shin-1さんの日記

○3千枚目のドラマが始まる似顔絵の名刺リニュアール

 定年退職以来、「肩書きや名刺とは縁のない暮しをしたい」と思って2年前に始めた自由人生活でしたが、意外な所で名刺や肩書きが必要なほころびが出て、昔のよな肩書きや名刺ではないが仕方なくその方向に引きずられています。まず肩書きですが、小さい集会の講演でも「肩書きは何にしておきましょうか」と問われるので、「人間牧場主」という肩書きを作りました。「えっ?、人間牧場って何ですか」と相変わらずの知名度のなさにうんざりしながら話すのですが、お陰なことに新聞や雑誌やテレビのご支援でとみに有名となって、県内では今では「ああ、存じ上げております」で通るようになりました。しかし県外となると「愛媛大学法文学部非常勤講師」や「夕日のミュージアム名誉館長」などの方が一目瞭然分るようです。

 さて名刺ですが、これも最初は名刺などいらないと思いつつ、役職なしの夕日をあしらった名刺を使っていましたが、仕方なく渡辺悦子さんに書いてもらった似顔絵の名刺を一昨年千枚作りました。「お父さん、何が何でも千枚なんていらないのでは」と妻は千枚という多さに拒否反応を示していました。しかし五百枚も千枚も金額は左程変らないといって印刷費用2万円を出してくれました。無職の男にとって2万円は大金ですから先行投資としてはかなりの出費です。でも「この名刺とインターネットと携帯がなかったらビジネスは成立しない」と説得して投資をしました。これまでのように飲み屋のママさんにまで名刺を配るようなことはしない方がよい」と妻に釘を刺され、「それもそうだ」と自戒をこめて使いましたが、次第に使う名刺の数が増えて1年も経たないのに更に千枚を追加印刷、1年半で残部ゼロという結末です。つまりこの一年半で2千枚の名刺が消えたことになります。2千枚は2千人ですから毎日2人以上の人と会っている計算になります。現職の頃の1ヶ月600枚、年間7200枚からすると微々たるものですが、それでも毎日2人は凄い数です。

 今度もえひめ地域政策研究センターの清水さんに仲介をお願いしました。清水さんは快く引き受けてくれて、少しだけリニュアールしました。これが最終校正を終わった名刺で印刷工程に回りました。

 間もなく印刷が終わって届くであろう名刺の仕上がりが楽しみです。多分妻はまた「えっ、名刺はこの間千枚も印刷したのじゃなかったの?」と不思議がって2万円の出費を疑問視するでしょうが、「必要経費」ですから仕方がありません。でも今回も無駄遣いしないようにしっかりと意味のある使い方をしたいものです。

 さて2千枚からカウントする3千枚までの間にどんなハラハラ・ドキドキ・ワクワク・ジーンとする出会いがあるでしょうか。一枚の名刺が私の人生を物語れるようにしっかりと、西郷隆盛の言葉のように「足は野につき心は天に向かって開く」人生でありたいと決意を新たにしました。

 この1年半でいただいた名刺は2千枚を超えて私の書斎の戸棚に眠っています。私の名刺は引き算です。千枚単位の分厚い高さから毎日一枚、また一枚と減って行きます。逆に貰った名刺はゼロ枚から次第に増えてゆくのです。うず高く積まれた名刺の一枚一枚を捲り名前と顔を記憶の彼方から呼び返すのも楽しみの一つです。

 インターネットのメールで仕事をするようになって、顔と名前が一致しなくなったのもこの頃の特長です。便利になった反面、電話の声さえも聞かず講演に出かけたり、要件を済ませることだって多くなりました。このままだと人の顔を忘れそうです。そのためにも名刺を上手く活用したいものです。私の自著本「昇る夕日でまちづくり」の巻末に「若松進一生きざま語録」というのがあります。「人は逢えば逢うほど逢いたくなり、学べば学ぶほど学びたくなる」という言葉を載せています。人と逢うのも学ぶことも人間が生きる上で極めて大事なことなのです。

  「あれ程の 名刺の数が 消えるとは 貰った名刺 同じ数だけ」

  「少しだけ リニュアールした 名刺見て 一年前の 自分と違う」

  「落語家の 喜久蔵似たり 似顔絵に 笑い振りまく ニタニタしつつ」

  「千枚の 名刺注文 どれ程の 効果あるのか 分らぬままに」

 


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shin-1さんの日記

○山寺を訪ねる

 その寺は山深い場所にありました。久々に訪ねたかつては上浮穴郡小田町といわれた町も、上浮穴郡久万高原町や伊予郡砥部町との合併を模索しながら結局は喜多郡内子町と合併しましたが、町内は長年の歴史がそうするのか四国八十八ヵ所岩屋寺や大宝寺への巡礼の道としての趣きが色濃く残り、交わす言葉や風情はやはり上浮穴郡を感じさせていました。

