shin-1さんの日記

〇看護部長・教務主任協議会に招かれて

 今日は朝からソワソワしていると妻に冷やかされました。それもそのはず、最近は一昨日のいっぷく亭といい、昨日の奥東地区の女性会の人間牧場来訪といい、やたらと女性の集会が多いのです。ましてや今日は看護師さんの集まりに招かれたのですから、昨日は散発までして男前を上げた気持ちが分かったと、嫌味を言われました。少々いやみを言われようとやはり私も男ですから、苦虫を噛み潰したような男に会うよりは少々高くても年齢女性の方がいいのです。しかしつい最近は女性も強くなって、少し変な話をするとやれ「セクハラ」だのと言われそうなので、気にしながら発言するのが最近の男の身だしなみですから、多少は注意しているのです。

 今日は私が委員を務める愛媛海区漁業調整委員会の定例会があって、日程調整の結果私の予定とダブってしまったため、午前中だけ委員会に出席して、講演会に出させていただきました。会場となった愛媛看護研修センターはカーナビで入力すると県民文化会館の近くなのですが、もしその場所が違った場所だと困るので、えひめ地域政策研究センターに所用でで立ち寄ったついでに調べてもらい、水産会館へ出かけました。今日は漁業権の諮問事項が沢山あって、漁業権についてはかつて役場で水産を三年余り担当した経験があるので理解できるのですが、久しぶりの会合に多少の戸惑いを覚えました。それでも12時30分までの公聴会説明がスムースに行われたため、宇和海分の審議は午前中に終わり、途中で中座する心のわだかまりもなく、会場を出ることができました。

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 午後1時からの研修会での講演会場はカーナビが示した場所にありました。会場には顔見知りの方もいて少々気が引けましたし、2時間という比較的長い話なので、最初はゆったりとした口調で話すよう心がけたつもりでしたが、団残時間が押してきて、最後は早口の話となってしまいました。

 今日の会場はマイクの響きが抜群だし、参加した人の意識も高いのかもう割れんばかりの大爆笑の中で打てば響き、いい雰囲気の盛り上がりを見せて終わりました。

 私を呼んでいただいたきっかけは次男の通っていた看護学校の先生でした。ゆえに息子に迷惑をかけないようにしたいという思いもありましたが、結果的には良かったかどうか、少しだけ心配しています。これを後の祭りというのでしょうが、帰ってから今日の出来事や、先生に出会ったことなどを電話してやりました。

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 長い一日の最後は道後のホテルでの調整委員会の忘年会でした。今日は水産に関わる団体長も姿を見せられ、久しぶりに色々な人に巡り合いました。新参者の委員ですがそれなりのスタートができたと喜んでいます。

 今日も走るがごとく有意義に使って長い一日を終わりました。とても充実した一日でした。今日もかくてありなん。明日を思いわずらうです。いい一日に感謝しつつ夜の道を妻の待つわが家へと車を走らせました。

  「お父さん 今日はソワソワ 楽しそう 女房焼くほど 亭主モテもせず」

  「今日もまた 女性に会うか 楽しいな 俺も男だ プラトニックラブさ」

  「働きが 足りぬとばかり 張り切って オーバーワークで 走り続ける」

  「知り人が ここにもいたか 世は狭い 話す内容 少し意識し」

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〇太陽なお母さんに黄色信号

 このところ、寝つくほどの重症ではないにしても妻の体調が思わしくなく心配しています。多分風邪気味と一年の疲労蓄積が重なったのでしょうが、一昨日は肩がこったようなので病院で注射を打ってもらい随分楽になったといっていました。

 どこの家庭の女性もそうでしょうが、妻は夫の私が言うのも変な話ですがまるでロボットのようによく働きます。女・妻・嫁・母・姑・職業人・ボランティア人などなど、まるで千手観音のような働きぶりで私をはじめ家族のために働きづめに働くのです。妻は近所の歯医者さんにパートで勤めるようになってもうかれこれ20年になりますが、その職場の同僚だった女性が、娘さんの急逝によって急に辞めたため新しい方が採用されて一緒に働いているのですが、少し仕事が重すぎるような感じがしています。病院の休日は日曜日だけなので、土曜日の夕方から長女の家族や長男の家族が泊まりに来るとその世話までのしかかり、孫の来訪が楽しみとは言いながら姑の苦労も並大抵ではないようです。日曜日に家族が増えると妻の休みは家族のために塞がれ、結局妻は働きづめとなってしまうのです。そのことは娘も息子も承知していて、来るときは妻の体調を気遣って電話をして予約が入るのです。

