shin-1さんの日記

○人間は失敗から本当に学べるのか

 観光カリスマ百選に選ばれてから、私のような田舎者の話でも聞いてやろうと、全国各地から招聘されてノコノコ出かけるのですが、行く先々で「あなたは今までどんな失敗をされましたか」とよく質問されます。その度に私は「100のうち30くらいしか上手くいってません」と答えます。「えっ、たった30パーセントですか」と殆どの人が不思議そうに問い返してくるのです。私は即座にプロ野球を引き合いに出しながら、「あれほど野球を仕事にしている人でさえ、3割バッターはそんなにいません。私のような凡人が3割を記録するのは凄いことです」と答えるのです。人間は失敗したら次は必ず失敗しないように努力しますが、努力してもまた新たな失敗の種が生まれてまた失敗をくり返すのです。失敗から様々なことを学習するのですが、果たして失敗から本当に学べるのか疑問な所があります。

 先日パチンコの好きな友人に出会いました。彼はいわゆる晴パチ雨パチ、つまり晴れた日にはパチンコ雨の日にもパチンコと形容するほど暇さえあればパチンコに行きます。私と同じ年齢ですから退職しての願望は「誰はばかることなく思い切ってパチンコがしたい」というささやかな望みでした。そのとおり2年前退職しパチンコを趣味とする優雅な日々を過ごしています。私「おい儲けとるかい」。彼「いやああかん。近頃は連戦連敗や」。私「もう潮時、パチンコは辞めたらどうか」。彼「妻もそういう。このままだと年金も半分半分の法律ができたことだし、家内から離婚されるかも知れん」。私「・・・・・・・・・」。彼「・・・・・・・・・・」。私「ところでよう資金が続くな」。彼「煙草飲みは煙草銭、酒飲みは酒代、パチンコはパチンコ代、不思議と何とか工面できるものよ」、私「不ーん、そんなもんかねえ」。彼「こないだの負けを今日は絶対取り返すからな」と、相変わらずリベンジを誓うのでした。

 もう一人私の友人に株で大儲けをし、大損をした経験のある人がいます。儲けたときの彼はこの大金で独立して事業を始めようと思ったそうですが、その内大損をし結局はプラスマイナスするとかなりのマイナスとなり、親族が中に入って清算をする失態となりました。その席で彼は「もう株などこりごりです。これからは真っ当に働きます」と誓約書まで書いたのに、何年かすると悪い癖は甦り、あわよくばの人生を送っています。

 パチンコ好きな彼と株の好きな彼を見る限り「人間は失敗から本当に学べるのか」と疑いたくなります。少なくとも彼ら二人の意志の弱さからは失敗からいい教訓は見当たらないのです。

 先日、旅先へえひめ地域政策研究センターの清水研究員から電話がかかってきて、まちづくりの研修に使うので「失敗の10ヶ条」を作って欲しいと依頼を受けました。遠出の旅だったものですから電車の中で持ち合わせた使い古しの封筒に次のようなことを思いつくままにメモして送りました。

 「地域づくり失敗の10ヶ条」

第1条  どんな地域にしたいかがない

第2条  はずみ車でなく振り子時計の原理の理論に終始している

第3条  やらないことをやれないと言い訳ばかりをしている

第4条  補助金や人の懐を当てにして身銭をきらない

第5条  失敗反対にあったら直ぐに止めてしまう

第6条  成功した事例を物真似したがる

第7条  社会の流れや時代の流れを読めない

第8条  経済を無視している(入力と出力のバランス)

第9条  地域を巻き込んでいない

第10条  自立できていない(人も地域も)

  ◎番外編「地域づくりないないづくしの10ヶ条」

   ①溜まり場がない

   ②リーダーがいない

   ③知識人がいても知恵者がいない

   ④ロマンがない

   ⑤行政を動かせない

   ⑥社会の要請がないし社会を揺さぶれない

   ⑦計画がないし反省と成果がない

   ⑧楽しくない

   ⑨新しくない

   ⑩美しくない

  「失敗を 重ね重ねて 二十年 なおも失敗 だから人間」

  「酒タバコ 体に悪い 医者が言う だけど止めない だから人間」

  「またやった 今度はへまを するまいと 思ったけれど だから人間」

  「この癖は 死ぬまで止めぬ あきらめて 上手に付き合い だから人間」 

 

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shin-1さんの日記

○夕日が見えない

 春になると雨の回数が段々増えて自慢の夕日が見えないもどかしさがあります。菜種の咲く頃の菜種梅雨なんて言葉もありますが、最近は三寒四温の間隔が短くて菜種梅雨の心配はなく、どちらかというと雨が少なく早くも県内のダムでは取水制限などを行って水不足を心配するほどです。また春特有の黄砂が降って視界5キロ以内などと報じられ、折角の夕日が黄砂に遮られて見えない日だって何日もありました。

