shin-1さんの日記

○尋常小学國語讀本巻十一

 大阪の古本屋で「尋常小額國語讀本間十一」という本を見つけました。昭和4年11月31日文部省発行の本です。当時何年生の子どもが使ったのか知る由もありませんが、目録という目次を見て驚きました。中身は理科と社会、歴史、音楽、道徳などがランダムに収められているのです。第一課太陽、第二課孔子、第三課上海、第四課遠足、第五課のぶ子さんの家、第六課裁判、第七課賎獄の七本槍、第八課瀬戸内海、第九課植林、第十課手紙、第十一書師の苦心、第十二課ゴム、第十三課ふか、第十四課北海道、第十五課人と火、第十六課無言の行、第十七課松坂の一夜、第十八課貨幣、第十九課我は海の子、第二十課遠泳、第二十一課暦の話、第二十二課リンカーンの苦学、第二十三課南米より(父の通信)、第二十四課孔明、第二十五課自治の精神、第二十六課ウェリントンろ少年、第二十七課ガラス工場、第二十八課鉄眼の一切経とまあ多岐に渡って書かれています。

 私はこの本を千円で買い求めわが家へ持ち帰りました。何年か前大学という中国の古書を手に入れた時と同じように嬉しくなって帰りの車中で読みふけりましたが、古い漢字や仮名づかいが多くて凡人の私には中々読みづらい本でしたが、それでもこの本が文部省から出版された時代背景や富国強兵を匂わす教育の意図する意味が理解できて興味をそそりました。

 新漢字に置き換えて第二十五課の自治の精神を読んで見ました。

 我が国の地方自治団体には府県市町村の別がある。その土地に広い狭いがあり、その組織に繁簡の差があるにしても、地方自治の精神に基づいてその団体の幸福を進め、国運の発展を期することは皆同じである。

 一体自治の精神とは何であるか。地方人民が協同一致して自ら地方公共の業に当たり、誠意その団体の為に力を尽くす精神が即ちそれである。この精神は実に自治制の根幹であり、またその生命である。一般人民が府県市町村会議員を選挙するにも府県市会で参事会員を選挙するにも、市町村会で市長村長を選挙するにも、皆この精神を本としなければならない。また市町村長がその事務を処理するにも、議員が予算を議するにも、常にこの公平な精神をもってしなければならない。

 市町村長や議員を選挙するには、もっぱらその人物に重きを置いて、決して親族縁故その他私交上の関係の為に心を迷わすようなことがあってはならない。まして威力によって強制するとか、私利によって勧誘するとかいういうような手段を用いたり、又この手段に動かされたりするのは自治の精神に全く反するものである。本当に自治の精神に富んでいる者は、公平無私、地方公職の為の適任者を挙げたることだけを考えて、決して私心をもたないのである。

 公吏議員等、直接間接に公共の事務に当る者は、如何にその職務に忠実であっても、一般の人民の後援がなければ自治団体の円満な発達を望むことは出来ない。それであるから人々は常に自治制の本旨をとらえ、協同一致して団体の福利を増進することを心掛けねばならない。例えば教育衛生等の自治団体の事業は、地方人民が一般にに之を尊重し、之に協力することによって、始めてその効果を完全に挙げることが出来る。また産業組合を設けたり、慈善事業を起したり、または青年団を組織して産業の発達、風族の改善等に務めたりするのは皆公共心の発動であって、自治の精神を養成し、自治団体を助長するものであるから、地方人民は大いにこれ等の事業に力を尽くさねばならぬ。制度を運用するのは人である。自治制もこれを運用する人民に自治の精神が乏しければ、よい結果を得ることは到底望まれない。

 本文は旧仮名使いや文中の句読点などは一文字として扱っていないため、づづらべったりの感じがして読みにくくなっています。それでも前半で地方自治の本旨を説明し半ばで首長や議員の選挙を挙げ、後段でその具体的方法を挙げています。ある意味で高潔、ある意味で時代遅れな所も沢山ありますが、このような教育にもかかわらず現代の地方自治は、その本旨と程遠い迷走を続けているのもおかしな話です。

 地方自治とは何か、住民自治とは何か、平成の大合併が一応の終息を見て日本中が再編された今こそ地方自治や住民自治について考える必要があるような気がしてなりません。早い市町村では早くも合併して2回目の首長や議員の選挙が始まります。私利私欲や自分自身の名誉のためにだけ走ることなく、しっかりとした政策議論を行い住民から信頼される公平な人、高潔な人の出現を望みます。また住民もここに書かれている精神を重んじていい人を選び協働と参画をしたいものです。

