shin-1さんの日記

○とんだハプニング

 「お父さん大変」、昨夕いきなり妻が色めきたった声を発して玄関先から家へ入ってきました。「どうしたん」と聞くと、「車がメジャメジャ」というのです。「先ほど組費を持って組長さん宅まで歩いて行ったばかりなのに何で」と思って玄関先へ出てみました。妻のセリフは言葉になっていないため何のことだかさっぱり分らないのです。案内されて車庫へ行ってみました。何と天井に吊り下げていたインデアンカヌーが下に駐車している私の愛車の上にドスンと落ちて直撃しているのです。「お父さん大変」も「車がメジャメジャ」もさすがにこの現状を見ると納得です。私は自分の体から少し血の気が引くような気持ちになりました。数日前追突事故に会い、車の板金塗装が終り「綺麗になった」と喜び、二日前少し早目の車検に出して綺麗になって帰ったばかりの一段落なのに、「何で」と思わず叫びそうになりました。妻と二人でカヌーを持ち上げ少しずつ外に出しましたが、案の定車はあちらこちらがへこんで、「車がグシャグシャ」といった妻の表現は当たらないまでもまるで私の顔のようでした。

 数日前家内が「お父さん、車庫に吊り上げたカヌーが少し下に下がっているのでもう少し上へ上げて下さい」といわれていました。また3日前親父が「カヌーを吊り下げているロープが危ないから何とかした方がいい」との注意も受けていました。にもかかわらず妻の言葉も親父の忠告も「うるさい。またか」くらいな安易な気持ちで受け流していたのです。この時ばかりは「親の忠告と妻の意見と茄子の花は千にひとつのあだがない」と、古い諺をかみ締めながら片付けました。車を外に出し夕闇迫る暗がりの中で車のへこみを確認しつつ、少し我慢すれば何てことはないと思いつつ、傷にワックスをつけて塗り込みました。でも日没引き分けでその作業を止めたのです

 明くる日の朝、車を再び車庫から出しお天道様の光で傷の具合を観察しましたが、昨晩の見立てとそんなに違いがないことが分り少しホッとしているところです。親父には車が傷んだことは内緒にしていました。ところが朝の散歩で外に出てみるといつの間にかカヌーが天井から降ろされ外に出されているのを見て、「息子は俺の忠告を受け入れてカヌーを下ろした」とばかり勘違いして、この際カヌーを別の小屋にしまったらどうか、提案がありました。親父と小屋の下見をして親父の意見を受け入れる事にしました。それから1時間余り親父と二人で思いカヌーを動かしたり小屋に入れる作業をしましたが、やっとのことで収納しました。実はこのカヌー、まちづくりの草創期に子どもたちを沖合いに浮かぶ青島へ漕ぎ渡り、沖合いからふるさとを眺めさせるプログラムを実行するため、役場の早崎さんと二人で購入したものです。2隻なら安い特典を活かし当時のお金で15万円くらい出したように記憶しています。このカヌーはその後私が代表を務める21世紀えひめニューフロンティアグループの恒例行事であった無人島に挑む少年の集いの必需品として無人島に運び、多くの少年たちに利用されてきたのです。無人島キャンプが終われば置く場所がないので苦肉の策として車庫に吊り下げられて保管していたのです。これはかなりのアイディアだと自慢していました。しかし今回のとんだハプニングでこのアイディアは結果的に失敗に終わることになりました。

 折角トラックを買ったのでいよいよカヌーを積んでアウトドアーでも楽しもうと思った矢先の出来事で、倉庫に収納してしまうとその計画も遠のいてしまいそうで残念です。

  「大変だ 車メジャメジャ 妻の声 昨日仏滅 情けないたら」

  「来る人に アイデア語り 見せていた 俺の頭も たかがしれてる」

  「ポンコツに ならずに済んだ 車だが 何かの予兆 気つけ生きよう」

  「妻親父 忠告意見 言ったでしょ 聞かずにバチが 当って難儀」


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shin-1さんの日記

○音の風景

 「今年の夏はいつまでも暑いねえ」と、交わす言葉に残暑を感じる今日この頃です。親父も、「わしも長い間生きているが今年のように暑いのは久しぶりだ」といいながら、せっせと秋の畑の準備をしています。いつの間にか来るハガキも暑中見舞いから残暑見舞いになり、出すハガキやメールにも少しだけ季節の変わり目を書いています。昨日友人へのハガキに「数日前まで子どもの声が賑やかに聞こえていたのに、子どもの声が聞こえなくなりました。夏休もの終りに近づき子どもたちは、夏休みの宿題に追われているのかも知れませんね」と感想を書きました。そういえば夏どころかいつの間にか一年の3分の2が間もなく終わろうとしているのです。

 毎朝日課のように朝4時に起床していますが、暑いと言いつつ今朝は幾分かしのぎやすくなって、5時ころになると外が明るくなりましたが、白夜の如く4時過ぎには明るくなっていた夜明けも少し遅くなったような感じです。親父は相変わらず90歳になるのに朝5時から朝の散歩を欠かさずやっています。牛乳屋のガチャガチャという音、新聞屋のポストに新聞を入れる音などなど、何気なく机のパソコンに向かってブログを書きながら、今朝も目や耳や肌で朝の音を感じています。

 そういえば今朝はやたらと漁船のエンジンの音が聞こえました。多分陸風と海風雨の交代時期が秋に変りつつあるからでしょう。わが町には漁港が2つありますが、わが家に近い上灘漁港の魚市場では午前3時から朝市があって、その時間になると漁を終えた漁船が一斉に帰ってくるのです。ここら辺の漁船は土曜日が休漁日なので、日曜日の朝に出漁して20時間も経った今朝港へ帰って来るのです。大漁だった船、不漁だった船など悲喜こもごも様々ですが、最近は原油の高騰で漁民の暮しも大変だと聞きました。それでも漁船はエンジンを高速にしなければ漁ができないのです。

