○豊予海峡交流会
気の合った仲間が集まって久しぶりに交流会をしようと誘いがありました。何とこれが九州と四国の交流会ですから10人足らずの少数人数とはいいながら考えはでっかいのです。九州と四国の間には豊予海峡という海があって、交通の便の悪い時代には別府温泉へ修学旅行に出かけるような遠い所でした。ところが三崎半島の突端と九州の佐賀関間にフェリーが就航して僅か1時間10分で結ばれ、このような交流が出来るようになったのです。70分だったら何のことはなく移動できるので思いつきました。
三崎半島の旧三崎町までは瀬戸内海と宇和海を交互に見ながら私の町からだと1時間半くらいです。危ないからイクナと国道の名前を逆さに読まれ悪評をかこった岬頂上線は潮風メロディーラインと呼ばれて快適ですが、豊予海峡の洋上を国道が走る、つまり四国側の国道も九州側の国道も々197号線なのです。
私の集会の都合で午後5時30分発のフェリー便にしてもらいましたので、南予を中心に私を含めて7人が三々五々三崎総合支所に集まりました。遠くは四万十川の中流域旧西土佐村の役所に勤める和田修三さんも遠路はるばる参加してくれました。私の親友であるツーリズム協会の塩崎満雄さんの事務所が三崎総合支所に移転したため、しばらくの間観光やまちづくりについて談義ししましたが、役所の中には知人や友人、それに顔見知りも沢山いて気軽に声を掛け手もらいお茶までサービスしていただきました。
少し陽が短くなって午後5時30分出港のフェリーが佐賀関についた頃は夜の帳もすっかり降りて、鈍い街路灯の光に照らされた佐賀関港へ18時40分に着きました。渡部さんと姫野さんが桟橋まで迎えに来ていて、私たちは早速あまべの郷関あじ・関さば館へ向いました。
?関あじ・関さば館は、都さんが興した佐賀関観光有限会社で、今年の1月22日にこの会社を立ち上げるための研修会に招かれた時はまだ建設中でしたが、この春オープンして営業を続けています。そんなご縁もあって関あじ・関さば館へ到着すると都さんが持っていてくれました。懐かしいお顔に出会いましたが、このところ体調を崩しておられるらしく、ビールの差し入れをして早々に引き上げられました。
それにしても、この日のお目当ては関あじ・関さばを堪能するほど食べようと乗り込んだのですが、あじ・さば・イサキ全ての活造りは最高の味で、日ごろ全国を巡って刺身を食べ歩いてい
る私ですが、新鮮さも味も、そして出すタイミングも全てに満足のいくものでした。他の人たちは正直言って失礼な言い方ですが刺身の本当の味は分らないかもしれません。
飲むほどに酔うほどに元気になるのが私たちの年代です。海の向こうに来ていることもあって少しぐらい大きな事を言っても壁や障子に目や耳がある訳でもないし、借りきりで他の人もいないことから、ボルテージは上がる一方でした。多勢に無勢の勢いも見方をして愛媛県人、高知県人大いにトッポ話をしました。酒を飲まない私にとっては多少劣勢のようでした。
折角来た余勢を借りて2次会に繰り出し、小さなスナックの客となりました。最初は何人かのなじみの客がいましたがそのうち引き上げ、またしても貸切状態です。ナツメロ・リバイバル・流行歌を9人が次々に歌うものですから、結局は12時までの楽しみ、宿へ引き上げたのは12時を回っていたようです。
いやあ、交流はいいものです。宿で同じ101号室に床を並べた塩崎満雄さんとこうして他愛のない夜話をするのも何年ぶりでしょうか。青年の頃の思い出が蘇ってきました。
明くる朝私は5時に起きて宿をそっと抜け出し、界隈の散策を試みました。わが家は今度の日曜日に母親の7回忌の法要が営まれます。そのため私一人が7時発のフェリーに乗って海を渡って帰りました。
(フェリーの窓から見えた佐田岬半島の突端の灯台、向こうには佐賀関の煙突、そして三崎半島の頂上には20基を越える風力発電のための風車が見えました)
「牧場で 飲みし友だち 次は関 誘いを受けて 大挙乗り込む」
「声を出しゃ 聞こえそうなる 所だが、橋やトンネル 物議をかもす」
「関さばや 関あじたらふく 食いました 残りは無残 大根と串のみ」
「また会おう 硬い握手で分かれたが 一ヵ月すりゃ 元のもくあみ」