  「八十年 前に読まれし 國語本 未だその道 達成されず」

  「自治は何? 大学入試 問うたなら 宝くじだと 馬鹿もいるもの」

  「首長や 議員に尋常 國語本 読ませやりたい 小学以下だ」

  「この本を まとも読めない 人たちが バッチつけてる 世の中おかし」

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○9、映画館

 私が子どもの頃の漁村の娯楽はとりたててそんなにありませんでしたが、下灘村という小さな村に東映館と双葉館という映画館が2つもありました。東映館は東映系、双葉館は松竹系の映画を配給していましたから、どちらも見たいのですが、映画館の代表者がわが家の知人だったため、わが家の家族は松竹系の双葉館をごひいきにしていました。今の若い人にいっても「それ誰」といわれそうな高田浩吉、大川橋蔵、嵐勘十郎、市川歌右衛門などが出演する主に時代劇が多かったようですが、その後小林旭や石原裕次郎、浅丘ルリ子などの青春スターなども出て、それは楽しい夢の世界でした。映画館はそれぞれウグイス嬢を構えて映画館の屋根に取り付けられたラッパ型のスピーカーで、音楽を流しながら朝から映画の宣伝をするのです。私の親父たちは定期券のようなものを買ってしょっちゅう行っていました。学校を挟んで二つの映画館が競うように放送する音は教室まで聞こえ、先生の教える声よりそちらの方が興味をそそりました。私たちは映画を通してまだ見ぬ都会とわが住む田舎の落差を知り、都会に憧れを持ったものでした。

 映画館の入口や村内の要所には映画の封切りが迫るとポスターが張り出され、映画の始まる前も終わった後も映画の話がしばらくの間は村中の話題になる長閑な時代だったのです。最初は自由に映画に行っていましたが、ある日突然学校で担任の先生が、「いつも映画を見るのは教育上好ましくない。今日の職員会で映画は許可したもの以外は見てはいけない」と一方的にお達しがあって、子どもたちをガッカリさせたものでした。それでも子どもたちの中には内緒で映画に入る者もいて、親が呼び出されて注意を受ける一幕もありました。その頃は電気休みというのがあって、その日は映画が休みでした。月に一回は電気が全てストップするのです。家に冷蔵庫があるわけでもないので別に電気休みを咎める人もいませんでしたし、これまた長閑な時代でした。

 正月やお盆になると映画館は連日満員札止めで、3本の封切りが見れるとあって、午後の部、夜の部と2回も同じ映画を見た経験もあるくらい映画は一時代の娯楽でした。

 映画といえば2つを思い出します。一つは壺井栄原作の「二十四に瞳」です。小豆島が舞台にしたこの映画は高峰秀子主演で小学校の講堂にやって来た巡回映画で見ました。みんな涙をいっぱいためて見ました。二本目は「ビルマの竪琴」という映画です。小学校5年の時担任の先生が道徳という初めて出来た授業時間に「ビルマの竪琴」という本をシリーズで毎週朗読してくれていました。みんな何気なく先生の朗読を聴いていましたが、その年この映画が双葉館で上映されるというのです。普通は許可されない映画なのに、5年生だけが特別の許可を校長先生から貰って、みんなでゾロゾロ見に行きました。水島上等兵が戦後戦死した戦友の霊を弔うためお坊さんになってビルマに残るラストシーンは、これも感涙に咽んだものです。

 昔の映画は上映中よく途中で切れました。当時の子どもたちには刺激の強かったラブシーンや主役が格好よく活躍する場面になると必ずといっていいくらいフィルムが切れるのです。つなぎ合わせて始めてもまた切れ、場内の電気が点いたり消えたりして、すっかり興ざめしたことも何度かありました。

 映画はテレビの出現によってあっという間に私たちの村から姿を消して行きました。最後は客足もまばらで、映画館はかなりの借金を背負って倒れたという話も大人たちの噂話として子どもの耳に入りました。

 テレビの出現によって映画は終りと誰もが思いましたが、世の中不思議なもので今は映画が復活し、若者の間では週末を映画館で過ごす人もかなりいるようです。「ハリーポッター」など相変わらずの人気で、私の妻も時々友人と鑑賞しているようです。