 私は18歳から7年間漁師をした経験があります。水産高校を卒業するころ親父がガンで体調を崩したため帰郷し、若吉丸の船長になりました。その頃の漁船は5トン30馬力のヤンマーエンジンでした。今の漁船と比べると木造船だったためそんなに船足は速い方ではありませんでしたが、それでも佐田岬半島沖の伊予灘を漁場としていたため、毎日午前1時頃から午後3時まで全開エンジンのあの賑やかな音の中で暮らしていました。漁師さんの声の大きさはエンジンの音のせいで難聴気味になるからだと思うのです。私もそんな暮しを7年もしていたのですから難聴になっていたはずですが、25歳で転職し役場に入ったため難聴は解消されました。60年間も海の上で漁師を続けてきた親父の難聴は漁師の暮しに加齢難聴が重複して回復どころか益々聞こえなくなっているようです。

 ただ今6時過ぎ、先程まで港から聞こえていた漁船のエンジンの音は完全に聞こえなくなってしまいました。変って妻がスイッチを入れたテレビのニュースを伝える音が隣の部屋から聞こえ始めました。セミも起きたのか早くもうるさい声で鳴いています。鉄橋を渡る一番列車のガタゴトという音も遠くで聞こえています。野バトがグーグーとまるで私のお腹のように低い音で鳴いています。全て自然が織りなす音のモーニングコールです。

 しかしいつも思うのですが、これらの音は日々の暮しに悩殺されて私の耳にはまったく届かないのです。「自然の声に耳を傾けなさい」とは、何処かで聞いたような話ですが、自然の音が少しでも耳に聞こえるような暮しができるよう努力したいものです。もう間もなく虫の声も楽しめます。今年は虫の声を聞いてみようと思っています。

  「目が覚めて 自然耳入る 音を聞く 少し心に ゆとり感じつ」

  「エンジンの 音の近くに 暮しあり 夜明け待ちつつ 人は動きぬ」

  「気がつけば 夏も終りに 近づいて 子どもの声も 少し少なく」

  「鉄橋を 渡る列車の 音さえも 今朝の私にゃ モーニングコール」

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shin-1さんの日記

○7、浜辺での葬式

 昨日遠い親類の葬式に出かけました。最近は家で葬式をする家が滅法減ったようですが、この家では律儀にも自宅での葬式です。冷房のある家なのでしょうがこの日は葬式ということもあって家は全て開けっ広げですし、戸外の一般の参列者は、青い農業用ビニールを日陰用として張ってはいるものの、夏の暑い日の午後1時からの葬式ですから、汗が沢山出て熱中症になるのではないかと思うほど汗をかきました。

 私が子どもの頃の漁村の葬式は家が狭かったためか砂浜に祭壇を組んで行われていたような記憶があります。祭壇といっても今のような花で飾られた白木の立派なものではなく、ごく質素なものだったようで、組内の器用な人の指導で祭壇を飾る道具類は色紙を使って一本花に至るまで全て手作りでした。葬式の仕切りは組長で、役場への届け出からお寺への連絡、竹やシキビの確保、墓地の穴掘り、お坊さんの送迎、火葬場への運搬、身内の人の食事に至るまで全てを任され、粗相のないようにするのが組長の務めでした。葬儀社などない時代でしたから、自分の組長の年に葬式が出ないよう誰もが祈っていました。

 浜での葬式のクライマックスは死んだ人の棺桶に続いて幟旗や天蓋など沢山のお供を従えて何度もその場所をお経や鳴り物に合わせて回るのです。そしてその長い列はイワシ山と呼ばれる急峻な坂道へと続き、下から見上げるとまるで天国への道のようにみんなが登ってゆきました。勿論棺桶も組内の人が交代で担いで墓地まで運ぶのです。

 やがて墓地に着くと組内の人の掘った穴に棺桶が入れられます。昔はよほどのことがない限りは土葬でしたから、身の近い順に土を被せ、最後は組内の人が埋め戻し一応の葬儀が終わるのです。

 その日から49日は喪に服すため毎晩墓地の灯篭に灯を灯さなければなりません。夕方になると家族でお墓に灯りをつけに行くのですが、土葬だったこともあってまだこの足の下に死んだ身内がいると思うと、恐ろしいというよりは悲しくも切ない気持ちの方が先に立ち涙を流したものです。

 子どもの私たちにとって漁村の葬式は、ご馳走が食べれる日でもあるので、死んだ人には悪いと思いつつ精進料理といえどもたらふく食べました。その頃の平均寿命は今よりもっと低かったので70歳くらいで死ぬのが当たり前の時代でした。死ぬのは今のように病院ではなく家でした。地元の医者が呼ばれて臨終を見届けるのですが、私は疎祖父が死にかけた時大変な失敗を演じました。多分今の死因だと老衰に当たるのでしょうが、臨終間近になって、少年ながら医者を呼びに行く役割を仰せつかりました。大人が「薮医者を呼んで来い」というのです。私は「じいちゃんが死ぬかも知れない」と心のときめ気を抑えて一目散に医者へ駆け込みました。「薮医者さん、じいちゃんが死にそうなので来てください」と言ってしまったのです。お医者さんは「このガキ大将が・・・」と一喝されました。私はお医者さんの名前がてっきり薮医者という名前だと思ったのです。だって大人の会話は子どもには理解し難いものなのです。お医者さんは私と一緒に家へ来てくれました。そしてじいちゃんは医者の「ご臨終です」という言葉で穏やかに息を引き取ってあの世に旅立ったのです。