 小田への道は久万高原町からと、砥部広田を通る道、中山から山越えをする道、それに内子町大瀬から入る道など様々ですが、距離や時間を勘案して今回は往路砥部広田の道を選びました。春霞のかかった山道を走り、上尾峠を越えると、かつては伊予郡広田村へ出ます。途中に道の駅があって、昼なのに提灯をぶら下げ何やら少しばかりの賑わいです。聞けば「山菜まつり」とか、しいたけやウド、ワラビ、中にはボタンの鉢植えなどがあって顔見知りの人もちらほら、長閑な山村の長閑なまつりが長閑に行われていました。請われるままに丁度昼時だったので湯だめうどんを買い求め食べましたが美味しく、小食な私には少し多めの量でした。杵つき餅も買い再びカーナビの誘いどおりの道を小田町に入りました。途中道沿いの神社の巨木が目に留まりました。機を見るのが好きな私は山門の近くに車を止めて神社の境内に入って行きました。看板によると樹齢千年、県指定の天然記念物のケヤキ2本と樫の樹1本はそれは見事で思わず「凄い」と思いました。しかしよる年波には勝てず一本のケヤキは樹木医努力処置にもかかわらずの枯死寸前といったところでした。境内の陰で4人の方が陽気に誘われて弁当を広げて食べていました。「若松さんじゃないですか?」、「?はてなと思いましたが私と同郷で今は西条市で車屋を営む魚見さんでであることを直ぐに思い出し、懐かしい会話を交わし神社を出ました。

 何日か前住職さんから電話で場所を「参川小学校の前を通り過ぎ、橋を渡らないで右の道を」という記憶を頼りに確認しながら走りましたが、よくある田舎のお寺は視界の中に中々入ってこないのです。でも一本の大きなモミの樹の樹上を見つけ坂を少し登ってお寺の境内に入りました。失礼な話しですが、山門も苔むし本堂は民家にも似て壁の剥がれ落ちた、無住寺といってもいいようなお寺でした。しかし「寺の構えだけでお寺の格式を判断してはならないときつく心を戒め境内へ入りました。さっき見上げたモミの木は天狗のモミの木というのだそうで、町の天然記念物に指定されているそうですが、その看板も私と同じように行儀悪く寝そべっていました。小さなお寺なので中から聞こえる住職の読経や鐘の音が手に取るように分りますが、部屋からはみ出すように座っている檀家の人や履物類を見ていると入り辛くて、右往左往していると奥さんと出会い、裏口から控え室へ案内されました。奥さんとは永平寺を本山とする末寺の女将さん会に招かれ話をしたり、その方々を人間牧場に案内したりしましたので顔見知りなので、安心して抹茶などをご馳走になりながら世間話をしました。勿論住職さんも顔見知りで住職の能仁さんとは教育委員会に勤めていた関係で若い頃から旧知の間柄なのです。でも能仁さんのお寺で会うのは初めてなので、寺の質素さには正直驚きました。聞くところによると寺の再建も間近とか、そのためこの古いお寺で最後の催しとなるお般若講にどうしてもお話をして欲しいと、私に白羽の矢がたったのでした。



 妻曰く、「お父さん(私のこと)も色々な所へ話をしに行くが、住職さんが説教で馴れているお寺へ何を話しに行くの。行かない方がいいのでは」でした。でも所変れば話も変るで、小さいながら本堂いっぱいに集まっていた檀家の方々は熱心に大きな声で笑いながら私の話を聞いてくれました。話をしながら思いました。最近はお寺から講演の依頼がよくあるのですが、お寺の本堂は天井が高いため声の響きもよく、仏間の雰囲気がとてもピッタリあってとても話しやすいのです。嬉しくなりその気になって乗った話をさせてもらいました。かつて小田町教育委員会に勤めていた顔見知りの鶴田さんは既になくなっていますが、この寺の檀家で奥さんも見えられているという話を後で聞きました。ご冥福をお祈りします。

  「苔むした 寺の山門 くぐらずに 裏口入門 野辺花一輪」

  「天を突く 天狗モミの樹 目印に 参道進む 心洗わる」

  「道元の 言葉しみじみ 思い出し 春の息吹を 肌に受けつつ」

  「山寺の 境内響く 般若経 鼻に届きし 線香の臭い」  


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shin-1さんの日記

○眠れぬ一夜

昨夜から今日の朝にかけてわが家ではひと騒動あって、家族全員が眠れぬ一夜を過ごしました。というのもわが家に来ている孫朋樹に39度近くの熱が急に出て右往左往したのです。そもそもの発端は昨晩眠る頃孫が「お腹が痛い」と言い出したのです。食べる物が気に入らないと「お腹が痛い」というよくある仮病だと思い、そのまま寝かせたのですが、未明になって深い眠りについたはずの孫が今度は頭と腹が痛いと火の出るような声で泣き喚くのです。身重ながら助産婦の娘と日曜日で家にいた看護士ホヤホヤ次男がことに当たりましたが、一向に泣き止まないのです。体温計で測ってみる38度5分の高い熱です。こんな時は松山の急患センターとばかりに私が運転し、妻が助手席で泣き叫ぶ孫を抱きかかえて萱町のセンターまで車を飛ばしました。3時過ぎのことゆえ車もまばらで30分余りで到着、予め電話していた娘婿も自宅から保険証を持って病院に来ていました。受付を済ませて係りのお医者さんに診てもらいました。浣腸して便を出し幾分楽になったようでしたが、深夜早朝のことゆえ検査もできず、熱さましをのませて結局は原因不明のまま一旦帰宅し、夜が明けるのを待って再び松山の市民病院が急患当番医院ということで再びの病院です。私は旧小田町での仕事があって行くことができないので看護士の次男が運転して出かけました。