  「映画しか 娯楽のなかった 田舎町 こぞって鑑賞 回数券まで」

  「そういえば 電気休みと いわれた日 夜は点いたか 点かぬか忘れ」

  「都会には 夢の世界が あるのかと 暮しと比較 憧れました」

  「そういえば ここいら辺に 映画館 夢の泡沫 見る影もなし」  

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○オリジナルハガキ

 一日三枚のハガキを書いて20年余りが経ちました。ハガキは官製ハガキから年賀状の残ったものまで色々使っていますが、これまで出したハガキの中で圧倒的に多いのは夕日をあしらった絵葉書でした。しかし役場でPR用に作っていた夕日の絵葉書も、役場を辞めてからはそうそう使うことも出来ず、加えて合併して予算が削られ今は印刷費もないようなので、私は思いきって2年前から自分のパソコンでハガキに半分に写真を入れた写真ハガキを製作し、愛用するようになりました。人間牧場の写真、夕日の写真など季節の話題をデジカメで撮影した数々のファイルの中から取り出し、見よう見まねで作っています。台紙のハガキは東京に行った折必ずといってよい位ヨドバシカメラのパソコン材料売り場を覗いて大量にまとめ買いして帰るのです。一度に1000枚単位で買うのにもう残りが少なくなり、今日から岩手県一ノ関へ行くので、途中の帰路仕入れて帰りたいと思っています。

(ロケ風呂に入浴している次男一生と孫朋樹の写真をあしらったハガキ)
 最近よく使う写真は水平線の家での諸行事や人間牧場で子どもたちとやっているおもしろ教室の写真、それに今年の夏の暑中見舞いに採用したロケーション五右衛門風呂の入浴シーンなどですが、特に息子と孫が入浴している写真は好評で、沢山の方々から「涼しい話題だ」とか、「ロケーション風呂に入浴してみた」などと返信のお便りを頂きました。

 また双海町の海に沈む自称日本一と自慢している夕日の写真も沢山送りました。私のパソコンフォトファイルにはこの2年間で様々な写真が集められ、使われないままパソコンのお蔵の中に眠っています。「いずれ暇でも出来たら」なんて軽い考えでいたため溜りに溜っていくのです。佐賀関の渡辺又計さんのような達人まではいかなくてもせめて自分流の処理の方法を見つけて要らなくなった物は捨てる覚悟で整理したいと思っています。

(人間牧場の芋畑と子供たちの写真をあしらったハガキ)

 今月採用した私の絵葉書に載せた写真は子どもたちが5月に人間牧場の農場で芋植え作業をしたものを使っています。急峻な狭い芋畑なのに写真ではかなりいい具合に写っていますし、イノシシ対策に考案した網囲いや空き缶おどしもちゃんと表現できていいアングルです。

 一日3枚のハガキですが毎日となると馬鹿にならない情報発信能力を発揮します。私が書いたハガキが友人に届き、その友人がその友人に見せて、交流の輪へと発展していますし、芋収穫やイノシシ撃退法などののアイディアが返信で続々届いています。たかが1枚50円のハガキですがされど一枚のハガキなのです。情報発信はこのようにこまめな作業の積み重ねだと、夕日をスターダムに押し上げた陰の功労者としてハガキと名刺の話をいつもしているのです。

(まるでブロマイドのような息子の嫁のロケ風呂での写真をあしらったハガキ)

 さて明日から9月です。9月は何といっても双海町の自慢の夕日です。明日は恒例の夕焼けプラットホームコンサートが開かれます。私は岩手県へ出張する予定が一日早まったため残念ながら参加することが出来ません。自分がいないので仲間から既にブーイングが届いています。でも仕方がないこととして、担当している大谷さんの健闘を祈りたいと思っています。みなさん夕焼けプラットホームコンサートにお越しください。

  「オリジナル ハガキ作って 日々に出す お陰で楽し 楽しみ増えて」

  「息子孫 風呂に入った 写真入 暑中見舞いの 涼しさ送る」

  「五十円 切手を貼って 投函す 明日は全国 旅から旅へ」

  「何気なく 撮ったつもりが ブロマイド ランプに映えて 嫁はスターだ」 


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○慌しい一日

 「何でこんなに慌しい一日が続くのだろう」と思うほど、今日も昨日に続いて慌しい一日でした。朝4時に起床してブログを一本書き終わった頃、散歩から帰った親父が折から降り出した小雨に濡れて帰ってきたので、風邪をひいてはいけないと着替えをさせ、毎日の日課ながらここのところの出張続きで貼ってあげれなかったサロンパスを貼ってやりました。そのうち妻が書斎へ朝食の準備が出来たと呼びに来て、二人で新聞を読んだり昨日の出来事を話したり、長男の嫁の出産の予定を話しながら食事を終えました。