 漁村のこうしたお葬式を子どもの頃から見ていたため、私には子ども心ながら死生観や人生とは何かというのがおぼろげながら見えていました。私もいずれああなるという臨終や、死んでからいわし山という墓地に埋められてからあの世ではどう過ごすのだろうとかいった来世にまで思いを巡らせました。と同時に田舎で暮らすしきたりも随分学びました。人間が死んだ時、生きている日ごろから組内に対して不義理をしていると、村八分のような仕打ちに合って、葬式を出せないといった場合もあるということも知りました。田舎は温かいコミュニティがあるといわれているけれどありもしない噂話や風評が支配し、いづらい社会も一方であるのです。

 浜辺での葬式の風景はまるでセピア色の写真のように今もなお私の頭から離れません。多分強烈な印象だったのでしょうが、田舎の葬式に行く度にそのことが思い出されてなりません。

  「何処来て 何処へ去るのか 人間は 浜の葬式 今もありあり」

  「薮という 名前とばかり 思ってた 医者に叱られ 初めて気付く」

  「じいちゃんに 土を被せた 土葬式 ショックの余り 夜も眠れず」

  「わしが死ぬ 時は自宅で 葬式を 親父予約の 口頭遺言」 



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shin-1さんの日記

○隠岐の島から海の幸届く

 日本海の遥か洋上に浮かぶ島根県隠岐の島から美味しい海の幸が届きました。サザエとアワビです。この海の幸を素潜りで獲って送ってくれたのは角市正人さんという私の友人です。隠岐の西ノ島町に住む彼の紹介で島へ講演に行って以来親密となり、島で開かれた牧畑農業のシンポジウムに講師として招かれてからは急接近して、お互いがいい刺激を与えつつ今日を迎えています。

 私は仕事柄まちづくりをキーワードに日本全国の過疎地をまるで民俗学者の宮本常一のように歩き回り、まるでフーテンの寅さんのように木になるカバンを提げて出かけたまちやむらで、様々な出会いを繰り返しているのですが、その中でも隠岐の島や三宅島、石垣島、五島列島、奄美大島などの離島といわれる島へは何度もお邪魔し、その都度深いご縁をいただきながら日々を暮らしていますが、島ゆえの閉鎖性や封建制はあるものの、何処か懐かしい、それでいて人懐っこい島人の人情がとても気に入っているのです。その気風は海の側で生まれ育った私たち漁村人の気風と同じようで、ひょっとしたら私も彼らと同じDNAを持った遊漁海の民ではあるまいかと思ったりするのです。

 西ノ島の牧畑農業については昨年10月7日に開かれた牧畑シンポを終えて帰宅後のブログで詳しく紹介していますので省略しますが、角市正人さんの夢は世界でも珍しい今も細々続けている牧畑農業を世界遺産にすることのようですが、その道は険しく現時点では可能性の光すら見えてこないようです。私も四国八十八ヵ所遍路道を世界遺産にする運動にほんの少しだけ関わっていますが、世界遺産への道は遠いのです。でも夢を持つことはいいことであり、そのプロセスこそがまちづくりなのだと励まし続け、熱いエールを送っています。

 昭和30年代まで日本はどのまちや島も戦後復興という共通の目標に向かって歩んでいました。ところが所得倍増計画や工業化計画という名の施策が次々と打ち出され、主にまちやむらの若者たちが金の卵として地方から都会へ国策的に集められたのです。その時点でまちやむらは過疎の第一歩を踏み出し、過疎と過密という弊害を産み出したのです。社会の発展、都会の発展とは裏腹にまちやむら、それに離島では発展の時計が止り、止るどころか昔へ引き戻されるような錯覚さえ覚える後退現象今も、地方に住む人たちを悩ませているのです。

その心配に追い討ちをかけるように平成の大合併は始まり、ホットな議論と冷めた議論が交錯するなかで、有無をを言わさない強引なやり方で地方の後退現象は様々な分野に飛び火しているのです。役場が支所化し学校が統廃合されてなくなり、農協も漁協も合併し便利は不便となって暮しすら立ち行かなくなって、周りの商業施設はシャッターどころかスラム化しつつあるのです。

 何処かが可笑しく、何処かが狂っていると思いつつも、今の日本の社会をまともな方向へ戻すことはもう不可能かも知れないと、田舎に住む私たちは一種の諦めを覚え始めました。それは住民の幸せを守るはずの行政と議会が地域住民から完全に離れているからに違いないからです。今度の参議院議員選挙で大勝した民主党の第一の主張は自分たちの政権争奪で国民のことなどまるで考えていません。自民党もこれだけ惨敗しながら相変わらずその原因がいかに国民不在の政治の結果であるか、未だに知ろうともしないで、相変わらず次の選挙の必勝を祈願しているのです。

 そんな中、角市正人さんは数少ない地域を思う町会議員さんです。多分彼の「牧畑農業をオンリーワンとして守る主張は今をテーマにする行政や議会からは損得、好き嫌いで処理をされ相手にされないでしょう。でも西ノ島が生き残るには牧畑農業の持つアカデミックな価値こそ見直されるべきものなのです。そこで提案ですが世界遺産も大切ですが牧畑農業は是非日本遺産に登録してはどうでしょう。美しい国日本を掲げる総理に提案してみようかなと思っています。

 世の中便利になったもので、発泡スチロールに入れられてはるばる隠岐の島から届いた宅配便を開けてびっくりしました。西ノ島の磯の香りとともに大きなアワビがもの言うが如くうごめいているのです。妻は早速アワビの刺身とサザエの壷焼きです。久しぶりにご馳走と思う夕食に舌鼓を打ちながら遥か遠い西ノ島や知り合った人々のことを思い出しました。

  「宅配の 蓋を開ければ ニョキニョキと 磯の香りを アワビ運んで」

  「島人の 人情厚く 今もなお 心届ける 嬉し人有り」

  「牧畑を 日本遺産に するような 政治家いない 日本寂しや」

  「早いもの あれから一年 経ったとは 進化したのか それとも後退」  

 

