shin-1さんの日記

○性格の合わない二人

 私が26歳、妻が25歳のときに結婚したのですから、私たち夫婦はもうかれこれ37年間も連れ添っている計算になります。どこがどうだったのか分らぬままたった5分間のお見合いで結婚を決意し、貧乏生活にも耐えて今日までどうにかたどり着きました。その間子どもが四人誕生したりその子どもの成長に合わせて色々なことがありましたが、幾つかの壁を乗り越えた今は結婚して良かったといえるまでになっています。というのも病気や怪我をする度に妻の私を思いやる心に触れて感謝したことも大きな要因なのです。したがってたまには病気もするものだと、冗談をいっていますが、もう先が少し見えてくるような年齢になると、お互いが支えあわなければ老いは乗り越えれないと、周りの老いた人たちを見て思うからかも知れません。

 しかし結婚して37年間も経つのにまだ妻のことはよく分らないし、妻も私の事を分ったようなつもりでも分らない部分が多いのです。

 私たちは一緒の風呂に入り一緒の部屋で一緒の布団に寝る事を結婚してからずっと励行してきました。先日友人の女性が「私たちは夫婦が別の部屋の別の布団で寝るし別々にお風呂にも入ります」。「へえー、あなたたち夫婦は一緒なの?」と感心せられて、これまたこちらが不思議に感じたりしました。

 今晩も「お父さんそろそろお風呂に入りますか」と誘われました。私は書斎でパソコンの前に座って原稿を書いていたので、その声に応えて一緒に風呂に入ったのです。すると妻は最近凝っている「○○の湯」とかいう「温泉の元」を入れるのです。私はどちらかというとさら湯のような透き通った混じりけのないお湯が好きなので、いつも風呂に入る度に「入れる」「入れるな」といい合いが始まるのです。たったこれだけでも夫婦の好みは随分違うのです。

 私は食後にどころか全然コーヒーを飲みません。ところが妻はコーヒーが大好きで、息子嫁の実家から貰ったコーヒーをしっかりと食後に飲むのです。「ご飯の後口が消えないか」といえば妻は、「食後のコーヒーは最高」とこれまた不一致です。もっとせい反対派私は朝早く起きるのに、どちらかというと妻は朝が苦手な方です。私は毎朝4時に起床しますが妻は6時まで寝ます。妻はビデオをよく見ますが私はビデオは余り見ません。

 まあこんな具合で、周りの人は「ふうふのことだから犬も食わぬ」と呆れた話と捨て置かれそうですが、人間不思議なものでこんなささいな揉め事でも二人の間は小競り合いになるのです。

 最近は私の方が折れることが多いと妻に言えば、「お父さんの頑固さは天下一品」というのです。このまま歳をとってこのままお互いの我を張り合うといい老後ではないと思うのですが、妻はいたって平気で、「二人が違う性格をしているからこそいい」とむしろ反感反目も当たり前のような口ぶりなのです。

 それでも最近は若い頃と違って私も随分性格が丸くなって、妻にあわせることが多くなりました。これも老後を楽しく生き抜くためのテクニックなのでしょうか。

  「俺は好き 私は嫌いと 張り合って いつの間にやら 元気の元に」

  「ことごとく 気に入らないと 思う時 些細なことで 背中合わせに」

  「結ばれて 三十七年 経ったのに 未だに長い トンネルの中」

  「いいことは 俺に似ている 子の仕草 妻に似ている 悪い仕草は」

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shin-1さんの日記

○島人からの贈り物

私の町は双海町という名前が示すとおり、ほぼ東西に一直線の海岸線が北に広がる瀬戸内海に沿って伸びています。雨の日の海、晴れの日の海、時化の日の海など海は四季折々その趣きを変えて私たちに語りかけ、悪さもするが大きな恵みを与え続けているのです。その海の彼方にぽっかりと島が幾つも浮かんで見えます。毎日見ているはずなのに、町民はこの島の事を殆ど知らないし、また生きるために余り必要がないからか知ろうともしないのです。私は子どもの頃からこの島々や水平線にとても興味があって、親や大人から随分色々な事を聞かされました。そしていつか大きくなったらあの島に行って見たい、また見えぬ水平線の向こうにも行って見たいと淡い夢を描き続けていました。その夢のお陰でしょうか、とてつもない水平線の向こうである建国二百年のアメリカや、赤道を越えた珊瑚海まで行くことが出来たのです。そして身近な島では由利島も20年間に渡って無人島キャンプで関わり続けることが出来たのです。

