shin-1さんの日記

○4、半農半漁(肥汲み)

 私たちの暮しも今ではすっかり水洗便所になりましたが、驚くなかれわが家は10数年前までは溜め置き式の便所でした。田舎のことゆえ公共下水道の整備もままならず、未だに合併浄化槽での処理ですが、それでも水洗便所になった時の清潔感の変化は言葉では言い表せないものでした。

 私たちの暮らした少年時代の漁村は全てが溜め置き式の便所でしたから、その汚物処理は年に2度くらい、親類が協力し合って山の上の段々畑に人糞肥料としてばら撒かれていたのです。その日が来ると親類縁者は本家の威厳で集められ、その体力に応じた個々の役割区域が設定されるのです。肥タゴと称する木桶が一対で天秤棒で中の汚物が跳ねぬよう上手く調子を取りながらリレーするのです。中身の重さはみんな均等ながら、急な坂道は力の強い健脚が当りました。また女性は汲み出しと人糞まきを担当し、それぞれの役割で知らず知らずのうちに便所の汚物が空になるという算段です。人糞の空になった家は良いのですが、人糞を撒いた畑はしばらくの期間凄い悪臭で、雨が降らなければ何日も辺りに異様なにおいが立ち込めていたものです。100メートルくらい置きに人が配置された人糞運搬リレーは漁村の冬の風物詩であったようにも思います。

 しかしこれは何も漁村に限ったことではなく、私たちも体験をしましたが中学校の便所も教師が子どもたちを使って実習畑に撒いたりしたものです。こうした不衛生な人糞処理のせいか子どもたちは年に一度の検便があるのですが、殆どの子どもが回虫を体内に育てていたのです。つまり人糞で育てた野菜が口から入り回虫がいるのです。これは戦後の農山漁村の近代化にとって大きな汚点であることから、役場や学校が生活改善運動として回虫駆除に乗り出していました。検便検査もいい加減なもので999マッチの小箱に割り箸を使って入れ、その上を新聞紙で包んで紐で縛り、学校にブラブラさせながら持参するという何ともお粗末な検査なのです。検査の結果回虫などが発見されると虫下しという苦い薬を飲まされ、その効果はてきめんでかなりの虫が下りました。ある学説によると体内から回虫がいなくなってから子どものアレルギーが増えたそうです。ひょっとしたら回虫がアレルギーの源を食べていたのかも知れません。そういえばアレルギーなんて子どもは一人もいませんでした。

 本当に合った嘘みたいな話ですが、戦後新制中学が誕生する時、新しく出来た学校の便所の人糞は誰のものか、真剣な議論がなされたそうです。結果的には入札で落札した人にその権利が有料で与えられました。化学肥料とてなかった時代ですから人糞は最高の肥料だったのです。家庭のトイレも学校のトイレも落と紙は全て読み終わった古新聞を適当な大きさに切って備え付けていました。今のテッシュペーパーのような柔らかいものではないので、新聞紙を手で揉んで使っていたようです。トイレが留め置き式なので臭さと季節によっては虫が湧き、トイレは北向きの日陰、しかも臭いものという印象を、今も日本の文化は引きずっているようです。これも苦き思い出ですが、トイレで少し硬いウンコをするとポチャンと落ちてお釣りが来ることがありました。何と最早思い出してもゾッとする思い出なのです。

 これもすっかりなくなりましたが、畑の隅に野壷という小さな穴がありました。そこへは余った人糞を溜めて自然の力腐らせ、必要に応じて作物に撒いていたのです。昔は若者の悪さも度々合ってスイカ泥棒などの話題には事欠きませんでした。ある日青年たち数人がスイカ泥棒に行ったそうです。夏の暗闇に乗じての悪ふざけでしょうが、スイカを取ったまでは良かったもののスイカを持ったまま野壷に落ちて糞だらけになったという笑い話は先輩から酒の肴として何度も聞かされました。臭い話です。

 いつの頃からか漁村の便所の隅から肥タゴと天秤棒と肥勺の三点セットが消えてなくなりました。臭いものの代名詞のように言われた肥タゴは私たちの暮しにとって極めて大事な道具でした。多分焼却処分されたのではないかと思われますが、下水や合併浄化槽や汲み取りバキュームカーが普及した現代の暮しに肥タゴの復権はないでしょうし、こんな話も「えーっ」「うそー」なんて言葉で語られる死語となることでしょう。