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shin-1さんの日記

○6、子どもたちの遊び

 漁村の子どもたちにとって身の回りにある豊かな自然は遊び道具の宝庫でした。とりわけ目の前に広がる海は季節ごとの表情を見せながら子供たちをやさしく包んでくれました。砂浜の砂は砂山に、海岸の石ころは石投げに、また夏の海は泳いだり潜ったり釣ったりして、空腹を満たすのに十分だったように思います。子どもは遊びの中で育つといいますが、遊びの向こうに動植物がいて、子どもながら大人の暮しを見よう見まねし、いくらかの知恵に変えて遊んでいました。サザエやアワビは何処に潜れば取れるか、カニを取るにはどんな道具が必要か、またそれらで取ったり捕まえた物はどうしたら食べられるか、全て体が覚えていました。また海に溺れそうになったり、オコゼに刺されたりする経験から自然の中に潜む危険もしっかり体得していました。

 子どもの遊びにとって漁村の異年齢子ども集団は大きな意味を持っていました。ガキ大将のトップは小学校6年生でした。中学生になると学業も異性も何故か別世界に生きているような錯覚にとらわれ、子ども社会から離れて行きました。6年生の子どもは先輩が抜けた遊びの社会を取り仕切り、村祭りや亥の子などの年中行事、お盆の盆飯、節句の雛あらしも、また子ども会の勉強にまで深く関わっていました。

 子どもの遊びは急峻な漁村の裏山にも及び、陣地づくりは子どもの好奇心をそそりました。10人ほどの仲間で主に冬の季節山に上り、雑木の生い茂る山を親の目を盗んで持ち出した鋸や鎌を使って少しばかり伐採し、陣地を作るのです。戦争が終わったとはいえ、敗戦後間もないことなので、戦争に行った人の武勇伝を囲炉裏端で聞いていた子どもたちはチャンバラや戦争ごっこをして遊んだものです。山には野イチゴ、桑の実、ヤマモモ、山葡萄、アケビ、サルナシなどの食べ物があちらこちらにあり、それも収穫物として取り合い食べました。

 子どもの遊び道具の一つに「肥後の守」という小刀がありました。今は死語のようになったこの小刀は私たちに夢を与えてくれました。竹を切って竹鉄砲や竹ヒゴを削って凧を作ったり、竹とんぼなどの細工も全てこの小刀による成果物でした。また山にキビチと称するワナを仕掛けたりメジロを鳥もちで取るのも小刀がなければ上手くはかどらなかったのです。子どもはこの肥後の守欲しさになけなしの小遣いを貯め、他の子どもよりも少しでも大きな肥後の守を手に入れ、友だちに自慢したものです。そしてこの小刀は子どもの手によって日々砥石で研ぎ澄まされていました。

 家の仕事を手伝うのは当然の時代でしたが、子どもたちは工夫をして時間を作り、巣篭もりなどせず仲間と群れて遊んでいました。

 駒回しや凧揚げなどの他にパッチン(メンコ)、マーブル、ネンガリ(木を削った杭のようなものを地中に投げ刺し相手を転がせる)、ドングリ、陣取り、かくれんぼ、木登り、石投げ、水鉄砲、竹鉄砲、竹馬、木馬、そり、馬乗りなどを子どもどうしでルールを決めて遊びました。

 女の子の遊びは男の子の遊びと少し違って、おしとやかなままごと、ゴム飛び、石蹴り、おはじき、お絵かきなどが主流だったようですが、特に印象深いのはお雛様でした。漁村では月遅れのひな祭りで4月4日を中心に飾られ、菱餅や雛豆などの菓子類が並べられて、盗んでは食べていました。あの時ばかりは女に生まれたいと思ったものです。

?私は小さい頃小学校へ上がる前に10の数が数えられなかったそうです。心配した父親は浜から10個の小石を拾ってきて網繕いの夜なべ仕事の側で何度も何度も小石を数える勉強をさせたそうです。それでも算数は人並みになるのですから幼年時代の遅れなど人生には何の問題もないと思っています。このことがきっかけで、浜の石は私の遊び道具でした。掛け算も分数もこの小石で習いました。安上がりの教材になったようです。

 遊びは時代とともに変ります。最近は私たちが経験したような自然を友としたり、自分で工夫して創作した漁村の遊びはすっかり姿を消してしまいました。漁村の遊びを出来れば復活してみたいと思っています。

  「肥後の守 殿様名前じゃ ありませぬ 子どもにとって お宝でした」

  「海面を スルスルスルと 石跳ねる そんな遊びも 随分したっけ」

  「何処ででも お構いなしに 遊んでた 子どもの頃は 遊びが仕事」

  「素もぐりで アワビやサザエ 獲ってきて 無造作食べた 何と贅沢」


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shin-1さんの日記

○5、ノミとシラミと蚊とハエ

 昭和19年生まれの私は戦後間もない頃に小学校へ入学しました。木造の校舎は障子があるような古いもので、村には大久保分校があって4年生になるとその分校から子どもたちが編入し、もう一つの冨貴小学校の子どもは中学校になると一緒になるなど、子どもの数が最大の時代でした。学校は活気に溢れ運動会や学芸会ともなると村中総出で、地域を巻き込んだまさにコミュニティの拠点としての役割を存分に発揮していました。校庭の大きなイチョウの木や二宮金次郎は学校のシンボルともいえるもので、私の幼い記憶の中にしっかりと染み付いています。余談ですが私はある日二宮金次郎の銅像が目に留まり、「あの二宮金次郎は何の本を読んでいるのだろう」と不思議に思い、銅像の台座によじ登りました。運悪くそこを通りかかった校長先生に見つかり、厳しく咎められ校長室へ連れて行かれて正座のお仕置きをされました。校長先生「若松君、お前は何であんな偉い人の銅像に上がったのか」。私「二宮金次郎が何の本を読んでいるか調べたかった」。校長先生「馬鹿たれ。あそこにはいろはにほへとと書いてあるだけじゃあ」。私「・・・・・・・・・・」でした。結局そのお仕置きは1時間にも及びましたが、その疑問は私の心に長い間引っかかっていましたが大人になって、翠小学校の銅像が教えてくれたのです。「一家仁 一國興仁 一家譲 一國興譲 一人貧戻 一國作乱 其機如此」でした。読むことさえも意味も聞いても誰も知らず、結局は県教育委員会の指導主事に教えを請う事になりました。「一家のうちが仁の道を行えば、その国じゅうの人々が仁の道を進んで行うようになり、(これに反して、尊貴の位にある)君主が(家を治める諸徳も行わずに)自分の利益だけをむさぼるならば、その国じゅうの人々は争いを起こす事になる。(国が治まると乱れるとの)しかけは、このとおりである」。つまり二宮金次郎の読んでいる本は中国の古書「大学」の一節だったのです。