 今年90歳になる親父の世話も少し気になるところです。親父は自分で何でもできるといいながら、同じ敷地内に住んでいるので、夕方4時過ぎには夕食の準備をしてやらなければなりません。夜間診療のある日妻は4時ころに一時帰宅し親父の夕食を作り運んでから再び病院へ引き返します。ゆえに昼間の休憩時間しか休めないのです。また長男の嫁であるがゆえに仏事も毎月21日のお大師様接待と称する赤飯づくりももう30年近くになりました。まあこうして述べてみると、救いは私が酒をやめたため迎えに行く役割がなくなったことや、酒飲みの友人が余り来なくなったためその世話が減ったことぐらいで、後は今も昔も妻の仕事量は減っていないのです。


 私より一歳下ですから妻ももう63歳になりました。本当ならリアイアしてもおかしくない年齢です。体力の衰えも少し感じるというようになりました。これまでは自分のことばかり考えていた私ですが、このところの妻の体調不調を機会に、妻の健康や仕事の量についても考えて、少しでも手助けができるようにしなければならないと思いました。二日前私は妻のためにお粥を炊きました。お粥を炊いたといっても、米をひとつかみハイザーから取り出して手鍋に入れ、米を洗って水を注ぎ火にかけただけのシンプルな料理です。炊き上がったお粥を茶碗によそって梅干しを乗せ、先日妻と二人で作った沢庵を樽から取り出して切り、食卓に乗せただけなのです。「まあ珍しい、雨でも降らなければいいが」と前置きし、「お父さんも優しいのね」と褒めてくれました。「バカ野郎、俺だってやるときにはやるのだ」と減らず口を返して夫婦で大笑いしてしまいました。

