shin-1さんの日記

○キツツキにやられました

 キツツキという鳥は知っていますが、キツツキが直接木をつついている姿は中々お目のかかれないものです。人間牧場ができて一年余りが経ちましたが、水平線の家とロケ風呂の外壁に何やら大きな穴が開いているのを発見したのは丁度一年前でした。でも最初、それがキツツキの仕業だとは余り気付いてはいませんでした。水平線の家で歓談中外で何やら「コン、コン、コン」と音がするので出てみるとキツツキが直立の外壁に足の爪を立て器用に止ってくちばしをハンマーのように思い切り外壁にぶつけているのでした。始めて見る光景を面白そうに口を開けて見ていましたが、これは大変と手拍子や木切れで威嚇しました。しかしその効き目は一向になく、新品の外壁は無数の穴だらけになってしまったのです。近所の人に話すとキツツキの被害など日常で、イノシシの方に気を取られていますが、木製電柱や青竹さえも穴を開けてちゃっかり住みついている姿を見かけるのだそうです。足場を外した外壁付近にキツツキ脅しのための鏡やカラスの模型など吊ってみましたが焼け石に水で、何ら効果を上げることができませんでした。鳥おどしの網を張ればいいのでしょうが外観を損ねることからそれもできず、当面は大工さんにお願いして入れ木をしてもらいましたが、その付近にまた大きな穴を開けるのです。

(キツツキの被害に遭ったロケ風呂の東側外壁)

 広辞苑によるとキツツキは4本の足指中2本は前に、2本は後に向かい鋭い鉤爪があって樹幹に止るのに適し尾羽堅くとがっていて、これを幹に体を支えながら巧みに幹をよじるのです。嘴は鋭く舌の先に逆向きの鉤があり、幹に穴を開けて中の昆虫を掘り出して食べます。巣は幹を掘って作った洞穴中にあります。普通雄は頭が赤く雌は赤くないそうです。

 戦国時代にはキツツキ作戦と称して相手を誘い出して滅ぼす戦法も聞いたことがありますが、キツツキの撃退法を知っている人がいたら教えて欲しいものです。

 でも本当はフクロウとともに森の番人といわれるキツツキが、ねぐらにしたいほど人間牧場周辺の自然が豊かであることを感じなければならないのかも知れません。私たち人間は得てして人間の都合のみで生きています。野菜に虫や病気が発生すれば農薬を散布して、自分たち人間の健康はおろか自然の生態系などへの影響を考えもせずになりふりかまわず行動し、自分たちの暮らしの便利さのためにダムや観光道路や埋め立てを平気で行ってきました。共生という言葉を平気で使っている割には自然や他の動物のことなど無視して生きているのです。

 昨日人間牧場でキジの鳴き声を聞きあの素敵な雄姿を見ました。「ケン、ケン、ケーン」とかん高い声を出しながら大きな羽を広げて目の前を低空飛行したのです。多分この頃はキジにとっても恋の季節であったり子育ての季節なのでしょう。近くで聞こえる草刈機の騒音への警鐘にも見えました。

 さりとてこのまま水平線の家を赤ゲラの餌食にするわけにもいきません。人間牧場の豊かな自然の贅沢な悩みはまだまだ続きそうです。

  「キツツキが コツコツコツと 音を立て 穴あけ帰る 何を目論み」

  「イノシシの 次はキツツキ また被害 撃退知恵の なさに失望」

  「鳥なれど まるでドリルか 大工さん 器用なもんだ まあるい穴を」

  「警察に 被害届けを 出そうかな 器物損壊 いか程量刑」


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shin-1さんの日記

○校長先生勤務地最後の日

 昨日の送別会で岡崎さんから「翠小学校の校長先生が会いたがってたよ」という話を聞いていたものですから、愛媛新聞社の方と会う約束が終わったので、午前中孫を連れて翠小学校まで出かけました。この時間だと離任式かあいさつ回りで留守かもしれないと思いつつ校門の入り口に車を止めるなり、私たちの姿を目ざとく見つけて、一目散に走って迎えにこられました。

(3人で記念の撮影です。息子の恩師宮岡先生に撮ってもらいました)

 普通校長先生は松山教育事務所管内で移動するのが常識ですが3年前、管外交流という名目ではるばる宇和島教育事務所管内から昇任校長として赴任してきたのです。当時は私も地元の教育長をしていたし、そんな関係で出迎えました。しかし今回の見送りは無位無官となった一私人としての見送りなので、むしろ晴れ晴れとした気持ちで見送ることができそうです。

 鹿島校長さんはかつて派遣社会教育主事として南予の町村で活躍した実績を持っており、特に同和教育などは得意の分野でそれなりの評価を受けていました。勿論役場職員といえども社会教育活動で県下一円を回っていた私にとっても彼は知り人の範中で、彼の来校と活躍を心密かに待っていました。「県下で一番若い校長で県下で一番給料の安い校長」などと笑いを交えて紹介した赴任を祝う歓迎会がつい昨日のことのように思い出されます。笑いのついでですが、少々頭も薄くなって風貌は年齢相応に見えるのですが、彼のフットワークの軽さと柔軟な発想力、違った視点でのものの見方は、派遣社会教育主事をしただけのことはあると思ったものです。