 その頃の学校は制服もなくさすがに着物の子どもはいなくなっていましたが、ゴム草履や黒いシューズなど戦後日本に入ってきたと思われるアメリカのものでした。上履きは藁草履で、靴下などはまったくなく正月を挟んだ寒い日に足袋を履く程度でした。教室には暖を取るものなどなく、そのため子どもの青鼻は常識で、黒い学生服の袖は青鼻の横ずりで光っていました。藁草履を履いて来る子供もいて、雨上がりなどは尻バネが背中から頭までかかっていました。番傘は上等な家庭で、私などのような貧乏人は敗れた番傘か灰谷健次郎の「雨が降ったら傘さして、傘がなければ濡れてゆく」という言葉ピッタリの長閑な少年時代でした。

 それにしても思い出すのはノミとシラミと蚊とハエの話です。戦後間もない頃は食べる事に一生懸命でした。したがって今考えてもゾッとするような話がいっぱいあります。例えばシラミです。毎日風呂に入ったりしなかったし頭も洗濯石鹸のようなもので洗っていました。当然オカッパ頭の女の子の髪にはしらみもいて、授業中温かくなってくるとシラミが髪の中から這い出してくるのです。「先生、A子ちゃんの頭からシラミが出よる」と授業中にもかかわらず大声を出すと授業は中断され、先生はその子を廊下に連れて行きDDTの入った缶を取り出して勢いよくDDTの粉を直接頭に振りかけていました。DDTは劇薬です。今こんなことをしたらそれこそ大きな社会問題です。それが平気で行われていたのですから無知も環境問題もあったものではありません。

 またノミも家には沢山いました。年に2度日和の良い日を選んで家の畳を剥がして外に立てかけて干し、家族総出で大掃除をしました。ここでも畳を剥がした後にパクパクと沢山のDDTを撒き散らしました。そんな臭いにおいの中で寝ていたのです。寝る前になると布団の上をノミがピョンピョン飛び跳ねるのを見つけ、捕まえては爪で殺しました。それでもノミに食われてかゆく、薬とてないじだいですからそのうち治っていたようです。

 ハエも沢山いました。ハエが食べ物にたからないようにとハエ取りビンやハエ取り紙、それにシュウロの葉っぱを編んで自家製のハエ叩きも作りました。またちゃぶ台の上にはハエを避けるための工夫が随分凝らされていましたが、少々の物を食べてもO157などの病気にかからなかったのは免疫力や自然治癒力が不衛生ながら自然に備わっていたのでしょう。

 蚊も沢山いました。夏は蚊帳を吊って寝ました。これが子どもにとっては嬉しくて、蚊取り線香を焚いて蚊帳を吊る夏の夜は寝苦しいけれど何となくノスタルジックな気分になり、怖い話を皆でし合って眠れない一夜を過ごしました。

 こうした不衛生な環境は漁村のみならず日本の戦後の社会ではことさらに珍しいことではなかったように思います。ゴミなどは全て家庭で処理していました。今のように買ってきたものの何割かが燃えない包装材とは違い、自然からの恵みの残り物ですし、作った食べ物を食べずに残して捨てるなんてことは余程のことがない限りありえませんでしたから全て畑に入れて肥しにしました。水も私が物心ついた頃には既に水道になっていましたが、水道の受け口には大きな大谷焼の水瓶があって水を貯めていました。それでも簡易な下水から流れ出る水は綺麗で、直ぐ前の海を汚すことはなかったようです。

 家の全てが障子や襖で仕切られ、事ある時はこれらの障子や襖が全て取り外され大きな部屋が現れました。その部屋で一族郎党が集まって仏事や祭事を手づくりでこなしました。本家と分家の関係もまるでピラミッドのように硬く団結していました。本家100人分、分家50人分の櫻井漆器の食器があり、おおいときには300人もの大宴会を行う用意をしていたのです。これぞ日本の文化でありこれぞ日本のコミュニティの原点だったように思います。

  「頭から 這い出るシラミに DDT 教師手馴れて 直接かける」

  「ノミがピョン 追いかけ潰す 布団上 DDTを 畳のヘリに」

  「蚊帳の中 怪談話しに 寝付かれず 少し物音 ドキリとしつつ」

  「シュロの葉で 手づくりしたる ハエ叩き 勢い余って 障子を破る」

 

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shin-1さんの日記

○コミュニティビジネスセミナーに参加

 私がよく出入りするえひめ地域政策研究センターへ久しぶりに立ち寄りました。別に用事があった訳ではありませんが、私は所用で出かける時は必ずプラス1かプラス2の立ち寄りをしています。「ついで寄り」ともいわれるこの立ち寄り癖は若い頃からやっており、何処かへ講演に行った折でも殆ど欠かさずやっているのです。「お茶のただ飲み」とも思えるこの行動は不思議なもので、これまでにも沢山の人間関係構築や情報収集に役立ってきました。この日もセンターに行くと、研究員の皆さんが留守かと思いきやドヤドヤと外から帰って来ました。聞けば明日のセミナーの準備だとか、そういえば研究員の渡辺さんからセミナーのお誘いメールが入っていたと思いながら、持ち合わせていない予定表を記憶の中で捲っていました。「多分明日は東京からお客様が来るもののそれは午後から」と脳の指令が私を動かせました。忘れていた訳ではないものの午後の予定が立たずセミナーの出席をためらって申し込みをしていなかったのです。先着100人の申し込み期日はとうに過ぎているため無理かと思いましたが、頼み込んで口頭予約をしました。これもプラスワンの効果でしょうか。

