shin-1

○母の命日

 今日10月4日は母の命日です。母は6年前80歳で亡くなりました。私の誕生日が10月3日ですから母は私の誕生日の明くる日に亡くなっています。優しかった母親ですから多分「進一は私の命日など忙しくて覚えていないだろう。自分の誕生日の明くる日だったら覚えていてくれるかも知れない」と思ったのでしょうか、偶然の重なりなのです。私のような男の子にとって自分を産んでくれた母親の死は自分のルーツを断ち切られたようなショックでかなり長い間落ち込みました。母が死んでから丸6年が過ぎましたが、死んだはずの母は死んだ頃の姿のままで老いることもなく私の心の中に生き続けているのですから、人間の心とは不思議なものです。

 昨日届いた瀬戸町(現伊方町)の緒方二三子さんからの便りに「母の思い出を聞かせて欲しい」旨の記述がありました。私の母の一番の思い出は働く母の姿です。五人の子どもを育てながら船にも乗り、暇を見つけて畑を耕しました。女・嫁・妻・母・職業人の中で女はさて置き、どれも気を抜くことなく働きに働いて生涯を閉じたといっても過言ではありません。

 私が学校から帰ると、母は私へのメッセージを台所の小さな黒板に書いていました。「池窪の畑にいるから「背負子にくくった荷物を持って来るように」との伝言です。遊びたい少年にとってこれはかなり嫌でした。でも登りのきつい勾配を休みながら登って行くと母はせっせと野良仕事をしていました。母に背負子を渡すとしばらくの間の山を駆け巡ったりして遊びました。時には畑の隅にある大きなヤマモモの樹に登ったり樹の空洞に隠しておいたハーモニカとジョン万次郎という本を取り出し、吹いたり読んだりしたものです。間もなく背負子にみかんや芋が括り付けられ、私は母と元来た道を連れられてわが家へと帰って行くのです。

 2年前、人間牧場をつくる目的で母亡き後荒れていたみかん畑へ行きました。ヤマモモの樹の根元にある空洞を掘ると、何と40数年ぶりに土になりかけたハーモニカと本の背表紙が出て来ました。それ以外にも母が使っていた愛用の鎌や鍬、それにみかん取り用の採果ハサミが赤茶け錆て土の中から出てきて驚いたり感動したりしました。人間牧場を造らなかったら来ることもなかったであろう母と私の思い出の場所に、今では再々足を運び、母の思い出を探しています。人間牧場はいわば母の思い出に出会える場所なのです。

 わたしはここで、時々ハーモニカを吹きます。妻が買ってくれたスズキのハーモニカは今や人間牧場水平線の家の大切な備品になって来た人に母の思い出を込めて吹いています。私が思い出す母親へ捧げる歌は「みかんの花咲く丘」です。通知表音楽2の私ですが、今ではどうにか160曲吹けるようになりました。

 今朝は母の命日です。仏壇に線香を手向けて手を合わせ、母のために一曲「みかんの花の咲く丘」を吹きました。このハーモニカも妻が買ってくれたものです。

 ♭みかんの花が咲いている 思い出の道 丘の道 はるかに見える 遠い海 お船が遠く浮かんでる♯

 ♭いつか来た道 母さんと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・♯

 ハーモニカを吹きながらうろ覚えの曲を心の中で歌いました。母ちゃんと呼んで母親に捧げる歌です。天国にいる母に届けとばかりに・・・・・。「お父さんいつの間にか上手になったねえ」と感心し、妻が拍手をしてくれました。

  「天国の 母に届けと ハーモニカ 下手糞ながら 命日の朝」

  「仏壇に 線香手向け 合掌す 亡き母偲び 命日の朝」

  「誕生日 明くる命日 重なって 複雑今朝は 亡き母思う」

  「耕せし みかん畑の うたかたも 母が一緒に あの世持ち去る」  

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shin-1さんの日記

○誕生日に花束プレゼントの定期便

 私の誕生日は昭和19年10月3日です。昨日目出度く63歳になりました。昨日誕生日を迎えた感想は「エッ、早63歳になったのか」「62年間もよく生きてこれたなあ」「歳をとったなあ」と複雑な気持ちです。「早63歳」はあっという間に62年間が過ぎたという実感ですし、「62年間も」は62年間生きて色々な時代背景の中で頑張ってこれた半生の重みでしょう。また「歳をとった」というのは、若い若いと思っていたが自分もいよいよ高齢化といわれる社会の当事者になりつつあることへの不安かも知れません。いずれにしても63歳という年齢を重く受け止め、これからどう生きるかしっかり見極め、私が提唱しているニコニコ・ピンピン・コロリンシャンの豊かな人生を生きて行きたいと決意したのです。