 彼は単身赴任でした。学校の近くの教員住宅に居を構え24時間体制で学校を守りました。PTAや時には校区内の住民を私邸?に招き入れ交流を盛んに行いましたし、学校が木造校舎ということや文化的価値があることもあって頻繁に学校を訪ねてくるまちづくり人たちと交流を続けてくれました。

 私が翠小学校に興味を持ったのはもう20数年も前のことです。当時は昭和5年の建築物である木造校舎は地元にとって「古くて危険」というイメージしかありませんでした。したがって鉄筋コンクリートの学校が町内に建つ度に次は翠小学校とみんな淡い期待を持ったものです。でも財政難や町がやらなければならない政策の優先順位は次々に別のものに先を越されて、残したくて残ったのではなく結果的に残っただけのことなのです。気が付いてみると(本当は気が付いていたのですが)県内の現役木造校舎では最も古くなっていました。関係者が今頃になって「この校舎は文化的な価値が高く」と胸を張りますが、知っている私は「よく言うよ」と呆れて聞いています。

 鹿島校長さんが赴任してからのこの3年間は翠朱学校にとっても様々な出来事がありました。私が教育長としてではなくまちづくり人として関わったミニシンポや建築関係者が取り組んだ実態調査などで科学的裏づけがなされ、環境庁の指定を受けてエコ改修の指定も受けました。その度に休日返上で見守り支えた業績は凄いと思うのです。

 私はこの学校に4つの贈り物をしました。一つはカワセミの彫刻物です。学校の名前の由来さえ誰に聞いてもあやふやだったものですから、カワセミに由来することを伝えたいと、長浜の彫刻家にお願いして掲額を作ってもらいました。予算などあるはずはなかったのですが10万円を7万円に値切り贈りました。二つ目は学校建築当時の写真です。この写真は私が写真屋に拡大を依頼しただけです。この学校の原点ともいうべき写真なので大切に飾られています。三つ目は木製の机と椅子です。当時の上田町長さんと久万町の林業まつりに出かけた折、高田課長さんと出会い、ほたる祭り加戸県知事さんの来校を実現させてあっという間にスチールの椅子と机が木製に変身しました。四つ目は学校を中心とした環境庁「ふるさといきものの里」という冠です。お陰で水車小屋も出来翠小学校周辺はほたるの里として整備が進み、翠小学校の赤い屋根が原風景となっているのです。

 鹿島校長先生ご苦労様でした。あなたの記憶にも翠小学校3年間は残っているでしょうが、翠小学校や私にとってもあなたの名前や記憶は永遠に残ることでしょう。3年間お疲れ様でした。


(校長先生と孫と私と二宮金次郎の4人で記念撮影)

  「また一人 記憶に加え 去る人の 姿すがしい 校長先生」

  「結果的 残りし木造 小学校 子供減りゆく 少し気がかり」

  「少しだけ 目に涙する 校長の 想いの裏に 在りし日々見ゆ」

  「次に来る 女先生 どんな人 早くも次に 歴史めくりて」 

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shin-1さんの日記

○異動の季節に移動する

 誰がどこで決めるかさえも分らないたった一枚の紙切れによる人事異動の季節がやって来ました。このところの地元紙は「そんなに記事がないの?」とか「役所の異動がそんなに重要なの?」と想うほど、これでもかといわんばかりに紙面の大半を割いて異動を報じています。私のように全県下に知人友人がいれば別ですが、伊予市に住む人たちにとって四国中央市や愛南町の人事異動の記事など何の関係もないのです。多分新聞社内部にもこんな紙面づくりで果たして良いのかと異議を唱える人も多いのでしょうが前例踏襲とは面白いものです。

 今年も異動の季節がやって来ました。異動しなかった人たちは異動した人たちの送別会をしなければならず、たった一日なのに4月1日後以降の新年度にはまた歓迎会と称する飲み会を、異動した人の分まで異動しなかった人が被ってやらなければならないのです。自分が異動した時もやってもらうのですからお互い様なのでしょうが、このところ飲み屋に少し異変が起きているようです。それは合併によって中央となった地域と支所になった地域の差なのです。中央となった地域の飲み屋は息を吹き返しつつあります。これまでの異動は小規模だったため、内示が出ると酒飲み会につきまとう煩わしさを避けて近隣の街で送別会をしていましたが、合併によって様変わりしたため地元志向が強くなって「空いていたら何処でもいいわ」てな調子で、地元の小さな飲み屋での送別会と相成るのです。飲み屋の女将さんが「合併して良かった」と言うように合併のメリットはここら辺にも現れています。ところが支所化した地域ではいつもの年の年度街には大小の宴会が入っていたのに、合併後は役場の職員数がまるで10分の1になった雰囲気で、早々と暖簾をたたむお店も出てきたのです。「合併してさっぱりだ」と嘆く人の苦悩は大変なもののようです。

