shin-1さんの日記

〇焼鳥が少々腹に堪えました

 私は菜食主義ではないのですが、数年前に胆のう摘出手術をしたため毎日の食事から油ものが極端に減りました。特に肉類は元々余り好きではなかったので、魚はよく食べますが肉類は殆ど食べません。ところが昨日は愛媛大学法文学部で講義を終え、同じ大学でも学部の違う農学部での打ち合わせ会に出席するため農学部キャンバスへ夕方立ち寄りました。

 学部長室では既に打ち合わせが始まっていて、関係者や先生方が難しい話をしていました。途中で入ったためチンプンカンプンでしたが、先日事前打ち合わせをしていたので、何となく分かったような顔をして座っていました。芳之内さんや森賀さん、森本さんなどかつての仲間も、今回のプロジェクトに参加するべく顔をそろえていて幾分安心しました。何よりも嬉しかったのは泉学部長さんの元気な姿に出会ったことです。やがて会合も終わり午後6時に閉会しました。

 この日は大学の前の焼鳥屋でちょいと一杯という算段が出来ていたらしく、誘われるままに店の暖簾をくぐりました。愛媛大学農学部といえば郊外です。夜は人通りもないような場所なのに、やはり大学があるコバンザメ商法とでもいうのでしょうか、こんな田舎に2~3軒の飲食店がありました。

 途中から総務課長さんや担当の女性職員も加わって賑やかな小宴会となりました。当然出されてくる料理は焼鳥です。肉といっても鳥ですがそれでもやき鳥は脂身が多く、私はもっぱら酢醤油のかかったキャベツをお替りして2皿も食べてしまいました。そういえば昨日は「忙し過ぎて昼御飯を食べなかった」ことを思い出し、急に腹が空いていることを思い出しました。そうすると不思議なもので次々出てくる熱々の焼鳥に手が出て5~6本を平らげました。それにして森賀さんたちの会話には圧倒されてしまいました。明くる日は朝から香川県高松市で開かれる会合に出席する予定があるので、早々にお暇して店を出て帰宅の途につきました。

 家に帰ると、妻が食事をせずに待っていてくれました。ご飯を食べていなかったので軽くお茶ずけ程度の夕食を食べたので満腹です。明くる日の準備をして風呂に入り12時ころ床につきましたが、焼鳥が腹につかえて寝付けない夜を過ごしました。やはり私の体はいつの間にか菜食になっていたようです。

 今日は列車で松山~高松間を往復するので、列車の中で寝不足分を補ってゆっくりのんびりしたいと思っていますが、高松での会合は約2時間、会合が終わると引き返し、今晩は先日開かれた全国地域づくり団体交流研修大会の地元反省会があるので遅くなるようです。

 行く機会、行く場所もよくあるものよと自分自身を納得させながら、今日も元気にこれから家を出るところです。


  「肉を食べ 腹の調子が 少し変 寝れない夜で 少し眠たい」

  「今日もまた 旅に出ますと 書きこんで 列車の旅を 居眠りしつつ」

  「酒飲みの 前に座って ウーロン茶 飲むほど変わる 人を観察」

  「これからは この道沿いが 懐かしく なるかも知れぬ 大学の前」


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shin-1さんの日記

〇学生はいい話が聞けました

 愛媛大学法文学部総合政策学科の非常勤講師を務めるようになって6年目を迎えていますが、一年が経つのは早いもので、今年も来週1回の講義と年明けの発表会で私の仕事も終わるのです。後は学生たちのレポートが送られてくるのを待って成績表を作成すればいいのですが、これがまた19人分をいちいち読まなければならないので大仕事なのです。

 昨日は部外講師を呼んで「まちづくり人の主張」というのをやりました。えひめ地域政策研究センターの清水研究員さんと谷本研究員さんに大学へ来てもらい卓話を聞くのです。僅か90分の短い講義時間を小刻みに割り振り、卓話は1人25分にしました。谷本さんは以前に勤めていた公民館の体験をもとに公の在り方を分かり易く話してくれました。清水さんは清水学とでもいうべき人間の生き方について、持論を未来へのメッセージも含めて少し深く話してくれました。お二人とも研究センターで長年研究に携わっているだけあって、まちづくりを相当掘り下げて勉強していて、学生もいい話を聞けて参考になったのか、その後私がコーディネーターになって40分間質問のやり取りをしましたが、まあまあいい質問が飛び交いました。学内の先生から様々な講義を毎日のように詰め込み形式で受けている学生にとって、学外のしかも現場の人から生の話を聞く機会はそんなに多くはありません。私の話もある意味では学内になっているのですから、いい企画だったと思ったことでしょう。