  「肥タゴを 天秤棒で 担いだ日 半世紀ほど 前のことなり」

  「臭いもの 思っていたのに 部屋の中 風呂と同居の ホテル泊りぬ」

  「検便の サンキュウーマッチ ぶら下げて ふざけて通う 学校懐かし」

  「カイジンソウ 鼻をつまんで 呑まされて 回虫出てき これはたまらん」


 

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shin-1さんの日記

○ビールの贈り物

 昨日外出先から帰ってみると、玄関の引き戸に「お届け物を配達しましたが留守でした。下記にお電話ください」と宅配業者のメモが挟み込まれていました。妻は「留守で悪かったわねえ」と言うなり下記の宅配業者に連絡すると1時間後に小さな小包が届きました。顔なじみの方なので「お茶でもどうぞ」と言いましたが、「急ぎますのでハンコだけ下さい」と言って帰って行きました。

 「お父さんビールが届いた」、私がビールを愛飲していた頃は多い年にはビールの贈り物が20箱以上もあって、その度に妻のこんな言葉に一喜一憂したものですが、さすがに私がビールを飲まなくなった事を知っている人からはビールが届かなくなってしまいました。ゆえに昨日の「お父さんビールが届いた」はより新鮮に聞こえました。差出人の住所と名前を見ると「山梨県清里、萌木の里舩木上次」と書いているのです。舩木上次さんといえばフィールドバレエで有名な私と同じ観光カリスマ百選の名物男なのです。彼の凄さは前にもブログに書きましたが、昨年はラベルに私の長年の夢であった「夕日ビール」と書いたビールを送ってくれましたし、何かと近しい間柄です。先日も来年春に関東で二人の対談をやるからと予告の電話をいただきました。

 ビールの箱の中に八ヶ岳ブルワリー醸造長山田一巳さんの記事の載った一枚のコピーが入っていましたので紹介します。

 「最近プレミアムビール市場が盛り上がっていますね。私の古巣であるキリンビールが発売したレギュラー価格帯の「座・ゴールド」などを見ても、ビール本来のコクや苦味などが見直されつつあるようです。長年ビールを造る続けてきた者としては、喜ばしいことだと思います。発泡酒や第三のビールが悪いというわけではありませんが、でもビール会社なんだから、やはりビールで勝負して欲しいいう思いがあります。-中略ービールを造り続けて50年になりますが、未だにビール造りは難しいですね。自分のビールを造るようになってから、ますます億の深さを感じるようになりました。清里でテレビ局の取材を受け「究極のビールとはどんなビールですか」と聞かれたことがあります。その時は、「私が造ったデュンケル(オールモルトの濃厚なタイプ)です」と答えたんですが、今思うと、とんでもなく恥かしい発言です。どれだけ造り続けても、究極のビールなんて造れない。ビール造りにゴールはないんです。何といっても相手は生き物です。発酵段階で糖をアルコールと炭酸ガスに分解する酵母なんてまさしく生きものです。発酵時には「お願いします」「もう少し頑張ってくれよ」なんて心の中で酵母に話しかけながら、酸素を与えたり、酵母を入れ替えたりして面倒を見ているんです。データやプログラムは勿論重要ですが、それだけではビールは造れない。ビール造りは生き物と会話しながら向き合う、とてもアナログな作業なんです。」

 酒でいうと杜氏さんのような人なのでしょうが、山田醸造長さんの話は雑誌の表題「有訓無訓」のとおり、何にでも通じる中々奥行きの深い話のようで参考になりました。

 さて私は送ってもらった舩木さんには悪いのですが体の都合でビールを飲むことが出来ません。私のすることはこのビールを使って舩木さんや山田さん、それに八ヶ岳ブルワリーの紹介をすることなのです。そのためには知人友人の中で情報発信源になりうる人に飲ませることなのです。クール宅急便で届いたということは、味の落ちないうちに早く処分せよのコールサインでもあります。早速今朝から行動を開始しました。

  「昔なら 喉から手が出る ビールだが 酒断つ俺にゃ 猫に小判だ」

  「ビールにも 奥行き深い 味わいが 安けりゃいいと 発泡飲む人」

  「世の中が 変っているのか どっちだか ビール発泡 飛ぶよう売れる」

  「あの苦味 死ぬまでも一度 味わって 見たいものだね 何時になるやら」

 