 昨日は伊予市で珍しい参加者手出し、いわゆる会費性の珍しい送別会に出席しました。えひめ地域政策研究センターに出向している研究員の送別会なのです。2年間もお世話になった方々なので送別会をと思っていたのですが、酒を飲まなくなった私には敷居が高くその時期を逸してしまいました。でも心ある親友の門田さんや岡崎さんの計らいで小さいながら送別会が持てました。兵頭さんは旧津島町から、脇田さんは旧内海村から、河井さんは大洲市からそれぞれ出向して2年間の仕事を終え、それぞれ合併してなくなった旧町村へは帰ることができず、新しい町へ帰るのです。

 本来いるべき場所へ帰る喜びと、2年間の貴重な体験をした職場から去る寂しさの交錯する複雑な心境を吐露しながら終電車に遅れそうになるほど、飲むほどに酔うほどに楽しい弾んだ話をして過ごしました。

 この日は先日の内示発令でセンターへ出向することが決まった松本さんも参加して、歓送迎会のような雰囲気でした。松本さんは私が教育長をしていたころ同じ教育委員会で仕事をした心許せる人だけに内心はとても嬉しく、しかも私が代表を務めているえひめ地域づくり研究会議の事務局も兵頭さんから引き継ぐとあって、万々歳なのです。

 35年間に教育委員会から産業課へ、産業課から企画調整室へ、企画調整室から地域振興課へ、地域振興課から教育長へと35年間に僅か4回しか人事異動せず、しかも異動といっても1階から2階へ、左から右へ机を動かす程度の私の移動でした。彼らは合併という時代の流れに翻弄されながらも、また市町村職員でありながら出向という異動でそれぞれの拠点を離れ県庁所在地の松山で2年間を過ごしました。この何ものにも変え難い経験を生かして、いい仕事をするいい職員であって欲しいと願っています。

 異動の記事の尻切れに退職という欄があります。これまでは部長や課長など常にトップ近くの記事に扱われていた方々が、この記事を最後に退職されます。かつて仲間として同じような仕事をしてきた方々が退職です。虫眼鏡でしか発見できないような片隅の小さな名前に人生を感じます。彼らの中には天下りや再就職先が決まっている人もいるでしょう。私のようにあえて自由人を選ぶ人もいるかも知れません。でも職場での人生ドラマはもう終わったと自覚して、一日も早く自立ある自分本来の人生を取り戻して生きれるか、その後の生き方が問われています。

  「内示出て 異動が移動を 強いられる 夢や失望 人それぞれに」

  「2年間 ご苦労様と 酒を注ぎ 矢のよう過ぎた 日々を反芻」

  「年度末 酒屋と飲み屋 忙しい 一方客足 遠のく店も」

  「送別会 嬉しい悲鳴と 女将言う 光と影が 見え隠れしつ」  

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shin-1さんの日記

○人間牧場に第4サティアン?着工

 人間牧場に第4サティアン?が着工しました。サティアンといってもただの倉庫です。息子が建築の関係の仕事をしているためあちらこちらで出る廃材をゴミ袋に入れて貰ってくるのですが、置き場所がなくてそこら辺に積んで美観を損なっているため、思い切って薪倉庫を作ろうと思い立ちました。加えて大洲の亀本耕三さんから貰った耕耘機もシートを被せたままなので、これも入れなければなりません。そんなこんなで倉庫が必要になりました。資金源の妻は再々再の計画実行に渋い顔をしていますが、私の小遣い節約資金も少し貯まりましたので思い切って着工することとなりました。人間牧場に水平線の家を建てた頃は夢とそろばんが合致して、設計を担当した息子のアイディアもかなり採用してきましたが、ロケ風呂、ツリーハウスと夢が実現するにつれて肝心な資金源が底をつき、今回の第4サティアンは見るからに貧弱ですが、まあ今回は倉庫ということで屋根もスレート、そんなこんなでお茶を濁そうと思っています。

 先日お願いしていた大工さんの工事が始まりました。土工事はコンクリートで基礎を仕上げる作業なのですが、元受の大工さんの仕事の工面が付かず近所の左官さんに下請けとなりました。億を超える仕事なら下請けも良くある話ですが、僅か1坪半の建物に下請けとはと作業を見ながら思わず笑ってしまいました。それでもその下請け左官が近所の親戚とあって仕事はがっちりしていましたし出来栄えも思ったより頑丈なので安心をしています。美観を損ねていた人間牧場周辺もこれで一気に整備されそうです。

 このところすっかり春めいて三寒四温の巡りの中で雨が頻繁に降り始めました。着工すれば一日も早い完成を心待ちにするのは当然かもしれません。昨日は孫を連れて午前中人間牧場へ行きましたが、既に大工仕事も始まって建て前は終わっていました。本当はここにかまどを置きたかったのですが、予算の都合でこんな小さな建物になってしまいました。でも人間牧場の道具小屋としては適当な大きさと認識し使いたいと思っています。