 小田町へ出かけましたが、そのことが気になって昼過ぎ途中でわが家に電話をかけましたが、病気のおさまることもなく不安な妻の声が携帯の向こうから聞こえていました。山間の町小田町への往復と仕事を終えて急ぎ帰りましたが、下剤の影響か度々トイレへ行かなければならず、妻も娘も次男まで疲労困憊といったところでした。それでもお腹が減ったのかリンゴをかじったり脱水防止のポカリを飲んだり、熱冷ましを飲ませたり、わが家の王子さまは至れり尽くせりでした。私たち大人ならお腹の何処がどんな具合に痛むのか具体的に言えて処方ができるのですが、腹が痛い、頭が痛い、それも泣きじゃくっていうものですから、大人たちも寝不足がたたりすっかりお疲れモードのようでした。

 この孫はいたって元気で、これまでこんなに病気で泣きじゃくることはなかっただけにとても心配な二日目の夜を迎えています。医療に携わる2人がいてもこの手合いですから、孫と同じように泣き叫ぶ子どもを抱え不安そうに病院へひっきりなしにやって来る親の気持ちはいかばかりかと、内心同情してしまいました。

 四人いたわが家の子どももいつの間にか大きくなり、あったであろうこんなハプニングも妻にまかせきりで乗り切った子育てを思うと、少々胸が痛み娘にさえも同情してしまいました。子どもはそんな試練を乗り越えて大きくなりましたが、今晩も続くであろう眠れない夜を反省の思いを込めて見守ってやりたいと思います。

 そう思う矢先、仕事を終えた娘婿が夜遅く帰って来ました。勤務する大学も新学期が始まりその準備で忙しいのでしょう。土日もない働きぶりのようです。昨日まで娘と孫と同じ部屋に布団を敷いて寝ていた私たちは2階に上がり、娘婿と孫は身ごもっている出産間近いお腹のベビーとともに4本川の字になって寝たようです。多分今夜はまたこの家族にとっても眠れない一夜を過ごすことでしょう。

  「健康が 何より大事と 病気して 思う未明の 右往左往」

  「あれこれと 思うけれども もどかしく 孫の痛さの 中身分らず」

  「家中が 孫の病気で 大騒動 早い回復 祈りリンゴを」

  「扁桃腺 病気の元は ここからと 言われて少し 安堵の胸を」

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shin-1さんの日記

○近所に棟上の槌音

 私は役場に勤めていたころ、何年か土地開発公社の事務局長を兼務しました。事務局長といっても職員一人、それも地域振興課長職と兼務なのですからいたって零細な公社でした。土地開発公社といえば塩漬け土地(造成したものの売れない土地)や赤字財政が多く、余りよいイメージを持たれないのですが、私が担当した3年間で宅地造成した土地は全て売れ、かなりの黒字で次の担当者に引き継いだのですから胸を張ってもよいと思うのです。土地開発公社の造成した土地は購入すると余程のことがない限り3年以内に家を建てなければならないし、決められた期間は転売もできないのです。その分定住促進という大義名分から儲け度外視の格安で販売されるのです。しかし定住促進といいながら地元の人は殆ど家持、若い人もどうせ家を建てるなら都会という志向が強くて売り辛い条件もあるようです。

 私の家の直ぐ近くに5戸分の宅地造成をしました。農家から農地を取得し、様々な許認可事務や公社の総会にかけて承認され始めて農地から宅地と名の付く土地になるのですが、役場に勤めていても複式簿記などやったことのない私にとってはまるで暗中模索の状態でした。都会ではないので田舎暮らしのゆったりを考えて土地は1戸100坪弱としましたが、これも理想(土地の広さ)と現実(資金増大)の狭間で苦戦を強いられました。それでも完売し次第に家が建って行く姿を見ると、今までの空間が景観に変わって、何となく活気があるように見え嬉しくなりました。

 そんな中1戸だけゴタゴタした区画がありました。二転三転しましたが、今日その土地に家が立つ建て前のようです。30歳前半の私の知人が建てるのですが嬉しいことです。

 ふと私は自分が自宅を新築した頃を思いだしました。忘れもしませんが青年の船でアメリカへ行った頃、今の家の建っている土地の話が持ち上がりました。畑と田んぼながら660坪という広さは魅力でしたが、その頃の値段で600万円だったと記憶しています。給料の安い私たちには高嶺の花ながら後先も考えず購入し、そこに70坪もの大きな家を建てたのです。でも若かったのでしょう。向こう意気が強かったのでしょう。妻が綿密な資金計画を立て親の援助を受けながら闇雲に突っ走りました。子ども4人の教育のこともあり銀行借入は15年間で返済するようしたのですが、最初のうちはは殆ど利子ばかりの償還で元本は中々減らないぼやきもありましたが、妻は10年目に繰上げ償還する奮闘振りを見せてくれました。31歳から始めたわが家の小さいながらも壮大な自宅建設プロジェクトは隠居建設、車庫建設、煙会所建設など次々と整備され、わが家にとってはユートピアとなって現在に至っています。

 今日の夕方孫と散歩をする途中、新築準備で慌しい現場付近を通りかかりました。顔見知りの新築するという施主の若者夫婦に会いました。彼ら夫婦の結婚披露宴の司会をした縁もあって、日頃から何かと付き合っていますが、彼のお父さんは私より一つ上なのですがガンで既に亡くなっており、その分しっかりした対応に他人事ながら嬉しい気持ちになりました。

