shin-1さんの日記

○観光カリスマ百選になって

 もう5年も前の出来事です。当時の内閣府から何人かの人が訪ねてきて、私の観光関係の身元調査を始めました。観光といっても観光不毛といわれた双海町で何の調査を始めるのだろうと静観していましたが、やがて私の話を聞いたり私の案内で観光施設を回ったりして帰って行きました。その後色々な資料のやり取りがありましたが平成15年7月1日、「観光カリスマ百選選定委員会島田晴雄」」なる人から仰々しい認定証が送られてきました。何せ当時はあの奇人変人と言われた小泉純一郎さんが総理大臣で、観光立国なるスローガンを掲げていた時期であり、その目玉として観光カリスマ百選などの新しい戦術をアピールし、その頭脳集団の一員として知恵を伝習していた方が島田さんだったのです。それからです。私の身辺が少し騒がしくなってきました。私が選ばれたのは第3回の選定委員会ですからまだ50人にも満たない時期で、物珍しさも手伝ってあちらこちらから様々なアプローチがありました。私はその頃既に地域振興課長(別名夕焼け課長)から町の教育長に転身していましたので、教育委員会関係者は私の称号に目をパチクリしたものです。

 広辞苑によるとカリスマとは、超人間的・非日常的資質、英雄・予言者などにみられる。カリスマ的資質を持つものと、それに帰依するものとの統合を、マックス・ウェーバーはカリスマ的支配と呼び、指導者による支配類型の一つとした。とあるのです。最初広辞苑を読んで調べた時、これは大変な称号だと思い、辞退したのですが時既に遅しでした。観光カリスマに選ばれた全国の方々には有名な観光地を作られた方々が名前を連ねていられるのです。その後内閣府から観光を担当する国土交通省へ所管が変わりましたが、政府のホームページで流れるものですから観光カリスマが一人歩きして、今でもその称号の持つ凄さの前にたじろいているのです。

 観光カリスマが100人選ばれたところで日本観光協会が主催して東京高輪のプリンスホテルで観光カリスマシンポジウムが行われました。その時は100人の中から6人が選ばれ壇上に上がりました。群馬県草津の町長さんや山梨県清里の舩木さんなどそうそうたる顔ぶれです。何故か私も6人の末席を汚すことになりました。皆さんはそれぞれ参加者に自分や自分の成果をパンフレットなどを配って盛んにPRしていました。勿論スライドショーなど文明の利器も登場してそれは華やいだシンポでした。私はそんな余裕もお金もないのでアドリブで面白おかしく、最後にはハーモニカまで吹いてしまいました。これがまた受けたのです。当時を述懐して山梨県清里の舩木さんは「若松さんに後の5人が食われてしまった」というのですが、以後舩木さんは私の最も敬愛するカリスマとして深い親交へと発展しているのですから不思議なご縁です。

 私は自由人になった今も観光カリスマとして様々な場面で紹介され、その名に恥じぬよう人間牧場などを作って努力をしてきました。少なくとも観光カリスマに選ばれた平成15年の時点から比べるとはるかに進化を遂げていると自分でも納得しています。称号に胡坐をかいてその人の価値が高まるものではありません。私の観光カリスマの称号略称は「真似しない真似できない観光カリスマ」なのです。地域振興課長10年と教育長2年の合計12年間毎日、ふたみシーサイド公園で早朝3時間の清掃を続けてきた実績と自負は、「掃除は最高の観光である」ことを人々に伝える絶好のチャンスでした。

 5年という時の流れは、観光の分野にも大きな変化がありました。市町村合併によってふるさと意識は後退し、もてなしの心が揺らぎつつあります。一方では地域の人たちがグリーンツーリズムなる知恵を編み出し自立に向けた努力をしようとしています。

いつの時代も難しいと思えば難しいし、容易いと思えば容易いのですから、容易さのまちづくりでこれからも多くの人と交流したいものです。

  「観光の カリスマ呼ばれて 五年経つ 進化しつつも 新たな試み」

  「今日もまた 木になるカバンを 提げ歩く 夕日の町を 全国各地に」

  「観光は 国の光を 見るという 弘法大師の 教えそのまま」

  「あくまでも 謙虚であれと 身に諭す だけど冒険 忘れてならぬ」

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shin-1さんの日記

○人間牧場の春

 人間牧場に春がやってきました。野も山も瑞々しい空気に包まれ、人間牧場の牧場に見立てた海や空の宇宙空間は春色のパステルカラーに彩られた一枚の絵のようで、何時までも見飽きない風景です。昨日は大陸から春特有の黄砂が降り注ぎ、視界が効かずこれまた幻想的な雰囲気でした。野に花が咲き乱れ小鳥がさえずり頬を撫でる風も優しく、まさに生きていると実感する季節なのです。殺風景だった遠望の山々には今まで気付かなかった山桜の花の塊が幾つも確認でき、花を愛でにあの桜の木の下に行って見たいと思うような心境にかりたたれます。