(今年初めて収穫が可能となった蕗畑)
 このところ私はどこへ行っても極力デジカメを持って歩くようにしていますが悲しいかな歳のせいか、それとも健忘症の前触れかそのデジカメを時々置き忘れて探さなければならないアクシデントにも遭遇しています。「探し物は元来た道をたどれ」という言葉がありますが、私のように行動範囲が広いと「元来た道をたどれ」といわれても中々たどれない有様で困ってしまいます。先日は人間牧場の蕗畑で写真を撮ろうと側まで行きました。「そうだこの蕗を取って帰ろう」と急に思い立ち蕗を抜いたまではよかったのですが、蕗を取り、孫が蕗の葉っぱをまるで傘のように頭に乗せて遊ぶ仕草が面白く、デジカメに収めながら蕗取りに夢中になって、収穫の喜びですっかりデジカメの存在を忘れてしまったのです。さて家に帰ってからカメラがないのに気付き、蕗の中や車の中を探したが見つかりません。折りしも小雨がパラパラと降り出し、やばいと思い切って10分もかかる人間牧場へ急いでカメラを探しに引き返したのです。結局は蕗畑の蕗の下に隠れて雨には濡れませんでしたが、間抜けな一日となりました。

(蕗の葉っぱで傘を差した仕草をして遊ぶ孫)

 それにしてもデジカメを持って歩いて1年近くになりますが、時々ラッキーと思える時があります。例えば夕日です。カメラを持っていない場合に限って美しい夕日が沈む感じさえしていましたが、先日も海沿いの集会所で自治会の総会準備を行うため早めに会場入りしましたが、運良く夕方雨上がりの雲を押し上げて夕日が沈む姿をカメラに収めることができました。写真に撮るとそんなに綺麗ではなくても、雨であきらめていた夕日が見える予期せぬ感動は何ものにも変えがたいものなのです。


 また先日は9月に人間牧場で行われる予定の中予エリアの商工会女性部研修会の下見に尾形さんや梶野さんら関係者が急遽やって来ました。私は煙会所も海舟館もそうですが、人間牧場も来訪者の住所録を置いていません。何人誰が来たかなど意味がないと思っているからで、これからもそうしたいと思っていますが、せめて写真には留めておきたいといい顔をパチリ一枚写しました。
(下見に訪れた双海町商工会の皆さんです)


 また、再三にわたって人間牧場を訪れる、多分私を除けばダントツ人間牧場に通う回数が多い孫と人間牧場の、成長の姿もカメラの大切な記録なのです。

 2階のロフトに上がることさえためらいがちだった孫はもう4歳になって、私と同じようにウッドデッキに大の字になって眠る姿はいいアングルで仕上がっています。

  「デジカメを 忘れ慌てて 取りに行く あんたも歳と 妻に笑われ」

  「失せものは 元来た道を引き返す 僅かな前の ことさえ忘れ」

  「蕗日傘 子どもらしさに カメラ向け 表情既に 下を向いてた」

  「忘れなきゃ 頭爆発 するかもね 忘れ言い訳 これも知恵だね」 

 

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shin-1さんの日記

○農業のあり方

世の中が随分変わってきました。最近では建築業者が農地を取得して農業を始めてみたり、接木苗だけで年商う10億円の農業産業が県内に誕生したり、またバイオで沢山の格安ランを栽培したりと、農業を巡る話題は中山間地の農業疲弊とは裏腹にかなり格差が出始めてきました。3K産業といわれる農業ですが、やり方によってはかなり可能性があるという証明のような気もするのです。

 私たち人間はいつの間にか既成概念で物事を考え過ぎるようになっていると深く反省をするのです。例えば有機栽培と称する農業です。これまでの農薬や化学肥料に頼る農業は健康に悪いという考え方から自然に淘汰されつつありますが、じゃあ自然循環型と称する有機栽培は安全かといわれたら必ずしもそうでないのです。ある雑誌で静岡県浜松市の永田農業研究所を紹介する記事を読みました。リード文には「一般の農法で作った野菜や果物よりはるかに美味しく栄養たっぷりのものを作る永田農法。環境破壊を最小限にとどめ日本の農業再生の可能性をはらむ農法を開発」と興味をそそるように書かれていました。

 静岡県浜松市の農場に行くと、そこにはかぐわしい空気がいっぱい漂っています。肥料が沢山入れられた農地とは違うし勿論農薬を散布したあとのぬ地とも違う草や木の香り、ふりそそぐ光でその空気を感じると梅を思いきり開いて深呼吸をしてみたくなるそです。「有機農法の農場へ行ってもこんな匂いはしない。有機農法では牛や鶏などの糞を堆肥に使っているのでどうしても匂いがする。うちの農法は液肥を使うからそんな臭いはしない。だから深呼吸したくなる」という。

 「有機農法なら安全」という概念は永田さんの話で見事に覆される。「植物は微生物が有機物を無機物に分解してから吸収する。有機だろうが無機だろうが肥料はいずれ無機物にされる。それを知らないからやたらと有機農法を有難がる。それでは有機肥料のもとになる動物の糞は安全といえるか。何を食べているのか分らないのだから安全とは言い切れない。ただし安全で健康的に育てられた動物の糞から作った肥料は別だが、最近までBSEで問題となった肉骨粉を食べた糞や病気を防ぐために抗生物質を投与された糞も有機なのだ」。ここまでくると有機農法というラベルをありがたいと思っていたことが非科学的に思えてくるのです。