 人間のエネルギーはやはり年齢に比例します。青春とは心の若さだとか、今やれる青春を標榜してはばからない私ですが、彼ら夫婦のエネルギーには到底及ぶべきもないのです。私は妻の勧めもあって、ささやかながらお祝いのお酒を贈りましたが、夫婦とお母さん、それに一男一女の子どもを含めた彼の家族がいい家庭を築いて欲しいと願っています。

  「いいもんだ 槌音響く 棟上げは あんな馬力が 俺にもあった」

  「がむしゃらに 働き続けた 三十年 屋敷も家も 時を刻みて」

  「石ひとつ 庭木ひとつに 思いあり 庭を眺めつ 思いにふけり」

  「棟上の 写真捲りて われ夫婦 これ妻?疑う 程に若くて」  

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shin-1さんの日記

○同じ伊予市なのに

 昨日は伊予市大平公民館の依頼で、唐川老人クラブの総会を兼ねた高齢者学級に招かれました。一昨年合併して私たちの町双海町も伊予市の仲間入りをしましたが、同じ伊予市といっても行ったこともない場所があって新鮮に思えました。折りしも昨日は低気圧や前線接近の影響で通称やまぜ風という南からの強風が吹き荒れ、名残の桜吹雪が見えるなど印象的な日となりました。唐川は伊予市といえども奥まった山間地で過疎と高齢化が進行している場所でした。会場となった旧唐川小学校は統廃合されて既になく、跡地として残る運動場や校舎の一部、記念碑が当時の名残を留めていました。ふれあいセンターという福祉施設の入口には立派な遅咲きの八重桜があって今が盛りと咲いていました。砥部町に通じる道の両側の山も春爛漫、唐川ビワの産地とあって白や黄色の袋がかけられたビワの木があちらこちらにまるで花が咲いたように見えました。

 双海町ならさしずめ老人憩いの家といった感じの社会福祉協議会が運営する陽だまりの部屋があって、マッサージ機や電気浴などの機械が並べられ、5~6人の高齢者の方々が世間話に花を咲かせながらその器具で体をほぐしていました。この日は総会が長引き10時半の予定が20分も延びたため暇つぶしに世間話の輪の中に入りました。「兄さんはどこから来たの」。私「はい、双海町から来ました」。何をしに」。私「はい、老人クラブの総会に話を頼まれて来ました」。「ほう偉い人なんじゃねえ」。私「いえいえ、田舎者ですよ」。「田舎者に話など頼まんけんやっぱり偉い人なんじゃあ」。「そんなことありますかい、ただの人ですが」。「ところで双海町は何処ぞな」。私「はい上灘です」。「それじゃあ○○さん知っとるかな」。私「はいよく知っていますよ」。「会ったら○○がよろしゅう言よったと伝えて下さい」。私「はいはいそう言うときます」と、会話も弾み、おまけに電気浴なる機械を勧められ20分もその機械に座らされました。

 やがて案内されて会場へ入りましたが、約40人ほどの高齢者が実にお行儀よく座り私の話を12時10分まで聞いてくれました。中にはビワ茶でまちおこしを進める元伊予農協組合長の大西要さんや区長だった顔見知りの竹田さん、それに民生委員さんもいて老いてかくしゃくといったところでした。

 集まった方々は戦後の厳しい時代を生き抜いて来られた方々だけに、現代と過去の狭間に生きる人への話として「心豊かに生きる」というタイトルで話をさせてもらいました。このところ合併の影響か、はたまた謝金の安い地元講師でお茶を濁そうとするのか市内のいたるところから講演の依頼が相次いでいます。地元といっても2年前までは他所の町なので顔見知りも少なく「まあいいか」の類で出かけていますが、地元はやりにくいというプレッシャーもなく山一つ向こうの知らない土地といった気楽さで出かけています。しかしさすが旧伊予市だけあって聞く耳がよいのか、老人クラブ会長さんの謝辞「今まで聞いた話で一番よかった」というお世辞を鵜呑みにするならを私の話がよかったのか会場は爆笑の渦で、総会後の休憩を取らずいきなり始めたのに、席を立つ人が一人もなく、かえってこちらが近くなった小便の心配をする程でした。

 帰りに松山の幼稚園まで孫を迎えに行き、自宅に着いたのは4時過ぎでした。孫は昨日捕まえた蛙の入ったコーヒー瓶が心配らしく盛んにそのことを車の中で話していて車を降りるなり一目散、結局人間牧場へ先日手で触れるようになった団子虫を捕まえに行くことになったのです。

 孫が団子虫を探している間私は蕗を取りました。先日獲った蕗を炊いたところとても美味しかったので妻から依頼されていました。あるあるあるある、ナイロン袋にいっぱい獲りました。


 雨がポロポロしてきたのですが、孫は蕗の葉っぱを頭に被せ「おじちゃんこれ帽子」と大はしゃぎでした。急いで車で下山しましたが、夕方になると雨は激しくなり稲光や雷の音も凄い荒れようでした。職場から帰宅予定の妻も帰るに帰れず私に迎えの要請です。蕗を粗方剥いていたので、妻はさっそく蕗の佃煮作りを始めていました。昨日も楽しいいい一日でした。