 人間牧場のツリーハウスがあるすぐ横に大きな山桜の木があります。日ごろはカズラに覆われているのですが、去年の夏にそのカズラを切っていたので今年は見事に花をつけました。ツリーハウスの押し上げ窓を開けてつっかい棒で固定し、窓越しにこの山桜を見ましたが、小さな窓の空間に山桜が映えて何ともいえない素敵な花見となりました。まさに私だけしか味わえない私だけのとっておきな空間なのです。多分この山桜の花を見るのは草深い荒れ地ゆえ地球上で私一人ではないかと思うととてもいとおしく、せっかく冬の寒さを超えて咲いたのですから山桜を褒めながら見入りました。松山道後公園の桜を愛でる群衆心理の花見もいいですが、人知れず咲く花をたった一人で愛でる花見もおつなものです。

 人間牧場に第4の施設がほぼ完成しました。施設といってもそんなに大袈裟なものではないのですが、小さな倉庫でも施設間の風景ががらりと変わるものだと実感しました。

(新しく建設中の倉庫です)

(倉庫辺りから見たツリーハウス)

(ツリーハウス側から見た倉庫とロケ風呂と水平線の家)

 この倉庫での目論みは赤トンボ製作です。役所に在職中、当時上灘中学校の校長だった窪田先生と赤トンボの製作に関わりました。特に管内の同和教育研究大会で披露した赤トンボの製作が好評だったことから、かねがね人間牧場のプログラムに赤トンボ製作を加える計画でしたので、工具類は既に購入して煙会所の倉庫にしまってありますから、この倉庫を活用して赤トンボを作ってみたいと密かに思っていました。人間牧場で製造した赤トンボが世間の話題になる日もそんなに遠いことではないと思っています。さしずめこの倉庫は工房といったところでしょう。

 もう一つの夢はお釜をどこかに設置して煮炊きができるようにすることです。羽釜で炊いたご飯を食べたり、燻製も考えたいと昨年の逆手塾でやって来た広島の田中一裕さんから燻製の手ほどきも受けています。食をたしなむ拠点にもしたいと思っています。何年が後にはこの農園に植えている梅の実やスモモの実を加工してジャムなども作って見たいし、周りの野山に自生するヤマモモの実や昨年沢山収穫した野イチゴを使ったジャムづくりにも今年は挑戦したいと夢は膨らむばかりです。

 昨日国立大洲青少年交流の家の浅野先生からメールが入っていました。まだ返事のメールを送っていませんが、アウトドアの仲間たちが人間牧場での交流を心待ちにしています。約束なので4月中に所長以下職員のみなさんと人間牧場で交流会を持ちたいと思っています。私の日程もはや新年度モードに切り替わっているのですが、新年度早々何ともはや忙しい日々なのです。

 そういえば今年の冬訪れた群馬県上野村の桜、高知県仁淀川町の桜が気になります。もうそろそろ見ごろを迎えているでしょうに、まだ上野村からも仁淀川町からも桜の便りが届きません。「おーいどうした上野村」、「おーい元気か仁淀川町」と心の中で叫んでみました。

 【風の便り】

 海沿いに面した双海町の桜は、冬の冷たい風の影響で花芽の表皮の水分が奪われて内陸部の桜に比べ少し遅れ気味で桜が咲きます。それでも20年前花咲くまちづくり事業として青年会議の皆さんが植えた沢山の桜が海岸線を彩りつつあります。今週が見ごろとなりそうです。近し人、遠き人ぜひ海沿いの桜をご覧下さい。

  「人知れず 野山彩る 山桜 俺しか褒める 人もないのに」

  「牧場の 小さき窓を こじ開けて 中から愛でる 桜楽しき」

  「黄砂降る 幻想の中 山桜 日本画見てる 気分で見入り」

  「春色に 染まり転寝(うたたね) のたりかな 遠くウグイス 谷を渡りて」  

 