 明くる日セミナーに出かけました。会場が県庁なので車は置けず、ましてや車検代車が軽四トラックなのでさてどうしようかと思いつつ、これも長年の癖でセンターの車庫へ入ったら運良く空いており、シメタとばかり駐車して何食わぬ顔で県庁へ小走りです。しかし悪いことは出来ないもので、県庁のエレベーター内で坂本研究員にバッタリ、「車は何処へ置かれましたか」。「すみません。センターに置かせてもらいました」で落着、汗顔でした。

 10分前の会場入りでしたが、そでに半分ぐらい席が埋まっていました。中程の席を確保し、時間が勿体ないので失礼かと思いましたが、昨夜の研修会でお世話になったワシントンホテルの支配人さんお二人にお礼の葉書を2枚書きました。顔見知りも沢山いて軽く言葉を交わしつつ葉書を書き終わるとピッタリセミナーの始まりです。

 この日の講師はコミュニティビジネス総合研究所の細内信孝さんです。「地域資源からビジネスへ」、~コミュニティビジネスの可能性~というお話です。細内さんのコミュニティビジネスの話は雑誌で読んだことがあり、興味をそそりました。コミュニティビジネスとは、コミュニティビジネスの特長、期待されるコミュニティビジネスの効果、コミュニティビジネスを支える人々や仕組み、コミュニティビジネス成功への道などを全国の事例を織り交ぜながら軽妙に話されました。

 今年の春私の元へやって来た兼頭さんも確かコミュニティビジネスの勉強をしているはずだと思いつつ、会場を見渡すと彼の顔も参加者の中に発見しました。コミュニティビジネスは福祉・環境・情報・観光・交流・食品加工・まちづくり・商店街の活性化・伝統工芸・安心安全にとどまらず、様々な分野が想定されますが、私の町のような過疎と高齢化と少子化、それに第一次産業が不振な地域にこそ必要なものですが、必要以上にそれを起業する人材がなかなかいないのです。私のやったこれまでのまちづくりはコミュニティビジネスそのものであり、特に漁協女性部のおばちゃんたちと仕組んだじゃこ天や第三セクターシーサイドふたみはその成功事例と言えるものかも知れません。

 この日会場を埋めた参加者の殆どは行政の人でしたが、涼しいから何気なく参加したのか、コミュニティビジネスを行政の力で誘導しようとしているのか、いずれにせよ不退転の決意がなければいい成果は現れないのです。今日の話をヒントにしながらいいコミュニティビジネスが生まれることを期待したいものです。勿論私も狙っています。ひょっとしたら上勝の横石さんや馬路の東谷さん、それに私の講演活動もコミュニティビジネスかも知れません。

  「横文字で 言うと何だか 格好いい そんなに甘い ビズネスはない」

  「結局は するのはあなたで 話しチョン 聞けば聞くほど 悩みは深く」

  「立ち寄りで 掴んだチャンス セミナーで 知識習得 知恵に変えねば」

  「俺などは コミュニティビジネス 最前線 成功事例と 言えるかどうか」

 

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shin-1さんの日記

○3、半農半漁(芋と麦)

 私が子どもの頃の漁村は極めて単純な経済でした。漁民は獲った魚を漁業組合を通じて売るか自分で行商に出掛けて売っていました。そのお金で食料品や衣料といったこれまた単純な必要なものを買い求めて日々の暮しを組み立てていました。今のように自動引き落としで電気代や電話使用料を払わなくてもいいのですから、財布は儲けて入る、使って出るといった小遣い帳のようなものだったのです。しかしその頃はまだ漁業組合の取組も弱く、大漁で少し多めに魚が獲れると販路がなく、余った魚は冷蔵庫もないため保存が利かず近所に配るかその日のうちに自分で売り歩くしか手がなかったのです。その売り歩く仕事は主に母親の役目でした。売り歩くといっても村内の集落へは交通手段もなく、もっぱら天秤棒で担いで急峻な山路を上り下りしながら、知人友人の農家を訪ねて売っていました。当然足元を見られて安く買い叩かれたりもしましたが、戦後の食糧不足な時代だったため殆どが物々交換で、当時としては貴重品だったお米やみかんと替え、行きから帰りまで荷物の重さが変らず、むしろ増えて帰ることもしばしばでした。それでも集落の人たちはみな親切で、行商のつれづれに深いご縁が出来て、みかん採りや田植えのシーズンになると雇われて手伝い働きにも出かけ重宝がられました。

 漁家の食べ物は芋と麦が主食でした。その芋も麦も食糧難な時代ですから、近場の山林を冬場や漁の合間に切り開き段々畑を作っていました。どちらが表か裏か分りませんが、夏から秋はサツマイモ、冬から春は麦と二毛作で畑は休むことなく有効利用されていました。春先にはイモズルを作るため芋を半分に切って伏せ、6月にはイモヅルを畑一面に植えました。開墾したばかりの痩せた赤土はむしろサツマイモに最適で主に収穫の多いこうけい24号?などといった白芋が植えられていました。秋になると家族総出で芋掘り作業をやりました。母がツルを切り四つ鍬と呼ばれる四本爪の大きな鍬で親父が堀おがして行くのです。子どもも大事な労働力で掘り出した芋を傷をつけないようにツルを切り落とし、カマスといわれるムシロを二つに折って二方を縫った袋に詰め、体力に見合った分を背負子に荷造りされ、急な坂道を家まで運ぶのです。今考えればあんな急な坂道を午前中2回、午後2回と背中に背負ってよくもまあ頑張ったものだと感心するのです。その芋は陰干しにして表面の水分を飛ばし、家の畳の下が地下室になっている芋壷に、農家から貰った籾殻や藁を使って囲い、一年分の食料としたのです。今は滅多に食べないサツマイモで健康食品として持てはやされていますが、私たちが子どもの頃は「また今日も芋か」とため息の漏れる日々でした。余談ですがツルを取るために伏せた種芋もフルセイモといって捨てることなくキントンなどにしておやつ代わりに食べましたし、芋壷に出没するネズミの被害に遭ってかじられ残った部分も切り落として大事に食べた記憶があります。

