shin-1さんの日記

○妻の料理は美味しゅうございます

 わが家の食事はどちらかというと日本食中心の献立です。ごはんにお味噌汁、魚や煮物、野菜が中心です。子どもが小さい頃は成長に必要な肉類が多かったのですが、10年前に私が胆のう摘出手術をしてから肉や天ぷらが余り食べられなくなったため、それに高齢な親父の口に合うものが自然と好まれるようになって、食事には必ず魚が一品はつくほど魚党になってしましたのです。それでも朝だけはリンゴとキャベツを組み合わせたリンキャベに黒酢と牛乳で済ませているし、昼も残りもののようなものを食べるので、まあ言ってみれば夕食が本格的な日本料理なのです。今日は大学の授業や松山工業高校の100周年記念事業の打ち合わせが長引いて夕方帰ると、妻が私のために色々な料理の真っ最中でした。


 新玉ねぎのスライスとほうれん草のおひたし、トマトスライス、カボチャの煮物、ハヤシライスのルー、それにしめサバの刺身なのです。どれも大好物なのですが、炊きたてのアツアツごはんにそれらをおかずにすれば、それはもうどんな高価な料理店の料理よりもおご馳走なのです。今晩は久しぶりにご飯のお代りをしてしまい、少し食べ過ぎた感じがするほど食べました。

 私の妻は若いころ私が役場で水産を担当していたことや、家が漁師の家だったこともあって、「おさかなママさん」という講習を受けて各地に指導に行くなど、魚食普及に取り組んでくれました。そのお陰で魚料理はかなり腕に自信があるのです。

 取り立てて高価な食材を使っているわけでもないのに、甘過ぎも辛過ぎもない丁度良い舌味は長年慣れ親しんだ味であり、何故か心がホッとするのです。体の栄養もさることながら料理の持つ独特の香りや心許して食べる食卓はやはり心の栄養とでも言うべき意味を持っているのでしょう。

 食事が終わって飲むお茶も美味しくてお代わりしました。最近は食後のコーヒーなどとコーヒーがもてはやされていますが、コーヒーの苦手な私は日本茶が大好物で、早くも香りのよい今年の一番茶が出回って心なごませてくれるのです。

 私たちが子どもの頃は「食事の遅い人間は出世しない」などと、ひたすら早く食べることを教わりましたが、今は食事を楽しむことを第一にするような豊かな時代となったのです。

 私は最近妻と二人の食事が多くなったために、リタイアしたこともあって食事はできるだけゆっくりとるよう心がけています。そうしないとお酒を飲まなくなったためあっという間に食事を終ってしまうのです。そして私のこころがけの大変変わった部分は、ニュージランドへ行ってホームステーをした折、ご主人が後片付けをしている姿を見てショックを受け、帰ってから自分の食べたものだけは流しへ持って行くことだけでもしようと心に誓って実行しているのです。今の若者からすれば、洗い物をするわけでもなくそんなこと自慢にならないと言われそうですが、厨房に入らない男子と言われる私にとってこれが精一杯の努力なので、妻も昔の私を知っているので、そのことは

大変有り難がっているのです。 まあ食事の後に「ああ美味しかった」と褒め言葉を言うこともすっかり馴れて、妻と私は良好な夫婦関係を保っているのです

  「美味かった たった一言 言うだけで 妻の腕前 随分上がる」

  「魚減り 肉が増えたと 白書いう 成人病の 多き納得」

  「食べたもの 片付けるしか 能のない 俺だが妻は 満足してる」

  「新茶入れ 夫婦四方山 話する 長閑わが家の 食後の会話」

 

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shin-1さんの日記

○孫出産・祝いのメッセージが届く

 「shin-1さんの日記」を愛読していただいている方々から、孫誕生の記事に対し温かいメッセージをいただきました。私たち夫婦にとって4番目となる孫ですが全て男の子です。孫の健やかな成長を心から願ってのメッセージに心打たれました。

 昨晩は上灘中学校の学校評議員会があって午後7時から出かけていました。午後9時に会議が終わって帰ってみると、息子が孫と二人でわが家に来ていました。普通は松山のマンションで親子3人で暮らしているのですが、前日からの母親の出産騒動で孫は何が何だか分からぬままに、母親の実家に前夜は一泊し、昨晩からは母親が退院するまでの間わが家に寝泊まりするのです。

 昨晩は妻が産院へ見舞いに出かけて9時過ぎに帰ったため、普通8時半に就寝するはずの孫は起きて私たちの帰りを待っていました。既にお風呂に入ってパジャマに着替えていましたが、眠い目をこすりながらお気に入りのアンパンマンのボールを持って眠ると離しませんでした。やがて私と妻の間に入って川の字になってスヤスヤと夢の世界です。孫の寝顔、孫の匂いはいいものです。