  「市内だと いうのに一度も 踏み入れぬ 唐川ビワの 産地で話す」

  「あんた何処 私双海だ 珍しや こんな会話に 顔もほころぶ」

  「歳とると 足腰痛くて つまらんと 愚痴をいうより 笑って暮らせ」

  「ひょうきんな 蕗を帽子の 孫姿 思わずにっこり 顔を見合わせ」

 

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shin-1さんの日記

○ある若いお母さんからの相談

 「若松さん、私はもうどうしてよいか分りません」と開口一番悩みを訴えるのは、まだ30代の若いお母さんです。旦那さんのお父さんから頼まれて結婚披露宴の司会をして以来、親しく声を掛け合う間柄なのでこんな悩み訴えてきたのでしょう。「立ち話もなんだからまあお座りや」と諭すのですが、もう既に目には涙がいっぱいでした。シーサイド公園の少し離れた所の階段式護岸に腰かけ話を聞きました。私は言葉や顔の形相からてっきり夫婦間の不仲でもと思っていましたが、話を聞くと今度小学校2年生になった息子さんのことなのです。

 「恥かしいことなのですが、実は私の息子が私の財布から千円づつ2回もお金を盗んで・・・・」と切り出した話によると、そのことが分ったのは「家計簿の帳尻が先月も今月も千円合わなかった」そうです。おかしいと思いつつパートの仕事の忙しさですっかり忘れていましたが、昨日偶然にも近所のお店から友だちと楽しそうに買い食いをしながら出てきた息子さんの姿を見かけたのです。自分もその店で夕食の買い物をしようと思っていたので、買い物をレジで清算する時顔見知りの店番の奥さんに聞いてみたそうです。「さっき買い物をして出て行ったのはうちの息子ですがどんなお金を払いましたか」。「はい千円札でしたよ」。「先月も来なかった」。「確かな記憶ではないけど、確か先月も千円で買い物したよう気がするけどそれが何か」。「いえちょっと」とお茶を濁してその店を出て家へ帰り、息子の帰りを待って問いただしたそうです。最初はおばあちゃんに貰ったお金だとか自分の小遣いだとか言い張っていましたが、結局は嘘の皮がはがれて自供したそうです。警察ではあるまいし「自供」とはと思いましたが、「実はこれだけではなくサッカーやピアノ、公文などの習い事も長続きしないんです」と、彼女の話は延々と続きました。

 これまでこのお母さんは、息子さんが欲しいというものは親が教育上いいと判断して与えてきた。我慢する心を養えと教わったのでそのとおりしてきたつもり。小遣いも適当に与えている。習い事も本人がやりたいというから納得してやっているとまるで絵に書いたような理想の教育論をさも「私は悪くない」と言わんばかりのお話でした。また旦那さんに相談したところ「子育てはお前に任せている。お前がしっかりしないから」というのだそうです。さてこんな相談を受けたらあなただったらどんな解決策を助言してあげられますか。

 私はまずお母さんが家計簿をつけていることを褒めてあげました。今時の若い人で家計簿をつけているなんて立派です。結果的に財布から2千円が無くなった事実を見つけたのはこの財布だし、近所のお店で息子さんが千円で2回も買い物をしたことを聞きだす勇気を持てたのも家計簿の存在だったのです。親の金遣いがあやふやだと子どもの金遣いもあやふやになります。このことだけは100点満点の母親なのです。

 しかし問題はここからです。親が教育上いいと思うものは必ずしも子どもにとっていいものとは限らないのです。子どもは家庭以外にも学校や社会に多くの接点を持っています。特に友だちの存在は「欲しいもの」がどんどん増えてくるのです。カードゲームや漫画など教育上好ましくないと親が判断するものでも子ども世界では貴重な情報源で、自分だけが知らない世界にいることの不安や知らないといじめに会うことが、「欲しい」という願望を倍化させ、親から貰う小遣いで果たせなかった夢を母親の財布から千円抜き取ることで満たしたのです。最初の千円でばれなかった快感は次の千円へと発展したのでしょう。でもお店で息子さんと偶然巡り会ったことや家計簿の存在が、息子さんに「お金を取ることはいけない。世の中はそんなに甘くない」ということを知らせることができました。大人は我慢ができますが子どもの我慢にも限界があることを知らなければなりません。また家庭教育学級などでの子育て学習は「教育的にこうあるべきだ」とか、「我慢する子どもに育てる」など画一的な教え方をしますが、子どもは100人100様どの子も違うのです。

 子育ての悩みは子どもが成長するにしたがって、大きくて深くなりどんどん目の前に現れてきます。大切なことは子どものシグナルをしっかりととらえ、ともに悩みともに解決して学習姿勢だと思います。怒るのではなく時には叱ることも大切ですが、「お母さん御免ね。お母さんが悲しむようなことはもうせんから」と反省の言葉がでるような諭をしたいものです。

 でも「子育てはお前に任せている」という旦那には困ったものです。このことがいかに重要な夫婦や家族の問題であるか説得してテーブルについて解決に向けた協働の力にしなければなりません。

 先日、元気よく親子で歩いているあのお母さんの姿を見ました。「若松さん先日はいいご助言ありがとうございました。お陰様で旦那もこのことを理解してくれたようです」と笑顔で声を掛け去って行きました。多分第一の峠を越えたのでしょう。次はどんな峠が待っているのでしょう。

