○心に残った山里初秋晩夏のの風景スケッチ②
前日の夜のミーティングで気になっていた雨の心配をしながら目覚めの朝を迎えました。私はそっと布団を抜け出して外に出て、急な坂道を一人で歩いて下り、アーチ橋を渡って川沿いの道を散歩しました。我が家では夏の日照りでとっくに枯れた金時豆やインゲン豆が畑でスクスク青々と育っていて羨ましいと感心したものです。
アーチ橋はとてもお洒落で、橋の下を流れる面河川の清流がいかにも長閑に流れていました。早朝ながら早くも畑仕事をしていたおじいさんとお話をさせてもらいました。このおじさんもご多聞に漏れず耳が遠いようで、多少チンプンカンのようでしたが、面白い話を聞くことが出来ました。
(面河少年自然の家絡みえる山里の端のある風景は絵になる風景でした)
(ど根性白百合とでも命名したくなるような石垣にしがみついて咲く由利の花)
(長い廊下)
晩夏を迎えた山里にはもう初秋を感じさせるような爽やかで心地よい風が吹いていましたが、様々な場所で考えさせられるような光景に出会いました。ひっそりと山里に暮らす独居のおばあちゃんがマイピアに乗ってゴミを出す姿、薪で沸かす風呂の煙、黙々と畑を耕すおじいちゃんなどは過去にタイムスリップしたような印象さえ受けました。印象的だったのは元学校だった面河少年自然の家の長い廊下で、過疎化と高齢化、少子化、限界集落、学校廃校など、様々な問題を抱えて苦悩する中山間地を象徴しているように思いました。
この地域も平成の大合併で久万高原町となりましたが、不便さはこれからも解消されず、むしろ行政サービスは遠のかざるを得ない厳しい現実が待ち受けているのです。
かくいう私も、海沿いとはいいながら過疎や高齢化、少子化、限界集落など同じような問題を抱えて苦悩する地域に住んでいて、これからも同じような宿命を背負って生きてゆかなければならないのです。しかし幾ら現実を嘆いて目をそらせても問題は解決しないのです。宿命だと思っていることを運命と思って努力すれば多少なりとも暮らしは向上し、いい人生が送れるのですから頑張らなければなりません。最近「頑張る」という言葉が否定されるような世の中になってきました。世の中には頑張ってもできないことや、頑張っても出来ない人もいることは事実です。でも身の丈サイズの頑張りをすれば多少なりとも生きる勇気は湧いてくると、個人的には思っています。人や社会がどうであれ、私はこれからも自分サイズの頑張りを続けたいと思っています。
「朝起きて 周辺散歩 清々し 山里長閑 時計止まりぬ」
「朝早く もう畑出て 鍬振るう 山のおじさん 働き者だ」
「一本の 橋も絵になる 風景を カメラに収め 深呼吸する」
「夏終わる 目にはさやかに 見えねども 栗の実少し 色づき始め」