若松進一ブログ

 二人はこの日の講義のために沢山の資料を用意してくれました。電子情報や紙ごみの中に暮らしている学生たちにとって、これらの資料の持つ意味や重みを全て感じることはできないと思いますが、谷本さんが手に入れてくれた宇和島の「仕事人情報誌ViewU」も、清水さんが自作した「風は土をつくり、風土は人をつくる」という資料も凄い価値があるのです。これらの資料をただ漫然と捨て去るか熟読して自分のものに出来るかがやはり学びの深さになって、潜在知識として蓄積していくのでしょう。


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 清水さんの資料の中に「豊かさと幸福を問い直す」というスティーグ・クレッソンの言葉が載っていたので紹介しておきます。

 第二次大戦後、わが国は豊かな国となり、人々が「繁栄」と呼ぶ状況を生みだした。

 私たちは、余りに簡単に幸福になり過ぎた。

 人々は、それは公正であるか否かを議論した。

 私たちは戦争を回避し、工場を建設し、そこへ農民の子どもが働きに行った。

 農業社会が解体され、私たちの国は新しい国になったが、人々が本当にわが家にいるといった感覚を持てたか 

 どうかは確かではない。

 1950年から60年に至る10年間に、毎日300戸の小農家が閉業するというスピードで、わが国の農業が終焉

 した。

 人々は大きな単位、大きなコミューン(市町村)を信じ、都市には遠い将来にわたって労働が存在すると信じた。

 私たちは当然のことながら物質的に豊かになったが、簡単な言葉でいえば、平安というべきものを使い果たし

 た。

 私たちは新しい国で、お互い他人同士となった。

 小農民が消滅するとともに、小職人や小商店が、そして、病気のおばさんが横になっていたあの小部屋、あの    

 小さな学校、あの子豚たち、あの小さなダンスホールなども姿を消した。

 そういう小さな世界はもう残っていない。

 小さいものは何であれ、儲けが少ないというのが理由だった。

 なぜなら、幸福への呪文は〈儲かる社会〉だったからだ。

                                    (Stig Claesson)


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  「まちづくり 人の話は 味がある 学生たちは 心開いて」

  「巻末に したため書きし メッセージ 小さな社会 風前ともしび」

  「歯車が 狂った社会 恐ろしい 儲かる社会 今はガタガタ」

  「幸せか? 聞かれて首を 横に振る 本当はみんな 幸せでない」

 

 

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shin-1さんの日記

〇夫婦二人だけの静かな生活

 専門学校に家から通っていた次男が看護師になって家を出てから2年近くが経ちました。それ以来隠居に暮らす親父と3人となったわが家です。子どもが4人いたり、祖母や母が存命中は8人の大家族だったのにいつの間にか子どもたちも巣立って、巣の中は親鳥だけとなりました。静かといえば静かなのですが、夫婦だけの会話はどこか単調で、少し言い争いでもしようものならテレビを介したり食事を介したりくらいしか会話が続かないのです。

日ごろは外で講演や会議が沢山あって、人と話すことの多い私ですが、町内の話題にはとんと疎くなってきました。妻は近所の歯医者さんにパートで勤めているため、患者さんから教えてもらう町内の話題が豊富で、時には「うそー、本当?」と驚くような話題を持ち込んでくるのです。しかしこうした妻が持ち込む地元の話題も、妻が仕事を辞めれば入らなくなるし、私だって今は全国を飛び歩いているからいいようなものの、そのうち完全にリタイアすると二人だけの暮らしはどこか寂しく、どこか不安なのです。

 先日、愛媛大学農学部へ授業の打ち合わせで行った折、少し時間があったので知人の奥村さん宅へ立ち寄りました。奥村さんは県庁の管財課長から県公連の事務局長になった方です。県公連の事務局が県庁本館の一階にあったころ、初めて奥村さんに出会いました。それ以来県公連を退職するまで様々な活動をご一緒し、退職後も野趣味のある奥村さんの家にお邪魔して趣味の世界を共有したものでした。ウバメガシの生垣に囲まれた家は見覚えのある家とはいいながら、交通量も多く近くのスーパーへ車を止めさせてもらい歩いて行きましたが、横断するのに四苦八苦でした。玄関先でチャイムを鳴らしましたが、人の気配はするのに中々出てきません。これも年寄りの家の特徴と思いつつ立っていると、やっと中からご夫婦が出てきました。聞けば奥村さんは94歳、奥さんは91歳とか、それでも矍鑠として私の面談にも昔と同じ会話が弾みました。奥村さんは時ならぬ私の訪問を大層喜んでいただきました。奥マラさんの家の玄関には天井に無数のひょうたんが吊り下げられ、民具がそこら辺いっぱいに置いてありました。その中から自分が作った昔で言うチャイムの代わりでしょうか、榎の切り株で造ったという鯉をあしらった拍子木をいただきました。