 妻の歯車が回らないとわが家は歯車が回りません。妻の体調不良が早く良くなるよう祈っています。


  「妻一人 不調訴え 家の中 暗くなるから 不思議なものだ」

  「俺の妻 油もささず 動くから 酷使したため 近頃ガタが」

  「俺の妻 まるでゴム紐 切れもせず 何時の間にやら 伸びたままとは」

  「お粥炊く 出来たぞ食べろ 枕元 梅と沢庵 添えて食べさす」 

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shin-1さんの日記

〇懐かしき人々
 ある日のことといっても10月23日の出来事でした。その日私は田処の友人宅へお魚をおすそ分けに出かけました。夜はやはり田処で講演会があるので二回往復しなければならないため、豊田川沿いの急な坂道を通る最短コースを往復する道を選んだのです。魚を無事届けて帰り際、元町会議員をしていた黒田昭さんの家の近くを通りました。私が中学生のころ昭さんの弟さんと親友でよく遊びに行った懐かしさもあって、時々その道を懐かしく思うのです。
 その日は秋祭の日なのに朝から小雨が降っていました。黒田さんの家の近くまで来ると黒田さんの奥さんが菜園畑で野菜の手入れをしていました。「まあ若松さん」「まあ黒田さん」と、車の窓ガラスをを開けて少しの間お話をしたのです。黒田さんたちが住んでいる奥東もご多分に漏れず高齢化や過疎化が進行し、限界集落のそしりを免れないほどになっていて、寂しい限りだと話をされました。「その後若松さんはお元気でご活躍されているようで何よりです」と話され、「何でも池久保にセカンドハウスを建てられたということを風の便りに聞きました。是非一度伺いたいものです」というのです。「いつでもどうぞ」といったら「それじゃあお言葉に甘えて、皆さんに相談してあなたの都合に合わせます
を風の便りに聞きました。是非一度伺いたいものです」というのです。「いつでもどうぞ」といったら「それじゃあお言葉に甘えて、皆さんに相談してあなたの都合に合わせますので、日時を決めてください。またお電話します」で分かれたのです。
 それから早速黒田の奥さんから電話が入り12月9日に人間牧場へ8人で来ることが決まったのです。そして今日その日を迎えました。私は正直な話予定表には書き込んでいたのですが、忙しさの余りに少し向こうだとばかり思っていたのに、妻はちゃんと覚えていて、また黒田さんから昨晩丁寧にお電話があったのです。今日私は7時40分に家を出ました。8時には人間牧場についてまず鍵を開けボイラーの電源を入れ、風呂を溜めました。熱過ぎずぬる過ぎず、丁度良い温度は難しいのですが、8分目まで溜まったところで止め蓋をして保温しました。それからは暖簾を出したり、水平線の家の掃除をしたり、またストーブに薪を放り込み火を入れたり忙しく振舞いました。皆さんとの約束は9時半でしたが、田舎の人は時間が早いので9時15分にはもうにぎやかな話し声が聞こえていました。中には脛が悪く長道を歩くのは辛いようでしたが、リハビリのつもりで歩いたと陽気に8人のおばちゃんがやってきました。
 早速8人全員が靴下を脱ぎズボンをまくって足湯です。少々小太りの人もいましたが、8人全員が座ることが出来てホッとしました。それでも風呂に足を突っ込み過ぎてズボンを少し濡らした人もいましたが、全て笑って水に流しました。それからは四方山話に花を咲かせました。
 足湯から上がった人たちは再び水平線の家に上がってリクエストにお応えして私の話を1時間余り聞かれました。有難いことに8人全員が高座本をワンコインで購入してくれました。
 奥東といえば私の出世作となったNHK明るい農村「村の若先生」というテレビ番組に、小網とともに紹介された集落です。あの頃若かった皆さんも、もちろん私もいい年令になりましたが、あの番組がなかった夕日との出会いもなかっただろうと思うと、懐かしい人たちなのです。私はおばちゃんたちに人間牧場の梅林で収穫した梅で作った梅ジュースを飲んでいただきました。みんな大層喜び、束の間の時間を楽しみ12時近くになったので、再会を約束してお別れしました。
 私にとってもいい一日でした。自分を振り返るような時間的な暇は正直なところありませんが、それでもおばちゃんたちは私の記憶や人間性を20数年間引き戻してくれたのです。人間は足元を忘れてはならないと肝に銘じた一日でした
  「懐かしき 人々今は おばちゃんに それもそのはず 俺もおじさん」
  「足湯にて 足を突っ込み ズボン濡れ まるでおしっこ いいのいいのよ」
  「足痛く 座れませんと 大根の ような大足 つき出し座る」
  「ワンコイン 高座の本が また売れた これもお助け 割り切りました」
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〇ペットボトルのお茶は不味い
 最近会議に参加すると決まったように机の上にお茶のペットボトルが置かれています。これまでは主催者がお茶を沸かし、夏は冷えた麦茶がグラスで、冬は温かい番茶が陶器の湯呑で出てきたものですが、いつの間にかお茶や水は買うものという風潮が定着してしまいました。こんな風潮誰が考えたの?とよくよく考えてみると、やはりこの仕業には行政の愚か者が一枚かんでいるようです。行政は会議を開くことが大好きで、何でもかんでも会議を開き、そのことが住民参加や参画だと勘違いをしているのです。しかもこの会議の殆どは行政の言い訳ですから、成果があろうが無かろうがどっちでもいいことなのです。したがってお茶を沸かしたりお茶を出す手間暇など金で片付ければそれでいいのです。ペットボトルに入れたお茶だと片付けもゴミ置き場に出せばすれで済むのですから、机の上にお茶がこぼれる心配もなく、みんなが帰った後は電気を消す程度の終いで、これほど手間のかからない仕事はないのです。
 先日環境を考える集会が持たれました。ある人が質問に立ち、「机の上に置かれているペットボトルのお茶」についてうん蓄を述べ始めたのです。「環境環境と二口目には言うし、エコとさえいえばこうして人が集まるが、環境を考える会議にペットボトルを机の上に無造作に置く主催者の考えの甘さが環境を悪くしているのではないか。お茶ぐらいは自分が飲みたければ自宅で作って持ち歩くくらいの実践が欲しい」といいました。参加者もはたと気がついたのか、賛成の拍手が起こりました。会議を主催した行政は「配慮が足らなくてすみません」と弁明しましたが、その弁明はその場限りで相変わらず次の会議もペットボトルは配られていました。
 お茶や水が会議で配られるようになったのはまだ10年そこそこです。以前は確かに主催者の女性がお茶のサービスをしていました。ところが「女性がお茶汲みさせるとはけしからん。女性はお茶汲みではない」と男女同権の権利主張が社会の風潮となり、一気にペットボトルへと加速したのです。確かにお茶を汲むことは女性だけの仕事ではありません。私もそのことはわきまえて、職場ではお茶は自分で入れることを心がけてきました。最近は男性がお茶を汲んでくれる所も随分増えてきたようです。