 この施設の総事業費は45万円ですが、金策尽きた世の中でも助ける神様はいるもので、一昨日関奉仕財団から教育文化奨励賞なる立派な賞をいただきましたので、その副賞としてこれまた沢山のご芳志をいただきました。人間牧場への投資は受賞理由にぴったりなので使わせていただくことにします。私の夢にまたひとつソロバンが乗っかって夢がドリームではなくターゲットできそうです。



 竹とんぼを作る道具類も家の倉庫に眠っていましたが、いよいよ引越しができそうですし、亀本耕三さんから貰った耕運機も収納できそうです。薪はできるだけ美観を損なわず、それでいて人間牧場を演出できそうな軒先に積めるようこれから作戦を練ってみようと夢を広げています。

 昨日地域政策センターの清水さんから梅とスモモを人間牧場に植えた話題をメールとブログで発信したら、鳥獣の食害にご注意をと水を掛けられました。昨年サツマイモをイノシシに食べられたことを知ってのご忠告のようですが、何年か後に実を付けるであろうスモモの食害も急に心配になってきました。でも植えない木は育たないし、鳥にも生きる権利があるのですから共生を考えました。多分実がなって食害に合うと悔しい思いをすることでしょう。梅も10本植えましたが、そういえば「悔」という字は「梅」という字に似てますね。早くも清水さんの忠告が悔いを生み出しているようです。

  「四軒目 家主力量 余裕あり 次々着工 妻の驚き」 

  「田舎ゆえ こんな遊びが 次々と 俺は幸せ 福の神来る」

  「三十年 すれば俺など 土の下 今が大事と 年輪刻む」

  「何で飯 食ってる茶碗 当たり前 飢えもしないで 夢を実現」


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shin-1さんの日記

○何故私はコーヒーを飲まないのか

 「コーヒーは如何ですか」。「いいえ私はコーヒーを飲みませんので」。今までこんな会話をどれ程したことでしょう。中には懇切丁寧に「どうしてですか」と尋ねる人がいますが、「どうして」といわれても嫌いなものは嫌いなので答えようがないのです。私が始めてコーヒーを口にしたのは中学1年生の時でした。私の住む町は田舎でしたし私が生まれたのは昭和19年ですから、カレーやマヨネーズなどに出くわすのも随分遅れていたように思います。多分その遅れからでしょうか中学1年生までコーヒーに出会っていないのです。ある日の夜中学校の宿直室へ勉強を教わりに宿直の先生を訪ねました。先生は私のためにインスタントながらコーヒーを入れてくれました。勿論砂糖は白砂糖、クリープなどありませんでした。その時のコーヒーの苦かったことは今でも忘れることができないほどでした。さらに困ったことにそのコーヒーのカフェインのお陰で、その夜は一睡もすることができませんでした。「コーヒーは苦くて不味い」これが私の第一印象で、あれから50年間も私はコーヒーを口にすることはなかったのです。同じように若い頃ウイスキーをボトル一本空けて上げ下げして、「俺の口にウイスキーは合わない」と勘違いしてから、ウイスキーを口にすることはありませんでした。(誰が飲んでもボトル一本空けると二日酔いは当然だという事を後で知りました)。

 中学校1年の時のことなので今なら飲めるのかも知れませんが、何故か私にとってコーヒーとウイスキーは嫌いな飲み物なのです。そんな私の長男がよりにもよって喫茶店を営む娘さんと結婚したのですから、嫌がらせとしかいいようがありません。私は娘となった長男嫁の実家が経営する喫茶店にちょうちょく顔を出しますが、私が行くと手馴れたものでブラックならぬホワイト(牛乳をホットにする)を出してくれるのです。

 一昨日広島に行った折も相手がコーヒーを注文しそうになりました。「私はコーヒーを飲まないので結構です」と断ると、「じゃあ紅茶にしましょうか」で、紅茶と相成りました。



 差し出された一杯の紅茶は講演前の逸る気持ちを押さえて私の心を落ち着かせてくれました。コーヒーを飲む人も多分私と同じようにコーヒーを飲むことで落ち着くのでしょう。しかしコーヒーを飲まない私にとって理解し難いことが一つあります。それは食後のコーヒーなのです。妻は美味しい食事の後に食後のコーヒーを飲みます。多分食後のコーヒーをたしなむ通の方は、私の理解し難いこの発言を笑うことでしょうが、世の中はこのように色々な人がいるのです。

 私はどちらかというと日本茶派です。日本食の食後に美味しい日本茶を飲むと何となくホッとします。これからも多分死ぬまでコーヒーとウイスキーは飲まないでしょうが、私は人から言わせると変わった人のようです。