 「この歳になると人恋しい気持ちになる」と偽らざる心を吐露されました。私のことは新聞やテレビで時折見かけるので、その度に夫婦の会話が弾んで、頼もしく思うのだとも付け加えられ、いつもながらの心の援助に頭が下がる思いでお暇をしました。その姿を見ながら夫婦は一緒に長生きをしなければならないと思いました。そして奥さんと同じ大正7年生まれの親父のことを思いました。親父はもう連れ添いをなくしているので一人暮らしです。多分一人暮らしの寂しさがあるのだろうとも思いました。

 私たち夫婦も、近々同居したいという息子夫婦の申し出を快く受けて、三世代同居の家を目指す予定ですが、妻は結婚以来忙しくも賑やかだったので、少しの間夫婦だけの静かな暮らしがしたいといっていますが、もうそろそろ賑やかさが恋しくなる頃です。家族とはやはりわいわいガヤガヤすることの方が楽しいことに気づいています。一昨晩息子夫婦が孫を連れてきただけで家じゅうがパッと明るくなりました。家族とはそういうものなのです。


  「夫婦だけ 気がつきゃ 会話単調で 単語並べて 一日終わる」

  「あのような 夫婦でいたい 垣間見た はてさて俺ら なれるだろうか?」

  「犬猫を 飼って会話の 家増えた 家族少なく やむにやまれず」

  「もし俺が 一人になったら どうしよう とてもじゃないが 生きて行けぬわ」

 

 

 

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shin-1さんの日記

〇月光とイルミネーション

 世の中は不景気風が吹き荒れているようで、それをマスコミが騒ぎたてるものだから、今年の冬は余計に寒さを感じます。それもそのはず大企業では生き残るためにまず派遣社員の首切りが始まっています。私の親類でも大学院を出て長年派遣社員として都会で働いていた息子さんが派遣打ち切りに合いそうで、こちらへ帰ってくるかも知れないとお母さんから聞かされました。日本国内に派遣社員が始まった頃は、優秀な人材を集めて大企業に頭脳を送り込むといった風潮でしたが、いつの間にか企業の都合に合わせる、つまり景気の良い時には労働力として利用して、景気が悪くなればポイと捨てれるといった、まるで企業の道具のような雰囲気なのです。この問題は景気の良いかなり前から指摘を受けその改善に乗り出していましたが、せっかく作った法律も後追い的な感じが否めず、アメリカから始まった世界的な金融恐慌のあおりで、アメリカがくしゃみをすれば日本が風邪をひくどころの騒ぎではなくなり、肺炎になって死にかけようとさえしているのです。

 私たちには分かりませんが、エコノミストの話によると為替レートで円が1円円高になると数億円の赤字が出る会社もあるのだそうです。特に自動車産業のように海外に依存している自動車産業は1年前の好景気が嘘のような深刻さです。こうした会社は為替レートを100円程度に見込んでいたようですが、90円を割り込んで80円台に突入しました。世界にはセレブというにふさわしいお金持ちが沢山いて、原油が儲かると思えば原油に投資し、為替が儲かると思えば為替に投資し、先物取引でひと儲けしようとたくらんでいるのです。原油も為替も大豆や金もこうした市場原理が働いて社会の経済が成り立っているのですから、これらとは全く無関係な私たち庶民には腹立たしい思いがするし、国家や政治さえもこの流れを止めることができないのです。


 日本では総理が二人も途中で投げ出し、今回の総理も世論調査だと支持率急落のようです。総理の人気投票ともとれる世論調査そのものもある種疑問があります。今の総理が全ていいとは思いませんが、もっと国民が一丸となってよい国を作るために盛りたてるような方法はないものかと思ったりするのです。多分野党が政権を取っても同じような結果になるような気がしてならないのです。巷ではもう水面下で選挙戦が行われていて、選挙の自伝運動と思われるほどのポスターがやたらと貼られ町を美しくするはずの政治が町を汚くして美観を損ねているのです。