 農家は早く育てたい、良く育てたいと思うから沢山の肥料をやる、そうすると土地が肥え過ぎて土壌や水を汚染し、富栄養化して環境を汚染する」のだそうです。

 「平地で育ったみかんより険しい岩山で育ったみかんが美味しい。それは何故かと考えることから試行錯誤が始まった。みかんを甘やかさずに厳しい環境で育てれば美味しくなる。その頃九州大学の福島栄二教授に会い、開発されたばかりの窒素、リン酸、カリウムの3つからなる液体肥料を厳しい環境で育ったみかんに最低限やる、そうしてみたらそれまでの3倍のスピードで甘いみかんができた」そうです。そこで永田さんは考えました。「今の農業はせっせと土を耕して肥やし、農作物を育てようとしている。本来は厳しい環境の中でこそ生物は生命力を発揮するはずだ。例えばトマトはもともとアンデスが原産、乾燥した厳しい土地で生まれたトマトが、日本では甘やかされて育っている。それなのに味は水っぽい。なるべく原産地に近い環境で育ててみてはどうだろうか」。そこから発展していったのが現在の永田農法なのです。

 永田農法では農作物をできるだけ原生地に近い環境の土地に植え付け、ぎりぎりまで水や肥料を与えずに育てる。枯れる寸前に水をやり、最低限の液肥をやるとどうなるか。水分を求めて細かい根をいっぱい伸ばしてゆく。少ない肥料を最大限に取り込んで早く成長するし、しかも糖度が高くとても美味しい野菜や果物ができるのだそうです。

 この話は従来の農法とは逆のこと、つまり先入観にとらわれず、現実をよく見て科学的に分析したことで可能になったのです。

 いやあ驚きました。こんな農法もあるという、しかも美味しい健康的な野菜や果物が現実にできているという事実に驚くのです。と同時にこの土地が素晴らしい環境ではなく掘り返された土には大きな石がゴロゴロして、肥沃な土地とは違い痩せた土地名のですから二重の驚きです。

 人間は長い歴史の中で土に触れ生きてきましたが、農業従事者以外は殆ど土に触れず昼も夜もない環境に生きるようになりました。また自然をコントロールして冬にスイカを作り夏にみかんを作るのです。植物の生命力を胎内に取り込んで生きる人間ですから、いい食べ物をたべなければいい体にならないのは当たり前です。今一度永田農法から何かを学びたいものです。

  「有機なら 安全安心 そう思う 何を根拠に 言うのでしょうか」

  「この体 命の基を 補給する もっと考え いいもの食べよう」

  「なるほどと 思う節あり 近頃の トマト臭いも せずに水味」

  「又一つ 暮しの知恵が 見え隠れ まずは実行 今年のとまと」


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shin-1さんの日記

○早期退職の盟友北原さん

 今年は暖冬の影響で桜前線の北上が予想以上に早いとマスコミが騒いでいましたが、蓋を開けてみると何のことはなくわが町では平年どおりのようで、海岸通りの桜も今が満開のようで、町内のあちこちでは今が盛りの桜を愛でようと花見の小宴が開かれています。私にもあちこちから花見のお誘いがかかるのですが、あいにくお酒を飲めない私は丁重に断り、私の身代わりとしてお酒やビールを送るのです。そうすると間もなく酒に酔った主催者から御礼の電話が携帯にかかってくるのですが、これがまた相手は酒酔い私は素面とあって、長々訳も分らぬ話が続きます。「元気か。お酒を送ってもらってありがとう」くらいならまだ良いのですが、昨日の夜などは11時過ぎになって電話がかかり「近頃お前は付き合いが悪い」などと、お酒を送ったばっかりに叱られる始末で、おうた話ではありません。

 しかし中には早くも5月病ならぬ4月病なのか、ご栄転を果たしたものの仕事の難しさや人間関係の煩わしさに行き詰まり、泣きを入れてくる友人もいます。また今春愛でたく早期退職し自由人となった仲間からは「自由とはいいもんだとこの1週間は思ったが、これからどう生きればいいのか・・・」という深刻な話まで飛び出しています。

 そんなこんなの3日前、55歳で早期退職した北原さんが人間牧場へ訪ねて来ました。彼は学校の先生をしていましたが思うところあって今春退職しました。世に言う「次の人生の身の振り方を考えれば、55歳が最終決断の時」と聞いてはいましたし、私もそんなことを考えたことがありました。しかし人生はそんなに甘くはないからと相談を受けた折慰留を勧めましたが、彼は思い切って退職したのです。彼の人生と私の人生は奇妙な出会い曲線で結ばれています。私が第10回総理府派遣成年の船の班長としてアメリカへ行った折、彼は一般団員として乗船していました。聞けば青年の船に乗りたくて当時勤めていた役場の上司に相談したところ「青年の船に乗るなら辞めて行け」と言われ、「それなら辞めて行きます」と辞表を出して乗船した芯の強さを持っています。彼は帰国後教員採用試験を受けて教員になり、教員生活の傍ら私の主宰する21世紀えひめニューフロンティアグループの活動に参加し有形無形の影響を受け合いながら今日まで生きてきました。