 

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shin-1さんの日記

○上に目を向けている上司

「ねえ若松さん、どう思いますか」唐突な電話をかけてきたのはある街の市役所の知人でした。彼が言うのには今日は新しい年度の始まりの日で、昨日が日曜日だったため月曜日の今日の朝、全員で朝礼をしたそうです。新しく支所長になってやって来た支所の責任者は、朝礼で開口一番こう話したそうです。「今日から支所長になった○○です。私の考えは市長の考えであり中央のやり方に合わせて仕事をして下さい」と短いながら決意を述べたそうです」。この支所長は定年間近でもう一年だそうですが、これまでどちらかというと上司や部下との人間関係が上手くいかなかった方だと伺っていました。

 電話をかけてきた友人が指摘するのは支所長の言葉の意味です。本庁から帰った人は得てしてこんな物言いをするのかもしれませんがまず「市長という威厳で部下をひれ伏そうとする態度です。確かにその街の代表は市長であり、市長の言うことは絶対です。しかし支所長と市長が同じはずはありません。ましてや中央の考えに合わせるという中央集権的な発言は、これまた出先にとって何とも割り切れぬ発言なのです。この支所長はこれまで上に対して批判を繰り返していたのに、たった一年の中央暮らしでここまで洗脳されるのかと見まがう程の変身ぶりに周りが驚いたのは無理からぬことだと思うのです。

 もし私がこの支所長だったらどういうあいさつをするだろうと考えてみました。今回支所長になった若松です。私は支所という仕事は中央の末端出先ではなく最前線だと思います。住民に最も近い最前線にいい職員がいると痛みも苦しみも悩みも分っていい行政ができるのです。支所はそんな意味で合併後の最も重要なテーマである参画と共同のできる場所かもしれません。中央には中央のやり方がありますが、支所には支所の地域個性があります。この個性個性を磨くことも大切な支所の仕事です。お互い市民のためにいい仕事をしましょう」くらいな気の利いた話はするでしょう。この一言を聞いたなら私へ電話した知人はもっと違った反応を示していたに違いありません。短いあいさつながら失望と信頼は大きな違いであることを一言一言肝に銘じて話さなければいい上司とはいえません。

 私にとって今日は二つの特別な日となりました。ひとつは空調業界の雄といわれるダイキンエアテクノ四国株式会社の入社式の記念講演に招かれました。新入社員は6名でしたが、多数の幹部も出席して「新しい発想で生きる」と題した私の話を熱心に聞いていただきました。若さ溢れる皆さん方を前に人間としてどう生きるかという話でしたが、中には熱心にメモを取る社員もいて嬉しい限りでした。

 もう一つは期を同じくして日赤に看護士として入社した次男の入社式でもありました。さすがに息子の入社式には同席できませんでしたが、夕方わが家へ帰った次男は興奮した面持ちで入社式の模様を話してくれました。そして「今日は感動した。いい職場に入ったので頑張る」と言ってくれました。

 新しい年度が始まり、また社会がまるでエンドレステープのように回り始めました。上司とはいかなる責任を負うものなのか、部下はどんな上司と巡り会うのか、小さな職場の歯車に翻弄されながらそれぞれの人生が始まったようです。上司はある部分で部下を選べないし部下もまた絶対的に上司を選べないのですから、数奇な運命の出会いを大切にいい仕事をして欲しいものです。あくまでもこの仕事は人の幸せ実現のためにやるということを忘れないで欲しいと思います。究極の幸せは人のためにできる幸せです。

  「一言の あいさつ失望 電話する 知人の言うのが 当たり前だよ」

  「選べない 上司の下へ 配属し 貧乏くじ引く 宝くじかも」

  「ああ俺も 昔はこんなに 若かった 何より勝る 若いということ」

  「威厳とは 自分が作る ものでなし 市長と同じ 言ったところで」


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shin-1さんの日記

○人間牧場主という読み名にやっとなれました

ヤフーで「若松進一」を打ち込んで検索すると今日現在で856件もの情報が打ち込まれていて、個人情報だのいう割には個人情報が無断で飛び交い今更ながら情報化社会の凄さに驚かされます。パソコンを始めたころはその一つ一つをチェックして見ていましたが、近頃は自分のブログの文章書きや書き込み対応が忙しく、また届くメールへの返信など、2~3日家を留守にするとその対応だけで半日も潰れることがあるのです。その様子を友人に話すと「若松さん。そろそろあなたも会社を興して秘書などを持ちスケジュール管理をする人を雇ったらどうですか」と言われたりします。その度に私は「とんでもない話です。私のような自由人にはこれくらいが丁度よいのですから」とお茶を濁していますが、自分が自分を管理することは中々容易な事ではないのです。

