shin-1さんの日記

○一年の終わりに思う

 師走という年末の慌ただしさに輪をかけて、80歳の叔父が急逝してしまい、年末だというのに昨日は葬儀で一日を過ごしました。前日の夕方入院先の日赤病院で亡くなった叔父はわが家の近くの自宅へ午後8時ころに死んで帰って来ました。31日大晦日が友引、明くる日が元旦という事情もあって、急遽相談がまとまり夜遅くから通夜、明くる日の昨日午後3時30分から月心会館で葬儀という慌ただしさです。ゆえにお骨を拾い大平の聖浄苑を出たのは夜7時です。あいにく天気は雨が降る荒れ模様で、沈んだ気持ちに拍車をかけました。

 49日の仮法要を済ませて月心快感を出たのは9時を過ぎていて、前日の通夜の疲れも加わって親類の人たちもみんなクタクタでした。

 叔父は町の消防団長を勤めていたためその功績が認められて生存者叙勲を受けています。葬儀式場の前にはその勲記が飾られていましたが、一際目立ったのはその勲記ではなく奥さんである叔母が綴った闘病生活の日記でした。叔母は学歴もない人間ですが、母親の影響を受けているからか自筆で日記を書いているのです。決して上手とは言えない字ですが、切々と綴られた日記は涙を誘いました。そして葬儀の最後に死んだ夫に宛てた手紙が司会者によって朗読されました。私も仕事がら色々な葬儀に行きますが、死んだ夫への手紙を紹介する様子など見たことも聞いたこともなかったので驚きました。

 故人をしのんで弔辞を言うのもいいものですが、夫への手紙はさすがだと感心させられました。親子であれ夫婦であれ、親類であれ他人であれ人の死は悲しいものです。ましてや長年連れ添った夫婦の別れは押して測るべき悲しいものです。突如としてやって来る悲しい連れ添いの死に狼狽するのは当り前でしょうが、気丈にも夫への手紙を何時用意していたのか、今更ながらに驚かされるのです。

 叔父の体は荼毘にふされ、遺骨だけを残してこの地球上から消えました。栄光とも言える勲記章も、思い出の残る部屋の壁に飾られるのみとなりましたが、叔父の思い出は闘病生活が長かっただけに一入で、叔母の心の中に長く残ることでしょう。勿論身近な私たち親族の心の中にも生き続け、一周忌、三回忌、七回忌、十五回忌などの節目節目の法要で、薄れゆく記憶を呼びも出させてくれるに違いありません。

 八十年で人生を終えた叔父の死を思いながら人生を考えました。人間たかだか80年、考えてみれば短いものです。もし私が叔父の年齢まで生きると仮定すると、後15年しか生きられないのです。うかうかできないし、さりとて急ぐこともなくこれからの余命を楽しく生きてゆきたいと思うのは当然かも知れません。

 今日は友引ゆえ葬儀もできず、急ぎ足で通夜と葬儀を行い今年のうちに終いをつけた叔父の、潔さに感服した一年の終わりでした。

  「一年の 終わり葬儀に なるなんて 慌ただしくも 今年が暮れる」

  「前と後 足して二で割る 割り切れぬ だから人生 人それぞれに」

  「名誉など あの世行くのに 要らぬもの ましてや金は 残すと揉める」

  「逝きし叔父 叔母から手紙 携えて 今頃何処を 歩いていてか」

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shin-1さんの日記

○私のプロフィール騒動

 「若松さんですか。あなたに講演依頼をしたいのですがプロフィールを送ってください」という電話やメールがよく届きます。忙しい時はそれどころではないので、「私のホームページを開いて適当に見てください」というのですが、そうもいくまいと簡単なプロフィールを作ってメールに添付して送るのです。

 ところが、少し難しい相手だと「若松さん、最終学歴は?」と再びの問い合わせがあるのですが、その都度私は「最終学歴を問われるような所へは行かないことにしていますのでお断りします」と答えるのです。相手は私の思わぬ反論にタジタジで、「そう言う訳で言ったのではありません。なくても結構です」と、あっさり引き下がるのですが、学歴で私の値打ちを判断されるとは情けないと思いつつ、学歴の浅さに自分自身も心のわだかまりがあるのかも知れないと、少しだけ学歴への抵抗を続ける自分を恥じるのです。でも私にとって「何処を出たか」など問題ではありません。大事なのは学歴ではなく学習歴だと今も学習歴に胸を張るのです。多分それは学歴のない親ながら「勉強は学校へ行かなくても何処ででもできる」と諭してくれた親父の言葉が後押ししてくれているように思うのです。

