shin-1さんの日記

○5、十有五にして学に志す

若松進一ブログ


 今朝の論語日めくりの言葉は、「十有五而志干学(為政第二)」です。この言葉も日本では随分馴染みなようで、浅学な私さえも知っているのです。意味は孔子が「私は十五歳の時に生涯にわたり学問することを決めた」で生涯学習の目覚めともとれる決意の言葉なのです。15歳といえば中学生くらいの年齢ですが、私もこの年齢頃に学を志し、宇和島へ三年間遊学の旅に出かけました。初めて親元を離れた城下町宇和島での暮らしは、双海町下灘しか知らなかった私には大きな異文化ギャップでした。そしてもっと驚いたのは宇和島水産高校の練習船えひめ丸での船旅でした。地球が丸いと実感した価値観の変化は私のその後の人生に大きな影響を与えたのです。十五歳前後の現代の日本の子どもはまだ親の比翼の中に生きています。しかしその時期だからこそ学ばさせなければならないこともあるのです。

 今朝、たまたま夏休みでわが家に泊まりに来ている小学2年生の孫朋樹に、論語日めくりを見せながら話をしてやりました。まだ孫には論語の意味がよく分からないようでしたが、「門前の小僧習わぬ経を読む」の例えのように、「十有五にして学に志す」を10回復唱させ、正座をさせて言わせると、孫はしっかりと中暗記をして言えるまでになりました。

 夏休みに2~3度わが家にやってkるものと思われますが、論語を2つでも3つでも覚えさせたいと思っています。果たして上手くいくかどうか・・・・・。

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(え~、「十有五にして学に志す」と暗唱できるようになった孫朋樹)


 この言葉は「三十にして惑わず」と後の言葉が続きます。孔子は30歳で自立したと伝えられていますが、現代の若者たちは24~25歳で大学を卒業して社会人になるものの自立にはほど遠く、孔子が自立した30歳を越えないと本当の自立はないのかも知れません。

 昔の人の寿命はたかだか50年でした。30歳で自立しても、20年の余命しかありませんでした。今は80歳から90歳まで生きる時代なので、30歳を超えて自立しても十分生きる時間はあるのです。でも実労の期間は今も昔もそんなに変わらないのですから、学に志してしっかりと生きて行かなければなりません。

 今朝もいい言葉に出会いました。孫を松山の家まで送って行く車の中で「十有五にして学に志す」という言葉を何回も何回も復唱したお陰で、孫朋樹は「十有五にして学に志す」という言葉を覚えたようです。


  「論語読み 論語知らずと 言われても 論語言えれる 子どもになれと」

  「十有五 同じ言葉を 何回も 言ったお陰で 孫が論語を」

  「平凡な 子でもいいから 心根の 優しい人に 育って欲しい」

  「論語から 学ぶことあり 俺たちは 学ばなかった 仁智低くて」


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shin-1さんの日記

○忘れられない懐かしい思い出の一こま写真

 昨日講演のため訪れた高知県大月町の講演会場に、珍しい人が訪ねて来られました。そのご夫妻の顔はしっかりと覚えているのですが、突然控え室へ来られたため最初は「えっ、誰だったかしら」と顔と名前が一致しませんでした。自分の頭脳のカンピューターをフル回転させて巻き戻し、その人が大月町道の駅の役場産業課担当者である山本さんだということまで記憶を戻すことが出来てホッとしました。

 山本さんの奥さんは今年9つの小学校が統合して出来た大月小学校に勤めている学校の先生です。講演前の短い時間だったので、立ち話のような形で矢継ぎ早な質問をお互いにかけあいました。聞けばこの日の講演会のニュースを学校に勤務している奥さんが知り、嬉しいことに二人で講演を聴きにくれたのです。


 講演会場にお二人の姿を確認しながら90分ばかりお話をさせてもらいましたが、講演が終わると直ぐに妻と孫が待っている駐車場に移動して会場を後にしましたが、山本さんからいただいたA42枚の写真を見ながら当時を懐かしみました。

 自宅に帰ってから書斎の引き出しにしまってある過去の予定表を取り出し捲って見ました。2007年6月23日・24日の欄に確かに大月町役場職員組合講演会と書いていました。そしてさらに自分のパソコンでこの日のブログを呼び出すと、その日の模様がかなり詳しくルポしていました。残念ながらデジカメは初期の段階だったのか、山本さん宅に泊めてもらった写真や柏島周辺を散策した写真は記録されていませんでした。おいおい保存している写真データーを読み出せばいいのですが、その時間的余裕もないので、山本さんからいただいた写真を紹介しておこうとスキャナーで取り込みました。

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(2007年6月24日の早朝、山本さん宅の前の庭で山本さん親子と私)

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(素敵な奥さんとも)

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(お母さんに手持ちのハーモニカを吹いて宿代にしました)

 写真の中に上の珍しい写真を見つけました。山本さんのお母さんの前で私が手持ちのハーモニカを恥かしいながら吹いているのです。山本さんのお母さんは私のハーモニカを聞きながら拍手をしてくれました。曲は夕焼けこやけと赤とんぼ、それにみかんの花咲く丘の3曲だったようでした。

 聞けばお母さんも何とか元気なご様子で、いつの日かまたお母さんの前で少しは上達したハーモニカを吹いてあげたいとも思いました。

 人の記憶はあいまいです。昨日のことさえ忘れるようなこの歳になると、3年も前の出来事など記憶の隅に追いやられるものなのでしょうが、山本さんご夫妻が記憶と記録していた写真、それに私の記憶と記録が幸運にも残っていたため記憶は蘇ったのです。民俗学者宮本常一が言っている「記録しないものは記憶されない」とはこのことかも知れません。2010年8月1日のこの記録も、早起きしてブログに書いただけですが記録することによって記憶されることでしょう。


  「久しぶり いきなり楽屋 訪ね来る ご夫妻の顔 思い出しつつ」

  「懐かしき 写真手土産 いただいて ありあり浮かぶ 三年も前」

  「ハーモニカ 吹いて聞かせる したたかさ どんな顔して 吹いたのだろう」

  「握手して 再会約し 分かれたり 手の温もりを 今も感じて」

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