shin-1さんの日記

○七回忌

 母親が死んでから早くも丸6年が過ぎようとしています。2001年10月4日に母は亡くなりました。奇しくも私の誕生日の明くる日に逝ったものですから、その日のことはよく覚えているのです。この6年、私にとっても大きな変革がありました。平成の大合併で双海町という自治体がなくなり、役場に勤めていた私も60歳という区切りで第一線を退きました。自由人となった今は母親の残してくれたみかん畑を開拓して人間牧場を作り、新しい活動にも取り組んでいるのです。死んだはずの母親の顔が夢に出てきたり何かにつけてよく思い出していた母親の顔も、忙しさにかまけて最近は随分疎遠になったと思うのです。

 わが家は臨済宗東福寺派なので、この地方では法要の前日念仏を行う風習があります。夜7時からの念仏には親類縁者がやって来て念仏を唱えるのです。本家ということもあり、兄弟が多いということもあって家の中は足の踏み込む場所もないほどの大賑わいです。私の兄弟は5人のうち4人までが同じ町内に暮らしています。弟だけが奈良に住んでいますが、その弟も来月の誕生日で満60歳となり、目出度く42年間勤めた会社を定年退職するようです。前日弟夫婦が久しぶりに帰省しました。親父はこの日の来るのを指折り数えて待っていたようで、2~3日前からソワソワしているように見えました。やはり息子ですから気になるのでしょう。42年まえ高校を卒業して直ぐに大手建設会社に就職し、主にトンネル工事の現場を渡り歩いてきましたが、退職後は連れ合いの実家である和歌山県に古座に家を構え移り住むそうですが、何時までも二人元気で暮らして欲しいものです。

 葬式一周忌、3回忌、7回忌と回を重ねるごとに身内の叔父や叔母たちも足が痛い、膝が痛いと、老いを感じさせる言葉がよく聞こえるようになりました。私は現在62歳ですが、これから二十年は叔父や叔母の今日と同じ葬式や法事をしなければならないのが世のめぐりでしょう。それもそのはず今日の法事に来る予定だった叔母が2.3日前に救急車で運ばれ来れなくなった旨の連絡が昨夜入りました。

 法事をするに当って大変な苦労は妻の仕事です。身内への連絡、法事の食事の準備、お寺さんとの調整、買出しなどの他に家の掃除や食器類の準備など、かなりの量の仕事が妻の一身にかかっているのです。私などは念仏の当日まで佐賀関へ交流会に行く始末なのです。

 今日も朝から9月だというのに30度を越す真夏日でした。朝から来客がひっきりなしでやって来ます。姉と妹が手伝いにやって来て手伝ってくれるのですが、法事につき物のうどんを出さなければならず側で見ていましたが大変のようでした。

 何はともあれ母の7回忌の法事は無事終わりました。手伝いと称して里帰りしている娘は子どもを二人連れてよく頑張りました。大勢の来客に酔ったのか二人の子どもたちは8時過ぎに風呂に入れてバタンキューでした。

 今は法事もどこかの料理屋さんを借りて食事会ではい終りの所が多いそうです。田舎は大変だけれど、束の間の休日に日ごろ疎遠の親類縁者が集まって色々な話をしたことも意味があり良かったと思います。

 明日は寂しがる親父を残して弟夫婦は奈良県へ帰ってゆくことでしょう。親父が言う「今度お前と会う時はおらの葬式だ」にならないようにしたいものです。

  「七回忌 身内随分 歳を取り 椅子が足りぬと 書斎の椅子も」

  「長男の 嫁ゆえせねば ならぬこと 先祖祭りに 親父のお世話」

  「次法事 誰が来ないか 分らない 自分含めて 次への不安」

  「彼岸まで 暑さ寒さを 言うけれど 今日の気温は 尋常でなし」

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shin-1さんの日記

○祖母のふるさと

 祖母が亡くなって20年余りが過ぎました。12人も子どもを生み育てた明治生まれのしたたかな生き方には、平凡な庶民ながら深い共感を覚えていますが、祖母の出生地のことは旧西宇和郡瀬戸町小島というくらいで余り知りません。しかし心のどこかに先祖のルーツを訪ね調べたいという想いはいつも持っています。

 一昨日国道378号から国道197号を通る道すがら、国道の看板に「小島」という看板が目に入ったのです。「そうだ、少し早いので母の出生地を訪ねてみよう」と思い山道に分け入りました。国道は宇和海側を走っていて、小島は瀬戸内海側にあることから峠道を越えなければならないのです。時折見つける「小島」という看板や矢印を目当てに心細い気持ちとはやる気持ちを同時に持ちながらの走行でした。やがて瀬戸内海が大きく開け、狭いヘヤピンカーブを何度も曲がりながら、小島の集落へ入って行きました。

 何の予備知識も持たず、意の向くままの訪ね旅なので、誰かにどこかで聞いてみようと思いながら午後3時過ぎの残暑厳しい中で、容易に村人を発見することすら不可能なのです。


 最後のヘヤピンカーブを曲がると港に出ました。二人のおばちゃんが道沿いの木陰で何やら話していました。私は車のブレーキを踏み助手席の自動ドアを開けて「すみません。ここら辺にFさんというお家はありませんか」と聞きました。顔つきの悪いよそ者の侵入者に身構えるような姿がありありです。「Fさんといっても2軒ありますがBさんかCさんですか」と名前を尋ねられました。とっさに返ってくる質問に私は思い出すことが出来ず、あらん限りの記憶を辿りBさんの方です。といったら思わず心が和んだのか、指差しながら「あそこら辺の家だ」と教えてくれました。「でも行っても今日は留守かもしれない」といわれ、時間切れを気にしながらそれ以上の詮索は出来ないと判断したのです。

 私はこの港へは海路何度も訪ねてきています。若い頃漁師をしていた頃この沖合いは鯛の絶好の漁場だったのです。時化で母港へ帰れずこの港で1泊した記憶もあるし、港や湾内の風景はよく覚えているのです。多分それは祖母への想いからその目で見ていたからかも知れません。

 沖合いから見ると湾の奥に港があるのですが、その横に突き出た場所に神社があってそれは綺麗な小さな島がありました。小島という地名の由来はここではないかと昔は思っていました。

 祖母はこの地に生まれこの地で少女時代を過ごしたのです。そしてこの原風景を心のふるさととしながら下灘の祖父と結婚しました。聞いたことはありませんが多分祖父は、漁の途中で立ち寄った小島というこの土地で祖母を見初め結婚したのでしょう。90年も前のまさに遠い遠い昔の出来事ですが、祖母の決断がなければ私という人間もいなかった訳ですから、まさにこの地は私のルーツの原点とでもいうべき土地なのでしょう。



 もう一度訪ねたい。そんな気持ちで後ろ髪を引かれながら元来た道を引き返しました。バックミラーに写っては消える湾や海や民家が残像のごとく今も心に残っています。何時の日かまたこの地を訪ねたいものです。そして祖母の両親の墓参りでもしてみたいと思いました。私の心をここまで駆り立てるのはやはり私が歳を取ったせいなのでしょうか。

  「訪ね来し 祖母のふるさと キラキラと 残暑の中に トンボ飛び交う」

  「この風景 見ながら祖母は 少女期を 過ごしただろう 妙に懐かし」

  「海だけは 今も昔も 変わりなく 深い青みを 保ち続けて」

  「盛衰の 哀れを誘う 空き家見ゆ 住みし人たち 今は何処に」 


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