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 さて、このプロフィールを送ると相手は決まったように、「若松さんあなたの役職を何にしておきましょうか」と再び尋ね返されます。「お好きなものを適当に」と返すのですが、権威を欲しがる人は「元教育長」とか「愛媛大学非常勤講師」、無難なものを選ぶ人は「夕日のミュージアム名誉館長」、面白いですねという人は「人間牧場主、青少年関係では「21世紀えひめニューフロンティアグループ代表」、最近までは「えひめ地域づくり研究会議代表運営委員」などが圧倒的に多いようです。でも本当に使って欲しい肩書は「人間牧場主」なのですが、この肩書はまだまだ知名度が低いようなので、PRのためにミニチュアの電光掲示板をぶら下げて売り込みをしているところです。


 はてさて、人間の値打とは一体何でしょう。肩書が人の値打なら、リタイアして肩書のなくなった私は学歴とてないから、もう値打ちのない人間なのです。多分世の中の人々も私のことをそう思っているに違いありません。それは私の肩書がなくなって私の周りから去って行った人々からも容易に想像できるのです。でも肩書で人の値打や重さを推し量るような人は、こちらから願い下げだと胸を張ってこれからも生きてゆこうと思いました。


  「学歴を 書けという人 腹が立つ 俺の値打を それで測るか」

  「学歴で 人の値打を 量る人 そんなことでは 通用しない」

  「肩書を さて何にする 聞かれるが どれでも好きに 使ってくれと」

  「読んでみて 色々やった 過去のこと 思い出しつつ プロフィール送る」  

 

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○見方を変えれば

「世の中冷え込んじゃって」という言葉をよく耳にします。特に「合併してから町が死んだようになってしまった」という言葉もよく耳にするのです。確かに料飲業会などはかつて年末年始になると、忘年会や新年会で連日賑わっていたものですが、そのお店も電気が消えしまったような寂しさを感じるのです。

 でも別な見方をすると、児童数30人足らずの翠小学校は環境省のエコ改修の指定を受けて、立派に改修工事が進んでいますし、来春下灘中学校が統合する上灘中学校は本校校舎が耐震基準に満たないため、取り壊されて立派な本館工事が行われようとしていますし、近年院長さんの死で廃業していた梶原医院に変わってたけます医院が近所に開業し、その横には薬局までできるともっぱらのうわさで、その工事も始まっているようです。

 また旧双海町役場は2階・3階を中心に改修工事が行われて旧双海町議会議場だった部屋は、狭いながら文化ホールに生まれ変わっているのです。これら全てが合併による効果だとは思いませんが、見方によっては合併効果だと思うのです。

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(上灘中学校本館の取り壊し工事風景、右は給食センター)

 昨日は穏やかな日だったので、共栄網の加工場の写真を撮る前、わが家の裏山に登り農道を歩いて上灘中学校が一望できると思しき場所へ出かけました。ところがこの4~5年その場所に行かなかったため、いつの間にか雑木雑草が生い茂る、全景を撮影することができませんでした。それでも雑木雑草をかき分けどうにか上灘中学校の本館取り壊し工事風景と、運動場を仕切ってプレハブに移動した職員室棟を、やっとの思いで撮影することが出来たのです。向こうに見える夕日に輝く山は本尊山ですが、先日来吹き荒れた北西の季節風で、クヌギやハゼはすっかり葉を落としていました。

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(統合中学校の建設に向けて、職員室棟はプレハブに移動しています)

 このように槌音も力強く感じる学校がある一方で、わが母校である下灘中学校は今年度を最後に生徒数の減少で戦後以来の長い歴史に幕を閉じようとしているのです。学校はその地域のシンボルです。学校がなくなれば地域が疲弊することは目に見えています。でも肝心の子どもの数が少子化の影響でどんどん減り続けている現状では、学校を守り存続させることは出来ないのかも知れません。