  「コーヒーを 飲まぬ原因 聞かれたら 50年前 苦かったから」

  「コーヒーを 飲まぬ私の 長男に 喫茶店から 何故か嫁さん」

  「紅茶飲む ホッと一息 安らいで それじゃボチボチ 始めるとするか」

  「コーヒーも 飲めないなんて 田舎者 言われてみても 飲めない自分」 

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shin-1さんの日記

○経由地が拠点地に

 どちらかというとまちづくり談義は中山間地からの要望が多いため、私の訪問する場所は田舎が多いのです。そのため大都市と言われる広島・博多・岡山・大阪などはこれまでそんな田舎への経由地的存在でしたが、つい最近は広島や博多などでの講演会が多く、多少の戸惑いを感じながらも出かけています。一昨日は中国経済連合会の開催する観光振興委員会に招かれ広島へ出かけました。四国と本州には3本も橋がかかっていますが、西に位置する松山や広島からは遠い位置にあって利用しづらく、松山~広島は高速船かフェリーを使います。高速船だと1時間15分、フェリーだと2時間半なのですが、フェリーの運賃は2時間半も乗って2900円なのに、高速船は1時間15分で6300円もするのです。ゆっくりのんびりできない所用の時は「高いなあ」と思いつつも結局時は金なりで早くて便利な高速船を使ってしまうのです。


 この頃の瀬戸内海は春の海という表現がピッタリの穏やかさで、松山と広島を結ぶ航路はとても快適な船旅でした。いつも通る見慣れた光景でも音戸の瀬戸を通って寄港地呉港付近になると、みんなの目は俄然外に向けられます。石川島造船のドックには見たこともないようなでっかい船が艤装作業をしていたり、海上自衛隊の潜水艦や艦船が停泊していたり、また呉の港には大和ミュージアムがあったりで、結構目を楽しませてくれるのです。

 今回の講演会は広島平和大通りに面した三井ガーデンホテルの5階会議室でしたが、このホテルはかなりグレードが高く私などのような庶民には縁遠い場所だと思いつつも90分のおしゃべりをしました。メンバーには瀬戸内海汽船会長さんやかつて東京ロマン亭の経営にも携わった西林洋治さんもいて、こちらもかなりグレードの高い方々でした。

 広島は行く度に大きく変貌発展を遂げています。特に宇品の港周辺の開発は著しく、道路網の整備や大型ショッピングの進出は目覚しいものがあります。タクシーで通った場所には広島に本拠地を持ついづみが専売公社跡地に大きな出品具センターを建設していました。

 講演が終わると折り返しの高速船で宇品の港を後にしましたが、僅か1時間15分の船旅を経て松山に帰ると、ここが愛媛の中心なのかと見まがうほどな規模の小ささを感じずにはいられませんでした。ビルの高さも、道幅も、車の交通量も、道行く人までもが都会と田舎と感じる落差です。でもなぜかホッとするのは私が田舎者だからではなく、四国らしい穏やかな気候風土と人情味なのでしょう。普通の人だとこの状態を見て広島は活気があっていい、松山は発展性がないなんて言葉を口にするのでしょうが、私は発展することだけがいいとは思わないのです。少し視点を変えてみるとそこには幾つもオンリーワンの良さが見えてきます。来月に入ると統一地方選挙で県会議員などが様々な訳の分らぬ議論を喧しい拡声器を通して訴えます。それは自分が当選するための言い訳で、市民の幸せなど選挙に勝ってしまえばどうでもいいことなのです。

 これまでに何回か私に選挙に出ないかと熱心に勧めてくれた人がいます。でも私にとって政治の世界は余りにもウソと建て前が多くてどうしても好きになれず、結局は今のような独立独歩な道となりました。でも悔いはなく信念を曲げなかった自分をむしろ誇りにすら思うのです。

 「旅の途中」、それは目的地までの時間をもう一人の自分と語り合う時間かもしれません。行く先の目的に思いを巡らせるし、帰りには目的の成果や失敗について反省もします。それ以上に自分のこれまでの生き方とこれからの生き方を色々考えるのです。

旅は自分探しなのかも知れません。経由地が目的地になりつつある昨今、また私の価値観が少し変わりつつあることを発見しました。

  「経由地が 目的となる この頃は 旅の想いも 少し変わりて」

  「広島と 目と鼻の先 松山は 落ち着き払い 変わりもせずに」

  「庁が省 格上げされた 呉港の 岸壁繋ぐ 艦船大きく」

  「戦争の 懐古か大和 ミュージアム ミーハーぞろぞろ 日本は平和」

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shin-1さんの日記

○関奉仕財団第1回教育文化・社会福祉奨励賞授賞式

 今日は私にって晴れがましい一日となりました。2年前役場を退職してからは表彰などという晴れがましい表舞台には縁のない人間だと思っていましたが、関奉仕財団から通知があって、長年の活動に対し第1回教育文化・社会福祉奨励賞の教育文化部門に選ばれたので授賞式に出席するようにとのことでした。うれしいことではあっても果たしてそんな賞に値するかどうか不安な面持ちで出かけました。伊予鉄会館のこじんまりした部屋での受賞式でしたが、愛媛県知事(代理・副知事)や愛媛県教育長、主だった経済団体の代表も列席する重々しい授賞式に驚いてしまいました。

 印刷された私の受賞者紹介には次のようなコメントが載っていました。

 自宅の敷地内に若者が自由に集まる場所として「煙会所」と称する私設公民館を開き、人材育成に力を注いでこれれました。現在は、この煙会所を発展させ「人間牧場」と名付けた住民の生涯学習の場を設置し、人々の体験活動や研修の場のみならず、県内外のリーダーを対象に「町づくり人材育成研修会」を開催される等、リーダー養成の場としても活用されておられます。