 今日は午前中生協の定例理事会があるので、松山市の郊外にある生協本部に出かけました。いつも活気のある生協理事会も今日の午前中は生協法の改正の説明や環境週間の取組に関する説明が微細に行われたため、比較的穏やかな質問でした。理事会は昼食を挟んで午後1時半頃終わる予定でしたが、昼食時に娘から電話があって、午後の予定を聞かれました。午後3時から私が代表を務めているえひめ地域づくり研究会議の運営委員会がセットされている旨の話をしたら、予定日を過ぎている長男の嫁の陣痛が朝からあるようなので、少し手を貸して欲しいというのです。公的予定を私的なことで変更することは好ましくないと思いつつ、理事長さんや専務さんに仔細は告げずも早引きをさせてもらうよう頼んで、本部を後にしました。

 娘は県立中央病院の助産婦です。今は5月に生まれた自分の第二子養育の産休中なのですが、弟嫁の一大事とあって、午後3時からの会議までの間、自分が付き添うので私に生後3ヶ月の赤ん坊と4歳の孫の面倒を見るようにというのです。娘のマンションに行きましたが、娘婿はあいにく大阪に日帰りの出張中とかで、いきなり言われても大変だと思いました。その頃には少し状況が変化していて、結局入院したので長男の嫁はお産に備え入院してしまったので、とりあえず嫁のお母さんが付き添うことと、妻が仕事を休んで孫たちの面倒を見ることの話が進んで、やれやれです。私は午後3時からの会議に出席しました。今日の会議は議題が多く2時間の予定が30分も延長され、結局5時半までかかってしまいました。長男の嫁のお産と、孫のことが気になっての会議が終わる頃、孫から電話です。おばあちゃんがやって来て、お母さんが病院へ行ってしまったので遊んで欲しいというのです。いやはや孫にもて遊ばれるとは・・・・・。

 再びマンションに引き返し妻と交替で置き去りにされた3ヶ月の赤ん坊をあやしながら3時間余りも過ごしました。いくら性の良い赤ん坊でも母乳で育てている子どもですから、母乳を搾っているのを哺乳瓶に入れて温め飲ますのですが、ぐずって中々飲んでくれません。抱いたりあやしたりホトホト疲れました。4歳の孫は元気いっぱいでおじいちゃんを相手におもちゃやごっこでこれもかなりの運動量なのです。少しの間外へ散歩に連れ出し松山神社の付近まで散歩しましたが、夕闇が迫り雨もポロポロなので、早々に引き上げてきました。

 娘が8時頃病院から帰り、急いで風呂に入らせ、取り出したりしながら寝る準備が整ったので、妻と二人でマンションを後にしました。そして別々の車で病院へ直行し、周産期センター4Fに息子嫁を見舞いました。嫁はお産が近づいているのでかなり苦しそうな姿で、お母さんが付き添っていました。お産など経験したことのない私にはその苦しみやお産の状態など知る由もなく、ただ「頑張って産めよ」と言葉を掛けて病院を後にしました。

 相次いで帰った妻は私の食事の準備をして食後は片付け、妻にとっても忙しい一日は11時過ぎまでかかりました。私にとっても忙しい一日でしたが、明日は無事にお産が進み元気な赤ちゃんの誕生が期待出来るだろうとささやかなのぞみを噛みしめながら、0:33の時刻をパソコン画面の横隅に見やりながらパソコンの電源を落しました。おやすみなさい。いやお早うございますかも・・・・。

  「今日もまた 慌しくも 過ぎてゆく 同じ一日 二十四時間」

  「一人孫 五月に一人 八月も 更に一人が 増える悦び」

  「わが家では 少子化なんか どこ吹く風 量産体制 今日も新品」

  「息子嫁 今頃母になるために お腹痛めて 眠れぬ夜を」 

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○何時間の講義に耐えれるか

 私はこれまで、色々な場と機会をとらえて講演や講義をしてきました。途中休憩を挟まずぶっ通しでは最長4時間を経験していますが、その時はさすがに疲れを覚えたものです。講演や講義は話す方と聞く方のコミュニケーションによって成立するのですから、話す方が4時間喋っても効く方が4時間聞きっ放しはかなりきついと思うのです。それでも若い時に東京でやった研修会での4時間の講義は、その後の語り草として今も参加者の記憶に深く焼きついているし、私自身も「よくもまああんなことが出来たものだ」と自分ながら感心しているのです。

 昨日までの2日間、広島県東広島市の職員研修会に招かれ出かけてきました。前日は新規採用職員に3時間の講義でしたから普通の研修のように事を運び、むしろはつらつとした若い職員からエネルギーをいただく結果になりました。明くる昨日2日目の幹部職員研修は昼食1時間を挟んで午前中3時間、午後3時間の週通講義です。途中に10分の休憩を1回ずつ入れましたが、1日3時間の講義を2回はさすがに疲れました。普通は全員を集めるのですが、幹部職員全員の席を空けることは不可能なので2班に分け、午前と午後それぞれ3時間の話をしたのです。