 このところ外を歩くと冬の月の明かりが綺麗です。見上げた空にぽっかりと浮かんで光る月光は何とも言えない神秘的なもので神々しささえ感じるのです。あの月は自分で光らず太陽の光を受けて輝くのですが、満月になったり三日月になったりしながら、潮の満ち引きなど地球に影響を及ぼしているのですから不思議な話です。人間も魚もこうした知られざる宇宙の神秘に生かされながら生きているのです。先日鳥取県鳥取市佐治町という山間の小さな天文台で、人間が月に第一歩を記した足跡の写真を見ましたが、それほど進んだように見える科学の世界でも、ニュートンが林檎の落ちるのを見て引力を発見した時代からそんなに進歩しているようには思えないのです。

 昨晩シーサイド公園のイルミネーションを見に行きました。元々は親友の山から桧の木を切り出しイベントホールに飾るくらいの簡単なものでしたが、今は私が始めた頃とは想像もつかないように立派に飾っていて、夜だというのに若いカップルが沢山集まっていました。友人たちが始めた長浜町豊茂のイルミネーションも昨日テレビで紹介されていて、日本中がイルミネーションの光で輝いているのです。古いしきたりや風習は廃れ、正月よりクリスマスを楽しむ国民が増えてきました。「門松もしめ縄もせずに寝正月」なんて川柳もどこか侘しい感じがします。でも思い切って厚着をし、イルミネーションで飾った月光の道を妻と二人誰はばかることもなく腕を組んで歩くのも悪くはないと、しみじみ思いました。私たちはまだ若いのですから?・・・・。


  「正月を 前に契約 打ち切られ さぞ寒かろう 今年の冬は」

  「暗闇に 乗じて夫婦 腕を組み それでもどこか 人目気になる」

  「年金で 暮らす俺達 公務員 だって毎月 給料出るもの」

  「門松も しめ縄もせず 寝正月 これでいい年 なるはずもなし」


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shin-1さんの日記

〇遠方より送られてきたリンゴとホタテ

 昨日外出先から妻と二人で家に帰る途中、三秋峠付近で妻の携帯電話が鳴りました。妻は息子から貰った携帯電話を息子と親子契約のような形で持っていますが、余り必要でないために普通は家に置いていて、外出する時、言い訳程度の連絡用として持っているのです。したがって電話の操作も私以上に下手くそで、勿論メールのやりもできないのです。電話の相手は息子嫁からでした。昨日は息子が休みだったので、わが家へこのところ気分がすぐれない妻の見舞いのつもりで来たようなのですが、あいにく留守なので電話をしたのです。息子夫婦と孫がわが家に来るなり、幾つもの宅配便が届いて「受け取って欲しい」という宅配業者の頼みに応じ、荷物を数個受け取っていたようでした。玄関に入ると何やら発泡スチロールに入った荷物が届いていました。友人には牡蠣の産地の人もいるため広島ガキや御荘ガキも届くのですが、受け取った息子嫁の話だと北海道からの荷物だそうで、直感として北海道佐呂間湖の船木さんから立派なホタテ貝が沢山届いていました。本来なら機能の夕食はホタテ貝と言いたいところですが、息子たち家族は妻の体調を気遣って早々に引き揚げて帰ることになったのです。荷物を受け取った息子に5個、嫁の実家に5個とおすそ分けをして、近所の親類にも「北海道佐呂間湖産ホタテ貝」と勿体ぶって配りました。今晩はホタテが夕食の食卓を飾ることでしょう。

 さて先日これまた珍しい贈り物が届きました。秋田の高橋さんからリンゴです。リンゴといっても真っ赤なリンゴの表面に阪神タイガースのHTの帽子マークが入っているのです。その日の夕方のテレビで偶然にも秋田県横手市の農園がリンゴに、阪神タイガースのマークを入れて作っていることが紹介されていましたが。リンゴが赤くなる前にマークを張りつけると、そこだけ光を通さず、マークが浮かび上がってくるのです。

 今年の阪神タガースは、開幕ダッシュが成功し一時は2位のジャイアンツに11ゲームほどの差をつけ、楽勝優勝とばかり思っていました。ところがジャイアンツが息を吹き返し追う身の糞力を発揮して追い上げられ、閉幕まであと少しというところ優勝をさらわれてしまったのです。阪神ファンにとっては泣くに泣けない嫌な思い出です。もし阪神タイガースが優勝していたらこのリンゴは羽根が生えて飛んでいたかも知れないし、わが家へ来ることもなかったのです。送り主の高橋さんがメールで「横手のリンゴは日本一」といわれるように、ホントに美味しいリンゴでした。


