shin-1さんの日記

○無医になった上灘地区

 双海町上灘地区で開業医として長年医療に携わってこられた梶原先生が急に亡くなり、病院は11月いっぱいで閉鎖となりました。10月7日に開かれた双海史談会では元気な姿を見せられ、戦争の思い出について熱っぽく語られていたので、今でも信じられない思いです。私は11月8日のブログに梶原先生の写真を載せて先生の紹介をしているますが、まさかこんなに早く姿を消すとは・・・・・。

 先生の息子さんは医者なので無医になっては大変と強烈なラブコールを送ったのですが、先生にも都合があって向こうの病院を辞めることができないとのことでした。

若松進一ブログ(二か月前は元気だった梶原忠弘先生)

 双海町は昔から下灘地区と上灘地区に分かれていて、下灘には診療所があります。私の親父は合い派が合うというのか、下灘の診療所の先生が気に入って、何かにつけて7キロも離れた下灘の診療所へ通うのです。それでも歳をとった人たちのように交通手段を持たない人にとっては、直ぐ傍にお医者さんがあるということだけで安心するものなのです。私は定期健診で県立中央病院へ二ヶ月に一度出かけていますが、それ以外は病院にはほとんど行きません。この顔で注射が嫌いというのも理由ですが、余り病気をしないのです。しかしこの2~3日の風邪の症状などは近くの病院であれば気軽に通院できるのです。

 私は今日妻の勧めもあって長浜の城戸岡という病院へ風邪の症状を診察してもらいに行きました。この病院の院長先生は妻の妹の旦那さんの甥になるらしく、妻も何かがあるたびに出かけているようです。今日年末の休みになったこともあってか病院は余り患者さんがいませんでした。したがって5分ほどの待ち時間で診察が始まりました。注射もせず、簡単な問診と聴診器診断で注射をすることもなく薬を処方されました。年末年始が休診のためお願いして一週間分をいただきしめて1250円を支払いました。もし近くに梶原先生のような人がいたらいいのにと思ったものです。

 最近は公立の病院が赤字運営を理由に病院を閉鎖するところが増えています。銚子市ではやむなく病院を閉鎖したことを公約違反だと住民が訴え、市長のリコール運動にまで発展しているようです。財政難の地方自治体にとって病院の運営は厄介なものです。幸い私の町は下灘診療所も施設借与の開業医です。したがって病院の

赤字などは全くないのです。これまでの行政サービスは機嫌取りや補助金漬けにして、住民の自立心をそいでいる部分も多分にあるようです。さりとて今まであった病院がなくなるとこれまた厄介なものです。松山市の郊外などに出かけてみると、病院が滅茶苦茶できていて、見える範囲に病院の看板とコンビニの看板が軒を連ねているのです。

  「無医地区に なったはてさて どうしよう 車に乗れない 人たち嘆く」

  「医者だって 潰れる時代 あちこちに 乱立気味の 看板目立つ」

  「医者だって 自分の寿命 分からない 人も一度は 死ぬのですから」

  「健康に 暮らしていると 分からない 健康の意味 初めて分かる」

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shin-1さんの日記

○長男が糞をひらねば家は潰れる

 昨日は風邪気味なので自室にこもって年賀状の作成をしました。机の上に置いている新旧2台のパソコンには、私の個人情報とでもいうべき友人の名簿がぎっしり入っているのですが、古いパソコンから新しいパソコンへ移し替える技術など私にはなく、息子にお願いしなければならないのです。息子はそんな私の悩みを察して、早々と名簿を映してくれたようですが、調べてみると約半分しか移し替えていないのです。

 息子に電話をしましたが、あいにく仕事が忙しいようで年末休暇になったら対応するといっただけで何の応答もないのです。年賀状が片付かないとどうも仕事が終わったような気がしないのです。結局年賀状は半分しかプリントできませんでした。

 昨晩は看護師をしている次男が夜勤明けで久しぶりに帰ってきました。早いもので日赤の看護師として務めるようになって1年9ヶ月が経ちました。最初は女性中心の職場に翻弄されながら、かなりきつい仕事のように傍目から見ても見えましたが、今では自信がついたのか明るい好青年に成長してきました。30歳を超えたのでそろそろ身を固めるよう願っていますが、当の本人はいたって平気で「まだまだ」と相手にもしてくれないのです。私たちが次男の歳にはもう子どもが4人もいて、しかも自宅を新築するという大事業までやっていたのですから、もっと真剣に考えろといってやりました。

 次男は昨日、買ったばかりの単車に乗って帰ってきました。何もこの寒空に単車になど乗らなくてもと思うのですが、今年一番の冷え込みの中を元気はつらつでした。昨晩は親子水入らずで3人で鍋を囲み楽しい話をしました。わが家は幸せなことに子どもは4人とも全て県内に住んでいます。これは私たち夫婦の方針なのですが、子どもは4人とも凡人に育てたため都会を目指すことはしませんでした。

 田舎は貧乏しながら勉強させて都会予備軍を作ることを良しとするような向都離村の教育を戦後60年余り続けてきました。故郷に錦を飾ることが何よりも出世だと勘違いしたのです。その結果歳老いた親は独居や寝たきりになって寂しい一生を終わるのです。そんな姿を随分見てきた結果の選択ですから私も子どもも満足しています。

 私の子どもは県内にいますから帰ろうと思えばすぐに帰れるし、兄弟のきずなもすこぶる良くって、これ以上の幸せはないのです。孫も週末にはわが家へ訪ねて来てくれるのです。

 目下のところ90歳になる親父の心配は長男をわが家に呼び寄せ一緒に住むことなのです。尾籠な話ですが親父の口癖は「長男が糞をひらねばその家は潰れる」です。親父も私も長男に生まれこの家に糞をひってきました。私の長男にそれを求めるのは酷かもしれませんが、できることならそうしたいと思っています。今日は長男が帰ってきます。

 

  「長男が 家に糞ひる 言い伝え お前も守れ 親父口癖」

  「年賀状 手助けなくば できないと 息子携帯 電話を入れる」

  「県内に 住むの理想と 言い続け 子ども分かって 県内に住む」

  「優秀な 子ほど都会へ 行きたがる 凡人ゆえに わが子県内」  

  

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