 学力や部活を重んじる中学校の統合は仕方のないことですが、せめて小学校は何としても守らなければならないと思うのですが、はてさてどういう方向へ向かうのでしょうか。

 今日の昼ころテレビを見ていたら、瀬戸内海に浮かぶ自動数たったひとりの小学校が紹介されていました。野球をやりたいという児童一人の夢を実現させるために地域の人が協力して実現させたほほえましい物語でしたが、私の持論である小学校は歩いていける距離をモットーにするなら、わが町の小学校はまだまだ余裕のある児童数なのだと意を強くしました。子どもな数が少ないと競争心が出来ないとかいわれますが、競争することよりも地域や自然と共生しながら、豊かな人間性を培う方がもっと大事なような気がするのです。

 みんなで協力して学校を守りたいものです。


 あの放送番組では出演者も番組制作者も気づいていませんでしたが、実はあの学校にはもう一人児童がいたのです。番組の映像にちらりと出ていた二宮金次郎の銅像です。多分金次郎を加えるとこの小さな学校は児童数2名なのです。わが町の二宮金次郎の銅像は運動会にあると必ず頭にハチマキをしてプラス1として参加しているのですから・・・・。

 

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○昨日の夕暮れは何処か寂しい気がしました

 昨日は夕方、久しぶりに家の周辺を散歩しました。家の近くを上灘川が流れていますが、久しぶりに見る上灘川も冬の到来で寒々としていました。川面のあちこちではサギやアイガモなどの水鳥がゆっくりと羽を休めていましたが、深みのあるところには放流した鯉が住み着いて、前よりは随分大きく育っていました。

 急な石段を登り氏神様である天一稲荷神社にお参りしました。私が区長していた折改築を終えた拝殿、社殿、本殿の屋根の銅板葺き屋根の色も見事に緑青が吹いて見違えるように自然にマッチしていました。

 天一神社の裏道を通って鉄道線路に出ました。先ほど上りの列車が通過したことを確認していたので、線路沿いに少し歩きました。城の下に建設が進められている共栄網の加工場の写真を撮るためです。線路はグリ石が敷き詰められていて歩きにくく、それでも足早に歩いて加工場が一望できる場所まで到達することができました。直立護岸の下には民家があって、私の存在に気付いた飼い犬が盛んに吠えていました。

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 旧加工場を取り壊している間に写真に収めようと思いつつその思いも叶わなかったため、多少悔いが残っていますが、建築風景を見てその規模の大きさに驚きました。役場に勤めていた若いころ加工場は私の守備範囲だったこともあり、またその後加工場の改修に向けた検討委員会の委員長もしたこともあるので、私にとっては馴染みの施設だし、何かにつけてその動向を見守っているのですが、この加工場が右肩下がりのわが町水産業界の切り札になって欲しいと心から願っています。

 やがて師走の太陽は西に傾きかけたので、足早に元来た道を引き返しました。予讃線海岸周りの二本のレールに西日の光が鈍く輝いていたのが印象的でした。ついでに上灘川に架かった長い鉄橋近くまで足を延ばして、鉄橋を入れた夕景写真を一枚撮りました。

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 合併して双海町という行政区域がなくなり伊予市になってから早いもので5年近くが経ちました。季節の移ろいは今も昔も変わらないのに、何故か見える風景は自分の心がそうするのでしょうか、一抹の寂しさを醸して見えました。合併前まで活気のあった役場庁舎も、灘町商店街も、また鉄橋の直ぐ下に住んでいた旧双海町時代の丸山町長さんも少し前事故で亡くなり、双海町という名のものが少しずつ消え失せようとしているのです。

 後二日もすれば新しい年を迎えるというのに、叔父が急逝いしたという知らせを少し前聞いていたため、わが心はどこか寒々とした風が吹いているようでした。

 私が愛した夕日に敬虔な祈りをささげて、ズボンのポケットで鳴る携帯電話の妻からの呼び出し音にふと我に帰り、師走の川沿いの道を夕日に押されてわが家へと急ぎました。


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○叔父の死

 今日は朝から嫌な予感が的中し、6年間特老施設で半植物人間になっていた叔父が午後4時ごろ亡くなりました。左官業を営んでいた叔父は現場で倒れ、入院して一時は回復したかに見えましたが、その後徐々に病状が悪化、口から食べ物が入らない状態で発病以来6年間も生きてきたのです。10日ほど前に肺炎をになり日赤に入院していましたが、ついに力尽きて天国へ召されました。