 昨日は北海道鵡川町の菅原さんからこれまた珍しいシシャモが届きました。鵡川町はシシャモが鮭と同じように産卵のため川を遡上する町としても知られています。菅原さんはもう昔と呼ぶにふさわしい前に視察研修で双海町へやってきました。以来20年も続いてジャガイモやカボチャ、メロンやシシャモなど季節の産物を届けてくれるのです。こうして珍しい贈り物が全国から届く度に、私たち家族は一喜一憂し、その味を楽しむのです。そしてみかんなどわが町の特産品も送られて行くのです。

 人との交流は様々な形で広がって行きます。たった一度の出会いが長く続く人もいて、年賀状千枚の意味が分かるような気がするのです。これからもそうした出会いやつながりを大切にしながら生きてゆきたいものです。

 

  「今年また 全国各地 から届く 産品開き 思い出浸る」

  「北の果て 海で今日まで 生きていた ホタテの貝が 元気なままで」

  「寒い中 宅配業者 荷を届け ハンコください 御苦労さんと」

  「阪神の マーク入った リンゴ剥く 残念ながら 中は蜜入り」

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shin-1さんの日記

〇孫のお遊戯会

 昨日の土曜日は孫の通う幼稚園でお遊戯会があり、娘から誘われてのこのこ出かけて行きました。幼稚園では年長組のため孫にとって運動会やお遊戯会は今年が最後なので何かと誘われるのですが、私の仕事が忙しく、運動会も結局は工面がつかず妻だけが出かけました。

 昨日のお遊戯会は孫にとって特別な意味を持っているようなので、一ヵ月前の早いうちから私の予定帳にお遊戯会の予定を書き込まれていたので、講演の依頼も都合が悪いといって断っていたのです。娘は二人の子持ちですから多分長男のお遊戯を見ている間まだ幼い次男の面倒を見て欲しいくらいな軽い気持ちでの招待だったのでしょうが、物心ついたこの3~4年は私の相棒と呼ばれるほど身近な存在だったため、私としてもその成長を確かめたかったのが正直なところです。

 今回のお遊戯会で孫朋樹は園長先生のあいさつに続いて、いきなり開会のあいさつに登場しました。

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 次の出番があるのでズボンも髪型もそのままで、上に制服を羽織っただけの姿で壇上に登場しました。「今日は私たちのためにお遊戯会に来て下さってありがとう。今は上手にやれるかどうかどきどきしています。最後までがんばりますのでよろしくお願いします。代表岡本朋樹」とまあ上手に大きな声で無事あいさつの役目を果たしました。私は一番前のカメラ席に陣取って孫の写真を撮ってやり大きな拍手を送りました。あんなやんちゃな孫がいつの間にこんなことができるような子どもに育ったのでしょう。教育とは凄いと幼児教育の成果に感心しました。

 この日は13時開演でしたが、30分前にはいい席を取ろうと保護者や関係者がたくさん集まり、5分前の開場には2階のホールは満席状態でした。私たちは中ほどの席が取れましたが、座イスが子ども用なのに舞台が低いため人の頭を見るような感じでした。でもこれで十分で、自分の子どものプログラムがやってくると、最前列に敷かれたゴザ席がカメラ席になっていて、関係者がごっそり入れ替わるという算段です。ですから人の子ども演技など見えなくても余り気にならないようなのです。


 孫の出番は最初と3番目、そして全員で出る最後があったようですが、最初のあいさつと3番目の演技が比較的近かったため、三番目の演技が始まると再びカメラ席に移動して写真を撮りました。

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 3番目の演目は踊りでしたが、アロハシャツを着た格好いいお兄ちゃんに扮して6人が踊る演技はまるで宝塚スターのようでした。私たち夫婦はこの踊りを最後にホールを出ました。というのもそでまでぐっすり寝込んでいた孫尚樹の子守りをするためです。妻の仕事の都合でお昼ご飯も食べていなかったので、銀天街をゆっくり乳母車を押しながら散策し、三越へ入ったり、白魂で中華料理を食べたりしながら3時の終演時間を待ちました。

 昼寝の最中に私たちが乳母車で連れ出したため、孫はキョトンとしていましたが、美味しい中華料理に舌づつみを打ちながら嬉しそうにしていました。三越ではサンタクロースにプレゼントを貰いご機嫌な様子でした。

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 街はもうクリスマスムード一色でイルミネーションやポインセチが飾られひと際華やいだ雰囲気でしたが、それにしても官公庁のボーナスが出揃って最初の土曜日というのに客足は少なく、これも不況のせいか、はたまた郊外型ショッピングセンターエミフルの影響なのか、商店街には暗い影を落としていました。