 事務局の方から「同じ話で結構ですので」といわれていましたが、対象者は総入れ替えするものの事務局の方は午前も午後も同席する研修会なので、まるでテープレコーダーのように同じ話も出来ず、前半の中身や休憩時間の取り方に少しアクセントをつけた工夫をしてみました。工夫といっても私のようにアドリブで話す人間にとっては最初から仕組んだ訳ではなく、レジメを用意してもいないので、結果的にそうなっただけのことなのです。

 途中1回の休憩を挟んでも質疑応答の時間なしの3時間の講義にはかなりのエネルギーが必要です。運悪く先週の土曜日にぎっくり腰を患っていたため、事務局からは座っての講義を勧められましたが、立った方が楽と判断して3時間立って講義をしました。

 市民視点のまちづくりセミナー「市民も職員も感動できる仕事」と銘打った今回の研修は、合併後の自治体にとって最も必要なテーマかも知れないし、自治体職員がプロの仕事師として成果を出そうとする試みは嬉しい限りです。私は35年間役場職員として職員らしからぬ職員として仕事をしてきました。デスクワーク重視の現代の職員から見ると私の仕事は異端にとらえられるきらいがあります。でも市民視点を重視するため時には市民の輪の中に入り、様々な声を聞いて政策に反映してきました。移動公民館もまちづくり組織も、またまちづくりシンポジウムも全て市民視点からの発想でした。しかし時には市民の輪の中から抜け出す冷静な複眼も持ち合わせてきました。

 2日間の研修での感想は新規採用職員には未来を語り、幹部職員には過去と今を語ったように思います。未来は不安がつきまといますし今や過去は安心ながら思考の枠を抜け出せない不安もあります。特に50歳代の幹部職員にとっては役所生活にどっぷり使って、市民意識も自分意識も失っている人が数多く見られるのです。私の人間牧場へやって来る団塊の世代の人たちはまさにその典型で、仕事を辞めて寄りかかるよすががなくなった時、「自分は今まで何をしてきたのだろう」、「自分はこれから何のために生きるのだろう」なんて素朴な疑問にぶち当たって、人生の仕上げといわれる60歳からの生き方を組み立てられない人が多いようです。

 平成の大合併で大きくなった東広島市のためにもう一分張り、輝いて欲しいものです。それと同時に自分という人間を見失うことなく次への備えが出来るような人になって欲しいという願いを込めて話しました。

 私にとって挑戦ともいえる1日6時間の講義は少し疲れたけれど、また新たなエネルギーを充電する機会になりました。

  「6時間? よくもそんなに 話すこと あるものですね 妻呆れ」

  「想いなら 誰にも負けじ 話する 眠る人なく 俺も眠らず」

  「アンケート 結果一報 メールにて 反応ありて 嬉し恥かし」

  「若者は 行く道不安 課長には 来た道今に 半信半疑か」

 

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○一本の電話

 旅先の広島で朝を迎えました。部屋や寝床が変わると寝れないという人もいますが、旅なれている私はどこでも平気で眠ることができるように訓練しているため、ぐっする寝込んでしまいました。それでも朝4時に起床する自宅での癖は相変わらず旅先にも引きずって、今朝もきっちり午前4時に起きました。門限のないホテルですから少し散歩しようと着替えをして、部屋を出ようとすると一本の電話がかかってきました。私はてっきり出産予定日の過ぎた長男夫婦の出産の知らせかと淡い期待を持ちましたが、残念ながらまったく違う女性からのかなり深刻な相談でした。朝早くから私に相談を持ちかけるくらですから、その女性は余程眠れない夜を過ごしたのでしょうが、聞くところによると「夫婦間の暮らしがうまくいかない」とのこと、夫婦喧嘩は馬も食わないことなので、フンフンとうなずいて聞いていましたが、かなり深刻なようで離婚も辞さない雰囲気なのです。

 その原因はこの女性の夫が株に手を出して、せっかく貯めた貯金と退職金をパーにしたというのです。このご主人が株をしていることは私も知っていて、時折この女性に会うと、「お父さんが株で儲けちゃって、これ買ってもらったの」とお光物を見せびらかすとか、「この間株で儲けたのでカナダへ二人で旅行したの。楽しかったわ」とお土産まで届けてくれて楽しそうな写真を見せてくれていたのです。

 そんな旦那の甘い汁を吸っている時は、旦那を目先の利いた人と自慢していたのに、この場に及んでと思いました。あれほど仲のよかった夫婦が、金の切れ目は愛まで冷めて縁の切れ目とばかりに騒ぐ姿に呆れるやらです。