 冬になるとこの芋を使って芋飴を作りました。その日は朝から総出でイワシを釜茹でする大きな釜で水洗いした芋を茹で、それを絞って煮詰めて行くのです。やがてそれを薄く延ばして芋飴が出来た悦びは、甘いものに憧れる時代でもあったので飛びきりのご馳走だったように思います。

 芋が終わった畑は鍬による人力作業で綺麗に耕され畝作りされて麦を蒔きました。年末には青い麦が目を出し、寒風吹きすさぶ中頬かむりをした母親の言うがままするがままを見習って、まるでカニの横ばいのように麦踏をやらされました。子ども心に「折角芽を出した麦を何で踏みつけるのか」不思議でしたが、春になって麦が実る頃、麦の茎が倒れないようにするのだと説明を受けながら納得の作業をしたものです。やがて春から初夏に移る頃、畑は一面麦秋と呼ばれる麦刈りのシーズンを迎えるのです。この頃は雨がよく降り折角実った麦が重さで倒れ麦に芽が出て収穫できなかったり、少し遅れただけで麦の穂が真っ黒になったりもしました。刈り取った麦は芋と同じように背負子に背負って家まで持って帰るのですが、麦の穂は刺が痛く、首筋などに入るとかゆくて仕方がありませんでした。自宅の浜にはムシロが何枚も敷かれ、その上でセンバという麦こぎにかけられて穂だけになり、それを広げて刈り竿で叩き落すのです。ヨイショヨイショと声を掛けて調子を合わせるのですが、これが子どもの私には回転が合わず中々難しい作業でした。麦藁は焼かれて肥料にしたり再び畑に肥料として戻されたり、今でいう循環型農業が行われていました。これらの麦は精米屋に運んで玄麦にしてもらい丸麦、押し麦

として私たちの胃の中へ消えてゆきました。その頃は麦飯は常識で米1、麦9なんてご飯もざらでしたし、それを平気で学校に弁当として持って行っていました。

 お米が全てでお米の値打ちによって物価が決められていたお米万能な時代、私たちの憧れは「お米のご飯を腹いっぱい食べたい」くらいなささやかな夢を追い求めていました。私たち以前に生まれた戦中派の人はサツマイモの茎やスイトンなどを食べたのですから贅沢は言えませんが、今考えると何と他愛のないことでしょう。高度成長によって昭和30年代には質素なこんな暮らしも次第に姿を消しましたが、トウモロコシやヒエや粟、ソバ、タカキビなどの雑穀を正月用の餅として食べたのも懐かしい思い出です。

 余談ですがサツマイモと煮干しいわしを交互に食べるのは意外と相性がよく、盛んに食べたものです。サツマイモのおならもしょっちゅうでした。

  「芋と麦 これが主食の 貧しき日 それでもみんな 幸せ日々を」

  「芋背負い 歩いた山坂 懐かしい 草に埋もれて 今は通れず」

  「芋を食い 麦を食っても 母思う 今は芋麦 健康食品」

  「芋背負い 転んだ傷跡 見る度に ヨモギ揉み込み 医者へも行かず」 


 

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shin-1さんの日記

○個人情報

 個人情報保護法という法律が出来てから色々と面倒なことが多くなりました。特に役所のガードが固くなり、余程のことがないと個人の情報は取れなくなってきました。私は昭和19年生まれですが、2年前還暦の同級会をしようと地元に残っている何人かが名簿の作成を始めました。役所にいる私にその名簿の作成の役割が割り当てられましたが、役所にいるが故にその名簿を調べることも取り出すことも出来ないのです。困ったので母校の中学校へ卒業生名簿をお願いしたのですが、これも個人情報保護法を理由に断られました。仕方がないので20年も前に同級会をした時の古い名簿を頼りに芋蔓を伝うが如き調査を始め、やっとその名簿を完成させたのです。私たちの同級生は田舎ゆえ2クラスで、苦労しても何とか名簿が出来ましたが、次の組も次の組も同じような苦労をしていました。同級会以外に使わないからと幾ら校長に伝えても、「あなたが教育長でも個人情報マニュアルに違反することは出来ません」と突っぱねられました。この校長は立派だと思いました。一つたがを外すと全てがただの板に帰るからです。でも教育長を辞めた今は「地元の同級会くらいに便宜を図るくらいはいいのではないか」と、個人的には思っています。先日も来年正月に同級会をしようとしている方から電話があり「学校も役場も教えてくれない。あなたの力で何とか」と言われましたが、丁重にお断りをしたした次第です。

 最近は家の表札が消え始めました。これも世の中の流れでしょうか、地元の区長を今年の春まで2年間やっていましたが、知っているようで知らないもので、広報を配布するためや色々な調査のために300戸の町内を歩くのですが、表札も郵便受けにも名前がなく、ましてや電話番号簿にさえ登録していないので電話も出来ず困り果てたケースがいっぱいありました。もし今日突然地震があって家が倒壊したら安否はどうするのだろうと、区長としての責任にビクビクしたものでした。そんなことがないように市役所から自主防災組織を作るよう圧力がかかるのですが、役所からは個人情報をタテに寝たきりや一人暮らしの人の情報は得られないのです。都会ではこうした時代を背景に「個人情報より人間の安全」をテーマにした取組が始まっていますが、田舎の役所はそんなところまではまだ進んでいないのが実情です。