 昨晩は孫も一度も起きることなくぐっすりと眠ってくれましたが、妻は相変わらず布団の外に出よう出ようとする孫を何度となく布団の中に引っ張り込んでいました。私が日課の4時過ぎに起床してそっと抜け出し書斎で本を読んでいると、5時過ぎにはもう起きて私を探しに書斎へやって来ました。2歳未満とはいいながら13キロもある

ので抱き続けると腰を傷めそうなので、ほどほどにしなければならないのです。それでも岡さんを探しているようでした。2階に寝ている息子も前日前夜のお産に立ち会ったり仕事をしたり、相次ぐ親類のお見舞い、子どもの保育園へのお迎えなどとにかく心労が重なっていたようなので6時まで起こしませんでした。

 降って湧いた嫁のお産騒動はわが家にとってはまるで台風が来たような感じです。みんながそれぞれ甲斐甲斐しく働くのに、こんな場合の亭主たる私は何の役にも立たないのです。妻からは「あれをしてこれをして」といわれるのですが、やることなすこと後回りなことばかりで、昨日も風呂のお湯を出しっぱなしにして相撲に夢中になってしまい、「もっと緊張感を持ってください」と言われてしまいました。

 今朝は保育園に行く孫と仕事に行く息子が7時40分に出てホッと一息つきました。今日は私も愛媛大学法文学部の授業日で準備をしてそろそろ出かけなければなりません。また午後は松山工業高校の100周年記念事業の準備委員会が予定されて相変わらず忙しい一日になりそうですですが、帰りに病院の嫁と孫を見舞いたいと思っています。

 息子が昨晩生まれた子供の名前について色々と話をしていました。私の子どもは私の名前の一字「一」を取って一子、一心、一生、一公と名前を付けています。妻も家族も大反対だった名付けでしたが、息子もそれを見習ったのか自分の名前の一字「心」を取って長男には「希心」と付けました。最初は奇異な感じもしましたが、最近はなれて中々いい名前だと思っています。どうやら息子は第二子にも「心」をと考えているようです。親父の私が変わりものですからこうなるのだと、妻からは言われていますが、自分の子どもの名前は一生使うので慎重にと助言をしてやりました。

  「台風が まるで来たよな お産です 孫の一日 までも翻弄」

  「いい名前 つけろと助言 する私 真似はするなと 妻も助言す」

  「川の字に 孫を挟んで 眠る夜 久しぶりだと 心浮き浮き」

  「おめでとう 言われる度に ありがとう 孫の出産 私も嬉し」

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shin-1さんの日記

○四人目の孫誕生

 昨日は朝から長男の嫁が産気づいて慌ただし一日となりました。慌ただしいと言っても別に私が慌ただしいのではありませんが、入院出産や孫のことなどを考えると何となく落ち着きませんでした。朝息子から電話があって「出産予定日を過ぎているが、どうも陣痛のような感じがするので病院へ問い合わせところ入院するよう勧められたのでこれから病院へ行く」と連絡がありました。長男の長男である孫希心はこんな産前産後を想定して4月から嫁の実家の近くの保育園に入園させているため、昨日は保育園に通園させてから病院へ向かったようです。

 嫁の実家は喫茶店を経営していて、産前産後の面倒が見れないため、入院中は息子と孫希心はわが家へ疎開しわが家から仕事の行き帰りに孫希心を送迎する算段です。嫁は初産の時中々生まれなくて難儀をしたので今回も生まれるのは今日くらいだろうと息子は言っていました。それでも入院しているし孫のことも気になるので妻の仕事が終わってから病院に駆けつけその足で孫を連れて帰る予定で二人で出かけました。夕方5時ころに県立中央病院の周産期センター到着し見舞いましたが、明くる日になるかも知れないというし、その夜は保育園に行っている孫希心は嫁の母親が面倒を見るというので一旦引き揚げました。

 子どもを4人も生んだ妻の経験からすると2人目からは産道ができているのでおさんが一回目よりは早くなると思っていたようで、今夜あたり生まれるかも知れないと息子に告げていたのです。

 家に帰り食事を済ませて団欒していると息子から興奮した様子で「さっき子どもが生まれた。母子ともに健康、3150gの男の子だった」と電話がかかってきました。私たちは再び車で病院へ向かいました。私は分娩室へ入ったのは初めてでしたが、8時40分ごろに生まれたまだ1時間しか経っていない赤ちゃん、つまり私たち夫婦にとっては4番目の孫の誕生となりました。結果的には4人とも男の子ですが健康な赤ちゃんなので嬉しい限りです。

