shin-1さんの日記

○生きがいって何ですか

 「あなたの生きがいは何」と尋ねられたらあなたはどう答えるでしょう。「今打ち込んでいる仕事」という人もいれば、「趣味だ」と答える人、「家族」や「地位名誉」、時には「お金」いう人もいて、生きがいのとらえ方は千差万別人それぞれなのです。福島大学の飯田先生はある本の中で生きがいの定義を「より価値ある人生を創造しようとする意思」、つまり「あらゆる経験を通して人間的に大きく成長したいという意思の表れ」だといっています。難しいことは分りませんが何となく分るような気がします。

 最近は子育てを終えた主婦、定年退職後の壮年、定職につかない若者など、現代は生きがいの持ちにくい社会だと言われていますが、果たしてそうなのか疑問なところがあります。一昔前の私が少年の頃は物が不自由で、明日の食べ物にさえ事欠く時代でした。故に親たちは食べるがために必死で働き、子どもたちも子どもたちなりに小さい働きをして家計を助けたものでした。そんな時代には生きがいなどと大それたことなど考える余裕もありませんでしたが、親も子どもたちも「あの頃は幸せだった」と過ぎ越し昔を述懐するのです。多分稼ぎは少なくても生きるがために働く、子どものために働くことが生きがいだったのだと思うのです。

 日本は敗戦以来60年間も戦争のない平和な時代が続いています。徴兵制度もなく巷には物や情報が溢れていますが、社会はモラルを無視した言動による事件や事故が相次ぎ、安全安心の国と諸外国から羨ましがられた日本の治安の悪さは目を覆うばかりです。過食による成人病やストレスが引き起こす心の病は、自殺者3万人の数字が示すとおり、どこかおかしく、どこか狂っているとしかいいようのない社会なのです。しかも60歳を過ぎた殆どの人が年金を受け取っているにもかかわらずその額に満足できず、「生き甲斐がもてない」と嘆いているのです。

 私は何年か前発展途上の国々を訪れた時、その生き生きとした姿に驚きを通り越して感動を覚えたものでした。経済的には決して豊でない国なのに何故か子どもたちの目は輝き、少年犯罪も自殺する人も少ないのです。またかつて若い頃映画で見た福祉国家北欧の老後の暮しの豊かさも、日本の将来として見てきました。物の豊かさと長寿を手に入れた日本人が何故生き甲斐が持てないのか、ふと気が付くと発展途上国も北欧も敬虔な祈りの国であるという事実と、日本は神仏の国でありながらその祈りをいつの間にか忘れているという事実です。第10回総理府派遣青年の船の班長としてアメリカを訪問した時、華やかな建国200年を祝うパレードに出くわしました。国歌が流れるとそれまで紙吹雪舞うお祭り気分だった沿道は一瞬静まり返り、右手を胸に置き国旗に向かって敬虔な祈りを捧げるのです。また日系2世の方の家へホームスティしましたが、何と仏壇の立派なのが置かれ、日曜日には礼拝に出かけるのです。「祈りを忘れた日本人」、私はそんな印象を強くし価値観が変ったような気がしました。

 私たち人間が信仰心を持って生きることがいかに尊く素晴らしいことかは論を待ちませんが、わが国でも私たちが子どもの頃までは祖父母や両親が自らの後姿を通して子どもたちに神仏を敬う心や先祖を大切にする心を伝えていました。私たちの町では夕日が海に沈みますが、その夕日に向かって「今日も一日無事働かせていただいて有難う」と両手を合わせる祖母の姿を何度見たことでしょう。朝はお茶とを欠かさず、ご飯が炊ければ供える、節分や彼岸の年中行事も田舎ゆえ毎年欠かさず今でも行っています。

 神仏に向かい合うと「自分は誰で、何故存在するのか」、こんな愚問が生まれます。これこそ生きがいの本質なのかも知れません。「生かされて生きる」、今では使い古された言葉ですが生きがいの根源はどうやらここら辺にありそうです。