 「東広島市へ仕事で来ていて旅先なので電話も何なんで、帰ったらゆっくり話を聞きますから」というと、正気に戻ったのか「すみません」と電話を切りました。その時間何と30分の長電話です。結局私は散歩に行くのをあきらめました。今朝は朝からもやもやとした雰囲気なのです。

 私は家へ電話をしましたが、妻にも電話がかかって、知り人だしよほどの緊急相談と感じ取った妻は私の電話番号を教えたそうです。妻は朝早い電話にてっきり私と同じように息子夫婦からの出産の電話だと思ったそうです。妻は15年間も町の民生委員をやっていますが、今期限りで終わる予定です。既に後任候補も決まって、野球でいえば退任までのこれから1ヶ月余りは消化試合のようなものでかなりの頻度で研修会が計画され、仕事を休んだりしながらこまめに出席しています。発つ鳥後を濁さずで頑張って欲しいと思っています。妻は民生委員ということもあってこれまで色々な人の相談に応じてきましたが、金銭トラブルはつきものです。あちらを立てればこちらが立たない利害関係はまるでもつれた糸のように解きほぐすのは中々難しいものです。夫婦ともども人の相談相手として当てにされるのも不思議な話です。

 一本の電話から始まった今朝の混乱は、ホテルのロビーに備えつけてあるパソコンを使い、インターネットで私のブログにログインし、朝食を食べるまでの数10分を利用してこんな短文にまとめてみました。沖縄に行った折ホテルのロビーで自分のブログへのアクセスが分らず苦労したことを思い出しつつ、少し上達したのか自分のパスワードを入力すると直ぐに呼び出すことが出来て、少し有頂天になってしまいました。ふと気がつくとこのインターネットも電話回線でつながれているのです。電話の多機能に驚きながら便利さを享受している自分を発見しました。

  「愛や恋 お金の前には 意味もなく 壊れてしまう 恐れあります」

  「携帯の 通話散歩の 足を止め 一方的に 長々話す」

  「旅先の ホテルに人妻 電話入る 一瞬ドキリ もてるはずなし」

  「出産の 朗報待てど 届かずに 届く電話は 違ってばかり」

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○ぎっくり腰の道中記

 今日は朝早く起きて東広島市へやって来ました。土曜日にひょっとしたことからぎっくり腰になり、腹を引っ込め背中を丸くして歩くぎっくり腰の姿は何とも醜い姿で、どこから見ても「やつれた中年のおっさん」としか見えないのです。松山の船着場でトイレに入り自分の姿を鏡に写し、しゃんと背筋を伸ばしたつもりでも、鏡は正直で虚像なのに実像に写ってしまうのです。「鏡よ鏡よ鏡さん、私を元気そうに、そして逞しく見せてください」といっても鏡は私の魔法を聞いてくれないのです。

 自宅を出る時妻が心配して「今日は広島行きは止めた方がいい」と、辛そうに歩く私を見て心配してくれましたが、相手に対して失礼だからと、我慢をして家を出ました。松山観光港の船着場までは普通1時間半はかかるのですが、ゆっくり行こうと6時に家を出たため、点滅信号をすいすい走り、6時40分に到着、駐車場に車を止めてチケット販売所まで行きましたが、ここでもすいすいチケットが買えて思い切ってギリギリの広島直行便に飛び乗りました。今朝の瀬戸内海は波もなく鏡のような夏特有の海で、揺れることもなくスイスイです。私は腰が痛いので背もたれを倒すと起き上がる時が怖いので、ずっと背筋を伸ばして座っていましたが、手持ち無沙汰なので、持って来たはがきを書き始めました。わずか1時間10分の旅でしたが、6通ものハガキを書くことができたのです。旅先の船の中で書くハガキは受け取る側には失礼なのですが、旅先で思い出してもらえる独特のものがあると独りよがりしながら書きました。まだ持って来たハガキが舞い残っているので、帰りの船便の楽しみにしたいと思います。

 会場となった東広島市中央公民館は西条駅の近くにありました。腰の具合をいいことに不案内なこともあって担当者の上杉さんに電話を入れると、早坂さんという方が駅まで迎えに来てくれました。聞くところによると早坂さんは愛媛県出身とか、異郷の地でこんなにうれしいことはありません。何でも広島大学を出た関係で市役所に就職したそうで、ふたみシーサイド公園へも若いころちょくちょく来たこともあり、じゃこ天を食べた話でまるで親戚のような親近感を覚えました。