  「子育ての 悩みは深し お母さん 家計簿付けて 百点満点」

  「財布から お金盗んで 大目玉 暗い押入れ 母の厳しさ」

  「誰にでも一つや二つは あるものよ 善人顔して 生きていてても」

  「任してる こんな言葉で 逃げる親 いいことだけは 俺に似てると」


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shin-1さんの日記

○恩返し

 私にはこれまで仕事やボランティア活動で沢山の世話になった人がいます。その人たちにつけても頑張らなければとこれまで、自分なりの努力をしてきました。それはある意味での恩返しだと思うのです。わたしにとって人の恩もありますが、別の意味で大恩だと思うのは宇和島水産高校、青年団、公民館、広報、夕日によるまちづくり、21世紀えひめニューフロンティアグループ、ふるさとなどです。

 ①宇和島水産高校

 18歳の時愛媛県立宇和島水産高校の練習船愛媛丸で太平洋に乗り出しました。赤道を越え珊瑚海という途方もない遠い海へ4ヶ月の航海をしました。地球が丸いと感じたのもその時でした。その後4代目のえひめ丸が潜水艦に衝突して沈没する悲しい事故もありましたが、自分の人生観が変るほどの大きな旅でした。

 ②青年団

 父の病気を機に帰郷し地元の青年団に入団しました。愛媛県青年団連合会の会長を最後に8年間の青年団活動に終止符を打ちましたが、第14回青年の主張県代表など、赤面症だった私が人の前で話ができるようになったのは青年団のお陰だと思います。その活動の延長線で第10回総理府派遣青年の船の班長に選ばれ建国200年のアメリカへ行き、世界地図の真ん中に日本のない世界地図を見て驚き、その感動を綴った原稿が総務大臣賞を受賞しました。

 ③公民館

 役場に入って最初の仕事であった公民館に13年間勤めました。日本一の公民館主事を目指して土日もない激務の特長ある自治公民館活動を仕組みました。結果的には優良公民館職員として全国表彰を受けました。この頃が一番油が乗った時期で、全国に打って出て多くの仲間を得ました。町名変更という騒動にも巻き込まれ自治の何たるかを学びました。

 ④広報

 月に2回、10年間で240号もの広報「ふたみ」を発行しました。この記録は愛媛県内はおろか全国でも破られない記録ではないかと自負しています。お陰様で書くことを徹底的に学びました。広報は歴史の生き証人です。

 ⑤夕日によるまちづくり

 企画調整室と地域振興課でやく20年間まちづくりを担当し様々な仕事に取り組みました。特に夕日をテーマにしたまちづくりや人づくり、拠点づくりなどは大きな反響を呼び、シーサイド公園には年間55万人の来訪者が訪れ、また双海の夕日が「夕日百選」に選ばれるなど、様々な賞を受賞しました。その出発はやはり日本で一番海に近い下灘駅のプラットホームを使った夕焼けコンサートでした。その後自らも観光カリスマ百選に選ばれるなど、役場生活35年の有終の美を飾りました。

 ⑥21世紀えひめニューフロンティアグループ

 仲間とともに結成したボランティアグループを主宰し、無人島にいどむ少年の集いや丸木舟製作航海など、様々なボランティア活動に挑戦し多くの成果を残しました。その拠点となったのは自宅に設置した煙会所でした。その陰には家族の理解があったことも忘れてはいません。10年で40回のフロンティア塾も思い出の一つです。

 ⑦地域

 双海町という地域は私の最も身近なフィールドでした。無名だった双海町も、合併して伊予郡から伊予市に変りましたがそれでも双海町という名前は残り、今も私に無形ながら大きなパワーをいただいています。これからも最終的には生まれ育った双海町に恩を返さなければならないと思っています。

  こうして書いてみると、様々な分野で働き、様々な分野で成果を挙げ、様々な分野で多くの人の力添えをいただきました。さてどんな恩を返すか、そのキーワードは人間牧場にあり、今書き綴っているブログの文章です。人間牧場もブログも私の進化の証明です。つまり恩を返すには私が進化する以外ないと考えているのです。

  「鶴ならぬ 私の始める 恩返し 進化約束 必ず成果」

  「様々な 場所でお世話に なりました 言葉尽くせぬ 大恩感謝」

  「恵み受け 恩と感じた その日から 恩を返すと 生きる芯でき」

  「恩という 漢字因みに 因心 因果応報 因幡兎も」  

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shin-1さんの日記

○里芋を植える

 今日は抜けるような青空です。周りの山々の色も日増しに濃くなって桜の名残り花がひらひらと舞い落ちる姿は何とも風情のある風景です。木陰はひんやり日向はポカポカで、一年中で最も過ごしやすい季節かも知れません。

(わが家の借景である本尊山は萌えるような春色に染まって目にも鮮やかです)

 今日は朝から親父の手伝いです。90歳になった親父は老いてなおかくしゃくとして畑の作付けの責任者です。昨晩親父から「明日は里芋を植えるので手伝って欲しい」旨の依頼がありました。「明日は一日家にいるから」と告げていましたが、あいにく孫を松山の幼稚園へ連れて行くことになって、帰りは9時半でしたが、気の早い親父はもう植え付けを始めていました。里芋の種は地元の種物屋さんにお願いして5キロも購入しているのです。既に何日か前から耕運機をかけて地ごしらえを終えている畑に紐を張って真っ直ぐに植える念の入れようで、62歳になった私が90になった親父の手伝いをするのですから、まるでカラスと権兵衛のようなものです。