 ペットボトルに入れられたお茶の大半は飲め切れない量なので最後は勿体ないと思いつつ捨てます。わが家のように若者がいない家ではペットボトルに入れたお茶やジュースは殆ど買わないのに、私が会議から持って帰るペットボトルが増えて、毎月第三金曜日のペットボトル回収の日には指定された場所へ少ないながら持って行くほどの量になっているのですから驚きです。
 ペットボトルに入れられたお茶を販売する自動販売機は、自動販売機王国といわれるように全国いたるところに設置され、中には車道や歩道にまではみ出して、交通の妨げになっているところもあるようです。どうやらこうしたペットボトルに入ったお茶が会議に出るようになった背景には商魂たくましい人たちの作戦があったようですが、日本全国にここまで普及すると止めようがないのが現状のようです。
 昨日いっぷく亭という商店街の空き店舗を利用した集会所にお邪魔しましたが、湯のみで出していただいた心温まるお茶の一杯にどれほど癒されどれほど一服した気分になったことでしょう。もうそろそろペットボトルのお茶が無駄であることに気づいてもいい頃ではないでしょうか。あのお茶は不味いと思います。

 
 「環境を 言いつつ机上 無造作に ペットボトルの お茶が出てくる」
  「あのお茶は 人の温もり 感じない 機械が作り 機械が配る」
  「勿体ない そんな時代に 育つ俺 残したお茶に 心が痛む」
  「お茶を汲む 女の仕事 ではないと 言いつつ女 やはり嬉しい」

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shin-1さんの日記

〇人間は何時間寝るのが適当か
 今朝私の親父の隠居へ出かけました。90歳になる親父は初冬の寒さで活動が制限されているため、最近少し元気がないようですが、それでも昨日は夏から秋までわが家の食卓を賑わせていたピーマンとシシトウの茎を引き抜き、後を綺麗に整地していつでも何でも植えれるように耕してくれていました。冬場の仕事として部屋の中で夢中になってできる何かを探してやりたいと思っています。
 その親父が今朝は「昨夜は余り眠られなかった」とこぼすのです。親父に「昨晩は何時に寝たのか」聞いてみると、「午後7時に寝た」というのです。普通なら大笑いなほど寝ているのですから、朝早く目が覚めるのは当然なことなのです。「じいちゃん、そんなに早くから寝るから朝早く目が覚めるのよ」というと、「それでも夜は何にもすることがない」とまた減らず口をたたくのです。「まあ寝れなくて死んだ人ははいないから」と小声で言って隠居を後にしました。
 私の場合は夜12時寝ます。朝は4時に起床します。ですから私の睡眠時間は一日4時間なのです。同じ屋根の下に住んでいる妻は寝るのは11時ころです。起きるのは6時ころです。つまり妻は毎日7時間寝ているので毎日私より3時間余分に寝ています。ということは一年で私より1095時間も睡眠時間が多いのです。妻いわく「私は働いているのでこれぐらい寝ないと体が持たない」と・・・。じゃあ「私働いていないのか」と言ってやりたい心境です。
 人間の暮らしは3分の1論が最も多いようです。8時間寝て、8時間働いて、8時間が自由時間だそうで、そのことは学校でも教わりました。でも私の睡眠が4時間で少ないのなら毎日4時間も府やんさなければなりません。妻がいつも私に言っているように、「若い時に寝てない、つまり睡眠時間が少ない人は歳をとると寝たっきりになって帳尻が合うのだ」そうです。じゃあ近所の寝たきりのおばあさんは若いころから余り寝なかったかそこの息子さんに聞いてみると、そんなことはなかったと述懐しますから、これも一概には言えないことのようです。

 今日いっぷく亭でその話をした後、皆さんに手を挙げてもらったら、7時間睡眠の方が殆どでした。「あなたたちは毎日7時間も寝たら目が腐るぞな」といって、大笑いをしました。
 睡眠をたっぷりとれることは精神的に安定しているからだとよく言われます。それもそのはず、何か悩みがあったらそのことが気になってなかなか眠れないものなおです。妻など友人と一泊泊りの旅行に行く前日の夜などは興奮して眠れないのかいつまでも起きていて、肝心の出発間近や旅行先で、酔い止め薬の効果も手伝って寝ながら旅を続けているよなもので、帰ってからも友人と夜遅くまで他愛のない話に花が咲いて夜更かし、結局は寝不足のままで帰ってきて、「アー疲れた」とあらわもない姿でくつろぎ「やっぱり家が、やっぱりあなたの横が一番だわ」とすり寄って?くるのです。
 人間は自分に合った睡眠時間をつかむことが大事です。私の場合たとえ短い睡眠時間であっても、寝つきは早く、床に入って5分もすれば夢ごこちなのです。また旅先など関係なくどこででも寝れるのも嬉しいことです。夜は朝のため、一日のためにある」とは若松進一の言葉です。一年で一番夜が長い時期です。自分の生活のリズムに合わせてたっぷりと睡眠をとりましょう。

