shin-1さんの日記

○蘇り胸うずく8月6日8時15分

私は1944年、昭和19年10月3日に生まれました。私が生まれた10ヵ月後、日本はポッダム宣言を受諾して敗戦を迎えました。その引き金になったのは人類の歴史上初めて日本に原子力爆弾が投下され、多くの犠牲者を出した広島・長崎の忌まわしい惨状だといわれていますが、私の年齢と同じく65年経った今も核爆弾はこの地球上に存在し、その脅威におののきながらも人間は暮らしているのです。

 オバマアメリカ大統領のプラハ演説が引き金になって、軍縮や核拡散への期待が高まり、今年の広島平和式典にはアメリカ駐日大使や国連事務総長も姿を見せたものの、出席して非核三原則をこわくぁかに叫んだ日本の菅首相はその2時間後、秋葉市長の核の抑止力傘下方針の離脱を訴えた秋葉市長の平和宣言をまったく無視するように、記者会見で抑止力を強調する迷走ぶりは、この65年間に出来上がった日米暗黙の信頼構図が、そうおいそれとは崩せない胸のうちを物語っているようです。

若松進一ブログ
(母の背中でキノコ雲を見たであろう、下灘豊田下浜から、8月6日8時15分、水平線の向うに広島を望む)
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 私は戦時中生まれの65歳といいながら戦争を知らない世代です。でも戦争中に母親のお腹に身ごもり、覚えていないといいながら10ヶ月も戦時下で生き、敗戦後の物のない時代に育っているのですから、自分の人生における基底的なスタート部分ゆえに胎教や感化を受けているに違いないのです。

 母親の背中に負われて私は8月6日の朝を迎え、伊予郡下灘村下浜豊田の海岸で対岸にアメリカ軍の爆撃機エノラゲイから投下後発生した原爆のキノコ雲を見ているのです。キノコ雲が原爆だとは直ぐには気がつかなかったものの、その日のうちに村中が大騒ぎになったと母親は、少し大きくなった私に語っていたのを思い出すのです。ゆえに私の体の中の潜在能力そうするのか、毎年8月6日の8時15分が近づくと頭の中に当時の悲惨な惨状が蘇り、まるで金縛りに合うような錯覚になるのです。

 私でさえこうなるのですから、原爆に遭った人たちの心の傷は癒えるどころか、死ぬまでその恐怖は付きまとい恐怖におののくのは当然なのです。

 平和式典は一種セレモニーのように見えますが、不戦や平和、反核の誓いでもあります。正解唯一の被爆国日本がノーモアヒロシマ・ノーモアナガサキをスローガンに、今こそその先頭に立って国を挙げて世界をリードしてゆかねばならないのです。その先頭はやはり日本国首相のリーダーシップだと思うのですが、アメリカの抑止力に甘んじるなと当時の自民党政権を厳しく糾弾し続けてか政権を奪取した民主党ですら、秋葉市長の平和宣言を踏みにじるのですから、政治への期待は無意味なようにも思えるのです。

 でも諦めることなく国民運動の勢いを強め、次の世代に核を引き継がせない強い意志を持つべきと、秋葉市長の平和宣言を聞きながら今一度心新たにしました。今年の救いはアジア韓国から選出されている国連事務総長が初めてヒロシマを訪れ温かいメッセージを世界に向けて語ってくれました。これはオバマ大統領ののように言葉巧みなたった一回の演説で、ノーベル平和賞をもらったことよりも、春賀に価値のある演説だったと思いました。胸うずく8月6日は来年も再来年も、私の人生が続く限り続いて行くことでしょう。

若松進一ブログ
(8月6日の灼熱の太陽は水平線の彼方に平和の願いを込めながら沈んで行きました)

  

  「一回の 演説だけで ノーベル賞 オバマお前は それでいいのか」

  「毎年の ようにうずいて 胸騒ぎ これも胎教 母の土産か」

  「ことの他 猛暑の多い この夏も 八月六日 姿現す」

「母背中 背負われ見たと 言う雲の 辺り入道 モクモク湧きて」

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