 私には誕生日に毎年嬉しい出来事があります。もう10年も続いている花束プレゼントの定期便が来るのです。そもそもの発端は10年前、私はシーサイド公園で視察に来れれた人を案内していました。その時二人の女性がやって来て私に「誕生日おめでとうございます」と大きな大きな花束を渡すのです。藪から棒とはこのことでしょうが、降って湧いた思わぬハプニングに驚いている私を、バス1台40人の方が大きな拍手と歓声で祝福してくれたのです。その日は朝から忙しくて自分の誕生日すら忘れていたものですから、その2人の女性の名前や住所を聞き出すことも出来ないまま立ち去られた、あっという間の出来事で終わりました。

 花のプレゼントはその次の年も偶然にも居合わせたシーサイド公園でまたもや再現、その人が松山市吉田に住む西岡真由美さんと、瀬戸町潮成に住む緒方二三子さんだと知りました。一度ならず二度までも花束をいただくにはそれ相応の理由があってのことだと思いましたが、この時も接客中で聞くことが出来ませんでした。私は必死になって記憶を捲り「何処であった人なのだろう」と考えましたが結局分らず終いでした。二人と私の出会いが瀬戸町で開かれた講演会で、私の話を聞いてファンになったという信じられない出来事だと知ったのはずっと後のことでした。

 それ以来私の元へは10年間も花束プレゼントの定期便が届いているのですが、若かった二人も今は子育て真っ只中のお母さんとなって、昨日は仕事の都合で来れない緒方二三子さんの心を携えた西岡真由美さんだけが、一歳の子どもを連れてやって来ました。毎年予告なしに来るものですから、昨日も西岡真由美さんはシーサイド公園で私を探したそうですが見つからず、留守のわが家へ花束とプレゼントの品を持って来られ、玄関にそっと置いて帰られたそうでした。昨日は朝日新聞の取材が入り、たまたま記者を送るためシーサイド公園に立ち寄りました。挨拶をして別れ際中学校の同級生に会いました。立ち話をしていると、西岡真由美さんが子どもを連れて立っていました。いやあ、心の糸が引き寄せた出会いに両方がびっくりし感激一入です。昨年見た時は小さかった子供ももうヨチヨチ歩きが出来るように成長していました。

 家へ帰ると昼休みで妻が帰っていました。毎年のことなので立派な花を見て恐縮しきりでした。妻は早速大きな花瓶を取り出し玄関に活けてくれました。不具合なデジカメも不思議な事にこの時ばかりはバッチリ取れているのですからこれまた不思議です。花束に添えられたメッセージも、プレゼントに添えられた西岡真由美さんの手紙にも、また玄関に帰った途端に郵便局員が手渡しで届けてくれた緒方二三子さんからの便りにも温かい言葉が綴られていました。妻は早速緒方二三子さんから届いた瀬戸金時芋を蒸す準備をしているようです。

 ある意味で呆れるほどに長く続いている花束のプレゼントは、私に新たな生きる勇気を与えてくれました。妻は毎年花束が届く度に追々細りながら私を見直してくれるのです。西岡真由美さん、緒方二三子さん今年もありがとう。

 追伸

 いただいたプレゼントの中にブログの主人公孫朋樹が登場しますが、朋樹が恐竜に凝っていることを書いたのを見たのでしょう。恐竜の飛び出す絵本がありました。昨日は愛媛大学後期授業のスタートで講義日でした。私は早速朋樹の元へ「おばちゃんからのプレゼント」と理由をいって持って行ってやりました。朋樹も大喜びで、娘は恐縮しかりでした。娘は「朋樹がおじいちゃんに誕生日祝のハガキを書いたからプレゼントが届いたんよ」説明し、朋樹も納得しているようでした。

  「今年また 誕生花束 いただいて 嬉しさいっぱい 鼻も高々」

  「世の中にゃ 奇特な人が いるもんだ 毎年届く 花を飾りて」

  「このくらい 嬉しいことは ありません 値千金 変えるものなし」

  「幸せは 幸せ感じる 心なり 若さの秘訣 感じて動く」


 

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