 彼は今の教育のあり方に疑問を持っています。特に愛媛の教育は管理型で、校長や教頭になることや、大きな学校へ赴任することが栄転だと何の疑いも持たず上(教育委員会)を向いて生きている教員が多いと、口では言いませんが言動の端々から読み取れます。彼は教員生活の大半を僻地の学校で過ごしました。僻地というレッテルは学校教育にとって一体何を意味するのでしょう。人口密集地の大規模校がいい学校ではないと思うし、僻地といわれる山間地の学校こそ人間性豊かな教育ができると私も彼の生き方には大賛成です。「じゃあどうするのか」、彼の自問はまだ答えが出ていないのですが、そんな心の揺らぎにけじめをつけたい彼の気持ちは痛いほど分るだけに、これからまた自分探しや教育の原点への旅を付き合いたいと思っています。

 彼と出会ってから教育に対する私の考え方も少なからず変わりました。教育長という小さいながらも教育行政のトップとして2年間仕事をしましたが、いい教育、いい教職員、いい学校の基準は画一的な今の勤務評定では推し量れない部分がいっぱいありました。いい子どもを育てるという教育の目標は教育基本法や文部科学省、各審議会など猫の目教育といわれる制度だけでは達成できないのです。

 彼の生き方と、私がやろうとしている人間牧場での教育は比較的似かよった部分があることも気付きます。私たちが目指す理想の教育は知識の教育ではなく知恵の教育です。頭に入った知識が手足や心を動かさなければ何の意味もないのです。彼ともう少し教育の入り口の部分を話したい。そしてその理論を論理に高めて行きたいものです。

  「教育の 何であるかを 考える 一石投じた 彼の生き方」

  「どの道を 行こうか迷う 分かれ道 選んだ道を 信じて歩く」

  「あと何年 生きる当てなし 人生を 生きたいように 生きるが徳だ」

  「無欲にて 老後の蓄え 糞食らえ 食えなくなったら 死ねばいいです」

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shin-1さんの日記

○自治会長という大役を終えて

 先月の3月27日地元では新旧組長会というのですが、自治会の総会がありました。約300戸弱の灘町という役場(今は合併して市役所総合支所)のある中心地の区長を2年前に仰せつかり、多少の戸惑いはありましたものの無事務め上げ、総会の承認を得て後任にバトンタッチをすることになりました。思えば2年前教育長を退任し自由人になった矢先の4月2日に地元の役員さんが大挙してわが家へやって来て、区長を引き受けるよう依頼されました。これまで不義理を囲ってきた地元の世話だけに断る理由もなくあっさり引き受けてしまいました。内輪では本命指名の人がどうしても受けずたらい回しの様相を呈しようとしていましたが、私が引き受けてホッと胸を撫で下ろしていました。

 しかし、区長の仕事は想像以上のもので、やればやるほど信頼が増して、続投を余儀なくされるとあって2年の任期はあっという間に過ぎ去ったものの、総会を前に開いた役員会で満場一致で続投が決まろうとしました。しかしこの手の役はみんなが経験することが肝心とかたくなに我を張り、ついには元町議会議長に白羽の矢を立てお願いに上がりました。結果的には渋々了承して引き受けていただくことになりました。そして今夜は新旧役員の引継ぎ会です。今日で退任を終えると思うとホッとする気持ちの方が先で、朝から少しウキウキの感じです。

 自治会長という仕事は草の根のようなものです。広報を配ったり、ゴミ集や危険物回収の仕事をしたりする市役所の末端行政をつかさどります。と同時に自分たちの地域の一斉清掃や盆踊り大会、敬老会、秋祭りの神輿守りなどの自治活動もします。また灘町では夏の間は集会所が簡易宿泊所に早代わりするので、その貸し出しや世話までしなければなりません。役員は副区長2名と会計、それに放送担当と監事2名がいるのですが、自治会の仕事は主に区長と会計が運営するのです。この2年間副区長にも会計にもよき人材を得てチームワークもよく、気が付いた旧態依然の馴れ合い運営をかなり改善しました。

 この2年間で最も苦労したのは天一稲荷神社の建築問題でした。そうとは知らず引き受けたものの建築に関する地区内の合意形成が成されていなかったため最初から大もめでしたが、ひとつひとつ段階を踏んであや糸をほぐしていったため、今は正常化して建築問題も概ね順調に推移しています。区長は退任しましたが建築委員として残ることになっているので今後もいい方向に進むよう努力したいものです。

 もう一つは一昨年の敬老会に食中毒が発生し大きな衝撃を受けました。不幸にも参加した皆さんが食中毒になりましたが大したことに至らず、仕出屋の営業停止で終わったのは何よりも救いでした。

 有線放送施設の老朽化が心配され、その資金について検討を加えていた最中に、30年満期の建物共済が満期を迎え、何と500万円が転がり込んできたのです。自治会長最後の仕事はこの500万円の使い道を総会で承認することでしたが、500万円を300万円と200万円に分けて定期預金にして特別会計を創設しました。こうすれば有線放送への出費が簡単になるのでそのようにして少しでも有利なことを考えました。そして新たに30年満期の建物共済にも加入しその証書も引き継いだのです。

 赤字が心配された区の会計も様々な苦労が実ってこの2年間で160万円もの剰余金を繰り越すまでに改善しました。心残りは防災自治組織の組織化が遅れたことですが、この件についても皆さんにかなり強く危機感を説明していますので時間の問題だと思っています。

 たかが2年間、されど2年間の自治会長という大役は今日で一応終わりました。私の留守中集会所の貸し借りや問い合わせどを代行してくれた妻や家族、それに多くの方々に感謝します。今宵はぐっすり眠れそうです。