  「馬鹿ぶりを 発揮するよな 爺と婆 カメラ片手に 前列座り」

  「いつの間に 相棒すっかり 成長し 開会あいさつ 立派務める」

  「街中を クリスマスムード 彩るが 人が少なく 寂し商戦」

  「乳母車 孫乗せ歩く 銀天街 メルヘン世界 夢のようです」  

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shin-1さんの日記

〇やきそばで街おこし

 昨日の午後、えひめ地域政策研究センターの主催する第28回政策研究セミナーが県立美術館講堂であり出かけました。28回と書かれたチラシを見てはてさて私は、毎回ご案内をいただきながらこの28回のうちの何回参加したのだろうと思うと、少し恥ずかしい気持ちになりました。私がこのセミナーに参加できない主な理由はスケジュールがバッティングしただけなのだと思いつつも、折角与えてもらう勉強に今後も積極的に参加したいと思いました。

 ステージの垂れ幕には「B級ご当地グルメで街おこし」「~富士宮やきそばに見る地域ブランド戦略~」「富士宮やきそば学会会長渡辺英彦氏」と書いてありました。少し早目の会場入りだったので後ろの席を確保して座っていると、講師の渡辺さんが打ち合わせを兼ねてグリルでコーヒーを飲んでいるので名刺交換でもと誘われました。1959年生まれというから50歳前後の若い講師です。名刺も透き通るような綺麗な名刺でした。「夕日でまちづくりをしている話は知っています」切り出され、私と共通する部分と異質な部分の整理コンピューター私の頭の中で回り始めました。

 私がこうした研修会に参加するのは、何をしてどんな成果があったかよりも、着眼点のアイディアを生かしどのようにしてステップアップしたか、プラスどんな失敗をしたかです。もうひとつの視点はそれを自分の実践に応用できないか考えるのです。さらに参加した皆さんと違う点は講師の話術です。私は講演などによく出かけるので、客席から見た90分間の話の組み立てや飽きさせないように話す話芸は人以上参考になるのです。


 私は話を聞きながら話の内容よりも、新しいアイデアをチラシの裏側や封筒の裏側に絵に書いていました。やきそばから何を連想したのか、それは魚肉つみれ団子の絵でした。シーサイド公園で漁協婦人部が販売しているじゃこ天は串にさして食べるという私のアイディアでスターダムに乗りましたし、ラヴじゃこ天も話題をさらいました。今度はおでん種としてつみれの団子を作って団子三姉妹人魚の涙なんてネーミングすれば面白いと思いました。この季節のシーサイド公園は寒い季節を迎えます。温かいものを欲しがるのですから、練炭火鉢を用意しておでんの鍋を置き、その鍋の中に海の幸タコやおでん種としてじゃこ天のすり身で団子を作ってぐつぐつ煮込むと美味しい匂いが漂って客を集めるのです。一見ファーストフードのような感覚でやったら冬限定の風物になるのではと思うのです。

 近日中に試作をしてみたいし、おでん種として新発売できるかどうか研究したいと思っています。はてさてやきそばの話を聞きながら自分の町の商品を開発しようとする私はやはり風変りな男なのでしょうか。もしこんな商品ができるとしたらやきそばの講演を聞いたことが活かせる訳ですから、これ以上の効果はないでしょう。


  「講演を 聞きつつチラシ 裏に書く これが本当の 裏をかくかも」

  「絵を描けば 次第に夢が 広がって 今からできる 実践進化」

  「街なのか 町・まち使う 間違い?を メモに書きつつ 話し聞き入る」

  「面白い 閃くアイディア 急がねば 居ても立っても いられず立って」 

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shin-1さんの日記

〇ああ「高校三年生」

最近、作曲家の遠藤実さんが亡くなりました。有名人の訃報など私たち庶民には関係ないのですが、作曲家遠藤実さんは別で、作曲された「高校三年生」や「星影ののワルツ」「先生」「北国の春」など、思い出に残る青春歌が際立って多いのです。特に自分が高校三年生頃に流行った「高校三年生」という歌は一生忘れられない思い出の曲なのです。

 