 午後1時から始まった新採用職員研修会は前段2時間講義を行い、後段1時間は私を囲んでの座談会という時間設定でした。「若松進一さんの仕事を楽しくする話」というタイトルだったので、急遽話のストーリーを変えて話しました。今回の研修は私のことについて事前に学習し、私への質問をあらかじめペーパーにして送ってくるなど、事務局の周到な準備が行われていました。しかし残念なことに私は忙しさのあまり、そいてぎっくり腰の影響で、さらに家で起こったちょっとしたハプニングの対応に追われ、その質問用紙を見たのは、広島駅発西条駅到着までの、僅か30分だったのです。そこで初めてみなさんの質問を知り、講義の内容を大幅に変えることにしました。でも皆さんの私に対する話が新鮮だったのは、怪我の功名だったのかもしれません。

 相手たる研修生に聞いた訳ではありませんが、講義机で話す私に対して帰ってくる反応はかなりよかったと思います。すべての参加者に満足を与えることはできませんが、せめて一人ぐらいは心の変容を期待したいものです。

 事務局の方から座っての講義を勧められましたが、私は講義の2時間をプロですので立ってやりました。不思議なものです。あれほど痛かった腰の具合が、研修が終わるころには随分よくなっているのです。明日の朝どんな具合か定かではありませんが、明日は午前中と午後の2講座が控えています。上杉さんと小料理屋で美味しい魚料理を食べて帰りましたので、今夜は旅先西条駅前の東横インのシングル禁煙の部屋でひとりゆっくりくつろいで過ごします。

  「ぎっくりの 腰をかばった この姿 新採若者 どんなに映る」

  「行くのよせ 妻は気遣い そういうが 相手思うと 休むに休めず」

  「二時間の 立った講義が 終わるころ 腰の具合が不思議よくなり」

  「腰はどう 気遣う妻の 電話入る 無理をしないで 追加の言葉」


 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○慮る

 この文字を見ていっぺんで読める人が何人いるでしょう。残念ながら私も中学校や高校で習っているはずなのに大学を出ていないため読むことが出来ませんでした。漢和辞典を引くのも面倒だからとパソコンで検索すると=おもんばかる=と読み方が出てきます。じゃあその意味はと尋ねられると、大体の推測は出来てもまたパソコンの手助けを得ねばならないのです。

 広辞苑によると慮る【おもんばかる】=よくよく考える。考えはかる。思いめぐらす=と以外に簡単表現されているのに内心驚きました。私は広辞苑を引くまで慮るとは「相手の立場になって」を先に考えていましたが、まあその意味を含めた広義な意味だと解釈しておきましょう。

 人間は自分本位であるとつくづく思います。私などは戦時中に生まれた古い時代の人間ですから様々な時に自分本位の行動がよく出ます。特に男女の相関関係については中々自分の殻を破ることができないのです。私たちの時代には男は外、女は内という教育がなされてきました。故に選択も掃除も料理も全て家内の仕事と当然視するのです。しかし今の時代は男女同権で家庭内の仕事は勿論のこと外での働きも同権的な働きをする人が多くなってきました。特に家庭内の料理や子育てまで全て夫婦が分担して時には子どもの養育のために夫が産休を取る人もあるとか、私たちから見ると信じられないほどの変り様なのです。

 そうは言いつつ私もまちづくりの世界で生きてきた人間ですから、男女同権は大いに結構と推進してきた立場上、変身しなければならないと自分に言い聞かせて行動してきました。妻が「お父さんは変った」と褒めてはくれるのですが、それでも食べた食器を流し台に持って行く程度なのです。

 昨日何を思ったのでしょう。何と私はわが家の男トイレ便器の掃除をしたのです。家内が外出していたのですが、男トイレの便器が少し汚れているのに気付き、素手で掃除を始めました。トイレの掃除については京都久御山の木下さんから散々話を聞いていたので、やってみたのです。小便垢は便器にこびりついて中々取れませんが、上蓋を取って便器に傷をつけない程度に擦りながら磨いて行くのです。これが案外きつい仕事で、結局1時間ほどかかってしまいました。外出から帰った妻が、「まあ珍しい、雨でも降らなきゃいいけど」、私にしてはほめ言葉ととれる皮肉を言われました。しかし今までわが家のトイレ掃除は全て妻の仕事として位置づけられ、私や子どもも何の疑いも持ちませんでした。トイレが少しでも汚れていると、「お母さん、トイレが汚れ取る」と文句を言えば綺麗になったものです。

 相手の立場に立たなければ慮ることは出来ません。夫婦だって第三者だって相手に対し何かを行う場合、その相手の身になり充分に考えて行動するという癖をつけたいと思っています。