 正月が近いこともあり、また31日が友引ということもあって、慌ただしく今晩通夜を行い、11時30分に自宅へ帰って来ましたが、80歳の往生とは言いながら叔父の死はやはり辛くて、落胆した叔母の姿を見ていると思わず貰い泣きをしてしまいました。

 明日は午後2時から納棺、午後3時30分から葬儀の予定が急遽入ったので、今晩はこのくらいに留めて風呂に入って寝ます。お休みなさい。

 眠い目をこすりながら、こう書き残して眠ってしまいました。しかし深い眠りは束の間で、やはり毎日の繰り返しは偉いもので、午前4時に目が覚めてしまいました。叔父の死の知らせを受けて、親類縁者に電話をかけて葬儀の日時を知らせたり慌ただしく過ごしました。お目出度は呼ばれなければ行きませんが、お悔やみは呼ばれなくても出かけなければならず、抜かっていまいか気をもみながら連絡しました。叔父の妻、つまり叔母は私の親父の妹です。親父は12人兄弟の長男で跡を継で入るのでいわゆる3代目の本家です。親父は91歳の高齢になっているので、4代目の私たち夫婦が親父に代わって何かと取り仕切らなければならないのです。

 おやじの兄弟も戦災で焼け死んだ2人に加えて病気で亡くなった兄弟が3人いますが、一人だけ大阪に嫁いでいる以外は全て県内、しかも殆どが町内にいます。その残った7人も既に高齢化して一番下でも66歳なのです。

 夜など時々電話が遅くにかかると、「もしや」とドキリするんだと妻が述懐するように、これから先は兄弟姉妹もしくはその連れ添いが病に倒れる可能性は充分にあるのです。その最右翼はやはり何といっても親父です。親父は91歳になりながらも、未だに自転車で7キロ先の診療所へ毎週一回通う気丈さを見せていますが、最近は足や腰の不調を訴えるようになりました。私もできるだけ親父の話相手になってやろうと思ってはいるのですが、いかんせん年中忙しく振舞って思うようにはならないのです。

 死んだ叔父と納棺の前に対面させてやりましたが、涙を流して悲しんでいました。「いよいよわしの順番がきた」と悲しそうに語る親父の姿に、親類縁者も思わずもらい泣きをしました。


  「突然の 叔父の訃報に 涙する 親父の姿 憐れみ誘う」

  「正月や 友引気にし 右往左往 年内葬儀 決まってホッと」

  「あれこれと 心はやるや 年の暮れ 加えて葬儀 少しパニック」

  「こんな時 近くに兄弟 いればこそ あれやこれやと 相談しつつ」

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○今年も709本のブログ記事を書きました

 私のような凡人が、平凡なことでも毎日続けると非凡になることを実感するものにブログ記事があります。県外出張をして家を留守にする日を除けば殆ど毎日の朝夕、まるで病気に取りつかれたようにブログにはまり、書き続けてもう4年が過ぎました。今年もあと3日で鉛筆すす払いならぬブログすす払いを迎えますが、今年も実に多くの記事を書いたものだと、自分のブログの足跡であるLATEST ENNTRES及びARCHIVESの記録を見ながらその数に驚くのです。

 私の目標は毎日2本、毎月60本ですが、今年は県外出張が多かったためそのノルマを果たせなかった日も月もありました。でも集計すれば今年1年間に709本書いているのですからまだ3日残しているものの12ヶ月で割ると毎月59本ですから、ほぼノルマ達成です。

 私のブログを読むことを日課にしている人がいます。漏れ聞く話でダントツは大分県佐賀関の渡邊又計さんと高知県馬路村の木下彰二さんはまず間違いなく愛読者ナンバーワンなのです。木下さんは若いながら村役場の課長さんですが、村役場を訪ねた折私のブログ記事の要所要所をプリントアウトしているそうで、それを見せてもらい、自分でさえもプリントしていないのにと驚いたものでした。渡邊さんも旧佐賀関町役場に勤めていましたが退職して、今は社会福祉協議会の事務局長をしています。渡邊さんは木下さんと少し違ったことをやっていて、私のブログ記事の誤字脱字を丁寧に直し保管してくれているのです。今年の3月までのブログ記事全てをDVD1枚に収録して送ってくれる凝りようで、私にとっては何よりもあり難いプレゼントになり、私が生きている限り大切にしたい宝ものとしたいと思っているのです。

