shin-1さんの日記

○ウィキペディアで私の紹介が・・・・

 何年か前までは、分からないことの調べ物は広辞苑やイミダスといった分厚い辞書を捲っていました。特に英語の苦手な私にとって、まちづくりの研修会などで度々出てくる横文字言葉は難解で、メモ帳と首っ丈で勉強したものです。ところが数年前からその暮らしは一変しました。パソコンのインターネットで調べることを覚えたのです。これはこれまでのどの書物よりも優れもので、調べてい琴が瞬時に詳しく出てくるのです。しかもそれはプリンターで印刷も出来るのですから、これほど便利なものはないのです。私はこの一年かつて世話になった広辞苑もイミダスも殆ど開いていないのですから、凄い変化なのです。

 インターネットという優れものの道具は、私が毎日書く文章もブログサイトを使って広く外に配信されるばかりでなく、それらの文章を一字一句間違わずに記憶収納しているし、予備だ外思えば瞬時に5年前のものでも検索が可能なのですから、驚きという他ないのです。

 もっと凄いことは、たとえば「若松進一」で検索すると、私に関する情報がこれまた瞬時に呼び出されるのです。個人情報などとかたくなに拒んだところで、それはどうすることも出来ず、勝手に回線を通じて世界に発信され続けているのです。言論統制の厳しい中国ならいざ知らず、少なくとも情報に関して殆ど自由な日本に生きていると、むしろ守りより攻めに徹して情報発信した方が得策かも知れないのです。しかし一歩間違うと大変な事件に巻き込まれる可能性も多分にあるので、世の中のルールは守らねばと思うこのごろです。

 誰がどう情報を入力するのか分かりませんが、ヤフーやグーグルで検索すると、若松進一はウィキペディア(オープンコンテントの百科事典)で紹介されているようです。先日友人からのメールでそのことを知ったのですが、私のような田舎に住む無官な名もなき男が何故ウィキペディアに載るのかも分からないのです。

 私は頼まれて全国各地へ講演に出かけますが、その都度私のプロフィールを送らなければなりません。一昔前はFAXで送っていましたが、今はメールが殆どになりました。また講演資料に私の紹介を載せる場合はヤフーやグーグルで検索したものを適当に見繕い、プリントアウトして参加者に配っているようです。

 本を買わなくても新刊本が画面で読めるような電子書籍の時代がやって来ました。これまで生き習ってきたことがどんどん否定されるような時代になりつつありますが、少しでも学習をして少しばかり進化して、世の中の流れに棹差して生きて行きたいと思う今日この頃です。


  「えっ俺の 名前が何と ウィキペディア 検索すると 出てき驚く」

  「広辞苑 イミダスなどは 過去書物 今じゃ流行 インターネットで」

  「俺さえも 活字離れが 酷くなる ましてペンなど 持たない日々が」

  「パソコンは 情報処理が 進化する 文字は退化の 一途を辿る」 

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shin-1さんの日記

○一字違いの大間違い

 地域づくりの現場では一字違いの大間違いが時々あります。まちづくりは人づくりとよくいわれますが、「人材」という言葉もよく使われるものの、パソコンで「じんざい」を入力すると、「人材」「人財」「人在」など様々な言葉が出てきます。中でも変換ミスともとれる「人罪」という言葉は、「人材」や「人財」と思っていても、手を引っ張りどころか人の足を引っ張る「人罪」だったりすることがよくあるのです。これはまさに一字違いの大間違いだと思うのです。これと同じような言葉に「若者」と「馬鹿者」があります。「わ」と「ば」だけの違いなのですが、今の若者はどちらかというと清新ではつらつとした活力に欠け、若年寄的な感じがする若者も多いようです。


 私の友人で広島三次市に住んで地域づくりをやっている和田芳治さんはこの一字違いを活用した言葉遊びをやっていて、面白い造語を次々と作り楽しんでいます。「市民」を「志民」と表現している言葉は、単なる言葉遊びではなく、参画と共同の社会では志ある市民こそ本当の市民だと思うのです。

 先日私の出版した「夕日徒然草・火の書」の表紙を見て、ある友人から電話がかかってきました。「表紙の落伍家『夕日亭大根心』高座本とある落伍家は落語家の間違いではありませんか?」というのです。私が落語と落伍の違いをお話して納得してもらいましたが、やはり一時違いは気になったようです。

 3日前講演で高知県に行きました。高知県は珊瑚の産地で、観光地と名の付くところには珊瑚のアクセサリーがショーケースに入れられて販売していました。買う気もなかったので何気なく陳列ケースの中を覗き込み、薄くなった目を細くして、いち、じゅう、ひゃく、せん、まんとゼロの数を数えてため息をついていました。

 都会から来たとおぼしき若い女の子が店員さんに、「これ下さい」と店員を呼んでいました。店員さんはショーケースから取り出した8万円の珊瑚のブローチを丁寧にラッピングして、「お代は8万円と消費税で8万4千円です」というと、若い女の子は急に青ざめて、「すみません。8千円とばかり思っていました。ゼロを一つ間違えたようです」と顔を真っ赤にして平謝りしていました。

 一字違い、一桁違いはよくある話です。総会などで予算書や決算書の数字を桁を違えて読み間違えたり、文字を言葉にする読み間違えも沢山あります。その度にその人の知識の度合いや値打ちのようなものを感じたりするのです。

 間違いは誰にでもあることだし、間違いは素直に認めて訂正することが肝要です。和田さんや私のようにあえて間違わせて考えさせる手法は、下手をすると見くびられることにもなりかねませんが、まあ言葉遊びのつもりでコンセンサスならぬ「混戦さす」ことも面白いと思うのですが・・・・。


  「人材と 人罪違う  足だけは 引っ張らぬよう したいものです」

  「ゼロ一つ 省略すれば 安いもの 売り手と買い手 微妙な差あり」

  「これからはただの市民じゃ もの足らぬ 志民になって 町を引っ張る」

  「若者も 暴走すれば 馬鹿者に なるのですから 気をつけましょう」

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