 高校三年生

 1、赤い夕陽が 校舎をそめて

   ニレの木陰に はずむ声

   ああ 高校三年生 ぼくら

   離れ離れに なろうとも

   クラス仲間は いつまでも

 2、泣いた日もある 怨んだことも

   思い出すだろ なつかしく

   ああ 高校三年生 ぼくら

   フォークダンスの 手をとれば

   甘く匂うよ 黒髪が

 3、残り少ない 日数を胸に

   夢ははばたく 遠い空

   ああ 高校三年生 ぼくら

   道はそれぞれ 別れても

   越えて歌おう この歌を


 歌は作曲と作詞、それに歌手が合体して始めて口ずさめるのですが、この歌が遠藤実さんによって作られた曲であることはよく知られているのに、名だたる作詞家にもかかわらず、作詞が丘灯至夫さんであることは余り知られていません。でも二人のコンビがなかったらこの曲はこれほど多くの人の共感を得ることはなかったのです。さらにこの曲を学生服姿で歌った舟木一夫さんの伸びのある歌声は心に染みるのです。


 当時は舟木一夫さん、三田明さん、西郷輝彦さんを称して歌謡界の御三家などと呼ばれていましたが、その舟木一夫さんも60歳の還暦を過ぎて赤い学生服で歌っており、昭和は遠くなりにけりの感じがします。

 昨晩、友人から届いたハガキを読んでいると、その文面に「高校三年生」という歌の思い出が書かれていました。「-前略-、遠藤実さんが亡くなりました。PTAの二次会はシーホースというスナックでした。飲んだ後最後はみんなが肩を組み高校三年生を歌いましたね。あの時は自分が高校生になったような錯覚で、自分がいい歳になったのも忘れて歌いました。懐かしい思い出です。-後略-」と書かれていました。早速一日三枚のハガキの一枚にしたためましたが、まさに歌に秘められた思い出なのです。


 私はそっと自分の木になるカバンからハーモニカを取り出し、「高校三年生」「星影のワルツ」「北国の春」「先生」を全て吹いてみました。時ならぬハーモニカの音色に居間でテレビを見ていた妻も書斎にやってきて、私の下手くそなハーモニカの音色をしみじみと聞いてくれました。ひとつ年下の妻にとっても遠藤実さんの歌は青春の思い出なのでしょう。秘められた恋の思い出などは聞き出せませんでしたが、思い出に浸った冬至をまじかに控えた夜長な夜のひと時でした。

  「この歌は 遠藤実の 曲だけど 作詞はえーと 誰だったのか?」

  「ああそんな こともあったと 思い出を 思い出させる 嬉しいハガキ」

  「青年団 フォークダンスの 手を取って 踊ったあの子 今頃どこに?」

  「高校は 男子の生徒 だけなので 黒髪匂う 思い出もなく」 


 

 

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shin-1さんの日記

〇新しい仕事への取り組み

 私は千学非才の身でありながらこの5年間、愛媛大学法文学部の非常勤講師として、大学生に地域振興とまちづくりについて講義を行ってきました。昨年までは主に夜間主の学生20~25人を相手に夕方から講義をしていましたが、今年からは昼間主の学生に変わり、午後2時40分から講義をしてきました。夜間主と昼間主の違いはそんなにないのですが、夜間主の授業が水曜日だったのに、昼間主になって月曜日となってしまいました。最初は月曜日の方が樂勝だと思っていたのに、月曜日は祝祭日の振り替え休日が多くて、中々スムーズに授業が回らず、本来なら年末で終わる授業が新年早々までかかってしまい、未だに片付かないのです。それでも大学生は私の話にも熱心に耳を傾けていただき、今年もいいレポートを期待しているところです。

 2003年4月に大学の非常勤講師に就任して以来今年で6年目が終わろうとしています。大学は大体4年で卒業なので、普通に考えると大学院卒業までの年限を関わったことになるのです。大学の授業もどこかで切りをつけなければならないと思っている今日この頃ですが、先日出張先の島根県へ愛媛大学農学部の泉学部長さんから連絡が入り、農学部の新しい構想の授業に加わって欲しいとの言われました。大学のシステムがどんなになっているかも分からず、いわれるまま履歴書や経歴調書をメールで送ったのです。普通は新しい年度からのことなのでと、大学の先生をしている娘婿にも少し指導を仰ぎましたが、大学は学部が違えば別の世界なので結局は決めかねていたのです。

 数日前農学部の先生から今年12月から来年度のプログラム研究をして欲しいとメールが入り、正直驚きながらメールのやり取りでこれからの方針を自らが決めなければならない羽目になってしまいした。