  「小さくも 自治会長の 大任を 終えてホッとの 夜を迎える」

  「ご苦労さん ねぎらう妻の 嬉顔 一番世話は あなたでしたね」

  「早二年 経ったか区長 終わるとは 感慨深く 引継ぎ文書」

  「金のない 自治会 一転 金持に 俺の力か 時の流れか」



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shin-1さんの日記

○女性の新聞記者

 昨日突然の電話で愛媛新聞の丸岡さんという女性記者がわが家にやって来ました。何でも伊予市を担当することになって、前任者からの紹介もあってあいさつがてら会いたいというので、急遽自宅書斎でお会いしました。地元紙ということもあって愛媛新聞の記者とはもう30数年間も付き合っていますが、最近の傾向は女性が多いということでしょう。かつては酒を飲みながら新聞ネタを語ったものですが、酒を止めた今はそんな酒宴もなく淡々と話をします。しかし記者になって2年目の初々しい女性を前にすると、もどかしさの方が先にたって、かつてのような想いなるものが感じられないのも私の歳のせいなのでしょうか。

 私は社会教育課や産業課、企画調整室、地域振興課などを渡り歩き、たえず新聞に載るようなまちづくりのネタを仕掛けてきました。他の市町村から羨ましがられるほど新聞に載り、そのことによって双海町の知名度は急速に高まって、交流人口が増えたのも確かです。多分自分が月2回、10年で240号もの広報を書いた経験がそうさせたのかも知れませんが、インターネットなどなかった新聞とテレビに情報の殆どを頼る時代であったため、特に活字媒体によるPRは大きな情報源として受け止めていました。ですから町を担当する記者とはたえず連絡を取り、小まめに情報を流してきたのです。合併したからか、自分が関わらなくなったからかどちらなのか分りませんが、つい最近双海町という記事は極端に減ったと周りの人は私に話します。事実私の新聞スクラップの趣味も開店休業といったところです。

 私の知人で一昨年愛媛新聞の記者になった宇和島市遊子出身の藤田圭子さんは一年間、県庁の番町クラブに勤務していて今度の異動で宇和島支局へ転勤になりました。丸岡さんは藤田さんと同じく2年目だそうで、早くも伊予地方の担当になり早速エリア内を回ってネタ集めのようです。新聞記者は見た目にはジャーナリストで格好よく見えますが、これは大変な仕事で事件が起こると不眠不休の取材をしなければなりませんし、行事やイベントの殆どは土日に集中して休みなどないに等しいのです。ましてや地方紙こそ日刊新愛媛がなくなってからは愛媛新聞だけですが、中央紙が腕利きの記者を配して戦々恐々スクープを狙っているのですから容易なことではありません。もしすっぱ抜かれることでもあるなら、デスクも含めて責任さえ取らなければならないのです。今は県議会議員選挙の真っ最中で、選挙の動向を読むことやその読みに沿ってあらかじめ当選の記事も書き写真も用意しなければならないのです。時には取材拒否の厳しい仕打ちにも耐えなければなりません。私の町も何年かに一回いわゆる新聞一面を賑わす警察沙汰のような事件が起きました。選挙違反事件、課長の詐欺事件、町名変更問題、舟券売り場問題などその度に記者は張り付き、警察や役場の動向を追いながら記事を書いていました。その時「新聞記者だけにはなりたくないな」と何度も思ったものでした。それでも時の記者たちは歴史に生き証人として正しく伝えるための努力を惜しまなかったのです。佐藤さん、井上さん、篠浦さん、増原さん、吉田さん、岡本さん、野村さん、伊藤さん、一宮さん、樋口さんなどなど、かつての地方記者の顔が浮かんできます。

 先日はは別件で別の新聞記者でない新聞社員がわが家にやって来ました。インターネットを使ったタイムリーな情報発信の準備をしているらしく、田舎暮らしで生きていることを実感できるような情報を流したいとのことでした。私の人間牧場や牧場を巡る楽しい人や話題を欲しがっているようでした。新聞もペーパーだけでは生きていけない時代のようです。新聞の記事がインターネットで読める時代ですから、うかうかすると新聞は時代遅れになってしまうという危機感もあるようです。

 私たちの生活がそうであるように新聞オンリーの時代は終わりました。しかし新聞社の持ってる情報とネットワークは生かし方を考えれば凄く価値のあるものです。シニア世代のためのウエブサイトが、戸惑う人生の道しるべになるのかも知れなおのです。

 丸岡さん、頑張って地域の応援記事をしっかり書いて、非はしっかりと正すような記事を頼みます。及ばずながら応援します。

  「前任の 記者の写した 写真持ち 宜しく名刺 早速ネタを」

  「この頃は 女性の記者が 大流行 悪い気はずも 少し不安も」

  「顔浮かぶ あれやこれやの 記事書いた 人は何処に おわしますやら」

  「ノートメモ しながら話す 記者姿 今も昔も 変わらず同じ」

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shin-1さんの日記

○孫は恐竜が大好き

 いよいよ孫の春休みも今日と明日で終りです。母親の入院で約10日間双海町で過ごした孫にとって久しぶりのリフレッシュとなり、様々な経験をしたようです。しかし昨日まで、「おじいちゃんが一番大好き」と言っていたのに、母親の退院予定の知らせを聞くと「お母さんとお父さんが一番大好き」と現金なものです。それでもこの2ヶ月余り母親の入院で寂しい思いをしていたに違いないと思うと、何となくしんみりしますが、その寂しさも、幼稚園が春休みで友達のいない寂しさもこれで一気に解決です。昨晩までは私と寝ることを希望していた孫ですが、「明日お母さんが退院したら誰と寝るの」と聞くと迷わず「お母さん」なのです。

