shin-1さんの日記

○漁村下灘の民俗学

 民俗学者宮本常一の本を読みながら、高い見識の民俗学などは分らないものの、自分の生まれ育った古きよき時代を回顧しながら、私が編さん委員長を務めてまとめた双海町誌以外、まだ誰も書いたことがないであろう下灘という漁村のことだったら書けるかも知れないと、項目を拾ってみました。思いつくままに拾い出してみると結構あるもので、50ほどの項目が浮かんできました。これだけでも十分一冊の本になると思いつつ、とりあえず書いてみる事にしました。

 私が覚えている少年時代の双海町下灘という漁村はいかにも貧しく、いかにも長閑で、流れの早い今の時代から見れば、時計が止まっているような錯覚さえ覚えるのです。でも貧しくても幸せでみんなが助け合って生きていたような気がします。そんな漁村にスポットを当てながら、時には90歳になった親父の助言を得ながら、私という人間の目と心でとらえる民俗学的な発想で書いてみたいと思っています。

 まず最初に書くのは親父若松進という男のことです。

 1、親父若松進という男

 親父は大正7年9月1日、当時の下灘村大字串に12人兄弟の長男として生まれました。当時は生まれてから直ぐに戸籍に入れることをしなかったため、年齢不詳な部分があるようです。後日祖母から聞いた話ですが、昔は乳幼児の死亡率が高く1歳か2歳でなくなる子どもも珍しいことではなかったようです。多分それは貧乏による栄養失調や赤痢やチフスといった流行り病が原因で命を落としたのではないかと思われますが、産んで直ぐに死ぬと折角戸籍に入れても除籍手続きが面倒なので、2、3年様子を見て元気に育つようであれば戸籍に入れるという曖昧な親の思惑があったようです。

 親父は幸いにも12人兄弟全てが元気に育ち成人を迎えたため、暮しを成り立たせて行くため、小さい頃から祖父の元で家業の手伝いをして家計の助けをしました。したがって学校は義務教育になっていても殆ど行かず、それは漁村の子どもの常識でしたから、別に苦にもせず物心ついてから一生懸命働いたようです。小学校4年の時初めて船頭として小さな弟を連れて櫓こぎ舟で佐田岬半島まで出漁したといいますから凄いとしか言いようがありません。小さな1トンそこそこの漁船に寝泊りして漁をするのですが、冷蔵庫などのなかった時代なのでそこそこの港で魚を売りさばいて換金し、お金を母親に渡すというまるで二宮金次郎のような暮しをしていたのです。幸い祖母が佐田岬の中ほどにある瀬戸の小島出身だったし、子どもに優しい半島の人たちに助けられて貰い、風呂や食べ物を買って2~3日間船上生活をしていました。船には水樽と木綿の着物、麦や芋、煮干しといった簡素な食べ物程度で飢えをしのいでいたようです。

 その親父に転機が訪れたのは結婚と戦争でした。隣の集落に住む2歳年下の母と結婚し、姉を筆頭に3男2女をもうけましたが、祖父が戦後間もなく流行した赤痢にかかって死ぬという悲劇にも遭遇し、一家の大黒柱としての役割は親父にますます重くのしかかったようです。また太平洋戦争の真っ只中で何度も召集令状が届き、中国へ派兵されました。中国との戦いで左腕を負傷し傷痍軍人となって帰国、全国の病院を治療のため転々としたことで命をとりとめたことは不幸中の幸いでした。この戦争で徴用先の大阪で2人の姉妹が焼死したことも戦争の悲劇としてわが家の墓所の一隅に深く刻み込まれています。それでも親父夫婦は働き者の母と二人で漁業を生業として生き、10人の兄弟全てを嫁がせたり分家させたりしながら祖父亡き後の責任をまっとうしました。

親父の実力は自他共に認める漁師の腕で、物心ついた頃から遊びや手伝いの中身体で覚えた六感は冴え渡り、豊田の浜一番の鯛取り名人の名を欲しいままにしていました。わが家の座敷にかかっている年間漁獲高1位の漁協からもらった表彰状が何枚も誇らしげに掲げられているのです。そのお陰で貧しいといっても現金収入のよかったわが家は、人に遅れることなく新造船や自宅などに投資が可能となりそれなりの暮しが出来たのです。

 親父90年の生き様はざっと振り返っただけでもかなりの量です。鼻ガンに侵され九死に一生を得たことや、小さな5トンの船で伊豆諸島三宅島まで乗り出した尋常とは思えぬ仕業や漁師の晩年母と夫婦舟となったことなどを語ると切りがないくらい話題がありますが、その話は折々に項目を立てて書いて見たいと思いますが、私的なことなのでブログで深く書くことは出来ません。こうしてさわりを書くことで自分の民俗学的スキルを高めてゆきたいと思って始めました。