  「睡眠は どれ程とれば いいのかな 私の場合 たった四時間」
  「妻などは 俺より先に 寝るくせに 起きるの遅い 随分違うな」
  「殆どの 人が毎日八時間、つまり人生 三つ一程度 寝てる計算」
  「寝不足は 寝たきりになる もっと寝て いつも言われて 早く四十年余」 
 

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shin-1さんの日記

〇今日で三回目のいっぷく亭
 今日は朝早く起きてブログ画面を立ち上げましたが、残念ながら午前2時から午前7時まで、メンテナンスの時間でブログの文章を書くことができず、右往左往してしまいました。仕方がないので午前7時まで本を読んだり頼まれているエッセーなど別の原稿を書いたりして過ごしましたが、やはり毎日のリズムが狂うとどこか忘れ物をしたような雰囲気になって、今日は外が雨のせいもあるのでしょうが、もやもやした雰囲気でした。
 今日は伊予市商店街にあるいっぷく亭にお邪魔して3回目の雑談会をやりました。雑談会といっても私が話すだけの卓話形式講演会なのです。思いつきで話す私ですから、話したことをメモをしておかないといけないので、その日の集会が終わったら次の話の内容を考え項目だけ書いているのですが、今日のように質問が出ると、結局は少しダブった話になるし、また毎回初めての人もいるので適当に喋っているのです。
 それにしても、集まる人の数が一回目より二回目、二回目より三回目と次第に人数が多くなるのはどういう意味を持っているのでしょう。多分運営委員長の谷岡さんはじめ運営委員の皆さんのお声かけが人数を増やしているのでしょう。まあ手前味噌な考えをすれば、本題である私の話がもし眠たいようなつまらない話だったら次は何のですから、私の話もある程度認知していただいたと勝手に思っておきます。
 今日はわざわざ宇和島からもお客さんが見えられていました。私よりはるかに格好いい紳士と奥さんが正面に陣取り熱心に聴いていただきました。勿論もうすっかり顔馴染みとなったいっぷく亭の方々も熱心で、穴があったら入りたいようなかぶりつきの席配置で聴いていただきました。
 私にとって今回のいっぷく亭での話は、今までにないような集会でした。同じ人を相手にする気安さもあるものの、同じ人に話す難しさも体験しました。わずか一週間おきにはなす私も大変ですが、聞く方も一週間前の話は少々空耳でも完全に覚えているのです。これは勉強しなければいけないと思いました。私の話が薄っぺらいと見下されてどうしようもなく行き詰ってしまうに違いないのです。
 今日は講演会の後、会場裏の和室で手作りの昼食をいただきました。巻寿司、稲荷寿司、小鯛の三倍酢、エビの天ぷらでしたが、兆度お昼時だったため美味しく頂きました。まるで親類のような気持ですっかり御馳走になりすっこりリラックスして帰りました。

  
  「いっぷく亭 いっぷくつもりが にふくする 寿司を食べつつ 四方山話」
  「同じ人 相手に三回 話しする 同じ話も 出来ぬばかりに」
  「紳士風 見たこともない 男前 人に生まれて 大きな違い」
  「六十年 生きてて会わぬ 人に会う 今年も新顔 わが懐に」  
  

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shin-1さんの日記

○もの書きは難しい・されど容易く

私はもの書きではありませんが、ものを書くことが好きでこうして毎日ブログを書いたり雑誌や機関誌の隅にエッセーを頼まれて書く機会が増えたため、もの書きではないかと見まがうほどに手当たり次第書いているのです。でもそんな私でも時々スランプになって何を書いたらよいのか分からなくなって筆が全く進まないことがあるようです。私のつい最近の持論ですが、書くというのも一種の習慣で、毎日何かにつけて書いていると、何かにつけて各素材を見つけようとする気持ちが芽生えるし、書くことの速さは本当に早くなるのです。ラジオを聴いても雑誌や新聞を読んでもそれらの殆どは「書く」というファインダーを通して感じるようになるのですから不思議なものです。