嫁は兄弟二人とも女姉妹で、お父さんの喜びも相当だと息子から聞かされました。息子はデジカメで生まれたばかりの孫と嫁、それに私たち夫婦を入れて記念写真を撮ってくれました。本当はデジカメを持参したかったのですが、息子や嫁に「こんな大変な時に」と叱られそうなので、忘れたふりをして持参しませんでした。息子の嫁に「よく頑張ったね。おめでとう」とねぎらいの言葉をかけて10時近くに病院を後にしました。

 病院は病気を治すところなので、ややもすると暗くなりがちですが産院だけは別で、人間誕生の産声が聞ける唯一の場所かも知れません。娘もこの病院で二人の赤ちゃんを産みました。また今は産休してますが助産師としてこの病院で働いています。少子かといいながら私たち夫婦にはこの7年間で4人の孫を授かりました。1+1=(4+2)+4=10、つまり私と妻の結婚は4人の子どもに加え長女の婿と長男の嫁に4人の孫が加算され合計10人に膨れ上がったのです。嬉しいネズミ算です。後二人の息子に嫁でも来れば嬉しいのですが今のところその気配は感じられず、妻の良いいつの悩みの種になっているようです。

 今回生まれた孫は5月19日が誕生日となりました。あわや娘の2番目子ども尚樹と誕生日が一緒になるのでは?と思われましたが、尚樹は5月18日と僅かなニアミスとなりました。5月生まれはこれから温かくというより暑い中で育てなければなりませんが正月ごろには7ヶ月の投げ座りといわれるように、座ることができるかも知れないと、伊予市民の一人となった孫の成長を楽しみにしています。


  「四人目の 孫の誕生 でかしたと 分娩室にて 親子褒めやり」

  「楽しみと 不安半分 だったけど 母子とも元気 聞いて安心」

  「今晩は 生まれるだろう 妻の感 ピタリと当たり さすがは四人」

  「少し前 腹にいたとは 思えない お乳チューチュー 誰が教えた」

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shin-1さんの日記

○自分の生き方を見つけることが第一

 限界集落だの田舎の嫁不足だの、はたまた少子化だのといって色々とその対策に頭を悩まされています。私も地域づくりの世界で生きてきたため、それらに対し妙案はないかよく聞かれたりします。行政が金を出せたり住民の方を向いていた時代なら私のような凡人でも解決策のひとつや二つは思いつくのですが、今の行政は金もなく職員も住民に向くような気配は一部を除いて感じられず、お手上げの状態です。

 先日島根県のある集落へ講演に招かれ出かけた折、何人もの人から力強い話を聞きました。その集落では「長男が糞をひらねばその家は潰れる」という言い伝えをしっかりと守って、長男を残す運動を長年にわたって実践してきたそうです。最初は長男に反対・反感・半黙され、自分も半信半疑だったそうですが、それでもその言い伝えを守り、圃場整備や新品種の導入など農業経営の足腰を強くして、飯の食える農業と集落コミュニティの維持に努めてきたのです。その結果は火を見るより明らかで、風前のともし火の限界集落をしり目に持続可能な集落を作っていました。そして今後も「その集落にいい子どもを残す」ために色々なことを考えて実践していて、もっとさらなる良き集落を作りたいが妙案はないかと、私の出番となったのです。

 私は人づくりの必要性と生活環境の近代化について話をしました。私たちの育った20世紀という時代は田舎がネオン輝く都会に憧れて生きてきました。田舎をさげすみながら生きるほど田舎の暮らしは都会から比べると遅れていたのです。便所も風呂も台所も、襖で仕切られたプライバシーの保てない部屋も、若者の私たちにはどうにもならなかったのです。ましてや隣に蔵が建つと腹が立つ陰湿な田舎のコミュニティも致命傷でした。また3K産業といわれる仕事も、外に出たことのない親たちはそれが当り前の暮らしだと我慢して暮らしていたのです。

 テレビの導入は田舎に都会の便利さや快適さをリアルに伝えました。その結果若者は都会を目指し、私たちの住んでいる田舎から人が減り、今のような田舎の姿になったのです。

 しかし最近になって都会のひずみやほころびが目立ち始め、田舎暮らしも捨てたものではないという考えが芽生え始めてきました。私は自分が幸せ者だと思うのは、水が美味く、食べ物が美味しく安心安全で、空気や原風景までも長閑で、心許せる仲間や近所の人間関係に満足して暮らせ、たまに都会へ遊びに行けるからです。特にインターネットの普及で情報化が進んでとてつもなく便利になり、都会に住むことの意味がなくなりつつあるのです。

 自分の生き方をしっかり持って生きている人はキラキラ輝いて見えます。多分私もキラキラほどの輝きはないにしても多少の輝きだけはあると自負して生きているのです。親が自信を持って生きると子どもは自信を持って生きてくれます。そんな親をたくさん作ることが地域づくりなのです。人にはそれぞれの思いや生き方があって当然で、その個性とも思える生き方を批判することはできません。親は子どもに背中を見せて生きることしかできない悲しい運命の持ち主かも知れません。