 このところ私のスケジュールも孫のお守に合わせて休眠中でしたが、やっと開放のきざしが見えてきました。でも新年度の大学シラバス準備やなにやかやと調べものもあるので、もっぱら孫は私の書斎の隅でお気に入りの恐竜模型を持ち込んで目の届く範囲で遊んでいます。孫にとってただ今は恐竜が一番の遊び道具のようです。

 この恐竜模型は孫の誕生日にふたみシーサイド公園で買ったものですが、目下のところこれを含めた恐竜の模型で遊び、恐竜の絵を書き、恐竜ごっこで遊び、風呂には恐竜を持ち込み、寝るときは恐竜を持って布団へ入るなど、恐竜なしでは夜も日も明けないようです。それにしても恐竜の名前をよくもまあこれだけと思うほどに覚えています。ステゴサウルス、マッタブラサウルス、プラテノドンなど図鑑と照らし合わせカタカナなど読めないのに、私の読んでやったことを正確に覚えているのですから驚きです。


 先日の日曜日孫を私たち夫婦で県立砥部動物園へ連れて行きました。今回が2度目ですが動物園の動物たちも孫にとっては自分の持っているお気に入りの恐竜の仲間に感じるらしく、ワニやスネークといった動物に関心があるようで、鳥や猛獣の前はさっと通り過ぎる程度しか見ません。特にワニには関心を寄せお土産コーナーでは前回ワニのおもちゃを買いました。今回は「動物園には連れて行くがおもちゃは買わない」という我慢の約束を事前にしていたので、おもちゃコーナーも「見るだけね」と自分に納得させていました。「我慢する心を育てる」孫育ては一応成功しているように見えますが、ついつい情にほだされることもあって、気を引き締めています。

 孫にとって動物園は見る動物園から感じる動物園に少し変化しているようにも見えました。動物と触れ合うコーナーなどは恐ろしくて遠巻きにして見ていましたが、この日はキーパーさんウサギを抱っこさせてもらったし、温室内を歩く亀に触ったりとかなり積極的になっています。人間牧場での団子虫もそうですが、子どもにとって動植物は最大の友達であるようです。

動物園の出口にはキーパーさんの姿をして写真に写るコーナーがありました。孫とおばあちゃんのツーショットです。



 動物園内で友人の山本さん親子に会いました。一緒に役場を退職した娘さんも結婚して子どももこんなに大きくなってびっくりしました。若いおじいちゃんもやはり私と同じように孫は目に入れても痛くないようでした。

 帰りに温泉に入り近くの公園で少しの間桜の花見をしました。

 自宅に帰ってから潮風ふれあい公園に出かけましたが、かつて私たちが植えた公園の桜も年月が進んでとても綺麗な桜でした。

  「春風に 誘われ孫と ピクニック 今が一番 幸せな日々」

  「人の子は まるで筍 早育ち スクスク伸びて 何時の間にやら」

  「恐竜に なってくれよと せがむ孫 負けて喜ぶ 顔がみたくて」

  「桜など どうでもいいと いう仕草 綺麗と言いつつ 顔は横向き」




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shin-1さんの日記

○大豆の不思議

 料理研究家辰巳芳子さんが提唱する「大豆100粒運動」の話をある雑誌で読みました。そんな馬鹿な話があるかとお思いでしょうが、あるとき辰巳さんは必要あってさらした後の小豆の皮を地元の餡屋さんから貰ったそうです。その皮を水で洗おうとすると1分としないうちに背中に痛がゆい感覚が走ったそうです。一緒に洗っていた人も、「先生足がかゆい」と悲鳴を上げました。ただごとではないと思い人に話を聞いたり調べ物をしたりすると、餡屋さんも豆腐屋さんも「豆を洗うといつも体がかゆい」と言うのです。色々と考え、ポストハーベストと呼ばれる残留農薬の問題や遺伝子組み換え作物のことなどを考えました。以前から日本の食卓の危険については見聞きをして気をつけていましたが、そのとき「食の危機はここまで迫っている。自分さえよければいいという利己的な身の処し方したまま、子どもたちのいのちを養う安全な食べ物を用意せずに死んでしまっては、料理の仕事に携わる者として責任が果たせない」と思って、NPO「良い食材を伝える会」を設立したのだそうです。

 日本の大豆自給率はたった5パーセント、しかも輸入物には遺伝子組み換え大豆が多いということへの懸念。豆腐に味噌、醤油、「お豆さん」と愛称を付けて親しんできた日本の豆文化を昔のものにしてはならないという想いで子どもの力を借りることにしたのです。「大豆100粒運動」の決まりは子どもたちに観察日記をつけてもらうことを一つの決まりごとにしています。勝つ度が始まって3年、種蒔きから収穫、更にはそれを食べることをとおして命のしくみ不思議を知る、食への感謝の心を養い、地域で農業を担う人ともふれあい、多くのことを子どもも先生も学んだようです。