 今年も忙しくて5月まではプリントアウトしていたのですが、その後すっかり忘れていて、年末なのでこの際一気にプリントアウトしようと昨日始めました。ところがプリントアウトしようと思えば用紙とインクが不足して、伊予市内まで買い求めに出かけたり、まあ忙しい目をしました。

 1ヶ月をプリントアウトするのにだいたい1時間程度かかります。6月から7ヶ月ですから7時間もかかってしまい、最後は汗だくになりながらも綴じ穴を開け、100円ショップで買った表紙をつけて7冊が出来上がりました。

今年も精進努力の甲斐あって709本の記事を、12冊の私だけのささやかなオンリーワン本が、人間牧場の書棚に運ばれるのです。人から見れば何でそこまでこだわるのとか、馬鹿なことをと思われそうですが、田舎に生きるリタイアした人間でもこんな少しの輝きができることを証明できるのです。

 妻に何と言われようと、妻が起きる前の1時間、妻が寝てからの1時間は私の自由時間です。妻が寝ている間に書きあげたこのブログは、加齢とともにもの覚えや記憶が悪くなりつつある私のある意味での記憶を記録する作業なのです。


 「年を取ると一念が早いねえ」いう言葉をよく聞きますが、早い故に日々の出来事は記憶の彼方に消えて、過去の出来事ととなってしまうことだっていっぱいあるのです。

 来年もまた1年365日を記録することを目標にしながら生きてゆきたいと思います。

 リーダーの条件 ①人の真似のできないことを平気でやり続ける人(凡事でも徹底すれば非凡)

            ②人の考えつかないアイデアを実践に移す人(アイデアは思いつき実践なくば絵空事)

            ③夢を語り夢を実現させる人(夢はドリームではなくターゲット)

            ④生き方がぶれない人(失敗や反対を恐れない強い信念)

            ⑤目に見える成果を出す人(人は成果しか信用しない)

            ⑥人も仕事も集まって来る人(人でも仕事でも愛する所に集まって来る)

            ⑦恩を感じ恩を返す人

            ⑧感動する人

            ⑨向学心に富む人

            ⑩ごく普通の人間としてふるまえる人


  「七百九 気の遠くなるような 本数の ブログコツコツ したため貯める」

  「平凡な 事を蓄え 非凡する これしかできぬ 平凡男」

  「リーダーの 条件何かと 尋ねられ 思いつくまま 十ほど列挙」

  「一本に 約一時間 加えると 七百時間 よくもこんなに」

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shin-1さんの日記

○インターネットでチケット購入

 私は何故かカードが嫌いです。したがって自分名義の郵便局カードは作っているのですが、何故かカードで現金を引き出したことがないのです。故に恥ずかしながらカード万能な現代に生きていながらカードの使い方を全く知りないのです。

 そんな私が金融広報委員会から移植を受けて金融広報アドバイザーをしているのですから可笑しいといえば可笑しい話で、時々高校生の前で「カードは恐ろしい」という演題でお話をしているのです。

 そんな私もつい最近、どうしてもカードを使わなければならなくなってしまいました。高速道路1000円割引きの恩恵に浴するため、ETCをつけました。当然ETC専用のカードを作って差し込まないと作動しないのです。使ってみて率直な意見ですがこれは便利です。ETCをつけるまではインターの料金所で長い列を作ったり小銭を用意したりする手間が一変に省けると同時に、割引の恩恵を受けるのですからこれに越したことはありません。ただ自分の財布からお金が直接出ないため、自分の銀行ローンから自動的に引き落としされるため、お金を使った意識がないまま、貯金通帳の残高が減って行くので、注意をしておかなければなりません。

