shin-1さんの日記

○恩返し

 私にはこれまで仕事やボランティア活動で沢山の世話になった人がいます。その人たちにつけても頑張らなければとこれまで、自分なりの努力をしてきました。それはある意味での恩返しだと思うのです。わたしにとって人の恩もありますが、別の意味で大恩だと思うのは宇和島水産高校、青年団、公民館、広報、夕日によるまちづくり、21世紀えひめニューフロンティアグループ、ふるさとなどです。

 ①宇和島水産高校

 18歳の時愛媛県立宇和島水産高校の練習船愛媛丸で太平洋に乗り出しました。赤道を越え珊瑚海という途方もない遠い海へ4ヶ月の航海をしました。地球が丸いと感じたのもその時でした。その後4代目のえひめ丸が潜水艦に衝突して沈没する悲しい事故もありましたが、自分の人生観が変るほどの大きな旅でした。

 ②青年団

 父の病気を機に帰郷し地元の青年団に入団しました。愛媛県青年団連合会の会長を最後に8年間の青年団活動に終止符を打ちましたが、第14回青年の主張県代表など、赤面症だった私が人の前で話ができるようになったのは青年団のお陰だと思います。その活動の延長線で第10回総理府派遣青年の船の班長に選ばれ建国200年のアメリカへ行き、世界地図の真ん中に日本のない世界地図を見て驚き、その感動を綴った原稿が総務大臣賞を受賞しました。

 ③公民館

 役場に入って最初の仕事であった公民館に13年間勤めました。日本一の公民館主事を目指して土日もない激務の特長ある自治公民館活動を仕組みました。結果的には優良公民館職員として全国表彰を受けました。この頃が一番油が乗った時期で、全国に打って出て多くの仲間を得ました。町名変更という騒動にも巻き込まれ自治の何たるかを学びました。

 ④広報

 月に2回、10年間で240号もの広報「ふたみ」を発行しました。この記録は愛媛県内はおろか全国でも破られない記録ではないかと自負しています。お陰様で書くことを徹底的に学びました。広報は歴史の生き証人です。

 ⑤夕日によるまちづくり

 企画調整室と地域振興課でやく20年間まちづくりを担当し様々な仕事に取り組みました。特に夕日をテーマにしたまちづくりや人づくり、拠点づくりなどは大きな反響を呼び、シーサイド公園には年間55万人の来訪者が訪れ、また双海の夕日が「夕日百選」に選ばれるなど、様々な賞を受賞しました。その出発はやはり日本で一番海に近い下灘駅のプラットホームを使った夕焼けコンサートでした。その後自らも観光カリスマ百選に選ばれるなど、役場生活35年の有終の美を飾りました。

 ⑥21世紀えひめニューフロンティアグループ

 仲間とともに結成したボランティアグループを主宰し、無人島にいどむ少年の集いや丸木舟製作航海など、様々なボランティア活動に挑戦し多くの成果を残しました。その拠点となったのは自宅に設置した煙会所でした。その陰には家族の理解があったことも忘れてはいません。10年で40回のフロンティア塾も思い出の一つです。

 ⑦地域

 双海町という地域は私の最も身近なフィールドでした。無名だった双海町も、合併して伊予郡から伊予市に変りましたがそれでも双海町という名前は残り、今も私に無形ながら大きなパワーをいただいています。これからも最終的には生まれ育った双海町に恩を返さなければならないと思っています。

  こうして書いてみると、様々な分野で働き、様々な分野で成果を挙げ、様々な分野で多くの人の力添えをいただきました。さてどんな恩を返すか、そのキーワードは人間牧場にあり、今書き綴っているブログの文章です。人間牧場もブログも私の進化の証明です。つまり恩を返すには私が進化する以外ないと考えているのです。