若松進一ブログ

 今日は午前10時から松山市の郊外にある農学部キャンバスに出向き担当の先生と面談しました。運よく県庁に勤めていた芳之内さんと大学構内で出会い、5階の場所などを聞きました。途中で部門長の教授も顔をのぞかせていただき、また事務総務課長さんとも面談し、いよいよ来週から毎週二日間出勤するよう頼まれましたが、当分は家から28キロ離れた大学へ1時間弱をかけて通学しなければならないので、はてさて忙しい合間を縫って学部長さんの期待に応えられるかどうか、性根を据えてかからなければならなくなりました。

 私の担当は社会人学び直し講座への講義と、マネジメントコースの学生に地域活性化論の講義があるようです。またまた厄介な仕事が舞い込み、またまたやり方によっては進化しそうな雲行きです。自分自身に乞うご期待です。


  「大学も 出てない男 大学で 授業するとは 世の中変わった」

  「周防島 宮本常一 見習って 進化をせねば 先人笑う」

  「世の中は 職を失う 人あれば 職をいただく 人もありうる」

  「知恵を出し 反面教師で 学ばんと 大学正門 神妙面持ち」

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shin-1さんの日記

〇漬物が美味しく漬かりました

 先月の終り頃、90歳になる親父が自宅横の家庭菜園でできた大根を30本余り、綺麗に水で洗い竿にかけて天日に干してくれました。その頃は時ならぬ寒波の襲来で北西の季節風が吹いたため、大根の水分が予想以上に少なくなって、まるで保存用の沢庵みたいになってしまいました。天日に長く干せば保存は利くのですが歯応えがしっかりし過ぎて、多分歯の弱った人間には噛めないだろうと思っていました。

 2~3日前、妻が風邪をひいたためお粥の添え物に出してやろうと思い、糠味噌ならぬ漬物臭さが手に付くのを承知で、漬物樽に手を入れ一抜き気出してみました。最近は糠と塩を調合した漬物用の糠が出回っていて重石の重さも手伝い適当に水も上がって程よく漬かっているようでした。

 沢庵のイメージとは市販の黄色い色粉で着色した歯切れの良い、甘みの強いものだと思っていますが、家で漬け込んだ沢庵は着色もなく白い色で、見栄えはそんなに良くありません。取りだした沢庵を水洗いしてまな板の上に乗せて包丁で輪切りにすると、何ともいえないほのかな沢庵漬けの香りが漂ってきました。行儀が悪いと思いながら一切れ口にほうばりました。歯応えのある沢庵は塩加減も丁度良く、早速漬物を小鉢に盛って妻に食べさせましたが、漬物の好きな妻は「美味しい」といってお粥と一緒に食べてくれました。

 漬物の漬け方も知らなかった私が今年は、忙しい妻の手助けをしようと、親父の干してくれた大根を取り込み、葉っぱを落として洗った樽の中に並べたり糠を振りかけたり、中蓋の上に重しを載せたりとかなりの仕事量をこなしました。お陰で漬物の漬け方を妻から学びました。

 もう直ぐ本格的な冬の寒さがわが家にもやってきます。沢庵漬けの練習も積みましたので、今年は本格的な漬け込みを自分の手でやってみようと思っています。すでに大根も手ごろな大きさに育っていて、正月までには大根を引き抜いて洗い、天日干しにしなければなりません。そのために干し柿を作るとき捨てずに残しておいた柿の皮(天日干し)と家の庭にあるくちなしの実を天然着色料にしたいと思っています。

 これまで何もしなかった私ですが、今年は色々なことに挑戦した一年でした。人間牧場の梅林から収穫した梅で梅酒も大量に醸造しました。また梅干しも程よく漬かり蔵の中で出番を待っています。苦渋菜やフキの佃煮も上手く出来て冬のお茶受けとして冷凍庫にちゃんとしまっています。今年やり残しているのは、梅酒に付け込んだ梅の実を取り出してジャムに仕上げることです。多分わが家で夫婦が一年中パンにつけて食べるくらいのジャムはできそうだと、想いを巡らせています。

 来年はいよいよ人間牧場に計画している釜戸小屋の建設もしなければなりません。資金繰りも今年一年の調達で何とかなる目途がつきました。釜戸小屋でこれらの加工品を作ってみんなに差し上げる日もそんなに遠くはないと、沢庵を食べながらまたよからぬ夢を膨らませているのです。


  「沢庵を 自分で作り 味見する 美味いだろうが 自慢タラタラ」 

  「沢庵を 初めて作り この次は もっと上手に 心に誓う」

  「色付けぬ 素顔のままの 沢庵を お茶受けにして 夫婦語らう」

  「できるじゃん 妻が私を 認め言う さて困ったぞ 次期待され」

 

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