  「九十年 生きて働く 人生を わが目で追って 民俗学に」

  「貧乏に 負けぬ気性を この肌で 感じて育った 故に逞し」

  「親父とは 高くて登れぬ 山のよう 俺などしれた 小さき砂山」

  「親と子の ダブった人生 六十年 知らない部分 余りに多く」

 

 


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shin-1さんの日記

○旅のお供の一冊の本

 旅に出る時は必ず1冊の本を持ち、若しくは旅先の書店で買い求め長い道中のつれづれに本を読みます。読書に費やす時間が忙し過ぎてだんだん狭められるような感じのするこの頃なので、何か工夫をしなければ読書の時間が確保できないのです。幸い講演なの全国行脚が沢山あるので、行き帰りに本を読むのです。お陰で随分本を読むことが出来て大助かりです。

 昨日は和歌山県の宅建協会の招きで和歌山市に行きました。何で宅建協会に私が呼ばれたのか未だに不明です。でも和歌山の宅建協会には眞野賢司さんというつわものがいて、何年か前に宅建協会に呼ばれたことがあるので、あるいはその方面からの紹介だと思うのですが、まあ呼ばれた所へは誠意を持って仕事をしなればなりません。

 講演が終わって宅建協会の小倉明支部長さんと面談した際、「シンデレラのその後」という一冊の本をいただきました。【運命の方程式を解く本」高橋佳子著と書いているのです。講演が終わって武田部長さんにJR和歌山駅まで送ってもらい、紀州路快速に乗ってからわが家に帰るまでこの本を粗方読んでしまいました。

 シンデレラといえば誰もが知っている物語です。多分物語のあらすじはこうだったように思います。「幼い頃実母を失ったシンデレラは父親の再婚で新しい家族と暮らす事になります。しかし養母と姉たちにいじめられながらもシンデレラは健気に生きました。ある日お城で舞踏会が開かれ、姉たちは着飾って出かけました。留守番をしている所に魔法使いが現れドレスや馬車を用意して舞踏会へ送り出してくれました。舞踏会ではその美しさを王子に見初められますが、約束の時間になったので片方の靴を残して帰ってしまいました。王子は残されたガラスの靴を手がかりにシンデレラを探し出し、お后に迎えられ目出度し目出度し」というハッピーエンドでした。

 実はシンデレラの物語には「その後の物語がある」というのがこの本の物語なのです。私などのような凡人にはそんな物語があることさえも知らないし、考えたこともないのです。その後の物語は「破滅の運命」「安逸の運命」「衰亡の運命」「放蕩の運命」というのがあるそうです。「破滅の運命」はシンデレラが意地悪をされた母親や姉たちに復讐をするという物語、「安逸の運命」はシンデレラが宮中でお后として何不自由なく暮らしたものの怠け者になって家来や王様の心が離れてゆくという物語、「衰亡の運命」は慣れない宮中生活の挫折感でいたたまれず逃げるようにお城を出てゆくという物語、「放蕩の運命」はシンデレラが人生の絶頂を欲しいがままにして、陰謀に巻き込まれお城から追放されるという物語です。

 著者はそれを証明するために「余の辞書に不可能という文字はない」と語ったナポレオンの人生を描いた曲線を紹介しています。人生には幸運と不幸という運命があるのですが、順調発展をプラス、不調障害をマイナスとするならナポレオンの生涯を人生曲線のどの位置でどんな出来事があったか明快に説明できるのです。

 著者が提案しているように自分の人生曲線を作ってみたいと思いました。大切なことは順調発展のプラス時にいかにマイナスの芽を摘むか、不調生涯のマイナス時にいかに新しいプラスの種を蒔くかということでした。自分の運命は他人や社会、あるいは目に見えない自然現象にによって牛耳られていると思っていたものが、実は自分の心に宿る意思によって決められているという話は私も大賛成な意見です。

 昨日帰りに大阪梅田の駅の紀伊国屋書店に立ち寄りました。あの広い本の売り場は肩と肩がすれ違うほどの混雑ぶりで賑わっていました。しかしいつも驚くのは所狭しと置いてあるあの本を書いた人がいるという事実です。私などの田舎者はまだ4、5冊しか自著本を出版していませんが、日本には凄い人がいるものです。もう少し頑張って読む方も書く方も極めたいものです。

  「この本を 書いた人あり 偉いもの 俺など何の 役にも立たず」

  「旅すがら 本読み知識 取り入れて 知恵に変えるは 何年先か」

  「シンデレラ 話の続き あるという ハッピーエンドが 一番いいのに」

  「運命は 結局自分が 決めるもの 心しっかり 生きよということ」

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