 実はこれまで講演などで飛行機を利用する場合、全て旅行代理店にお願いしてチケットを購入していました。「インターネットで購入したら」と娘が勧めてくれても聞く耳を貸しませんでした。所が来年といっても1月13日ですから2週間ほど後に三重県へ講演に出かけることが決まりました。土日や、年末の慌ただしさで旅行代理店へ行く間もなく、結局は以前北海道美幌町へ行った時、ボランティアガイドの会のの三浦さんがパスワードなどを入力して使えるようにしてくれていたのを思い出し、三浦さんが送ってくれたマニュアルを元に挑戦してみました。2~3度失敗をしましたが、どうにか予約を入れることができました。私にとってはインターネットで予約ができるなんて初めてのことなので、ついつい嬉しくなりました。

 しかし申し込みはあくまでも申し込みで、代金を支払わなければ予定日を過ぎれば取り消されてしまうのです。妻が持っている私名義のVISAカードの番号を入力するのですが、一向に購入ができないままなのです。ネットで買い物をする娘に電話をして、所要もあったので自宅まで押し掛けました。結局下3桁の番号入力が上手くいかないためのミスと分りました。

 今日は私が初めてインターネットで飛行機のチケットを購入した意義ある日でした。(笑われることを承知で書いたので笑わないでください)ところが手元にチケットがないため、どのようにして当日飛行機に乗ればいいのか、これまた困ってしまい娘婿に聞くと「マイレージカードを持参すればチケットがなくてもいとも簡単に搭乗手続きができる」のだそうです。

 すったもんだを言いながらまあ今も多少の不安はありますが、この歳になって情けない話しながら、やっとカード半人前の人間になりました。

 これまでどれ程飛行機に乗ったか知れないのに、マイレージカードによるマイレージも使ったことがないなんて、やはり私はデジタル人間には向かないアナログな人間のようです。(笑い)


  「この歳に なって初めて ネットにて チケット購入 話にならぬ」

  「マイレージ 貯まったけれど 使い方 分らず水に 流してしもた」

  「デジタルは 面倒臭いと 思ってた 電子決済 意外と便利」

  「この歳に なっても知らぬ ことばかり とてもじゃないが ついては行けぬ」

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shin-1さんの日記

○山草(やまくさ)取り

 正月の決め飾りづくりに欠かせないものにウラジロがあります。私たちの地方ではウラジロのことを別名山草(やまくさ)とよんでいますが、近年里山が荒れてこの山草が中々見つからないのです。数年前まで私にはとっておきの山草の繁る山があったのですが、そこら辺まで行く路も雑草に覆われて行けなくなったため、別の山を探していました。数年前裏山に登って茂みに分け入るとそこには余り広い場所ではありませんが山草がいっぱい生えていました。誰にも気づかれな場所なのでまだ誰も取りに来ていないらしく、自宅からわずか数分のところなのでここ数年はしめ飾りをする直前になって山に分け入り、簡単に取れるとあって今も重宝しているのです。


 昨日は昼食を終えた午後から長靴を履き作業着に着替えることもなく、軍手をはめてその山へ分け入りました。ところが最近この場所を誰かが見つけたのか先客がいるらしく、既に足で踏みつけたり、取ったものの気に入らなくてそこら辺に捨てた山草が何枚か見つかりました。それでもまだ先の折れていない山草が私には充分なほどあり、ものの10分ほどで採集を終わりました。ヒノキ林の中なので山は静寂そのものです。天を見上げるとそれぞれの木が青い初冬の空にすっくと立って梢を伸ばしていました。どの木々も不可侵の原則を守るように枝と枝が微妙に自分の領域を守っているのです。

 その横の雑木林に入ってみました。クヌギやナラの木々はすっかり葉を落とし、枝は冬枯れの姿で寒そうに立っていました。


 みかんが繁華なころは耕して天に至ると形容された段々畑も、過疎と高齢化、それにみかん価格の低迷で耕作放棄地が目立って増えてきました。熱心な人はみかんを伐採して杉やヒノキに植林していたようですが、その植林さえも手が回らず、枝打ちや草刈りをしないため山一面をカズラが覆っているようなところもあります。また使わなくなった農道も草刈りなどの整備をしないため、車の通行さえもできないようになっているのです。

 このままの状態が続くとわが町の農地は10年後には、便利な田んぼを覗いて殆どなくなるのではないかと心配しています。加えて最近わが町ではイノシシが多く出没し、悪さの限りを尽くしていて、農家も色々と知恵を絞ってガードしているのですが焼け石に水といったところで諦めているようです。今のところ他地域に見られるような鹿や猿の出没は報告されていませんが、やがて農地の野生化が進めば現れるかもしれないと心配しています。