 敬老会のシーズンがやって来ました。敬老会を開く場合には市役所から補助金が出ます。そのため準備をしようとするのですが、対象となる高齢者の名簿は75歳以上でいただきますが、私たちの地区では慣例として70歳からを対象としています。そのため70歳から74歳までの名簿が欲しいのですが、残念ながらその名簿は役所も出しませんから、組長さんに文句を言われながら調査するしかないのです。それも仕事だからと割り切れぬ気持ちで取り組みました。

 一事が万事世の中は個人情報という言葉が独り歩きし、情報漏れの責任の追及から逃れるために関係する人々はガードを固くしています。でも少し変だと思います。学校の子供が体操服にゼッケンをと名前を大書しているのは常識の世界でした。ところがつい最近になってPTAではこれが問題となり、子どものゼッケンも個人情報という名の元に消え始めました。またPTA会員名簿もご法度となって消えつつあります。その一方で「若松進一」をヤフーで検索すると何と1000件を越える情報が乱れ飛んでいます。個人情報はどうなっているのでしょう。まるで迷路に入ったようです。

 「情に竿さしゃ流される、とかくこの世は住みにくい」は夏目漱石の草枕の一説です。とかくこの世は住みにくいですね。

  「名前消し ひっそり生きる 人ありて そのくせサービス 悪いと文句」

  「還暦の 同窓会を する人の 苦労ありあり 名簿もらえず」

  「まず人の 安全第一 考える 防災組織 名簿必要」

  「PTA 何でも反対 ゼッケンを 体操服から 剥がし持ち去る」


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shin-1さんの日記

○和歌山を旅する

 和歌山県宅建協会の招きで和歌山県へ行きました。私たち四国に住む人間にとって和歌山は紀淡海峡を挟んだ隣県なのですが、広島や岡山と同じように狭いといいながらも海を挟んでいるため、対岸の徳島県を除けば近くて遠い県で、四国八十八ヵ所参りを終えて高野山のお礼参りでもなければそれこそ遠い県なのです。私は仕事でちょくちょく和歌山県へ行っていますし、弟嫁が和歌山県の古座出身だしそれにまつわる親類縁者が田辺などにいて結構知っているつもりです。行く度に大阪から県庁所在地の和歌山市は近いもののさすが新宮となると本州最南端で遠い感じがします。

 今回の研修会は午後1時30分開会でしたが、和歌山県には苦い思い出があるので早々と到着しました。それというのはもう10年も前のこと、早朝わが家へ一本の電話がかかってきました。「若松さんあなたどうして家にいるんですか?」、「家にいたら悪いのか?」くらいな軽い気持ちで電話に出ました。ところがその相手の電話ではたと気がついたのは私はこの日和歌山県で講演を引き受けていたのでした。すっかり忘れていて、「もうこれからだと間に合わないので」とお断りするのですが、相手も500人も集めているため安易に引き下がることが出来ず、一色触発の感じになり、「とにかく直ぐに何かの便で出発してください」という事になりました。早速飛行場へ電話しましたがあいにく全席満席とのことでした。仕方がないので電話を切ろうとした時、「お客様、ただ今一席だけキャンセルが出ました。1時間以内に空港カウンターまで来れますか」というのです。私ははやる気持ちを抑えながら妻に頼み込んで同乗させ、私が運転して松山空港まで車をフルスピードで走らせました。空港へ着いたのは出発5分前でした。あらかじめ連絡をしえいたので出発を待っていてもらい搭乗手続きを済ませ、滑り込みセーフです。既に和歌山の相手には伊丹飛行場まで迎えに来てもらっていたので、そこから会場まで高速道路をひた走り、その会場に着いたのは何と講演開始時間5分前でした。私は何事もなかったように90分の講演を終え再び同じルートを帰ったのでした。その時の事を思うと今でも鳥肌が断つような心境で、いつまでも忘れることの出来ない思い出なのです。

 今回の研修を企画してもらった佐藤さんと武田さんにお願いして時間があるので和歌山城を見学する事になりました。城門の入り口で車を下車し、1時間後に迎えに来るという約束で久しぶりに和歌山城を一人散策しました。お昼前といいながら外の温度は30度を超えており汗ダクダクでした。


 いやあ、それにしてもいいお城ですね。喧騒な大阪の街中を電車でやって来ただけに、静けさや夏の空に浮かぶ歴史の古い建築物は何ともいえない、さすが徳川御三家紀州といわれる重みを感じました。本丸からの眺めも最高で吹き渡る風も心地よく、夏には夏の風情があるものです。遠路の長旅を忘れさせてくれたのが昼食会場となったホテルからの眺めです。昼食を食べながらこれまた遠望を楽しませてもらいました。

 講演会場には顔見知りの眞野賢司さんも見えられていて旧交を温めることが出来ました。少し立派過ぎるほどの会場での講演会でしたが、たっぷり2時間を予定していただいていたので、思いを込めて話させてもらい紀州路快速で再び大阪梅田に到着、友人と晩飯を食いながらそこら辺を散歩しました。大阪は近づく世界陸上大会の上げ潮ムードが漂っていて、梅田芸術劇場周辺では綺麗なイルミネーションが街ゆく人を優しく包んでいました。

  「何年も 前の悪夢を 思い出し 少し早めの 駅に降り立つ」

  「和歌山の 城を汗かき 上り行く 夏風涼し 遠望開け」

  「今何処か 妻から携帯 お城だと 羨ましいと 電話の向こうで」

  「吉宗の ゆかりお城で 今思う 時代変れど 改革進まず」

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