 私は幸せなことに4人の子宝に恵まれました。しかも4人とも私が理想とした県内の2時間圏内に職場を持って暮らしています。将来のことは分かりませんが、親が子、それに孫と出会おうと思えばいつでも行ったり来たりできるのも嬉しいことです。そしてリタイアした今は少しばかりの余力を出して地元の子どもたちにボランティア活動としてふるさと運動に取り組み、役立ち感も持てているのです。健康に留意し自分らしく生きることを今後も続けたいと思っています。


  「自分とは いかなるものか 自分さえ 分からず生きる この歳なりて」

  「ある村の 生き方理想 長男が 糞をひらねば 家は潰れる」

  「人生の 仕上げの歳に なりました いい生き方と 思えるように」

  「俺も歳 回顧の話 多くなり 未来語った 昔懐かし」

 

 

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shin-1さんの日記

○やがて車に乗れなくなったらどうしようか?

 昨日単車で郵便局へハガキを出しに行きました。途中隣のおじさんが町の中を歩いていました。「エッ、何処へ行きよるんじゃろう」と不思議に思い単車を止めて、「何処へ行きよるの」と話しかけると、「ちょっとそこまで買い物に」というのです。聞けばこのおじさんは82歳になったので危ないという家族の勧めもあって車に乗るのを今月から止めたそうです。車に乗るのを止めると病院や買い物は公共交通機関も列車以外この田舎にはないため、自分の足で歩かなければならないのです。

 おじさんの立ち話によると、先日も向こうの集落にある種物会社へ苗物を買いに行ったそうですが、あいにく水曜日で休みだったため、行って帰るのに半日もかかってしまったとこぼしていました。また「明日は松山の病院へ行かなければならないのに娘や息子は仕事で頼めず、記者で行かなければならず今から気が重い」と心情吐露です。若いころから車依存の暮らしに慣れていると、松山などはすぐそこの隣町という感じがしますが、車に乗れなくなると松山市は最早近くて遠い町になってしまうのです。

 このおじさんは信心深い人で某宗教に入信していて道場が高知にあるらしく年に何回かは信者さんを乗せてお参りに行っていました。家族はそのことも心配で、もし事故でもあると同乗者申し訳ないので「進ちゃん、あんたから親父に車に乗るのは止めるよう言ってくれないか」と、息子さんから相談を受けたことがあり、何気なくその話をおじさんに匂わせましたが、「安全運転に気を付けているから大丈夫だ」と首を横に振り続けていました。

 このおじさんには私がシーサイド公園の担当をしていた頃随分世話になりました。早朝の一日3時間の清掃をお願いしたのです。時給も安い汚れる作業を喜んで5年ばかりしてくれました。私は12年間シーサイド公園の清掃をやり3人の清掃作業員と関わりましたが、このおじさんを含めて3人とも生真面目な方ばかりで多くのことを学ばせてもらいました。

 今朝隣の辺りが急に賑やかなので外に出てみると3台も軽四トラックが止まっていました。顔見知りの水道工事屋さんが出入りして作業をしていました。聞けば風呂のボイラーを薪から灯油に変えるのだそうです。このおじさんはとにかくこまめで、これまで今時珍しい薪ボイラーで風呂を沸かしていたのです。


 人のことを言えたものではありません。わが家も5年前までは薪と灯油併用のボイラーで風呂を沸かしていたのですから・・・・。しかし今思うと隣のおじさんも含め私たちは何て環境に配慮した生き方をしていたのでしょう。子どもが成長するまでわが家では薪割りや風呂沸かしは子どもの仕事と位置づけ、存分に子どもの役割意識を身につけさせました。子どもが集まる度に薪割りの懐かしい話に花が咲くのです。

 隣のおじさんは車に乗らないだけで、まだ免許証の返納はしていないそうです。「返納したらもう運転免許証は取れないから、最後のあがきだ」と笑って話されましたが、元々免許証を持っていない自転車依存の親父と違う、どこか寂しい雰囲気が漂っていました。「これからはあんたの親父に見習って自転車の練習でもせにゃならん」というおじさんをしり目に、今朝も新車の電動自転車に乗ってさっそうと7キロ向こうの診療所へ向かう親父の元気な姿を見ました。親父91歳、隣のおじさん82歳、私64歳の初夏の朝でした。


  「間もなくに 車乗れない 日が来ると 隣おじさん 私に暗示」

  「車ない 暮らしなどなど 成り立たぬ 何時の間にやら 車に依存」

  「プリウスの 話題持ちきり 今頃は 普及言いつつ エコカー売れて」

  「自転車を こよなく愛す 親父さん 時代先取り 排ガス出さず」

 

