shin-1さんの日記

○3千枚目のドラマが始まる似顔絵の名刺リニュアール

 定年退職以来、「肩書きや名刺とは縁のない暮しをしたい」と思って2年前に始めた自由人生活でしたが、意外な所で名刺や肩書きが必要なほころびが出て、昔のよな肩書きや名刺ではないが仕方なくその方向に引きずられています。まず肩書きですが、小さい集会の講演でも「肩書きは何にしておきましょうか」と問われるので、「人間牧場主」という肩書きを作りました。「えっ?、人間牧場って何ですか」と相変わらずの知名度のなさにうんざりしながら話すのですが、お陰なことに新聞や雑誌やテレビのご支援でとみに有名となって、県内では今では「ああ、存じ上げております」で通るようになりました。しかし県外となると「愛媛大学法文学部非常勤講師」や「夕日のミュージアム名誉館長」などの方が一目瞭然分るようです。

 さて名刺ですが、これも最初は名刺などいらないと思いつつ、役職なしの夕日をあしらった名刺を使っていましたが、仕方なく渡辺悦子さんに書いてもらった似顔絵の名刺を一昨年千枚作りました。「お父さん、何が何でも千枚なんていらないのでは」と妻は千枚という多さに拒否反応を示していました。しかし五百枚も千枚も金額は左程変らないといって印刷費用2万円を出してくれました。無職の男にとって2万円は大金ですから先行投資としてはかなりの出費です。でも「この名刺とインターネットと携帯がなかったらビジネスは成立しない」と説得して投資をしました。これまでのように飲み屋のママさんにまで名刺を配るようなことはしない方がよい」と妻に釘を刺され、「それもそうだ」と自戒をこめて使いましたが、次第に使う名刺の数が増えて1年も経たないのに更に千枚を追加印刷、1年半で残部ゼロという結末です。つまりこの一年半で2千枚の名刺が消えたことになります。2千枚は2千人ですから毎日2人以上の人と会っている計算になります。現職の頃の1ヶ月600枚、年間7200枚からすると微々たるものですが、それでも毎日2人は凄い数です。

 今度もえひめ地域政策研究センターの清水さんに仲介をお願いしました。清水さんは快く引き受けてくれて、少しだけリニュアールしました。これが最終校正を終わった名刺で印刷工程に回りました。

 間もなく印刷が終わって届くであろう名刺の仕上がりが楽しみです。多分妻はまた「えっ、名刺はこの間千枚も印刷したのじゃなかったの?」と不思議がって2万円の出費を疑問視するでしょうが、「必要経費」ですから仕方がありません。でも今回も無駄遣いしないようにしっかりと意味のある使い方をしたいものです。

 さて2千枚からカウントする3千枚までの間にどんなハラハラ・ドキドキ・ワクワク・ジーンとする出会いがあるでしょうか。一枚の名刺が私の人生を物語れるようにしっかりと、西郷隆盛の言葉のように「足は野につき心は天に向かって開く」人生でありたいと決意を新たにしました。

 この1年半でいただいた名刺は2千枚を超えて私の書斎の戸棚に眠っています。私の名刺は引き算です。千枚単位の分厚い高さから毎日一枚、また一枚と減って行きます。逆に貰った名刺はゼロ枚から次第に増えてゆくのです。うず高く積まれた名刺の一枚一枚を捲り名前と顔を記憶の彼方から呼び返すのも楽しみの一つです。

 インターネットのメールで仕事をするようになって、顔と名前が一致しなくなったのもこの頃の特長です。便利になった反面、電話の声さえも聞かず講演に出かけたり、要件を済ませることだって多くなりました。このままだと人の顔を忘れそうです。そのためにも名刺を上手く活用したいものです。私の自著本「昇る夕日でまちづくり」の巻末に「若松進一生きざま語録」というのがあります。「人は逢えば逢うほど逢いたくなり、学べば学ぶほど学びたくなる」という言葉を載せています。人と逢うのも学ぶことも人間が生きる上で極めて大事なことなのです。

  「あれ程の 名刺の数が 消えるとは 貰った名刺 同じ数だけ」

  「少しだけ リニュアールした 名刺見て 一年前の 自分と違う」

  「落語家の 喜久蔵似たり 似顔絵に 笑い振りまく ニタニタしつつ」

  「千枚の 名刺注文 どれ程の 効果あるのか 分らぬままに」

 


