shin-1さんの日記

○面白い少年少女いおもしろ教室のキャンプ

 今日は高知・東京と続いた講演会の余韻と疲れが残り少し気だるい感じがしているものの、私が実行委員長を務める少年少女おもしろ教室のキャンプが今日と明日一泊二日で行われるので、開会式に間に合うように池久保公民館へはせ参じました。池久保の公民館はわが人間牧場の目と鼻の先にあるので、今回のプログラムは池久保公民館と人間牧場をフィールドに行う予定なのです。

 今日のプログラムのメインは何といっても住まい作りです。私は21世紀えひめニューフロンティアグループの代表をしていますが、これまで20年間無人島や大野ヶ原高原でサバイバルキャンプを主催して来ました。その事業も安全な冒険、非日常な活動などがメインで多くの子どもたちに夢と感動を与えてきました。今回も何かパンチの効いたアイディアはないかと教育委員会の担当者から求められました。そこで登場したのがテントを止めたダンボール箱の住まい作りとドラム缶風呂でした。私は既にその活動を実証済みですが若い担当者は果たしてそんなことが出来るのか半信半疑のようでした。それでも何かワクワクするからやろうという結論に達し、プログラムに組み込みました。ダンボールの家作りは雨が降ったらアウトなので、運を天に任せる以外ないのです。

地元の業者にダンボールを沢山貰って会場へ運びました。

(まず子どもたちは公民館前の広場の掃除から始めました。掃除の終わった広場に青い農業用ビニールシートを敷き、そこをキャンバスにしてダンボールアートの始まりです)
(子どもたちはまず自分たちの住家の設計図を書きました。出来た設計図は皆の前で発表し、本部の建築確認が出来たら建築が始まるのです)
(子どもたちが使うダンボールは地元の鰹節工場からいただいてきました)
(さあダンボールとの取っ組み合いが始まりました。設計図の夢とペーパーナイフとで造る現実の落差に苦労しました)

 早速プログラムがスタートしましたが、子どもたちは大人の不安を他所に熱心で、それぞれがどんな家を建てるか設計図を描いて1時半過ぎから始めた作業は途中休むこともなく延々4時間にも及ぶ長丁場でしたが、それぞれが思い思いの発想で住まい作りに挑戦してくれました。ダンボールの加工は主にペーパーナイフと紙製ガムテープを使って作業を進めて行くのですが、リーダーがサブ的に援助の手を差し伸ばさなければ上手くいかない班もあり四苦八苦の状態でした。

 幸いな事に樹齢200年とも300年ともいわれる市指定天然記念物指定の椎の大木の木陰が作業場となったため、猛暑ながら作業はことの他順調に進みました。

 夕方になってやっと寝れるような形のダンボールの家村が出来上がりました。それぞれの家に番号がつけられ、子どもたちは投票用紙に1番、2番と思われる作品を選んで投票するのです。自分の名前を書いているので、自分の作品に投票する不正は出来ないようになっています。1番2点、2番1点の点数が集計されましたが、グランプリは見事多少私が手伝った8組の家が選ばれました。

(作品番号1)(この家が皆が選んだグランプリ賞の「ほしの家」出です。暖炉の煙突や屋根裏部屋まで工夫をしていますし、そこら辺の蔦の葉っぱを入り口にあしらったり、骨組みにはそこら辺で拾ってきた竹や木切れを使って中々のものです)

 ここでブログ紙上で子どもたちの力作をカタログ風に住宅展示してみます。あなたはどの作品がお好みですか。
(作品番号2)

(作品番号3)

(作品番号4)

(作品番号5)

(作品番号6)

(作品番号7)
(作品番号8)

(作品番号9)

(作品番号10)

(作品番号11)

 これ以外にも作品はありましたが未完成だったので公開できませんでした。

 早速子どもたちは自分の造った家でまるでホームレスのように潜り込んで寝ました。蚊に悩まされてのことだったと思いますが、子どもたちはダンボールの持つ温かさと不思議な魅力、それにも増して自分が友だちと協力して造った世界に一つしかない家で寝たのですから嬉しかったようで、殆どの子どもが好評でした。キャンプ終了後何処かに飾って置きたいようなダンボールの家村は、残念ながらsべて取壊され資源ごみ処分場へと運ばれました。