 一昨年の4月1日、35年間勤めた役場を教育長を最後に退職して自由人となってから、早くも昨日で2年間があっという間に過ぎました。自由といっても現在の私の仕事は主に4つに分類されます。1つは愛媛大学非常勤講師です。毎週水曜日の午後6時から8時まで法文学部の夜間主で教壇に立ちます。資料を作ったり講義をしたり4年ですっかり慣れたつもりですが、これが中々骨の折れる仕事です。4年間を終わったのでさてどうしようか考えましたが、続投の方針を固め現在今年度のシラバスなどの準備中です。

 2つ目は全国行脚の講演活動です。昨年は北は北海道から沖縄まで請われるままに様々な地域に出かけ主にまちづくりや生涯学習、青少年問題などについて弁舌を振るいました。最近は国土交通省の観光カリスマ百選に選ばれていることもあって、観光の仕事も多いようです。3つ目はボランティア活動です。えひめ地域づくり研究会議代表運営委員(20年)、愛媛県金融広報アドバイザー(30年)、21世紀えひめニューフロンティアグループ代表(22年)、などの他様々な役割をこなしています。この2年間就任していた自治会長は再任の要請が強かったのですが後任に道を譲りました。ですからこの分だけでも随分楽になったと胸を撫でています。4つ目は私人若松進一として人間牧場主であったり、私設公民館煙会所や海の資料館海舟館の経営とこれまた私事ながら多忙な仕事なのです。特に双海町へ視察に来る人は結構多くその度に私的な施設への案内がセットされ、多くの出会いがあるのです。そんな4つに分類される仕事の中で一番気に入っているのはやはり人間牧場主という肩書きで、千枚も作った名刺がまたたく間に売れて、現在の名刺は2千枚目がもう数えるほどしか残っていないので、えひめ地域政策研究センターの清水さんにお願いして、リニュアールした名刺を作り直してもらっています。

 最初は馴れなかった「人間牧場主」という肩書きの名刺を見て、どの人も「人間牧場って何ですか」から始まるのですが、「はい人間を放し飼いにする所です」から始まって、人間牧場の薀蓄を話すのです。人間牧場の施設も水平線の家、ロケ風呂、ツリーハウスと進み、今回の倉庫を含めると小さいながら4棟にもなりました。施設の夢を息子と描く度に最後は資金について話し、結果的には少し萎んだ夢に落ち着くのも仕方がないこととあきらめています。それでも夢さえ持てばソロバンは後から付いてくるもので、何とか持ちこたえてきました。

 人間牧場もそれぞれのマスコミがそれぞれの立場で紹介するものですから否応なしに人気が出て、今は沢山の人が順番待ちのような状態です。人間牧場には比較的若い人の来訪が多いのも一つの特徴のような感じもしています。

 人間牧場主という肩書きに違和感のなくなったこの頃ですが、今年はニューフロンティア塾の開講や様々な会議が予定されています。今年はもう少し進化した自分を目指したいと心を新たにして新年度の今朝を迎えました。

  「早いもの 人間牧場 肩書きで 動き始めて 二年が過ぎた」  

  「牧場に 行きたい旨の 連絡が 日増しに増えて 嬉しい悲鳴」

  「2千枚 名刺を配る 人に合う 明日も何人 出会うことやら」

  「四棟も 家持俺は セレブかも 懐金は 無いに等しき」

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shin-1さんの日記

○孫と団子虫

 春休みになって孫がわが家に来ています。「お母さんは入院、お父さんはお仕事」と、近所の人からの質問にも平気で答える孫の春休みは、お父さんの実家である大阪羽曳野への小旅行から始まりました。20日から25日まで大阪に滞在し帰ると直ぐにわが家へ直行しましたが、何せ私も妻も次男までも年度末の慌しさで孫にかまってやることができず、朝は私、昼は息子、夜は妻とまるで三交代のような孫育てが続きました。それでも孫は楽しそうに我が家で過ごしています。でも母親が入院してから始まった「朋樹プロジェクト」は長引く母親の入院で予想以上に長期化し、私にとっては馴れない孫育てて少々お疲れモードです。