(綺麗に作付けの終わった里芋畑)

 親父が鍬で作った穴に種芋を一つ一つ置いて行き、親父が種芋の芽を見て植えた後に牛糞と肥料を振りまく、その上に親父が土を被せ、その上に私が籾殻を蒔くという作業を3時間もやりました。さすがに5キロの種芋は量が多く中腰の作業なので腰に疲労がたまって、時々腰と背筋を伸ばしながらの作業を続けました。

 母が存命中は家庭菜園で作る野菜の種類も豊富でしたが、段々数が少なくなっていました。私が退職してから当てにしていた労働力が当てにならないことを悟った親父は再び色々な種類に挑戦です。タマネギもジャガイモもニンジンも、それなりに育っていますし、ホーレンソウやキャベツやブロッコリーもいよいよ葉境で、これからはナスやキュウリといった夏野菜の作付けももう間もなくです。

(3日前親父と二人で草取りをしたタマネギ畑、今のところは順調に育っています)

 親父は何をしても研究熱心で、里芋の作付けに当たっては近所のおばさんに作り方の指導に来てもらいました。そのおばさんも5キロの種芋には少し驚いていたようでしたが、言われたままに植えた所へ指導してくれたおばさんが顔を出し「自分より上だ」と褒めて帰りご満悦でした。

 年寄りにとって季節の変わり目は命取りになりかねない気候です。寒さも季節の変わり目も無事乗り切って春を迎えた親父の姿を見ながらホッと一息といったところです。「今年は里芋でも作ってみよう」と意気込んだ作付けですが、親父の苦労は夏の暑い日里芋に水をやることです。幸い畑の隅々まで水がやれるよう家の井戸から自分で配管をしていますが、それでも元気で水かけできる自信を持って生きていることは何よりの嬉しさです。

 今年は里芋の葉っぱに溜った夜露で七夕飾りの文字を書きたいし、お盆の迎え火を焚く時の弁当の下に里芋の葉っぱを敷いて母親の霊を迎えられそうです。母親が逝って早6年、今年の初秋には7回忌の法要を営まなければなりません。親父の兄弟姉妹はまだ6人元気で暮らしていますが、母の兄弟姉妹は全て亡くなりました。先祖祭りをするのは長男たる私の務めですが、若くしてガンに侵されながらもここまで生きた親父が一日でも長生きできるよう心から祈っています。勿論私自らの健康も保持しつつ・・・・・。

  「里芋の ように子宝 恵まれて 一+一= 六となりぬる」

  「里芋の 葉っぱで雨を しのぐ様 孫が真似する 蕗の葉っぱで」

  「里芋の 葉っぱの梅雨を 見る度に 亡き母恋し 今は何処やら」

  「里芋を 桶で転がす 芋洗い ともに磨いて 綺麗になりぬ」 

  

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shin-1さんの日記

○生きがいって何ですか

 「あなたの生きがいは何」と尋ねられたらあなたはどう答えるでしょう。「今打ち込んでいる仕事」という人もいれば、「趣味だ」と答える人、「家族」や「地位名誉」、時には「お金」いう人もいて、生きがいのとらえ方は千差万別人それぞれなのです。福島大学の飯田先生はある本の中で生きがいの定義を「より価値ある人生を創造しようとする意思」、つまり「あらゆる経験を通して人間的に大きく成長したいという意思の表れ」だといっています。難しいことは分りませんが何となく分るような気がします。

 最近は子育てを終えた主婦、定年退職後の壮年、定職につかない若者など、現代は生きがいの持ちにくい社会だと言われていますが、果たしてそうなのか疑問なところがあります。一昔前の私が少年の頃は物が不自由で、明日の食べ物にさえ事欠く時代でした。故に親たちは食べるがために必死で働き、子どもたちも子どもたちなりに小さい働きをして家計を助けたものでした。そんな時代には生きがいなどと大それたことなど考える余裕もありませんでしたが、親も子どもたちも「あの頃は幸せだった」と過ぎ越し昔を述懐するのです。多分稼ぎは少なくても生きるがために働く、子どものために働くことが生きがいだったのだと思うのです。

 日本は敗戦以来60年間も戦争のない平和な時代が続いています。徴兵制度もなく巷には物や情報が溢れていますが、社会はモラルを無視した言動による事件や事故が相次ぎ、安全安心の国と諸外国から羨ましがられた日本の治安の悪さは目を覆うばかりです。過食による成人病やストレスが引き起こす心の病は、自殺者3万人の数字が示すとおり、どこかおかしく、どこか狂っているとしかいいようのない社会なのです。しかも60歳を過ぎた殆どの人が年金を受け取っているにもかかわらずその額に満足できず、「生き甲斐がもてない」と嘆いているのです。

 私は何年か前発展途上の国々を訪れた時、その生き生きとした姿に驚きを通り越して感動を覚えたものでした。経済的には決して豊でない国なのに何故か子どもたちの目は輝き、少年犯罪も自殺する人も少ないのです。またかつて若い頃映画で見た福祉国家北欧の老後の暮しの豊かさも、日本の将来として見てきました。物の豊かさと長寿を手に入れた日本人が何故生き甲斐が持てないのか、ふと気が付くと発展途上国も北欧も敬虔な祈りの国であるという事実と、日本は神仏の国でありながらその祈りをいつの間にか忘れているという事実です。第10回総理府派遣青年の船の班長としてアメリカを訪問した時、華やかな建国200年を祝うパレードに出くわしました。国歌が流れるとそれまで紙吹雪舞うお祭り気分だった沿道は一瞬静まり返り、右手を胸に置き国旗に向かって敬虔な祈りを捧げるのです。また日系2世の方の家へホームスティしましたが、何と仏壇の立派なのが置かれ、日曜日には礼拝に出かけるのです。「祈りを忘れた日本人」、私はそんな印象を強くし価値観が変ったような気がしました。