  「工夫すりゃ キャンプ一味 二味も 違った魅力 子どもワクワク」

  「設計図 耐震強度 ゼロなのに 潰れもせずに 威風堂々」

  「四時間も かかって造った 家なのに 壊すはたった 10分で済み」

  「グランプリ 取った二人は 上機嫌 目指す未来は 大工か設計」


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shin-1さんの日記

○東京は暑いねえ

 夏真っ盛りの日本列島ですが、更に暑いと感じる東京へ行って来ました。前日の高知県は曇り空でしたし帰る時スコールにも似たどしゃ降りの雨に会い、ワイパーが効かぬくらいの危険な状態で高速道路を走って四国山脈のトンネルを抜けました。だのに何のことはありません。愛媛県側は上天気で雨粒の欠片もないのです。同じ四国でもこうも違うのかと思ったものですが、昨日の東京は経度的には高知より北のはずだのに朝から容赦なく照りつける太陽がぎらぎら輝き、電車を乗り継いで国会議事堂前で降り、平河町の砂防会館まで歩こうと思ったのですが、夏の太陽は容赦なく私に降り注ぎ、目と鼻の先だというのに汗が噴出し、両手の荷物や脱いだ背広が重くて、ついに歩くことを断念しタクシーを拾いました。運転手さんも「直ぐそこですが」と気の毒そうだし、私も「直ぐそこで悪いのですが」と両方が謝りながらの乗車です。昨日この界隈は先日の参議院選挙で当選した方々が初登庁した場所だし、落選した方々は残念ながら赤いじゅうたんを踏めなかったのです。首相官邸や自民党本部を横目で見ながら日本の苦悩を思いました。

 信号で止まっている間運転手さんが「お客さんどちらから?」というので「はい四国から」と言うと、「東京は暑いでしょう」と言うのです。確かに昨日の東京の暑さは尋常ではないと思いました。ビルのあちこちから噴出す風はまるで温風で、肌にじっとりまとわりつくような湿度の高いものでした。運転手さんの話によるとこうした状態は深夜にまで及ぶのだそうです。昼の間に太陽で暖められコンクリートのビル群は夜になっても冷まされることがないのです。

 ヒートアイランド現象というのでしょうが、最近はビルの屋上に土を入れ緑を増やして温暖化を防ごうという試みも各地でされていますが、今はまだ実験段階で焼け石に水って感じのようです。

 「私は四国ですが運転手さんはどちらのご出身ですか?」と尋ねると、「はい私の田舎は福島県です」と言われました。東京に比べ福島は涼しいと言われ、お盆には年老いた母親の住んでいる田舎へ帰省するのだそうです。田舎では働く場所も限られているので東京へ出てきて職を転々としたそうですが、「結局はこんな仕事をしています」とぼやきとも取れる話をしていました。

 私「わが家など未だにクーラーを使わない暮らしをしています」。運転手「まあ羨ましい。東京でクーラーが止まったらみんな熱中症で死にますよ」と笑っていました。

 10時30分からシェーンバッハ砂防で行われた全国町村議会事務局職員研修会の講師として講演をしました。90分の講演でしたがあれ程暑かった外とは対照的に会場は冷房がガンガン効いて背広にネクタイの正装でも寒いくらいでした。研修者に取っては居眠りするのに丁度良いくらいの温度かも知れないと思いつつ眠ってもらっては困ると、馬力をかけて話をしました。眠る人もなく終始熱心な研修でした。

 この研修には今回の参議院議員選挙に大分県から立候補し残念ながら涙を呑んだ矢野大和さんも講師として招かれていました。本来なら昨日初登庁するはずの参議院の直ぐ横での講演は辛かったに違いありません。でも「明日があるさ明日がある」と信じて県土従来をきして欲しいものです。大分出身の参加者から私に一枚の名刺が届けられました。矢野大和さんからの託けです。彼とは何度か一・二度お目にかかっています。同じ役場職員であったよしみだし、お互い同じような苦労に翻弄されて生きて来ただけに、彼の思いは痛いほど分るのです。もう一人福島県矢祭町の高信由美子教育長さんにもお会いしました。私の前の講義を担当されたのですが、せっかくだからと私の講演を聞いていただきました。矢祭町は「合併しない宣言」をした町ですし、もったいない図書館でも有名になった町です。東京は全てがいいとは思いませんが、居ながらにして全国の名だたる人に会えるのも魅力なのです。早速私は東京でしか書けないハガキを新宿駅の雑踏の中で木になるカバンを机として書きました。新宿郵便局のポストへは他の6通とともに投函しました。

  「東京は 何でこんなに 暑いのか 夜になっても 熱は下がらず」

  「クーラーが 止まれば東京 熱中症 田舎の良さを 東京で見つけ」

  「選挙にて 破れた友人 東京で 同じ舞台に 立ちて熱弁」

  「新米と いわれる現職 教育長 古米と思う 元教育長」

  



 

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