 人間牧場主の傍ら、全国各地からの要請に応え、これまでの経験や研究の成果についての講演活動を行い、後進の指導に尽力されておられます。

 主な功績

 ・県の青年団のリーダーとして青年団活動の活性化に貢献

 ・21世紀えひめニューフロンティアグループを立ち上げ、子供たちの体験活動の指導者として活躍

 ・住民の町づくりの意識高揚のための組織づくりに力を注ぎ、夕日をコンセプトにした町づくりに取り組む

 ・「煙会所」「人間牧場」を設置し、住民の生涯学習の場を提供

関奉仕財団と私の関係はもう20年も前に遡ります。当時私は自らが主宰した21世紀えひめニューフロンティアグループの代表をしていました。ある日関印刷の会長さんから電話で呼び出され100万円の小切手をいただくことになったのです。弱小ボランティアグループにとって資金の乏しさは悲しい出来事として私たちの活動の行方に重くのしかかっていました。喉から手が出るほどの嬉しさでしたが、理由もないのには受け取れないと一度は拒否しました。しかしたってのご依頼なので甘んじて受け取りました。その時の会長さんの「100万円儲けることは難しいが、100万円使うことはもっと難しい」という言葉は今も強く心に残っています。その資金は「今やれる青春」という20周年の記念著書となりましたが、それ以来関財団は私たちに毎年30万円の資金援助をずっと続けてもらっているのです。その影には元愛媛県教育次長の藤原茂さんの存在が大きかったことは言うまでもありません。今日の授賞式には藤原さんも出席されていたので、感謝を込めて藤原さんの話を交えながら謝辞を述べました。

 「人は人によりて人となる」という言葉がありますが、まさに今日の受賞は関会長さんや藤原さんの支援なくしては語れないのです。奨励賞とあるのはこれからの成長に期待すると理解しまた新たな気持ちで進化したいものです。なお奨励賞の副賞は人間牧場の整備に使わせてもらいたいと思っています。

(表彰式終了後のレセプション。左二人が受賞者。その右は前副知事)

(私の席の横が副知事、県教育長、理事長)

(関奉仕財団理事長さんと記念写真)
  「縁遠い ものだとばかり 思ってた 表彰受ける 少しドキドキ」

  「陰徳を 積んで活動 四十年 お天道様は しっかり見てる」

  「知らぬ間に 六十路越え来た 春の日に 奨励賞など にぎにぎ受けて」

  「横に知事 その横会長 雲上の 人に囲まれ うれしは恥かし」

  

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shin-1さんの日記

○春が来た

 人間牧場にも遅い春が来て、青い青い柔らかい草が地面を覆い始め草丈も随分伸びてきました。「ああ今年もこの雑草と戦わなければならないのか」と思うと少しガッカリしますが、近所のおばちゃんが「草は七草というように7回刈らなきゃ草には勝てない」と言われてハッとしました。「そうか一年に7回も刈らなければならなければならないのか」と思えばそれは大変なのですが、「7回刈れば雑草に打ち勝つのか」と思えば俄然勇気が出てきました。今年の冬は体調不良(ギックリ腰)と超多忙で作付けを予定していたジャガイモを断念することになって、悶々の春なのですが、急峻で細長い畑には思い切って梅とスモモを植えることにしました。このことは24日のブログ「忙しい一日」で紹介しましたので省略します。

 春といえば何といっても山菜です。この季節になると海沿いに面した私の町ではツワブキが沢山獲れます。山や畑の脇の急斜面には綿毛を被ったツワブキの子どもがニョキニョキ顔を出しています。私も苗木を植えた後そこら辺を歩いてあっという間に一抱えもツワブキを収穫しました。丸々と太ったツワブキはいかにも美味しそうなのですがツワブキを食べるには皮を剥我なければならない難題があるのです。

 ツワブキは灰汁の強い植物なので皮を剥ぐとその灰汁が指先にまるでニコチンのようについて取れなくなるのです。近所の歯医者に勤めている妻は、手を使う仕事なので余り灰汁をつけると見苦しいので、獲ってきたツワブキの皮を剥ぐのはもっぱら私の仕事になるのです。そのことを承知しているのでツワブキを獲る時いつもためらいますが、美味しい味には勝てずついつい獲ってくるのです。一昨日夜の地元の会合が予想以上に早く終わったので、テレビを見ながらツワブキの皮を剥ぎました。「まあ珍しい、お父さんがツワブキの皮を剥くなんて。雨でも降るんじゃあないかしら」と、妻も次男も鼻で笑って手伝おうとはしないのです。しかし妻の予言はよく当たるものでその明くる日、つまり土曜日は大雨で馴れないことはしない方がよいと思いました。