  「生きがいは 突然問われ 多過ぎて 答えられずに 幸せ思う」

  「夕日見て 手をあわせたる 祖母の顔 今もありあり 自分の心に」

  「思わない? どこか変だな 日本人 遅くはないから 少し直そう」

  「金だけが 全てじゃないよ 目に見えぬ ものに価値あり 気付いて欲しい」

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shin-1さんの日記

○年金が離婚を加速する

 最近テレビの話題の中で俄然多くなったのは、離婚してもお互い年金を分け合うことのできる法律ができたため、離婚が増えるのではないかという危惧です。特に団塊の世代といわれる世代にとって、家庭や妻をも顧みず会社人間として働きに働いてやっと定年を向かえ、さてこれからという幸せが一瞬のうちに崩れようとしているのですから気が気ではありません。夫の言い分の「私が働いてきたから今日の幸せがある」というセリフは最もだし、妻の言い分「私が我慢して子育てや家事をやってきたからあなたは働けた」というセリフも最もです。しかし夫は外、妻は内というかつての役割分担のようなものが崩れ、妻も外で働く時代になったりすると、夫の「私が働いてきたから今日に幸せがある」というセリフは余りにも身勝手過ぎると思う妻の言い分は当然と思うのです。

 私のような古い考えの日本の男性は、亭主関白こそ最高の美徳と考えて妻が夫の言いなりになることに一種の憧れを持って生きてきました。しかし時代が変ったと思うのは娘夫婦や息子夫婦の家庭の姿です。両方の家庭とも共稼ぎをしていますが、家事全般、子育て全般を二人が二分の一づつという考えが浸透して、夫だから妻だからという気負いがまったくなく役割をこなしているのです。あそこまでよくやるなあと思いつつ見ていますが、時々わが妻が「お父さんも見習ったら」といわれると、「俺にはそこまで」と身を引く自分に気付くのです。

 妻に離婚を決意させる原因はこれまでの延長線上にこれからを考えるからです。これまでのように亭主関白で「誰のお陰で暮らせるのか」という高飛車な夫と上下関係の夫婦で一生終わるかもしれないと思うと、自分の人生は一体何だったのか、これからもそんな人のために毎日三度三度の食事を作らなければならない自分は惨め、もう沢山と思うのは当たり前のことでしょう。それでも我慢してきたのは離婚したら食べてゆけないというあきらめでした。しかし世の中は向かい風が追い風に変って妻にも約半分の年金が出るようになったのです。形勢逆転とはこのことをいうのでしょう。守りから離婚の三行半を突きつける攻撃の妻に変身したのです。多分この朗報を一日千秋の思いで待っていた人は沢山あると思うのです。

 要はこれまでではなくこれからです。亭主関白であり過ぎた自分を反省し、どう夫婦が夫婦らしく向かい合って生きれるか世の中の男どもは真剣に反省すべきです。そして生き方そのものを悔い改めなければなりません。60歳の定年を迎えたこれからの人生はまさに仕上げです。人生80年代なら20年も二人で暮らさなければなりません。お互いが今の健康を保持できる保証もないのですから助け合って生きて行かねばなりません。これまでは二分の一の割り算分担、これからは1+1=2の足し算合作をしなければならないのです。

 離婚の数字も最近は減少傾向にありましたが、年金分割で再び増加傾向に転じようとしています。年間離婚数は5万件とも言われていますが、日本のどこかで1日137組も離婚し、1時間に5.7組も離婚している計算になります。せめて私たち夫婦だけはお互いが死ぬまで5万件の中にカウントされないような人生を歩みたいものです。

  「お父さん 年金半分 知っている 唐突話す 妻の算段」

  「離婚など 他所の話と 思いきや あちらこちらに 形跡あらわ」

  「鬼(夫)は外 福(妻)は内なる 考えは 昔のことにて 今は通じず」

  「いい妻が 突如変身 三行半 どないしようか 飯も炊けない」


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