 先日ある団体から原稿用紙40枚ほどの原稿の依頼を受けました。普通原稿用紙40枚などと聞けば、聞いただけでおそれおののくものなのですが、今の自分には毎日ブログを書いているおかげでしょうか、何とかなるだろうと、さして苦にもせず引き受けてしまいました。原稿を依頼される時気になるのは原稿の締め切り日です。日程が積んでいると原稿を書く暇が取れないからです。依頼された原稿の締め切りは一ヶ月後でした。私の場合」思考は危機の産物」ではなく「思考は余裕の産物」だと思っているので、余程のことがない限り締切日間際まで引き延ばさないようにしています。原稿を引き受けることになったその時は、たまたま2日間ほど余裕があったものですから、想いを巡らせて驚くなかれ何と40枚の原稿を二日間で書き上げてしまいました。

 早速2日後に少し余分目で45枚もの原稿をメールに添付してデーターで送ってしまったのです。驚いたのは原稿を依頼した相手です。余りの速さに戸惑いながらお礼のメールが入ってきました。「若松さん、原稿を送っていただき、余りの速さに正直驚いてしまいました。贈られた原稿は手直しするところも殆どなく、このまま使わせていただきます。それにしても早書きですね」とお褒めの言葉をいただきました。

 原稿は雑誌の場合出版約1ヶ月前が原稿の締切りです。一校、二校と校正をしたり写真や図表データーを処理するためにはどうしてもそのくらいの時間は必要なのでしょう。早過ぎた原稿を書いてから約2カ月後の先日、書いた原稿のことすらすっかり忘れていた先日、刷り上がったばかりのインクの匂いのする雑誌が手元に届けられました。拙文のそしりは免れませんがまあ何とか責任を果たした安堵感で読み返しました。

 喋ることも難しいが書くとも奥が深いとしみじみ感じながら日々精進しているこのごろです。仕事でもないもの書きを、遊び半分でこれからも買い続けたいと思っています。


  「もの書きで ないのに何故か 書きたがる 書けば頭の 整理ができる」

  「四十枚 原稿二日で 書きあげる 自分びっくり 相手もびっくり」

  「二ヶ月後 すっかり忘れた 原稿が 活字になって 手元へ届く」

  「上手くなる コツはとにかく 書くことだ さすれば少し 腕筆進む」

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○「間」とは何ぞや

 間という漢字は「人間」「時間」「空間」などの言葉に使われるほか、話の中にも「間」をとるなどとよく使われます。私のように退職後大学や講演会、落伍など、話をすることを日課にするようになると、これまで何気なく話していた話の内容に「間」なるものがあるのかどうか気になり始めました。もう半年も前にある県外の研修会で講演をした時のビデオテープがDVDが収録編集されて送られてきました。最近は殆どの研修会でビデオカメラが設置されて写されます。本当は著作権や肖像権というのがあって、講演をする人に前もって了解を得るのが一般的な常識ですが、田舎の講演会などはそんなもの振りかざすと、「あの講師は横着だ」と言われそうなので、これまで私は一度も文句をつけたことはないのです。プライドの高い講師によるといくら撮影を事前に申し込んでもOKを出さない人だっているのです。

 先日送られてきたDVDは実によく出来ていましたが、そのDVDをこともあろうか一枚千円で販売したとのこと、何とそれが100枚も売れたと喜びの声が手紙には添えられていました。しかしここまで手が込むと事前に講師の了解を事前に得ることは常識だと思うのですが、そんな手続くをしなかったばかりか、有頂天になっている姿を垣間見た私は、チクリのメールを送りました。すると相手は大慌て、「大変失礼なことをしました」と平謝りでした。まあ私のこんな顔と声ですから、DVDを買った人たちは今頃寅さんならぬ進ちゃんの映像や声を聞きながら笑い転げているに違いないのです。

 その送られてきたDVDをパソコンで再生しながら、自分の映像と音声を恥ずかしながら1時間半にわたってノーカットで聞いてしまいました。時計を見ながらおおよそどの時間帯にどんな話をしたのかメモをしながら、入念にチェックしました。特に間の取り方に気を付けましたが、長年の癖は直しようもないのですが、随分間の取り方が上手くなった印象を受けました。自分の話を聞くというのは顔をそむけたくなるし赤面してしまいました。