 ふと、私は考えました。私の大好物の昨夜食べた豆腐はどこの国の大豆で作っているのだろう。醤油は、味噌はと思いを巡らせながら、お醤油、お豆腐、お味噌など「お」をつける私たちの食卓に欠かせない食べ物のことを考えてみました。勿論それらをつかさどる「おふくろ」さえもそんな日本の食文化を知らぬまま、朝飯さえもパンやコーヒーで代用して日々の暮しをしているのです。自給率5パーセントとは、私たちの食べている味噌や醤油や豆腐の95パーセントまでが外国産だというのですから驚きです。そういえばつい最近「手づくり豆腐」とか、「国産大豆使用」とかを売り物にした豆腐が出回るようになりました。「豆腐は手づくりじゃなかったの?」、「えっ、大豆は国産じゃあないの?」と一瞬考え込んでしまいました。近頃は私たちが子どもの頃に食べたあの堅い木綿豆腐にすっかり出会わなくなりました。絹ごしか何か分りませんがお皿から箸で挟めない柔らかい、限りなく水に近い豆腐が余りにも多いように思うのです。

 今年は人間牧場で実験的に大豆100運動を始めて見ようと思います。大豆だとイノシシにはやられませんが目ざとい鳥の被害は覚悟しなければなりません。でも人間牧場産大豆100パーセント使用の豆腐を作って食べるのも面白いと直感しました。顔見知りの種苗店に出かけて訳を話し、良質な大豆種を分けてもらって早速作付けしなければなりません。芋から豆腐へまた新たな遊び心が始まりました。

 お百姓さんにしかられますが、「儲け度外視の農業遊びは面白い」という話をリタイア百姓から聞きました。収穫もさることながら収穫に至るプロセスを楽しむことができるのも農業の楽しみです。何だかまたワクワクしてきそうです。

  「この豆腐 どこ産大豆 尋ねるが 加工品です 答える義務は?」

  「遺伝子を 組み換え作る 大豆にて 一丁あがり 嘆いてみても」

  「この豆腐 豆が腐ると 書いてある 腐ったものを 白で帳消し」

  「歯に応う 豆腐が好きな 私には 箸でつかめぬ 豆腐多過ぎ」  

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shin-1さんの日記

○shin-1さんの日記をプリント

 私は古い人間です。毎日書いてる「shin-1さんの日記」というブログも電子情報として毎日記録しているのですが、「もしパソコンのトラブルでこれらの記事がパーになったらどうしよう」と思うのですから、取り越し苦労も大変なものです。息子にこの事を話したら、「じゃあペーパーにプリントしといたら。でも火事になった焼けるかも」と冷たくあしらわれた反論には「その通り」と返す言葉もありませんでした。でも、でもやっぱり気になるなあと思いつつ昨日から、空いた時間を割いてプリントし始めました。自分のアメブロには月毎の本数が左肩隅に記録されていますが、大体平均30本から多い時で月50本くらいを書いています。ちなみにこれを私のエプソンプリンターでプリントすると昨日半日で4ヶ月くらいが限度です。途中インクのカートリッジ不足を示すランプが点灯してインクをセットし直し、その内用意した再生紙が足らなくなって、役場の知人に頼んで一締め分けてもらうなどハプニングもありましたが、何とか4ヶ月分をプリントアウトし、パンチで穴を開け表紙を付けてみました。凄いものです。毎日コツコツ書いた記事ですが凄い量なのです。今日中に2ヶ月分をプリントして半年分をまとめてみようと思っています。

 先日意思半ばで亡くなった同じ歳の人の遺品整理が話題になりました。その人は建築家らしく若い頃から文筆や建築物の写真を小まめに撮って保存していたようです。その量たるや相当なもので、その道の人にとっては喉から手が出るような貴重なものなのです。しかし遺族やその価値を知らない者にとってはこれらの遺品はゴミそのもです。薄汚れた封筒に入れている文章の数々も写真のネガも整理することも出来ず結局は友人の手によって整理が行われようとしていますが、手をつけたもののこれがまた厄介なもので全て手作業ですから時間と手間は相当なものです。

 人は死んでから生きた価値が認められる悲しい運命を持っています。勿論生前に価値が認められ勲章などをいただく人もいますが、それは晩年の出来事で勲章など貰っても殆ど役に立たないばかりか、祝賀の宴を開いて思わぬ出費を強いられたと嘆く人だっているのです。その人の遺品を前にして自分自身の生き方を考えてみました。はて私はどうなのだろうと・・・・。遺品には財産的価値があるものとそうでないものがあります。財産的価値があるものはほおっておいても家族みんなが受け継いでくれますが、私の遺品など恐らく妻さえも涙の枯れた1ヶ月か1年後にゴミとして扱うに違いありません。

 そのためには死んでから人の迷惑にならぬよう、死への準備を早めにしておかなければなりません。要らないものは捨てるをモットーに処分することです。私の書いたものなど何の価値もないのですから・・・・。そうも思いつつまた今日もこうして訳も分らぬ戯言を心の趣くままにブログという手段で記録する、そしてそれをよりにもよってプリントして保存するとは、人間って不思議な動物です。