  「この文字を おもんばかると 読める人 慮りが 出来る人だね」

  「ああ俺は 慮るの 出来ぬ人 時代のせいに しつつ逃げてる」

  「目に見えぬ 慮りの 心とは 相手を意識 するから始め」

  「人間は 自分本位に 出来ている も少し相手 慮れば」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○8、合成酒売り

 漁村には時として不漁や災難などが舞い込み、貧乏が故に日々の暮しは決して楽しいものではありませんでした。それでも漁師たちは不漁を大漁に、災難を福にすべく神仏への信仰を欠かしませんでした。不漁は信心が足りないからと思い込み、お光やご神酒を神棚や船玉様に供え敬虔な祈りを捧げたのです。私の親父は酒が好きで若い頃は朝からでも酒を飲んでいました。私と一緒に漁に出た時の親父は船長兼漁労長でしたから、朝まじめと称する早朝一番の網入れに全精力を傾注してのぞみました。漁場に着くと網入れ準備の万全を確認しやがて朝が開けるのを見届けるように、一升瓶の口を開け海の上と網にお神酒を注ぎ、「おおだまー」と大きな声で叫び、ロープの端を縛った樽を海中に投入するのです。船上にはピリピリとした緊張が漂い、ロープをもつらせたりしないよう、慎重に作業が進むのです。何せ最初のこの網入れが上手くいくとその日は全てうまくことが運ぶと信じていましたので、みんな真剣でした。朝ぼらけの海にやがて朝日が差し込み鯛の銀鱗が眩く輝いて見えるこの感動は漁師にとって何よりの至福の時なのです。やがて漁が終り母港を目指す船には大漁を示す大漁旗が掲げられるのです。

 このように漁師と酒は切っても切れない縁があるのです。戦後は貧乏な時代だった故酒を買うこともままならな買ったのでしょうか、各家でドブロクを作っていたようですが、密造酒は税務署の取締りが厳しく、下灘という漁村では余り普及しませんでした。その代わり下灘出身のMさんという女性が郡中方面から汽車に乗って水枕に合成酒を入れ、風呂敷包みにして方に背負い売り歩いていました。一週間おきにやって来るMさんは村の出身者らしく話題も豊富で、「今日は何本置いとこうか」などと母親と話し、「10本ほど置いといてや」と言葉を交わすのです。Mさんはかつて知ったるように戸棚を開け、一升瓶を取り出してじょうごを使うでもなく、一滴も漏らさず水枕から一升瓶に酒を注ぎ分けて行くのです。「まけとくきんな」と別の瓶に少しだけ加え、母と精算の後帰って行くのです。

 酒が来た日の親父の機嫌は上々で、「これで明日も大漁じゃあ」などといいながら、コップ酒を呑んでいました。酒好きは何処も一緒でよくたむろして飲んでいました。わが家へも父の友人の漁師仲間が数人よく呑みに来ていました。飲み屋などそんなになかった漁村でしたので、それぞれの家でこうした小さな酒盛りが行われていたようです。火鉢や囲炉裏を囲んで漁業全般の話をしていましたが、私たち子どもにはチンプンカンプンの話でした。それでも「やがてこの瀬戸内海の魚も獲れなくなるのではないか」とか、「エンジンを大きくして将来は外海へ乗り出そう」とかいう不安や将来の夢を随分話し、時には私も加わり、「坊は長男だからやがて漁師にならにゃあいかんが、親父のような立派な漁師になれよ」と頭をなでられ、その気になったものでした。

 大漁が続くと景気がよく、知人友人を招いて大漁祝をやりました。また不漁が続くと「まん直し」といって、近所の神官にご祈祷ををしてもらったお札と御幣を神棚に飾って友人たちが酒を持ち寄りげん直しの酒盛りを開いてくれました。酒は漁村や漁民に元気を与えてくれる水だと子ども心に思ったものですが、酒代を工面する母親の難儀を思うと、酒などなかったらいいのにと何度か思ったものです。大漁といっては酒不漁といっては酒、漁村は酒が主役でした。

 合成酒売りのMさんもいつの間にか来なくなり、漁村では日本酒に混じってビールが飲まれるようになってきました。合成酒売りのMさんは元気で過ごしているのやら、親父が90歳、母親も亡くなったのですから、Mさんももしやと思いつつ、一升瓶を見るにつけ合成酒を背負ったMさんの後姿を思うのです。

  「何につけ 酒が取り持つ 男たち どれ程呑んだか 分りはしない」

  「青年団 初めて呑んだ 酒の味 頭ふらふら 口からゲーゲー」

  「坊もなあ やがて漁師だ 頭撫で その人今は あの世にいます」

  「やりくりを してでも呑ます 母心 あの金あれば どんなに楽か」


[ この記事をシェアする ]