫の成長を楽しみにしています。


  「四人目の 孫の誕生 でかしたと 分娩室にて 親子褒めやり」

  「楽しみと 不安半分 だったけど 母子とも元気 聞いて安心」

  「今晩は 生まれるだろう 妻の感 ピタリと当たり さすがは四人」

  「少し前 腹にいたとは 思えない お乳チューチュー 誰が教えた」

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shin-1さんの日記

○自分の生き方を見つけることが第一

 限界集落だの田舎の嫁不足だの、はたまた少子化だのといって色々とその対策に頭を悩まされています。私も地域づくりの世界で生きてきたため、それらに対し妙案はないかよく聞かれたりします。行政が金を出せたり住民の方を向いていた時代なら私のような凡人でも解決策のひとつや二つは思いつくのですが、今の行政は金もなく職員も住民に向くような気配は一部を除いて感じられず、お手上げの状態です。

 先日島根県のある集落へ講演に招かれ出かけた折、何人もの人から力強い話を聞きました。その集落では「長男が糞をひらねばその家は潰れる」という言い伝えをしっかりと守って、長男を残す運動を長年にわたって実践してきたそうです。最初は長男に反対・反感・半黙され、自分も半信半疑だったそうですが、それでもその言い伝えを守り、圃場整備や新品種の導入など農業経営の足腰を強くして、飯の食える農業と集落コミュニティの維持に努めてきたのです。その結果は火を見るより明らかで、風前のともし火の限界集落をしり目に持続可能な集落を作っていました。そして今後も「その集落にいい子どもを残す」ために色々なことを考えて実践していて、もっとさらなる良き集落を作りたいが妙案はないかと、私の出番となったのです。

 私は人づくりの必要性と生活環境の近代化について話をしました。私たちの育った20世紀という時代は田舎がネオン輝く都会に憧れて生きてきました。田舎をさげすみながら生きるほど田舎の暮らしは都会から比べると遅れていたのです。便所も風呂も台所も、襖で仕切られたプライバシーの保てない部屋も、若者の私たちにはどうにもならなかったのです。ましてや隣に蔵が建つと腹が立つ陰湿な田舎のコミュニティも致命傷でした。また3K産業といわれる仕事も、外に出たことのない親たちはそれが当り前の暮らしだと我慢して暮らしていたのです。

 テレビの導入は田舎に都会の便利さや快適さをリアルに伝えました。その結果若者は都会を目指し、私たちの住んでいる田舎から人が減り、今のような田舎の姿になったのです。

 しかし最近になって都会のひずみやほころびが目立ち始め、田舎暮らしも捨てたものではないという考えが芽生え始めてきました。私は自分が幸せ者だと思うのは、水が美味く、食べ物が美味しく安心安全で、空気や原風景までも長閑で、心許せる仲間や近所の人間関係に満足して暮らせ、たまに都会へ遊びに行けるからです。特にインターネットの普及で情報化が進んでとてつもなく便利になり、都会に住むことの意味がなくなりつつあるのです。

 自分の生き方をしっかり持って生きている人はキラキラ輝いて見えます。多分私もキラキラほどの輝きはないにしても多少の輝きだけはあると自負して生きているのです。親が自信を持って生きると子どもは自信を持って生きてくれます。そんな親をたくさん作ることが地域づくりなのです。人にはそれぞれの思いや生き方があって当然で、その個性とも思える生き方を批判することはできません。親は子どもに背中を見せて生きることしかできない悲しい運命の持ち主かも知れません。

 私は幸せなことに4人の子宝に恵まれました。しかも4人とも私が理想とした県内の2時間圏内に職場を持って暮らしています。将来のことは分かりませんが、親が子、それに孫と出会おうと思えばいつでも行ったり来たりできるのも嬉しいことです。そしてリタイアした今は少しばかりの余力を出して地元の子どもたちにボランティア活動としてふるさと運動に取り組み、役立ち感も持てているのです。健康に留意し自分らしく生きることを今後も続けたいと思っています。


  「自分とは いかなるものか 自分さえ 分からず生きる この歳なりて」

  「ある村の 生き方理想 長男が 糞をひらねば 家は潰れる」

  「人生の 仕上げの歳に なりました いい生き方と 思えるように」

  「俺も歳 回顧の話 多くなり 未来語った 昔懐かし」

 

 

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