 昨晩の食卓には私の剥いたツワブキがメバルと一緒に煮付けられ逸品添えられました。今時はメバルも旬でメバルの味の染み込んだツワブキのほろ苦さはやはり早春の味でした。

 最近は私と同じようにツワブキを食べたいという人が多いのでしょうか、シーサイド公園の特産品センターではツワブキの剥いたのをビニール袋に入れて売っているようです。少しの量でも200円の値札が付いています。さしずめ私の加工したツワブキは少なく見積もっても2千円はくだらないと、妻はくだらない褒め方をして持ち上げてくれましたが、忙しさの余り、旬を食べる、旬を実感することの少なかった私の人生も、これからはせいぜい旬でありたいと思っています。

 待ちに待った桜の開花宣言が松山でも出されました。いよいよ春本番です。人間牧場へも春を探しにちょくちょく顔を出したいものです。

  「手袋を はめてツワブキ 皮を剥く 汚れたとても 困りもせぬに」

  「剥きしツワ 二千円也 値踏みする 妻の一言 勇気百倍」

  「こんなもの 美味いと思う 年頃に なった自分に 気付くツワブキ」

  「妻言うた 予言どおりに 雨が降る 気象予報士 顔負けですな」

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○二次元情報は人を感動させない

 えひめ地域政策研究センターのことを私たちは昔の略称名前で「マチセン」と親しみを込めて呼んでいます。この財団へは県庁や市町村、団体から出向して仕事をするのですが、普通は2年、長い人は4~5年いて仕事をして元の職場へ帰って行くのです。まちセンへの出向はまちづくりの勉強という意味合いが強いのですが、研究員になった人は優秀な人材が多く、様々な学習と仕掛けをしてそれなりの足跡を残しているようです。

 主任研究員といわれる要の人は県庁の係長さんレベルの人がやってきますが、今期の主任研究員を務めた井石さんはセンターまちづくり部門の要として胃の痛むような仕事を随分こなしてこられました。今回の異動内示で宇和島地方局への転勤が決まり忙しい日々を過ごしておられることと思いますが、先日開催したえひめ地域づくり研究会議の運営委員会で、センターで過ごした思い出を振り返りながら話されたことが味わい深い話として耳の底に残っています。

 その一つは「二次元情報は人を感動させない」という言葉です。実践化を自認する私にとってそれは戒めのような言葉でした。私は人の前で話をする機会が多いのですが、私の話はどちらかというと体験談です。ですから本を読んだり人から聞いた話は殆どしませんし、講演に行く前にあらかじめレジメを用意して話すことは殆どなく、その場の雰囲気を取り入れてアドリブで話すようにしています。また言葉も標準語ではなく日ごろ使っている地元の方言口調で話します。本で読んだり人の話した話を私がすれば、それは井石さんが言うように二次元情報になってしまって感動させないのです。私の話には必ず私と聴衆、私とパネラーなどの対立軸がありますが、特に何人かのパネラーがいると、その人を意識し過ぎて少しでもいい事を言ってやろうと背伸びをして、ついついいい言葉や他の人の受け売りをしがちになるのです。でも所詮は受け売りで感動の域には達しないのです。

 二つ目は、人の話を聞き本を読んでその時気付かなかったことに気付くようになる」という話です。私たちは人の話を聞いても、本を読んでも自分のレベルというスライドを通して様々な事を学ぶのですが、自分のレベルが低い時に聞いたり読んだりして気付かなかったのに、何年かして同じ話や本でも随分違った感じ方をするものです。多分自分のレベルが少なからずアップした結果だと思うのですが、この自己変革こそ世にいう生涯学習の成果なのです。一度読んだ本は本棚や書籍の隅に追いやられていますが、もう一度その気になって読めば必ず新しい発見があるものです。新しい本を買って読むのも意味がありますが、古い本をもう一度読み返してみることや、同じ人の話でもその気になって聞けば心の扉を開いてくれることでしょう。

 最近、山梨県甲府で知り合った龍前宏さんという方からカセットテープが届くようになりました。デジタル時代といってもカセットテープなど時代遅れな感じもしますが、これがどうして私の耳には不思議とフィットして、移動中車の中で聞くと中々面白くただ今はまっています。カセットテープは私にとって時代遅れではなく想像を巡らす最先端な情報なのです。智のレベルを上げることは容易なことではありません。私のように一応社会の役目を終わってリタイアした人間への情報など限られてくるし、覚えが悪く覚えても直ぐに忘れる年齢的ハンディもありますが、何時までも学ぶ心を忘れないでいようと、井石さんのの話を聞いて思いました。

 この他にも、「民意を高めるモチベーションの補給」や「経済と現場」「センスを磨く」など幾つも心に響く言葉をみんなに向けて話しました。私はあいにくメモ用紙を持っていなかったのですが、先日妻が私の背広をクリーニングに出す時、ポケットの隅から「宇和海」と書かれた箸袋を見つけました。「お父さん、ポケットから出てきた箸袋に何やらメモをしていたので、机の上に置いておきましたよ」というのです。見覚えのあるその箸袋は懇親会の会場となった「宇和海」という料理屋さんのものでした。箸袋を見ながら忘れかけていた井石さんの話を思い出しました。メモは大事ですね。でもメモをしたことすら忘れるのですから、いい加減な男です。あっ、頼まれていた原稿を忘れた。今思い出しました。今日は書こう。