 農業と漁業以外取りたてて産業のないわが町が、こうして右肩下がりの方向に進むことは寂しいことです。出会う人の言葉は殆ど現状への不満と将来への不安の話ばかりです。挙句の果ては「楽しそうに生きているあんたが羨ましい」と人の姿をねたむのです。確かに年金暮らしになり、何の不安もなさそうに楽しく生きる私を見ると羨ましいのかも知れませんが、それは私が楽しく生きるための確固たる信念を持って生きているからに他ならないのです。人を羨んだり今を下げすんでも何の解決にもならないことを自覚しなければ、生きている意味がないのです。

 幸い私の周りには生きる意味を持って生きている沢山の仲間がいます。その人たちに出会うと勇気をもらうし、今以上に頑張らねばと心に拍車がかかるのです。いい生き方をしている人の周りにはい生き方をしている人が集まります。私が常々言っている「人でも仕事でも愛する所に集まって来る」という言葉の意味はそういうことなのです。山草を取りながら来年も頑張ろうと心に誓いました。


  「山草を 取りに近くの 山に入る ものの十分 採集終わり」

  「畑荒れ 農道荒れて 見る影も 無きに等しい 心が痛む」

  「合う度に 諦め似たり あきまへん この言葉しか 知らないのかな?」

  「電気柵 ものともせずに イノシシが 暴れまくりて みんなお手上げ」

 

 

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○紙ごみの中から2万円

 このところ毎日のように大掃除をしています。家の窓ガラス掃除は毎年私たち男組の仕事と決められていますが、男組の長男、次男、三男が一抜け二抜けと抜けて、今では私一人だけになってしまい、疲労感を感じるような大仕事になってしまったのです。一昨年は年末年始にぎっくり腰になり、去年の年末年始は大風邪を引いてダウンしたため、助っ人の長男が代行してくれましたが、今年はその長男も忘年会だ仕事だと何かと言い訳を言って帰って来ないので、諦めて私一人が半日ずつ二日間をかけてやりました。今年は前二年のようにぎっくり腰にもならず風邪も引かなかったため、順調に作業を終えました。

 さて今日は書類類の大掃除です。捨てきれない書類の山の中からもう不必要になった紙ごみを選り出して行くのですが、これがまた手間もので、全てを捨てきれないこともあって意外と時間がかかりました。紙ごみの選別は、一年間一度も見たり読んだことのないものは捨てるのが常道だと聞いていますが、そう言う訳にもいかず苦戦しましたが、それでもキャリー一箱分の紙ごみが出てきました。わが家は田舎ゆえその紙ごみを空いている畑の真ん中に持ち出して、破ったり丸めたりしながら焼却しました。紙ごみはよく燃えるもののページの厚い書類はそのままだと重なって燃えないため丸めて日の中へ入れるのです。紙ごみの灰は軽いため風に舞って飛んで行き、洗濯もの以外を及ぼすので、今朝のような無風の時間帯を選ばなければ近所に迷惑がかかってしまうのです。


 先日紙ごみを整理していてとてもラッキーなことがありました。書類の中から封筒に入れられた2万円が見つかったのです。講演先でいただいた謝礼だったのですが、うっかり忘れてその時のレジメに紛れ込んでいたのです。昔なら妻に内緒で呑み代にしたのでしょうが、今は呑み台など要らないし、必要な費用は妻が全部出してくれるので、あっさり妻に訳を言って渡してやりました。妻は大層喜びその夜の夕食はいつも以上豪華となったのです。

 大掃除で出てくるものに、返信用封筒があります。相手が切手を張って同封してくれているのですが、メールでことが済んだ場合、この切手は不要となるのです。これを切り取って名刺箱に収納するのですが、これが1年間にはかなりたまって、先日は育児休暇の娘に郵便局へ持って行ってもらい、ハガキと交換してきて貰いました。勿論書き損じや未使用返信はがきも含めると凄い量になって、50円のハガキ400枚にもなり、今は豊潤なハガキを使って、毎日せっせとハガキを出しているのです。