  「鶴ならぬ 私の始める 恩返し 進化約束 必ず成果」

  「様々な 場所でお世話に なりました 言葉尽くせぬ 大恩感謝」

  「恵み受け 恩と感じた その日から 恩を返すと 生きる芯でき」

  「恩という 漢字因みに 因心 因果応報 因幡兎も」  

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shin-1さんの日記

○里芋を植える

 今日は抜けるような青空です。周りの山々の色も日増しに濃くなって桜の名残り花がひらひらと舞い落ちる姿は何とも風情のある風景です。木陰はひんやり日向はポカポカで、一年中で最も過ごしやすい季節かも知れません。

(わが家の借景である本尊山は萌えるような春色に染まって目にも鮮やかです)

 今日は朝から親父の手伝いです。90歳になった親父は老いてなおかくしゃくとして畑の作付けの責任者です。昨晩親父から「明日は里芋を植えるので手伝って欲しい」旨の依頼がありました。「明日は一日家にいるから」と告げていましたが、あいにく孫を松山の幼稚園へ連れて行くことになって、帰りは9時半でしたが、気の早い親父はもう植え付けを始めていました。里芋の種は地元の種物屋さんにお願いして5キロも購入しているのです。既に何日か前から耕運機をかけて地ごしらえを終えている畑に紐を張って真っ直ぐに植える念の入れようで、62歳になった私が90になった親父の手伝いをするのですから、まるでカラスと権兵衛のようなものです。

(綺麗に作付けの終わった里芋畑)

 親父が鍬で作った穴に種芋を一つ一つ置いて行き、親父が種芋の芽を見て植えた後に牛糞と肥料を振りまく、その上に親父が土を被せ、その上に私が籾殻を蒔くという作業を3時間もやりました。さすがに5キロの種芋は量が多く中腰の作業なので腰に疲労がたまって、時々腰と背筋を伸ばしながらの作業を続けました。

 母が存命中は家庭菜園で作る野菜の種類も豊富でしたが、段々数が少なくなっていました。私が退職してから当てにしていた労働力が当てにならないことを悟った親父は再び色々な種類に挑戦です。タマネギもジャガイモもニンジンも、それなりに育っていますし、ホーレンソウやキャベツやブロッコリーもいよいよ葉境で、これからはナスやキュウリといった夏野菜の作付けももう間もなくです。

(3日前親父と二人で草取りをしたタマネギ畑、今のところは順調に育っています)

 親父は何をしても研究熱心で、里芋の作付けに当たっては近所のおばさんに作り方の指導に来てもらいました。そのおばさんも5キロの種芋には少し驚いていたようでしたが、言われたままに植えた所へ指導してくれたおばさんが顔を出し「自分より上だ」と褒めて帰りご満悦でした。

 年寄りにとって季節の変わり目は命取りになりかねない気候です。寒さも季節の変わり目も無事乗り切って春を迎えた親父の姿を見ながらホッと一息といったところです。「今年は里芋でも作ってみよう」と意気込んだ作付けですが、親父の苦労は夏の暑い日里芋に水をやることです。幸い畑の隅々まで水がやれるよう家の井戸から自分で配管をしていますが、それでも元気で水かけできる自信を持って生きていることは何よりの嬉しさです。

 今年は里芋の葉っぱに溜った夜露で七夕飾りの文字を書きたいし、お盆の迎え火を焚く時の弁当の下に里芋の葉っぱを敷いて母親の霊を迎えられそうです。母親が逝って早6年、今年の初秋には7回忌の法要を営まなければなりません。親父の兄弟姉妹はまだ6人元気で暮らしていますが、母の兄弟姉妹は全て亡くなりました。先祖祭りをするのは長男たる私の務めですが、若くしてガンに侵されながらもここまで生きた親父が一日でも長生きできるよう心から祈っています。勿論私自らの健康も保持しつつ・・・・・。

  「里芋の ように子宝 恵まれて 一+一= 六となりぬる」

  「里芋の 葉っぱで雨を しのぐ様 孫が真似する 蕗の葉っぱで」

  「里芋の 葉っぱの梅雨を 見る度に 亡き母恋し 今は何処やら」

  「里芋を 桶で転がす 芋洗い ともに磨いて 綺麗になりぬ」 

  

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