  「ポケットの 底よりい出し 箸袋 赤ペンメモる 話のネタが」

  「聞いたよな 話に終始 するようじゃ 人は感動 することはなし」

  「改めて 同じ雑誌を 読み返す 気付かなかった ことに気付いて」

  「ワンランク アップするよな 生き方を これから先も しっかりやろう」 

  

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shin-1さんの日記

○久万高原町の木にこだわったまちづくり

 今日は昨日とうって変わった天気で、早朝から雨が降り始めました。低気圧の影響でしょうか海は南西の風、ここら辺ではやまぜの風が吹き荒れて、何もかも飛んでしまいそうな強風でした。昨日の天気がまったくウソのような感じで、今日はそんな雨の中を約1時間あまりをかけて久万高原町で開かれた「木にこだわったまちづくり」のお手伝いに出かけました。私と愛大名誉教授の猪瀬理先生がそれぞれ30分間づつ基調講演を行い、その後のパネルディスカッションにつなげようとするものです。猪瀬先生は長年久万長と関わっているので、専門的見地から木について理路整然とお話されました。久万町へは河野町長さんや渡部助役さんの時代から何度となく訪れていますので、大体のことは分っているつもりなのですが、いざまちづくりについて語るとなると30分といえども基調講演ですから手を抜くことは出来ません。


 私は今朝書いたレジメを前半話し、後半は「もし私が久万高原町長だったら」という次のような話を木になぞらえて話しました。木・林・森という漢字があります。木=虫の目、林=人の目、森=鳥の目、木を生かそうと思えば林や森の視点を持たなければなりません。

①賑わいの復活

 先日仁淀川町を訪ねた時の印象を話しました。国道33号線はかつてのような交通量が八の字高速道路の完成によって激減しています。松山からだと遠回りのように思える川之江ジャンクション経由だと2時間で高知市へ行けるのに、久万経由だと相変わらず3時間もかかるのです。道は山を縫うようにして曲がりくねっており、快適さを求める現代人に敬遠されるのは当たり前でしょう。松山からそんなに遠くない位置にあるのに三坂峠の存在が遠いイメージを持たせているのです。現在掘っているトンネルの一日も早い完成を待ちたいものですが、アクセスの整備はぎょせいの大きな仕事であることの認識をしっかり持ち、トンネル開通後のまちづくりプランをしっかり練るべきだと言いました。賑わいは交流人口の増加です。賑わいを創出するためには事を起こすことや拠点の整備をしなければなりません。ふるさと村のイメージが定着していますが、この20年で交流の相手は随分変わってきたことの認識も必要です。

②健康のイメージづくり

 花粉症がひ弱くなった現代人の病気として認知されていることは、春先の花粉情報でも明らかです。杉の町=不健康な町では困ります。スギ花粉だらけの町に住んでいる人が何故過ぎ花粉症にならないのかもっと考えるべきです。森林浴やマイナスイオンの里など森林の持つ健康を強調すべきだと思うのです。合併によって面河・美川・柳谷が加わって久万高原町の森林政策は大きな魅力を増しました。落葉自然林ゾーンが出来たのです。水源涵養や環境問題にも派生する森林政策がより重みを増しています。健康イメージを復活したいものです。

③情報化時代に対応する

 徳島県上勝町や愛媛県内子町の農業がパソコンで息を吹き返しました。マーケティングまではいかなくても、インターネット情報が主流の時代を生き残って行くためには、情報鎖国の状態では困るのです。参加した人の殆どの人の頭は白髪の白骨林、毛が抜けた禿山に似ている、新しい情報という木を植えなければなりません。竹森さんがいうように都会には第二のふるさとを求めているし、健康な生き方を田舎でしたい人がいるし、安心安全が脅かされる都会に住むことへの危機感を持っている人が沢山います。田舎暮らしの情報を求めているのに久万高原町からの情報発受信は残念ながら皆無なのです。「誰に来て欲しいの」と尋ねられたらどう答えるか。交流は松山圏内、定住は全国募集というターゲット意識をしっかり持つべきなのです。

④町の魅力をつくる

 久万高原町千年の森運動、シンボル的ツリーハウス、久万産材の迎賓館、木になるカバンの製作、机の天板を贈る卒業式など新しいアイディアを私なりに提案しました。参加した人たちがどう受け止めたかは知る由もありません。でも魅力とは結局青い鳥ではなく町民のやる気の行動でしかないのです。まちづくり、魅力づくりは自分づくりなのです。


 最後に町長さんが「木にこだわりのまちづくり宣言」を読み上げました。その内容はまちづくり、久万の家の建設、久万材を使った家づくりの推進の三つでした。「今日が始まり」という言葉が印象的でした。


 

  

  「町長の 意気込み 感じつ 話する 顔の向こうは 昔若者」

  「人車 減って寂しや 遍路道 桜雨打つ 道をとぼとぼ」

  「一年中 緑覆わる 久万の町 春夏秋冬 同じ服着て」


「笠地蔵 昔話で 聞いたっけ 三坂峠の 坂を登りつ」

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