 私たち人間が信仰心を持って生きることがいかに尊く素晴らしいことかは論を待ちませんが、わが国でも私たちが子どもの頃までは祖父母や両親が自らの後姿を通して子どもたちに神仏を敬う心や先祖を大切にする心を伝えていました。私たちの町では夕日が海に沈みますが、その夕日に向かって「今日も一日無事働かせていただいて有難う」と両手を合わせる祖母の姿を何度見たことでしょう。朝はお茶とを欠かさず、ご飯が炊ければ供える、節分や彼岸の年中行事も田舎ゆえ毎年欠かさず今でも行っています。

 神仏に向かい合うと「自分は誰で、何故存在するのか」、こんな愚問が生まれます。これこそ生きがいの本質なのかも知れません。「生かされて生きる」、今では使い古された言葉ですが生きがいの根源はどうやらここら辺にありそうです。

  「生きがいは 突然問われ 多過ぎて 答えられずに 幸せ思う」

  「夕日見て 手をあわせたる 祖母の顔 今もありあり 自分の心に」

  「思わない? どこか変だな 日本人 遅くはないから 少し直そう」

  「金だけが 全てじゃないよ 目に見えぬ ものに価値あり 気付いて欲しい」

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shin-1さんの日記

○年金が離婚を加速する

 最近テレビの話題の中で俄然多くなったのは、離婚してもお互い年金を分け合うことのできる法律ができたため、離婚が増えるのではないかという危惧です。特に団塊の世代といわれる世代にとって、家庭や妻をも顧みず会社人間として働きに働いてやっと定年を向かえ、さてこれからという幸せが一瞬のうちに崩れようとしているのですから気が気ではありません。夫の言い分の「私が働いてきたから今日の幸せがある」というセリフは最もだし、妻の言い分「私が我慢して子育てや家事をやってきたからあなたは働けた」というセリフも最もです。しかし夫は外、妻は内というかつての役割分担のようなものが崩れ、妻も外で働く時代になったりすると、夫の「私が働いてきたから今日に幸せがある」というセリフは余りにも身勝手過ぎると思う妻の言い分は当然と思うのです。

 私のような古い考えの日本の男性は、亭主関白こそ最高の美徳と考えて妻が夫の言いなりになることに一種の憧れを持って生きてきました。しかし時代が変ったと思うのは娘夫婦や息子夫婦の家庭の姿です。両方の家庭とも共稼ぎをしていますが、家事全般、子育て全般を二人が二分の一づつという考えが浸透して、夫だから妻だからという気負いがまったくなく役割をこなしているのです。あそこまでよくやるなあと思いつつ見ていますが、時々わが妻が「お父さんも見習ったら」といわれると、「俺にはそこまで」と身を引く自分に気付くのです。

 妻に離婚を決意させる原因はこれまでの延長線上にこれからを考えるからです。これまでのように亭主関白で「誰のお陰で暮らせるのか」という高飛車な夫と上下関係の夫婦で一生終わるかもしれないと思うと、自分の人生は一体何だったのか、これからもそんな人のために毎日三度三度の食事を作らなければならない自分は惨め、もう沢山と思うのは当たり前のことでしょう。それでも我慢してきたのは離婚したら食べてゆけないというあきらめでした。しかし世の中は向かい風が追い風に変って妻にも約半分の年金が出るようになったのです。形勢逆転とはこのことをいうのでしょう。守りから離婚の三行半を突きつける攻撃の妻に変身したのです。多分この朗報を一日千秋の思いで待っていた人は沢山あると思うのです。

 要はこれまでではなくこれからです。亭主関白であり過ぎた自分を反省し、どう夫婦が夫婦らしく向かい合って生きれるか世の中の男どもは真剣に反省すべきです。そして生き方そのものを悔い改めなければなりません。60歳の定年を迎えたこれからの人生はまさに仕上げです。人生80年代なら20年も二人で暮らさなければなりません。お互いが今の健康を保持できる保証もないのですから助け合って生きて行かねばなりません。これまでは二分の一の割り算分担、これからは1+1=2の足し算合作をしなければならないのです。

 離婚の数字も最近は減少傾向にありましたが、年金分割で再び増加傾向に転じようとしています。年間離婚数は5万件とも言われていますが、日本のどこかで1日137組も離婚し、1時間に5.7組も離婚している計算になります。せめて私たち夫婦だけはお互いが死ぬまで5万件の中にカウントされないような人生を歩みたいものです。

  「お父さん 年金半分 知っている 唐突話す 妻の算段」

  「離婚など 他所の話と 思いきや あちらこちらに 形跡あらわ」

  「鬼(夫)は外 福(妻)は内なる 考えは 昔のことにて 今は通じず」

  「いい妻が 突如変身 三行半 どないしようか 飯も炊けない」


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