 わが家が少しだけすっきり、少しだけ綺麗になりました。これでひとまず心のゆとりができて、安心して正月を迎えることができそうです。「ゴミのようにお金が貯まるものなら」とh妻の弁ですが、私もそう思います。また人間は何と愚かな行為をしているのかとも思います。今日焼却処分した紙ごみを作るのにどれ程の木材と、どれ程の人力を要したことでしょう。有を無にするからまた新たな有が生まれ、それが経済になるのだと分っていても、もう少し人間は賢く生きてゆかなければならないと思いました。

 紙ごみを処分して、果たしてあれは処分すべきだったかと少し反省し、同時に綺麗になったと少し安堵する心の葛藤は、やはり毎年繰り返される年末の出来事なのかも知れません。

  「紙ごみの 中から何と 2万円 妻は喜び 夕食一品」

  「このゴミを 作るにかかる 資源手間 愚か人間 いつかは滅ぶ」

  「有を無に するから 新たな 仕事でき 経済回る 分っていても」

  「老いの身に 窓拭き掃除 重過ぎる 早く代替え しなけりゃ思う」 

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一昨日愛媛県公民館連合会の自主組織である愛媛県公友会から会報が届きました。公友会とは、かつて公民館に勤めたことのある人たちの集まりで、あくまでも自主的な40人足らずの小さな集団なのです。私はかつて双海町の中央公民館に13年間務め、その間伊予郡公連の主事会長を6年間やりましたが、同時に県公連の主事部会長を6年間やり、県公連の役員として思う存分の働きをさせてもらいました。その時出会った岡島県公連会長と、全公連理事の朝比奈さんのご配慮で、全国というひのき舞台へ送り出させて貰ったのです。

 県公連は私にとって大恩人なので、何はさておき公民館の仕事は今もなお最優先の仕事と思い、恩返しをしているのです。

 公友会にはかつて愛媛の公民館の屋台骨を支えたり公民館の顔として働いた人たちが多士済々名前と顔を連ねています。いずれ劣らぬ論客なので、会えば必ず議論が深まるのですが、結成以来20年が過ぎるとさすがに新規会員はまばらで、しかも高齢が目立ち、「さて将来は」と危惧するものの妙案も浮かばず現在に至っています。

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 公友会の事業は夏の勉強会と年に一回出る会報程度ですが、それを仕切るのは県公連の事務局長さんで、忙しい暇を見つけて支えていただいているのです。少し前に行われた公友会の勉強会で、次年度の勉強会会場が議論され、来年は私が幹事になって人間牧場で開くことが決まりました。記憶をたどれば平成4年にわが私設公民館煙会所で第6回目の勉強会をしているので、来年やれば2回目となるのです。

 毎年のように会報に投稿している私としては、会報で人間牧場ができる以前に人間牧場構想を夢のまた夢として書いているので、皆さんに見てもらいたいという思いもあって思い切ってお引き受けすることにしたのです。高齢な方には多少難儀な山道ですが、心をこめてお世話したいと今から心待ちにしているのです。

若松進一ブログ
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 さて見開きで16ページと17ページにわたり、奇しくも盟友菊地邦求さんと同ページに書いた私の原稿のタイトルは、「書けて喋れて実践できる人間を目指して」という大変長いタイトルの文章です。公民館主事の時代に目指した「書ける」「喋れる」「実践できる」という3つの目標は、公民館を去った後も、勿論今も私の目指す理想なのです。まだまだその峰高く意思半ばですが、それでもあのころに比べれば書くことも喋ることも実践することも随分成長したように思うのです。でも成長と同時に成長の限界も感じています。特に加齢は人間の成長を止める大きな原因であり、人間誰もが味わうジレンマに今後は苛まれることでしょう。それでもあえて喰くことも喋ることも実践することも、鈍化を遅らせもうひと踏ん張りと思っています。

 これまで書いて残してきた幾つかの文章も、若気の至りでしょうか手元では見つからず散逸していますが、これからは、このようにデジタル化して残すことも考えなければなりませんが、「残して何になる」というジレンマもまたあることも事実です。

  「書いたもの 手元残らず 散逸す これから先は デジタル化して」

  「文章は 読む人のため 書くものと 最近やっと 意識し始め」

  「今年また 年末ゆえに ゴミとなる 勿体ないが 諦め燃やす」

  「書くほどに 文章多少 上手くなる そろそろ天井 来たかもしれぬ」

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