shin-1さんの日記

〇元気に草を引いてくれる親父

 毎日自宅にいる91歳の親父は、日が昇ると起き、日が沈むと寝るといった極めて健康的な日課で過ごしています。午前中は家の敷地内にある畑に出て、せっせと畑仕事をしています。本来なら年齢的にもリタイアした私がその役目を負わねばならないのでしょうが、幸せなことに親父は歳の割には元気で、私の代役をこなしてくれているのです。

 わが家の畑は1反以上あるので、草を生やさないようにしようと思えばそれはもう大変で、庭木の剪定や雑草取りをを加えると年中休みなく働かないといけないのです。今年のように春からよく雨が降ると草は伸び放題になるのですが、たまに来た人が褒めるぐらい、庭も畑も草取りがほぼ完璧に行われているのです。お陰で親父はかなり日焼けして、外目には元気そうに見えるのです。

若松進一ブログ
(庭の草を引く親父は今年も何とか元気に春を迎えました)

 ところがやはり歳のせいでしょうか、最近脛や腰の具合が思わしくないと言い出しました。農作業も草引きも中腰や河岸での仕事が多いため、その労働が堪えたのかも知れません。幸い歩いて5分ほどの近くに「たけます医院」が昨年開業したため、時々通っているようですが、肌に合わぬのか7キロ向うの下灘診療所へ今でも自転車で通っているのです。

 親父の話なので定かではありませんが、親父の本当の年齢はもぅ二つ上のようなのです。聞けば親父は生まれて2年ぐらいして籍を入れたようです。昔はよくある話で乳幼児の死亡率が高かったため、丈夫に育つようになって籍を入れることがよくあったようです。しかしDNA鑑定でも難しい年齢ゆえにそのことは定かではありませんが、亡くなった祖母も同じよう案ことを言っていたことを記憶しています。


 私の知人や友人も私と同じように、実年熟年となって親の面倒を見ていますが、老々介護という言葉があるように、老人がもうひとつ上の老人の介護をしなければならない時代を迎えています。そしてお互いが痴呆になると介護の悩みは深くなり、特別擁護老人ホームなども満杯で行き場のない老人が増えていることをよく耳にするようになりました。

 これまで艱難辛苦に耐えて生きてきた親ですから、これからも大切に守ってやりたいと思っています。昨日も親父より若い老人が亡くなり、そのことを聞いた親父は少し落胆したようで、「いよいよわしの番がきた」などと弱気な発言をしていました。老いは悲しむものでなくむしろ喜べ」なんて言葉をかけましたが、いずれ私も行く道、厳しいですねえ。


  「来た道も 坂道だらけ 回り道 行く道厳し 親父見予感」

  「俺にでも 出来るだろうか 家周り 掃除重ねて 喜ぶ人に」

  「腰や脛 痛いと嘆く 親父だが 何とか今も 元気に暮らす」

  「本当は 二つ歳足す 年齢と 言ってはいるが 分からぬままに」


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shin-1さんの日記

〇行き場を失ったブーメランテーブル

 平成元年と記憶しているのでもう20年も前の出来事です。今から29年前の昭和56年に結成した21世紀えひめニューフロンティアグループでは、無人島に挑む少年のつどいやセスナ機をチャーターしてふるさとを空から見る運動を華々しくやっていました。その活動のつれづれに討論激論をやっていましたが、もっと素敵な会議は出来ないものかと思案した挙句、組み立て自由自在なテーブルの製作を思いつきました。早速国内の有名な家具メーカー、事務機器メーカーに公開質問状を出しました。早速何社かから企画書が送られてきたものの、当時のお金で制作費は2百万円もするというのです。そんな余力のない私たちは提案してくれたメーカの了解を取り付け、自分たちで製作することになりました。

 幸いメンバーに大工をしている日浅さんがいるので、小柱を沢山使い集成財のように繋ぎ合わせて、とんでもない大きさのテーブルを四つ造りました。想像以上の出来栄えは当時新聞にも載りましたが、会議の度にこのテーブルは出張を重ねました。南吉田公民館、文教会館などで使った懐かしい思い出がありますが、その後このテーブルは平成3年から始まった10年で40回開いたフロンティア塾の占有物として、地道な活動の一助となりました。

 フロンティア塾が平成13年、永六輔さんを呼んでフィナーレとなって暫くは、フロンティア塾のために借りていた双海町東越の廃屋で眠っていましたが、廃屋が身売りされたため止む無く内子の大野産の癒えに間借りを経て、大洲の佐々木さんの倉庫に移動し最近まで保管されていました。

 倉庫を占有し続けたテーブルは行き場を失い、結局は製作に携わった日浅棟梁の元へ払い下げと相成ったのです。年輪塾を開いた先日メンバーの佐々木さん、湯山さんを伴って日浅棟梁は佐々木さんの自宅までトラックで積みに行き、慰安張りへの道中途中に人間牧場へ立ち寄ってくれました。二つは日浅さんが持ち帰り、途中でつなぎの一個を私と相談の上わが家へ降ろして帰ったのです。

 はてさてわが家の玄関横にでんと置かれたこのテーブルの残骸を私はどう使うか、ただ今のところ思案の最中なのです。


若松進一ブログ

 これまで若気の至りで前後の見境もなく考えずに、ただただ走り続けてきた私たちのグループですが、ここにきて後始末の大切さを嫌というほど実感した次第です。人間牧場でも私設公民館煙会所でも使うことは出来るのですが、その保存となると「千日持って一日の用をなす」ようなものは中々持ち堪えられないようです。

 ふと昔のことを思い出し、結成20周年を記念して私が執筆した「今やれる青春」という本を書棚から取り出して中を捲って見ました。フロンティア塾の記録には県内外から集まった多くの若者がブーメランテーブルを囲んで写真に納まっていました。

 ブーメランは「元の場所に戻る」という意味もあります。もう一度そのことを考え年輪塾に引き継がれている精神をしっかりと考えて見たいと思っています。


  「見境も なしに走った 三十年 テーブル行き場 なくして帰る」

  「結局は その名の通り ブーメラン 手元に戻り 次の出番を」

  「記念誌の そこここ見える 懐かしさ 彼ら今頃 どうしているか」

  「幾つかの 案が頭を 過ぎってる 早速行動 善は急げだ」 

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