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shin-1さんの日記

○風邪をひいてしまいました

 昨年の年末年始まで

 年に一回ぎっくり腰を患い整体に行く程度で

 風邪もひかず腹も疼かずとにかく元気だと思っていた私


 ところがひょんなことで昨年末に風邪を引き

 その風邪をこじらせて一週間、熱・タン・咳に悩まされ

 病の床に伏しました


 食べるもの飲むものも全て美味しくなく

 胆のう摘出手術で13キロ減った体は

 一週間で2キロも減って痩せ過ぎラインへ突入

 風邪という病名で始めて病院で一番嫌いな注射をされ

 その歳その顔で注射が嫌いなんてと看護婦さんに笑われ

 もうこの病院には二度と来ないといいました


 正月返上の病の床で妻の温かい看病を受け

 今まで・今・今からのことが去来し

 自分の過ぎ越し人生とこれからの人生をじっくりしみじみ考えました


 回復後体が資本と少し体力作りの真似ごとをして

 もう大丈夫と冬を乗り切った矢先の数日前

 再び風邪をひいてしまいました

 泊まりに来た孫が鼻水ぞろぞろだったので

 抱っこする度に嫌がる孫の鼻水をティシュで拭き取り

 顔を近づけたのが原因かも・・・・


 妻の差し込む体温計は38度を表示したものの37度とウソを言い

 大したことはないと弱々しく胸を張りました

 それでも三度三度の食事の後に嫌いな薬を飲まされました


 ひょっとして私も世間を騒がせている豚インフルエンザじゃなかろうか

 頭をよぎる不安をあおるように厚生労働大臣がテレビに出て

 冷静に行動するよう言うのです

 役所で今夜予定されているボランティアの集会も

 少し微熱があるからと担当者に欠席の電話をかけ

 お休みと相なりました


 人間は、いや私は弱いなあとしみじみ思いました

 たかが風邪ごときでこの始末です

 妻は「風邪は万病のもと」と疲労蓄積を言いました


 喉の痛みと微熱も少し治まり

 パジャマの上にヤッケを羽織り

 こうして心情吐露の文字を書いてます


  「風邪ひいて 妻の優しさ 身に染みる 食事薬と うるさいくらい」

  「微熱でも 体がだるく 減退し 何をする気も 起こらず伏せり」

  「孫の風邪 貰って嬉し こともなく 昨日二歳の 誕生迎え」

  「健康の 有難きこと いちいちと 思う三日を 過ぎると忘れ」 

 

 

 

 

 

 

 

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shin-1さんの日記

○自由奔放に生きているあなたが羨ましいと言われました

 「あんたが羨ましい」とよく仲間内から言われます。その理由はリアイアしてからもやることがあることと、目標を持って自分の願望を叶えているかららしいのです。確かに私は4年前の市町合併を機に、どこにも属さない自由人を選びながら、大学へ教えに行ったり講演に行ったり、はたまたボランティア活動を行ったりと、年中忙しく振舞っているのです。ある部分はボランティア活動ながらある部分では何がしかのお礼をいただき、首を吊ることもなく年金生活を謳歌しているのですから、これ以上の幸せはないのです。

 私の友人に木村さんがいます。先日も西予市宇和町明間でお会いしましたが、彼は自営の自動車整備工場の経営が不況のあおりで思わしくなく、仕事が終われば夜の12時近くまでタクシーに乗って家計や小遣いのカバーしているというのです。私はこの話を聞いて世の中の不況の深刻さに少し衝撃を受けました。自動車整備工場経営とタクシー運転とは妙な取り合わせですが、活きるためには背に腹変えれないと笑って話していました。そういえば私の町の土木会社に勤める若い人も、仕事が終わるとガソリンスタンドでアルバイトをしていると聞きました。子育てや家のローンをやりくりするためにはがむしゃらに働かなければならないのだといいます。会社が厚生年金も払ってくれない零細な会社では将来の不安が何時も付きまとっているのです。

 そこへ行くと公務員はいいと、不況になるといの一番に公務員への風当たりが強くなってきます。確かに親方日の丸で、ノルマのない仕事はまるでぬるま湯のように見えるのでしょう。私も公務員生活を35年間も経験していますから、ぬるま湯といわれる部分は確かにあると思っていますが、公務員は公務員なりに苦しいことがあることも代弁してあげなければなりません。

 しかし私たちが働いていた役場のような穏やかな時代はもう終わりました。これからの公務員はどうあらねばならないのか、しっかりと肝を据えてかからなければ市民の付託にはこたえられないのです。