 このところ私の書斎が「広くなったようだ」と妻がいうのです。「本に囲まれて暮らしているようだ。少し片付けたら」といつもガミガミ言われた本の殆どは人間牧場の知的空間に引越しし、更に要らない本や手紙、名刺、資料類は毎月一回畑の隅の自家用ドラム缶焼却炉で焼却処分します。昨日もシトラー3箱分を処分しました。上手な整理整頓の最たるポイントは「捨てる」がキーワードですから、これからもどんどん捨てる予定です。

 南向き、家裏に面する書斎は吐き出し窓のため知人友人は玄関を通らず私の居場所にやって来ます。昨日は伊方町三崎の塩崎君が松山への帰りにやって来ました。私の書斎での面談となりましたが、ブログをプリント作業しながら少し片付いた場所での会話は楽しいものでした。

  「プリントを しないと不安 俺世代 馬鹿じゃないのと 言われつつも」

  「価値などは ないに等しき 書き文字を 大事小事に 綴って保管」

  「目に見えぬ 心が大事と 人はいう 心どこかと 孫が尋ねる」

  「火に焼いて なくしてしまえば 諦めも つくぞとばかり 篭に三杯」 

  

 

 

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shin-1さんの日記

○人間の遺伝子

 車での移動時間が比較的長い私は車内のカーラジオを聞くのが楽しみです。知らない地域へ行くと知らない地域の情報が流れ楽しいものです。しかしラジオの欠点は山や谷に遮られて電波の調子が悪いと聞こえにくくイライラすることが多いので、そんな時最近はテープを持ち込みラジカセとして利用しています。中でも埼玉県熊谷市の龍前宏さんから送られて来たテープを聞くのはとても新鮮な感じがして、1本のテープを何回も聞いています。その中に筑波大学の名誉教授村上和雄さんの興味深い話がありました。運転中なのでメモもできず聞き流し情報となっていますが、お医者さんらしい遺伝子の話を分り易く話しておられました。

 先生の話によると人間の体には万巻の書物に匹敵するくらいの膨大な遺伝子暗号が組み込まれており、それが一分一秒の休みなく生きるという目的にために性格に動いているのだそうです。それを可能にしているのは人間の知恵や工夫によるものではなく、大自然の偉大な力(サムシング・グレート)で、この事実を本当に理解できれば素晴らしい人生が開けるのではないかと、日夜研究しているのだそうですが、最近の医学は目覚しく遺伝子には一種のスイッチがあり、色々な刺激によってそのスイッチがオンになることが分ってきたのです。

 先生は、よい目的や志を持てば良い遺伝子のスイッチがオンになり体や能力が活性化するという仮説を立てて、これを科学の言葉で説明できないか研究しているのだそうです。なぜならもしよい遺伝子のスイッチをオンにし、悪い遺伝子のスイッチはオフにして寝かせるなら人間にとってこの上ない可能性が開けてくるのです。

 先生の話で最も興味深かったのは、大天才と普通の人の遺伝子暗号で違いがあるのは千に一個、さらにその中で意味のある違いは十分の一個に過ぎないという話でした。つまり大天才と普通の人は遺伝子の暗号レベルでは差は殆どないというのです。人間の殆ど99.9パーセントが同じだとすると一体違いは何なのか、こう考えると私たち凡人の目は俄然輝いてやる気が湧いてくるのです。0.1パーセントの違いとは「志」があるかどうかの違いなのかも知れません。その例としえ糖尿病やガンの臨床例を挙げておられました。

 今の日本は現代病といわれる糖尿病の患者が急増しています。その糖尿病にとって笑いが食後の血糖値を大幅に抑える効果があることが発見されたそうです。「えっ、糖尿病が笑いで?」と笑うに笑えない話に耳を疑う人も多いでしょうが、笑いが遺伝子のオンとオフのスイッチに関係するというのです。早い話し人間は病気をしたくないけど病気にかかり、時には入院をします。すると病気の知識を知り退院後は病気にならないための志を持って日々を暮らします。これは病気になったことが病気を治すスイッチをオンにするのです。そういえば思い当たることは沢山あるような気がします。現に私も入院して胆嚢を取った折、先生から色々な知識と暮らし方の注意を受けました。私の遺伝子の病気を直すスイッチがオンになったのです。

 先生は日本人への警鐘として、運動不足を心配されていました。そういえば私たちの暮しは便利になり過ぎて体を動かすことが少なくなってきました。体を動かさず知的労働で楽をして金儲けする人が増えてきました。体を動かして汗水たらす労働は知的労働より下という考えが社会に蔓延し、若者の職業観も3K産業を敬遠しがちです。先生の言葉を借りれば健康に最もよい仕事は体を動かす農業や漁業といったような仕事なのかも知れません。

 思わず体を動かして見ました。「あっ、私の体の遺伝子のスイッチがオンになった」。そう思った瞬間でした。

  「人は皆 同じ遺伝子 持っている 少しの違いは 志だけ」

  「スイッチを オンにしたなら 生き生きと 生きてゆけると いうのですから」

  「糖尿の 血糖下げる 効果あり 笑いは妙薬 アッハッハのハ」

  「日赤に 息子入社し 健康の ことが気になる スイッチオンだ」 


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