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shin-1さんの日記

○山寺を訪ねる

 その寺は山深い場所にありました。久々に訪ねたかつては上浮穴郡小田町といわれた町も、上浮穴郡久万高原町や伊予郡砥部町との合併を模索しながら結局は喜多郡内子町と合併しましたが、町内は長年の歴史がそうするのか四国八十八ヵ所岩屋寺や大宝寺への巡礼の道としての趣きが色濃く残り、交わす言葉や風情はやはり上浮穴郡を感じさせていました。

 小田への道は久万高原町からと、砥部広田を通る道、中山から山越えをする道、それに内子町大瀬から入る道など様々ですが、距離や時間を勘案して今回は往路砥部広田の道を選びました。春霞のかかった山道を走り、上尾峠を越えると、かつては伊予郡広田村へ出ます。途中に道の駅があって、昼なのに提灯をぶら下げ何やら少しばかりの賑わいです。聞けば「山菜まつり」とか、しいたけやウド、ワラビ、中にはボタンの鉢植えなどがあって顔見知りの人もちらほら、長閑な山村の長閑なまつりが長閑に行われていました。請われるままに丁度昼時だったので湯だめうどんを買い求め食べましたが美味しく、小食な私には少し多めの量でした。杵つき餅も買い再びカーナビの誘いどおりの道を小田町に入りました。途中道沿いの神社の巨木が目に留まりました。機を見るのが好きな私は山門の近くに車を止めて神社の境内に入って行きました。看板によると樹齢千年、県指定の天然記念物のケヤキ2本と樫の樹1本はそれは見事で思わず「凄い」と思いました。しかしよる年波には勝てず一本のケヤキは樹木医努力処置にもかかわらずの枯死寸前といったところでした。境内の陰で4人の方が陽気に誘われて弁当を広げて食べていました。「若松さんじゃないですか?」、「?はてなと思いましたが私と同郷で今は西条市で車屋を営む魚見さんでであることを直ぐに思い出し、懐かしい会話を交わし神社を出ました。

 何日か前住職さんから電話で場所を「参川小学校の前を通り過ぎ、橋を渡らないで右の道を」という記憶を頼りに確認しながら走りましたが、よくある田舎のお寺は視界の中に中々入ってこないのです。でも一本の大きなモミの樹の樹上を見つけ坂を少し登ってお寺の境内に入りました。失礼な話しですが、山門も苔むし本堂は民家にも似て壁の剥がれ落ちた、無住寺といってもいいようなお寺でした。しかし「寺の構えだけでお寺の格式を判断してはならないときつく心を戒め境内へ入りました。さっき見上げたモミの木は天狗のモミの木というのだそうで、町の天然記念物に指定されているそうですが、その看板も私と同じように行儀悪く寝そべっていました。小さなお寺なので中から聞こえる住職の読経や鐘の音が手に取るように分りますが、部屋からはみ出すように座っている檀家の人や履物類を見ていると入り辛くて、右往左往していると奥さんと出会い、裏口から控え室へ案内されました。奥さんとは永平寺を本山とする末寺の女将さん会に招かれ話をしたり、その方々を人間牧場に案内したりしましたので顔見知りなので、安心して抹茶などをご馳走になりながら世間話をしました。勿論住職さんも顔見知りで住職の能仁さんとは教育委員会に勤めていた関係で若い頃から旧知の間柄なのです。でも能仁さんのお寺で会うのは初めてなので、寺の質素さには正直驚きました。聞くところによると寺の再建も間近とか、そのためこの古いお寺で最後の催しとなるお般若講にどうしてもお話をして欲しいと、私に白羽の矢がたったのでした。



 妻曰く、「お父さん(私のこと)も色々な所へ話をしに行くが、住職さんが説教で馴れているお寺へ何を話しに行くの。行かない方がいいのでは」でした。でも所変れば話も変るで、小さいながら本堂いっぱいに集まっていた檀家の方々は熱心に大きな声で笑いながら私の話を聞いてくれました。話をしながら思いました。最近はお寺から講演の依頼がよくあるのですが、お寺の本堂は天井が高いため声の響きもよく、仏間の雰囲気がとてもピッタリあってとても話しやすいのです。嬉しくなりその気になって乗った話をさせてもらいました。かつて小田町教育委員会に勤めていた顔見知りの鶴田さんは既になくなっていますが、この寺の檀家で奥さんも見えられているという話を後で聞きました。ご冥福をお祈りします。

  「苔むした 寺の山門 くぐらずに 裏口入門 野辺花一輪」

  「天を突く 天狗モミの樹 目印に 参道進む 心洗わる」

  「道元の 言葉しみじみ 思い出し 春の息吹を 肌に受けつつ」

  「山寺の 境内響く 般若経 鼻に届きし 線香の臭い」  


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