 仲間から羨望のまなざしを持って見られるのは、自分が描いた生活設計に基づいて夢を勝ち得ていることだそうです。私は50歳代で人間牧場構想なるものを多くの仲間に話していました。ある仲間は「そんなことして何になる」とか、「そんなこと考えても出来る訳がない」と冷ややかでした。第一安月給の地方公務員にそれだけの資金が確保できるかどうか、誰が考えても無理な話なのです。でも私は10年間綿密な計画に基づいてその実現のために動きました。そして資金を確保して人間牧場を実現したのです。血のにじむようななんて苦労はしませんでしたが、それでも強い意志力だけは持ち続けてきました。

 もし私が人間牧場構想を実現していなかったら、「若松進一は大風呂敷の嘘つき」になっていたでしょうが、少なくても私の仲間は「若松進一も中々やるわい」と思ってくれたに違いないのです。

 もし私が人間牧場構想を実現していなかったら、私の21年刻みの人生の4クルー目は味気ないものになっていたに違いないのです。

 もし私が人間牧場構想を実現していなかったら、仕事仕事と仕事に追いまくられ、壊れかけていた家族の絆をここまで修復することはできなかっただろうと思うのです。

 もし私が人間牧場構想を実現していなかったら、私の理想とする社会への貢献やふるさとへのお返しはこうも充実していなかったと思います。

 もし私が人間牧場構想を実現していなかったら、私の情報発信能力はここまで高めることができたかどうか、心もとないのです。

 私はこれからも常に目標を掲げて進化して行きたいと思っていますが、最近気力と体力のバランスが崩れそうになることがあります。昨日も孫に風邪を移され、熱が38度まで上がり、豚インフルエンザの猛威のニュースもあってつい弱気になったりします。まあもう若くはないのですから、せめて体力だけは鍛えねばと思うこのごろです。


  「不景気で 昼の仕事に アルバイト 加えて生きる 仲間は凄い」

  「羨まし 私の仲間 みんな言う 仕事があって 楽しく生きれ」

  「公務員 しっかりせねば 目の敵 市民の付託 しっかり応え」

  「熱が出て 少し弱気の 俺を見て 妻は優しく 体温計る」

  

 

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shin-1さんの日記

○兼業農家の長男は本当に幸せなのか?

 先日熊本大学教授徳野貞雄先生の本に書かれていることが話題になりました。「兼業農家の長男は幸せ」というのです。先祖から受け継いだ家と財産があって、お米や野菜など食べるものにも事欠かない姿は確かに幸せそうに見えるのです。しかし現実はそうでもなく、日曜百姓という重労働が重くのしかかり、不自由な暮らしを強いられているようです。

 市役所に勤めるKさんは農家の長男として生まれました。昔のことゆえ均分相続とはいいながらお父さんがなくなったとき、農地のほとんどを兄弟が相続放棄して長男に譲ったのです。以来Kさんはミカン畑と田んぼの世話がついて回り、週休二日となった最近では年老いたお母さんと奥さんのやっている農業を手伝う形で、殆ど休みのない暮らしをしているのです。

 4月下旬から5月初旬までは田起こし、草刈り、水引き、田植えなど年休をためてこの時期に集中してお休みをいただきながら、先日無事一連の田植えを終えたようです。私と出会ったのは月曜日でした。どこか疲れているような気の抜けた感じがしましたが、聞けば田植えの重労働で体の節々が痛くて、「今日は仕事にならない」とこぼしていました。

 田植えの終わった日本の農村はカエルの鳴き声が聞こえて長閑に見えますが、こうした目に見えない部分の苦労を隠して保たれているのです。Kさんがいうのには、3反の田んぼを守るのに田植機や稲刈り機などの機械を購入したり、圃場整備でこの20年間相当のお金をつぎ込んできたそうです。お米が60キロ1万2千円として24俵、28万8千円の素収入から苗代、農薬代、肥料代、機械代などを差し引けば完全に赤字だそうです。相続放棄してくれた兄弟姉妹にお米も送らなければならないし、「まあ自分が作ったお米が食べれるくらいなものでしょう」と力なく笑っていました。

 農家の朝は早いです。今は5時過ぎに明るくなるので、お母さんは6時になると畑へ出るそうです。Kさん夫婦は勤めていることや子どもの世話もあって6時半が起床だそうで、Kさん夫婦とお母さんの時間差が嫁と姑の人間関係にも響いて、中に入った長男の舵の取り方も大変な気配りを強いられているとこぼしていました。

 田んぼは自分が嫌だったら止めればいいという単純なものではありません。集落内の隣近所が群れなければ成立しないのです。いいかえれば止めたくても止めれないのです。年老いた人が増えて耕作放棄地が目立つようになってきましたが、水の管理や害虫駆除、役割分担など、遺された人への荷重は年々増えているのです。

