○わが村は美しく・玖木(20-1)
「若松さんですか。第一回目の集落講演会を6月15日に行います。6時ごろまでに西土佐総合支所へお越しください。遠方なのでくれぐれもお気をつけて」と人懐っこい中脇係長さんからの電話の通り、長浜~大洲~城川~日吉~三間~松野~西土佐のコースをのんびりゆっくり出かけました。夜来の雨で肱川や四万十川はかなり増水し濁流が勢いをつけて川下へ流れていました。午後からは心配した雨もあがって時折青空も覗くほどになっていました。出かける朝和田産業課長さんから、飯でも一緒に食べようとお誘いがあり、少し早めに到着して小高い丘の上の星羅四万十というお洒落なレストランで支配人の土居俊雄さんと名刺を交換し篠田さんを交えて少しの間楽しいおしゃべりをしました。
夕闇迫る頃いよいよ出発です。産業課が主催だというのに、教育委員会や総務課、企画の若い職員が4~5人同行して勉強させて欲しいとのこと、中脇係長の意気込みを感じ車中は賑やかな論議に花が咲きました。途中民宿舟母というかお馴染みの店によってあいさつしましたが、小さかった子ども大きくなり若い夫婦やおばちゃん夫婦も息災との近況を聞いて安心しながら、濁流に沈んだ沈下橋を避け大きな橋を渡って黒尊川沿いを登って行きました。
訪れた玖木地区は戸数が20戸以下の小さな集落です。廃校になって既に久しい跡地に集会所はこじんまりと立っていました。少し時間があったので周辺を散策しましたが、かつて学校の子どもたちを見守ったであろう桜の木やメタセコイア木がうっそうと小さな運動場跡地を囲んでいました。集会所の入り口には門柱が立っていて今は苔むしていますが「玖木小学校という文字が印象的に残っていました。
この校門をくぐって何人の子どもたちが学校へ登下校したことでしょう。運動場の隅に古いレンガづくりの焼却炉を見つけました。またそのすぐ隣には鎖を取り外されたブランコの柱だけが赤錆びて寂しく立っていました。ギーコギーコ音がしたのでしょうね。
ふと見上げるとそこには廃墟と化した教員住宅が朽ち果てるのを待つようにひっそりとありました。玖木のこれらのものは全て近代化遺産で歴史であり文化であるのです。記録にとどめたり写真にして残すこともしているのでしょうが、大切にして欲しいものです。
玖木の会場は僅か20戸以下なのにこちらから行った人を含めると20人を越えて中々賑やかな会となりました。私の話は①田舎嘆きの10か条をベースにしながら1時間半の話をしました。亀ちゃんだの日ごろ呼んで名前で呼び合う和やかさであっという間に時間が過ぎました。底抜けに明るい人たちにコミュニティの深さを感じましたが、ここでもやはり過疎と高齢化、それに地域の活性化が大きな課題のようでした。私のような人間が外から入ると、活かしたい地域資源がゴロゴロ転がっているように見えました。このお宝をどのように生かすかはこれからの仕事でしょうが、みんな歳をとってきて悠長に、ジョージアのコマーシャルではありませんが「明日があるさ明日がある」なんて考えずに、出来ることから始めないと時間がないのです。
奥屋内へ行く途中玖木の区長さんに家の前でお会いしました。この人は只者ではないと思いました。ご覧下さい。カーブを回るといきなり山の中の狭い道沿いにこんな美しい花壇があるのです。これは区長さんは自から種を蒔いて育てた花々だと聞いて二度びっくりです。
家の前なので当然だと笑って話していましたが、凄い美的感覚と行動力です。人の上に立つものかくありたいものです。区長さんのお家の下には黒尊川の清らかな流れとミニの沈下橋がありました。いい山村の風景でした。小さい声で「ここだけの話だけれど天然の鮎が遡上します」と川面を指差しました。確かに黒い鮎の群れが泳いでいるように見えました。区長さんの遊び心は田舎暮らしにとって最も必要なことなのです。人の暮らしをねたみ、人の暮らしをうらやんでも何の得にもなりません。どう生きるか生き方が問われているようですが、どうやらそのヒントは区長さんは見つけているようでした。
「この村じゃあ 五十六十若い方 もう歳言う人 一人もおらず」
「何よりも 驚くことは 村中に 笑い絶えない 日々の暮らしが」
「門柱に つわものどもの 夢の後 記録残さば 朽ち果てしまう」
「この村は その気で見れば 美しく 花の咲く庭 思わずパチリ」