(私の背もたれ椅子でじゃれる孫朋樹)

(窓ガラスを掃除する孫朋樹)

 昨日は孫と二人で人間牧場へピクニック気分の遊びに出かけました。私は大洲の亀本さんから貰った牛糞の処理がそのまま残って美観を損ねているため、少し片付けようとの思いもあって作業服で出かけましたが、孫は朝からおばあちゃんにおにぎり弁当を作ってもらいリュックに入れておおはしゃぎでした。二人で人間牧場用の軽四に乗り歌を歌いながら狭い山道を登って行きました。道沿いは何時の間にか春真っ盛りで山桜の花がそれは見事に咲いていました。また緑のトンネルだと孫が言う山道のあちこちにはタンポポ、椿、菜の花など数えればきりがないほどの野草が咲き乱れ、野イチゴの花も初夏のイチゴ狩りを想像するに十分な雰囲気でした。

 孫を納得させ私は農作業を始めましたが、水平線の家は山里の一軒家なので寂しくなるのか直ぐに大きな声で「おじいちゃーん」と呼ぶのです。そして急峻な畑へ振り撒く牛糞をシトラーに入れて運ぶ度に私についてきて、上がったり下りたりを繰り返していました。倉庫の新築工事に来ている大工さんと口相撲をとったりしていましたが、孫が突然牛糞に群がる団子虫を見つけました。「おじいいちゃーん団子虫」と意外な発見に孫は興奮した様子で竹の切れ端で恐る恐る触っていました。手で触るよう勧めましたが最初のうちは中々手を出そうとしませんでした。それでも小一時間観察していましたが、手にとって触れるようになると安心して沢山の団子虫を拾い集めていました。孫にとっては団子虫に触れた意義ある一日となったようです。

(団子虫を持って喜ぶ孫朋樹)

 「喉が渇いた」といってはジュースを飲み、「腹が減ったといってはお菓子を食べていましたが、その内お昼のミュージックサイレンの音に気付いてお目当ての弁当を広げることにしました。リュックサックから出てきた弁当は2段重ねで大きなおむすびとウインナーなどが入ったおかずです。手を洗って食べ始めたのですが孫の食欲は運動量に比例するのか旺盛で合計6個のおにぎりも孫4個、私2個で孫に軍配です。

(おばあちゃんの作ってくれたお弁当)

(おにぎり4個の大食)

 昼過ぎ長男が親父を乗せてやって来ました。親父にとっては建て前以来の人間牧場なので目を細めながらあちこちを散策していましたが、先日作ってくれた風呂の蓋の出来具合を目で確かめたいおもいもあったのでしょう。「もう5ミリ大きかったら」と私の採寸の間違いを悔やんでいました。

(二人の隠れ家で寝袋に入る孫朋樹)

 大工さんも息子たちも帰ったので水平線の家の2階ロフトに作った私の小さな隠れ家に孫を案内し昼寝をすることになりました。中には長男が持って来ている寝袋が置いてあるのですが、その中に蓑虫のように私と孫が潜り込みました。はしゃいでいた孫はいつの間にか寝込み、軽い寝いびきが聞こえるようになりました。私はそっと抜け出し再び思い牛糞をシトラーに入れて下の梅林まで下し根元に振り撒く作業をしました。1時間半ばかり経つと孫は午睡から覚め元気に起きて来ました。お母さんの病院へ持って行く花摘みをするのだと孫とそこら辺りを散策しました。孫の目に留まったのは名残の薮椿です。一輪ずつ二枝を折って持ち帰り牛乳瓶に差して台所の隅に飾っていますが、団子虫といい、薮椿の花といい、孫にとっては自然の豊かさに驚いた一日だったようです。「おじいちゃん、明日も弁当を持って団子虫と椿を取りに人間牧場に行こうね」と、一緒にもぐりこんだ夜9時の布団の中で話しかけていました。

  「蓑虫の ような姿で 潜り込む ロフト隠れ家 孫と二人で」

  「団子虫 始めて触れる 感動に 孫は興奮 これが自然だ」

  「薮椿 母にあげると 手で折って 牛乳瓶に 活けし美し」

  「牛糞を 担いで下る 俺の足 体力落ちて 少しヨタヨタ」

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