 土日に農作業をして月曜日には出勤するも骨休めといった人を田舎が故に沢山見てきました。その都度色々な厳しい言葉を浴びせられて農家の長男は肩身の狭い思いをしているのですが、Kさんの話を聞いてすっかり同情してしまいました。

 私の家は半農半漁といいながら漁家だったためそんなに重労働を伴うほどではありませんでしたが、それでも最盛期にはみかんをかなり作っていて、同じような心労があったことを記憶しているのです。

 「兼業農家の長男は幸せ」という言葉は、こと双海町のような田舎には当てはまらず、むしろ「兼業農家の長男は不幸」と言わざるを得ないのです。


  「兼業の 農家跡取り 幸せと 先生言うが そんなことない」

  「財産を 貰ったものの 不自由な 暮らし毎日 ついて回って」

  「日本の 農業暗い 一面を 持って守られ 故に悲しき」

  「カエル鳴き 長閑農村 見えるけど 溜まった水は 汗と涙か」 

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shin-1さんの日記

○孫とじいちゃんのデコボコサイクリング道中

 雨の前触れでしょうか、わが町では夜半から南寄りの生暖かい突風が吹いて、外へ出るのが億劫なほどでした。それでも昨晩からわが家に泊まりに来ている孫たち二人は元気者で、外へ連れ出すようせがむのです。まもなく2歳になる下の方は言葉も随分覚えて、片言の日本語を喋り続けているのです。昨日誕生日のプレゼントに買ってもらった、アンパンマンのキャラクターが印刷されているボールを部屋の中で一生懸命蹴って遊んでいます。「シュート」や「ゴール」など、兄が自宅で喋る言葉を習って飽きもせずといった感じです。

 一方小学1年生になって初めてやってきた孫朋樹は、随分おせらしくなって目を見張るような成長ぶりです。今朝は大風が吹いているにもかかわらず孫と私の相談ができてサイクリングに出かけることになりました。まだ自転車の運転はさほど上手くはないのですが、自信をつけさせるために出かけることにしました。目的地は自宅から4キロ近くある翠小学校近くの観光イチゴ園なのです。私は妻のママチャリ自転車、朋樹は隣の親類から貰った子ども用自転車です。私の家から県道に出ると翠小学校まではダラダラ坂で、加えて南の風は向かい風で容赦なく吹きつけ、自転車が中々前に進みませんでした。加えて近所の畑では田植えの準備が始まったり、上灘中学校では町内ソフトボール大会が開かれていて、車道も歩道も車が無造作に駐車されていて走りにくいことこの上ありません。

若松進一ブログ

 それでも「もう無理」と弱音を吐く孫を激励して、ついに大畑さんの観光イチゴ園に到着しました。毎年何回か行く観光イチゴ園なので孫朋樹の顔も覚えてくれていて、大負けサービスをしてもらいました。二人はイチゴのハウスに入り大畑さんの言われた品種の列に入り、思いきりイチゴを摘んで食べました。糖分と酸味のバランスも抜群で、シーズン終わりとは思えないほどの美味しさに舌鼓を打ちました。食欲の落ちている私など、小学一年生の朋樹には遠く及ばず、それでも完熟した真っ赤なイチゴを10個くらいは食べたようです。家で待っている孫尚樹のために一パック買って帰ることにして摘みました。

 お腹は太ったし、さあいよいよ出発です。来る時のだらだら登り坂も向かい風も、帰りは下り坂と追い風で、ブレーキをかけなければスピードが出過ぎて危なほどの楽ちんでした。風は相変わらず吹いていましたが、帰る頃には雨がぽつぽつ降り出し、家路を急ぎました。かくして孫とじいちゃんのサイクリングは無事終わり、孫は往復8キロの珍道中にすっかり自信を深め、「今度は自転車で釣りを楽しもうと、相談がまとまりました。


 それにしても孫の成長は頼もしい限りです。会うた度に成長していて、これまでの暮らしに「自転車の運転ができる」ようになったことで、随分活動の幅が広がってきました。私が衰えないうちに二人でしまなみ海道を今治から尾道まで渡りたいというのも夢です。孫にその話をすると孫はその気になっていて、「これから自転車をできるだけ練習して上手くなりたい」と話をしてくれました。

 一生懸命自転車をこいだせいか僅か往復8キロだのに、なれない自転車で少し足が這っているのを覚えました。こんなことでは孫朋樹と60キロといわれるしまなみ海道を渡りきることはできないと、弱った体力の回復を誓いました。

 自転車は化石燃料であるガソリンを消費しません。私の暮らしはこれまで、どちらかというと庭先から目的地まで何の疑いもなく車に依存して暮らしてきました。自転車など考えることすらなかったのです。僅か1キロ弱の役場に30年近くも余程のことがない限り車で通勤していたのです。これまでの暮らしを改めるにはやはり自転車を主な乗り物にして生きてる親父を見習わなければなりません。遅かれ早かれ車の運転免許を返納する時もやってくるでしょう。少しお金を貯めて人生最後の乗り物として自転車でも購入したいと思った日曜日の一日でした。