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shin-1さんの日記

○ある宇和海沿岸漁村の苦悩

 私が漁村生まれで元漁師ということもあって、私の元へは県内の漁業関係者が時々やって来ます。とりわけ青年団や漁業後継者活動の指導で知り合った比較的若い人の数が多く、その人たちは私のアドバイスを求めにやって来るのです。昨日の朝のことです。「今、ふたみシーサイド公園にいるのだが立ち寄ってもいいか」と私の携帯に電話が入りました。私の携帯番号を知っているくらいだから余程の深い知り合いに違いないと思い出掛ける前だったので「少しの間なら」と了解をとって彼はわが家へやって来ました。彼が若い頃県の漁業後継者協議会の役員研修会で知り合ってから付き合いですからもうかれこれ20年以上経っています。あの頃の逞しさはすっかり陰を潜め、病気を患ったという風貌は空気の抜けた風船みたいでどこか元気がない感じです。

 彼の話を要約すると三つでした。まず一つは養殖魚の斃死問題です。宇和海沿岸では連日新聞紙上を賑わせているように今年の夏も赤潮が発生しました。最初は毎年繰り返される軽めの赤潮ギノデマニュームの仕業だと思っていたのですが、意外や意外その勢いは凄いもので、宇和海全体に飛び火し、養殖魚に留まらず真珠にまで被害が出始め、海域全体の被害総額は30億円ともいわれているのです。普通の斃死は沿岸域で沖合い域には及ばないのですが、今年は沖合い域さえも青物が死んでいるというのです。普通斃死の時期には餌を減らせて予防したり、薬剤散布を試みるのでしょうが、環境問題への関心の高まりもあってそれも出来ず、いかだの沖合い移動による移動も中々思うに任せないようなのです。魚の養殖漁業は毎日餌を与えなければ魚が成長しません。稚魚を買い、魚の餌を買って与え、やっと大きくなったと思う矢先の斃死はこれまでの苦労が全て水の泡となるのです。加えて死んだ魚の処分も海に捨てることも出来ず処分費用も相当なものなのです。

 二つ目はこうした慢性的な被害の場合緊急対策として県や市町村が資金の低利融資を行って対応するのですが、相次ぐ被害や長年の不況で資金の融資をしても回収のメドが立たず、資金繰りが悪化して廃業に追い込まれている現状を思えば中々頭の痛い問題なのです。漁協も市町村も漁民の味方のはずなのですが、とりわけ不良債権で漁協運営そのものが立ち行かなくなっていて、苦悩の色ありありです。県は「組合の合併なしでこの急場は乗り越えられない」と、この機会をとらえて盛んに詰め寄ってくるようですが、果たして組合合併が漁民の窮状を救えるかどうか、農協合併や市町村合併の前例を見ている漁民からは根強い反対運動もあって合併寸前にご和算になった話もよく耳にするのです。最近は資金力を持った漁業産業がこうした浜を狙い撃ちし、漁民を雇用者として使う、かつての網元制のようなものが復活しているとも聞いています。

 三つ目は漁村の活気がなくなりつつあることです。農業に比べ鉄壁の団結を誇っていた漁村のコミュニティも過疎と高齢化、少子化、それに有能なリーダー不足で漁村そのものが危なくなっているようです。若者が溢れるほどいた漁村はもう遠い昔の思い出でしかないのです。

 こうした現状を踏まえ、さておらが漁村をどうするか、彼が私に求めたアドバイスはここからなのです。解決方法は二つ、一つは日本全国の漁村が戦後辿ったように漁村の暗い未来に決別し外に働きに出かけるか村を捨てるかです。もう一つは今なら間に合う漁村の改革を始めるかです。前者はいつでも出来る安直な考えです。後者はいいに決まっている解決方法なのですがそれなりの覚悟と苦しみが伴うのです。その漁村はまだ千人もの人が暮らしていて40億円の漁業売り上げがある地域なのです。私はふと高知県馬路村を思い出しました。今をときめく馬路村と同じ人口を抱え、売り上げは馬路村より上なのです。やり方によっては馬路村の上を行くかもしれません。ただしこの村には負の部分が馬路村より大きいのですから、それをどうするかが知恵の出しどころでしょう。

 結論は出ませんでしたが、村の行く末を思って相談に来た彼は立派だと思いました。村に住んでる高齢者が安心してあの世に行ける村を作らなければなりません。私が育った漁村も右肩下がりですが残念ながらその事に気付かず、今をテーマにしか村づくりができないで、不安や不満が渦巻いている姿を見ると、相当な荒治療をしない限り日本の漁村は十年後確実に消える運命にあるのです。

  「いつの世も 厄介問題 次々と それを乗り越え 人は歴史を」

  「元漁師 こんなレッテル 剥がさずに これから先も 私は生きる」

  「この村を どうかしたいと 相談に お前はどうする 俺はこうする」

  「ああ悲劇 明かりの消えた 空き家あり 墓地さえ草に 埋もれし漁村」


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