 時々聞く他の講師の先生のテープや落語家の口演DVDを見ますが、間の取り方についての話芸はまだまだ修業をしなければなりません。


 「間」とは何ぞや、わが家のわが書斎も私だけの空間ですが、空間の窓越しから見える庭の姿も空間から見える「間」であるような気がするのです。日本の家屋の間取りは襖と障子の文化といわれるように昔の民家などは襖と障子で仕切られているものの、常にトなりを意識した間取りになっていて、襖や障子を取り払えば小さな空間の集合体は大きな空間に生まれ変わるのです。したがって日本の民家で唯一プライバシーが保てるのは戸の閉まる厠と風呂くらいのようなものであると思うのです。現代の家はすでに洋風化されてドアを閉めれば採光さえも差し込まない、音すら聞こえない無空間になってしまうのです。作家谷崎潤一郎が書いた文章に厠を間としてとらえたものがあったような記憶があり、その暗くて狭い間から見える空間風景がいとも細やかに描写されているのです。これまで私は自分の空間の明るさに目を奪われ過ぎていました。自分が厠に入った時自分の暗闇のガラスの向こうに感じる映し出された風景や風の動きも間ではないかと思うのです。

 間とは相手や相対するものとの距離かも知れません。近過ぎても遠過ぎても間は存在しないのです。間とは左様にこちらの気配りで決まるものなおです。

  「送られし ビデオ見ながら 考える 間の取り方の 難しことを」

  「あるお寺 座して外見る 見事さよ 散り染め紅葉 さえも気配り」

  「暗闇の 厠から見る 外明かり 谷崎翁の 奥深き知る」

  「詫び寂も 間の取り方で 味わえる 心のゆとり さらに極めて」 


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shin-1さんの日記

○鳥取県佐治村への旅・その②

 旧佐治村には5つの自慢があります。一番金をかけ、一番期待が大きく、一番人が沢山やってくるのは星を目当ての人でしょう。年間2万人を超える人が、この山里の望遠鏡を通して宇宙空間に向かってメッセージを送り続けているのです。この日私は山口さんの案内で天文台にお邪魔しました。田中係長さんや職員の案内でさじアストロパークと名前の付いた天文台で興味深い話をたくさん聞きました。愛媛県旧岩城村からやってきて学芸員として働いている宮本さんにもお会いしましたが、夕日=太陽を地域資源にまちづくりをしている私としては大いに興味のある場所でした。まるで未来の地球村のような雰囲気はとても素敵でした。

若松進一ブログ
若松進一ブログ(職員さんが作ったというアポロが月面に行った時の記念すべき足跡は興味をそそりました)

 2番目の自慢は特産品の梨です。ご承知のとおり鳥取は20世紀梨の産地ですが、天文台近くの丘陵地にはたくさんの梨畑がありました。春の梨の花の頃は見事だろうと思ったものです。今は20世紀梨に代わって新しい品種も導入されているようですが、いかんせん農家の高齢化と過疎化によってご多分に漏れず担い手不足は深刻なようです。

 それでもみなさんは頑張って梨シャーベットや梨飴などを作って売りだしていて、私もいただき帰りの列車の中でなめてみましたが中々の味でした。


 3番目の自慢は佐治谷ばなしという村に伝わる昔話です。私的にはこの物語は村おこしには欠かせないものだと思っています。落伍をしていることもあって、山口さんから頂いた佐治谷ばなしという民話集を帰るまでの列車の中で全部読んでしまいました。方言で書かれているため読むのに時間がかかりましたが結構楽しいもので、愛媛南予に残るトッxポ話とよく似た表現でした。村には佐治話の拠点となる大きなかやぶき屋根の民家が移築されていて、この家のいろり端でユーモアあふれる話を聞いたらどんなに楽しかろうと思いを巡らせました。この民話は、日本昔話で有名な人も1枚加わってCDにもなっているようです。

若松進一ブログ(どっしりとした家構えの佐治民話の館)

 さてさて、私の本題の目的はさじミラクルの会が主催する講演会です。私に与えられたテーマは「元気の出る話」です。与えられた時間は2時間、まるで早打ち鉄砲のように喋りまくりました。最初は私も観客も少し行儀よくしていましたが、そのうち私の方言に誘われてみんな大受けで笑い転げながら話を聞いてくれました。印象的だったのは、講演の最後にあるお年寄りが、「若松さんパワーをください」と歩み寄ってくれたことです。その手のぬくもりは今も忘れることのできないジーンと心を熱くした思い出です。寒い中集まっていただいた皆さんありがとう。またいつかどこかでお会いしましょう。