  「向かい風 背中丸めて 自転車を 漕いで帰りは 追い風に」

  「自転車に 乗りて少々 ふくらはぎ 張って年齢 自覚症状」

  「爺と孫 二人仲良く 連ね行く 長閑な初夏の 畑中の道」

  「老いて爺 従うように ついて行く サイクリングの 孫の自転車」 

 

 

 

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shin-1さんの日記

○メダカの輿入れ

 わが家では何年か前まで、親父が庭の池で大きな鯉を飼っていました。人に自慢してもいいくらい立派な鯉で、鯉を飼うため池には太い専用の浄化槽装置まで付けて万全の状態だったのです。鯉を飼うと鯉仲間というのが出来て、養鯉業者さんや熱心なマニアが次々わが家に訪れそれは賑やかな自慢話や鯉談義に花を咲かせていたものです。

 ところが何が原因か分かりませんが突然鯉が死に始め、ついにわが家で40年近くも飼っていた自慢の鯉が死んでしまったのです。鯉をわが子のように大切に育てていた親父の悲しみや落ち込みは相当なものでした。結局池は潰すことになりましたが、池を利用して地下室を作る妙案を思い付き、その上に東屋風の建物を自分で造り作業小屋として利用し鯉のことをすっかり忘れさせました。

 ところが最近になってまたその趣味が頭を持ち上げて、自宅の庭が広いことをいいことに、太くならない金魚のような魚に目をつけ、自分で池を掘り自分で上塗りをして小さな池を完成させました。私の長男と相談してそこに珍しい金魚を飼っていますが、今までのような大きくて豪快な鯉とは違い、飼育施設も簡単なようです。しかし相変わらず時々セメントを練って石をひっ付けてみたりして楽しんでいるようです。

 この池に異変が起こり始めました。せっかく育てた金魚を飛来してきた大きな水鳥が狙うようになりました。一匹二匹と取られるのを見て親父は網を張ったようですが時ならぬ水鳥に頭を悩ませました。

 また悪がきに成長しつつある2歳間近な孫二人が、よちよち歩きのくせに池の金魚が気になって、わが家へ来れば必ず「ジージ、ジージ」と近寄り、手を池に入れてジャブジャブ遊ぶのです。これも何とかしなければ危ないとばかり、今度はステンレス製の柵を作ってしまいました。

 そんなこんなで元漁師の親父は陸に上がったカッパになっても、相変わらず魚の匂いが消えないのです。実は私も若いころ7年間自営の漁業を生業にしていた時期があって漁船若吉丸の船長をやり海に出ていました。宇和島水産高校出身ですから当然かも知れませんが、やはり親父と同じく陸に上がったカッパなのです。

 昨日一年生になった孫朋樹が1ヶ月半ぶりにわが家へ泊りに来ました。迎えに行った帰りに、伊予市商店街の谷岡さん宅に立ち寄りました。商店街の空き店舗を利用したいっぷく亭にお話しに行った折谷岡和美さんと知り合い、その後集落勉強会に入って一緒に勉強するようになって深いご縁をいただいたのです。今では私の大切なメル友でお互いブログをお気に入りに登録して、メールを交換しているのです。


  

若松進一ブログ
若松進一ブログ
若松進一ブログ

 谷岡さんは自宅でメダカを飼っていて、そのメダカがブログで紹介され、メールでメダカを譲ってもらうことになったのです。「近いうちに伺います」と書き込んでいたのですが、時期を逸していました。昨日急に思いつき孫朋樹と二人で容器も持たず立ち寄ったのです。家の中庭にはメダカが水瓶に入れられ涼しそうに泳いでいました。また金魚の赤ちゃんも沢山卵を産んでいて、メダカと金魚を二つのビンに入れて持ち帰ったのです。用意しておいた玄関先の水瓶に早速井戸の水を汲み入れ、朋樹が写真撮影してくれました。私は昔宇宙メダカを飼った経験があるのでメダカの飼い方は一応分かっているつもりです。ビンから水瓶にメダカを移し水草を入れて作業を終えましたが、お輿入れしたメダカは夏に向って涼しさを演出してくれることでしょう。


  「立ち寄りし 友人宅で 譲り受け メダカ輿入れ 水瓶泳ぐ」

  「どのくらい 大きくなるのか? 孫が問う メダカ・クジラも 同じ魚だ」

  「メダカ飼う 話題が孫と じいちゃんを つなぐパイプに なってくれれば」

  「目が高い 書いてメダカと 読んでいた 昔懐かし 亡き人思う」

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