若松進一ブログ(講演が終わった団らんのひと時、いわば使用前でなく使用後です)

  「気に入って 思わず俺も ハーモニカ 台本にない サービス精神」

  「相当な 聞き耳持った 集まりに こちら思わず 熱入れ話す」

  「山里の 村の人口 少ないが 一人二馬力 四千馬力」

  「熱心に メモ取る人は どなたかと 尋ねてみれば 元の村長」 

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○鳥取市佐治町への旅・その①

「今日は粉雪舞い散る鳥取県へ旅に出ます」。こんな書き置きをブログに残して昨日は朝4時半に起き5時に自家用車で松山駅へ向かいました。冬至を間近に控えたこの頃は一年中で夜が一番長いため、毎日寝ているつもりなのですが、相変わらず私は夜12時に寝て朝4時に起きる就寝時間4時間型なので、こんなに朝が早くても普通の生活パターンなのです。

 松山駅に到着したのは5時40分過ぎでした。駅の前の駐車場に車を止め駅舎の切符売場に行きました。そして岡山経由で智頭までの往復切符を買いました。こうすれば駅前のキスケ駐車場の駐車料が24時間無料となるサービスを受けられるのです。切符を買って早速兆社場へ車を入れました。出てきた駐車券を再び切符売場の駅員さんに見せ認印と無料券といただき万全の準備で、少し早目に一番の特急列車しおかぜに乗り込みました。

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 暗闇の中を出発した特急は早朝の伊予路を走り、左手に瀬戸内、右手には昨日までの寒波で冠雪した石鎚山系を遠望しながら、本を読みふけっていると、あっという間に瀬戸大橋を渡りました。昨日までの大荒れの天気が全く嘘のように晴れ上がり、旅には絶好の日和となりました。朝が早かったり夜が遅かったりするような今回の旅は最初自家用車を使う予定でしたが、鳥取の福田京子女史から鳥取への峠道は雪があるかも知れないと忠告のメールが入っていたので、思い切って公共交通機関にしたのです。

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 岡山を出た特急スーパーいなばは途中の上郡でスイッチバックする日本でも珍しい路線であることを承知していたので、あらかじめ朝日の当たる方向に座っていたため、座席を回転させても強い日差しの難を逃れ、快適な列車の旅となりました。沿線は山の中だけあって放射冷却の影響でしょうか、まるで雪が降ったように一面白い霜が降りていて、田んぼの残り水はカチカチに凍っていました。

 今回の担当者である鳥取市職員山口さんの指示だと、智頭が一番近いので駅まで迎えに行くからと一報が入っていたので、指示通り10時30分に智頭駅に降り立ち山口さんの出迎えを受けました。途中通った智頭の家並も何年か前妻と二人で訪ねたことがあって、どこか懐かしい感じがしました。


 今回訪ねるのは今は鳥取市と合併している旧佐治村です。今は鳥取市佐治町となっていますが、人口2000人の長閑な山村は、星・梨・話・和紙・石と最後に「し」のつく「五し」を地域資源にして地域づくりをしている面白い町なのです。多分一度岡山県側から辰巳峠を越えてこの村を通った経験があるのですが、いつ頃だったか思い出せないのです。

 午後2時からの会合には間があるので、辰巳峠まで案内していただきました。前日からの厳しい寒さで峠付近には積雪が見られ、栃の木の原生林は見応えがありました。

若松進一ブログ

 すっかり葉を落とした山の木々が一層寒さをかんじさせまいた。途中山王谷キャンプ場を見学しましたが、春夏秋のシーズンは終わってひっそりとして冬の眠りについているようでした。どもどこか懐かしい雰囲気で、一辺でこの街が好きになりました。いつの日かまた訪ねてみたい町でした。

若松進一ブログ

  「栃の実の 何処か懐かし 餅を食う おふくろ今は 何処におわすか」

  「山奥は 静まり返って ひっそりと 白雪被り じっと春待つ」

  「音もなく 静か舞い降る 交ぢり雪 足元濡らし いつか消えゆく」

  「陰と陽  分け隔てたる 峠道 超えた昔の 記憶帰らず」 


 


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