 その沖合いに浮かぶ温泉郡中島町大浦、いや合併したので正式には松山市中島大浦に住む旧友古野セキヱさんから先日「いつも一緒」という素敵な本が届きました。古野さんは私が公民館主事をしていた頃からの友人で、女性ながらと言っては大変失礼ですが、長浜町の菊地さんとともに私が最も気を許して活動した人の一人なのです。彼女は品格があって達筆で文章が上手い、そして理路整然と話せるという、これまた失礼ながら女性には珍しい行動派なのです。私が県公連の主事部会長をしていた折、菊地さんとともに、副部会長として活動を一緒にやりました。

 何処でであってこんな深い間柄になったのか、もう随分前のことなので出会いのきっかけなど忘れてしまいましたが、役場に勤めていた頃は宿直があってその度によく電話を掛けて意見を戦わせたものでした。私より少し年齢が上のため一足早くリタイアして、家業である農業をご主人としながら、穏やかな日々を暮らしていますが、愛媛新聞の「てかがみ」欄や「川柳」欄には度々時々の想いが作品として紹介されていました。

 私の尊敬する元校長先生の金本房夫さんは古野さんの義理の姉、つまり金本先生の奥さんなのですが、これまた達人で書いて良し喋って良しの凄い人なのです。血のつながった兄弟ではないのですが何故かよく似たところがあって、お互いいい刺激や影響を受けて成長したようです。

 今回の本も金本先生が「老いてなお青春」という序文を書き編集も手伝ったようで、その分何処かセンスの良さを感じるのです。この本は僅か42ページの短さなので、一気に読める気楽さがあります。私が先日出した「夕日徒然草」もそうですが、活字の大きさと活字の容量は今後考えなければならないとしみじみ思いました。

 早速私は彼女にハガキをしたためました。達筆な彼女にハガキを書くのは多少ためらいがありますが、やはり手書きのハガキはいいものだと信じて出しました。また声が聞きたくて電話もしました。残念ながら彼女は留守でご主人が出ましたが、私のことも昔から知ってる間柄なので、いい会話が出来ました。

 若い頃あれ程仲良くした人たちでも、音信が途絶えてしまった人は数え切れません。しかし古野さんのようにいつも何となく気になり音信を通じ合える人は数少ないのです。彼女の本から滲み出る「老い」を迎える一抹の寂しさは誰にでも訪れる宿命なのですから、お互い音信を気にしながら生きて行きたいものです。

 今夕もう一度電話をかけました。電話の向こうの弾んだ彼女の声が何とも嬉しい便りでした。

  「てかがみと 川柳綴る 一冊の 本が届いて 勇気付けられ」

  「達筆で 文章書ける 達人も 老いはどうにも 逃れすべなく」

  「あの島に 暮す友人 今頃は どうしているか 島見る度に」

  「夕日まで 味方につけた まちおこし 俺を詠んでる 歌と知りつつ」

  

 

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shin-1さんの日記

○「日本一細長い佐田岬半島を夫婦でドライブ

 今日は昨日からの春雨も上がって久しぶりの好天に恵まれました。彼岸の中日なので殊勝にもお墓参りに行こうと妻と相談がまとまり出かけることにしました。妻の職場の同僚が家庭の都合でお休みしているため、職場の仕事が少しハードでお疲れモードなので、気分転換のつもりで出かけました。リタイアしたといいながら妻はまだパートに出ているので、中々二人の休日が出会わないし、たまの休日には子どもたち家族がやって来るので、妻の休暇は久しぶりなのです。

 まず近くのお寺の境内にあるわが家のお墓に向いました。今年は寒い冬だったことあってしばらくそこら辺を散歩していなかったのですが、トレセン前の土手には私が若い頃に植えた杏の花が満開で今を盛りと美しく咲いていました。その後海岸国道378号を長浜、保内経由で行き、妻の実家のお墓がある八幡浜まで足を伸ばしました。お彼岸らしく大法寺の墓地には沢山の墓参りの人が上り下りしていました。遠く見下ろす八幡浜の湾内はもう春の穏やかな海で、北東の風が強く吹いていた瀬戸内海とはうって変わった穏やかさで、九州と四国を結ぶフェリーの汽笛や航跡が何ともいえない雰囲気を醸していました。

 墓参りを済ませ妻の実家に立ち寄りました。前年に喉頭ガンの手術をした義兄のその後の様子を見舞うためです。義兄は家にいましたが思ったより術後の経過も良く元気な姿を見せてくれました。ただ声帯を取っているため、対話は筆談しか出来ず、私たちの話にいちいちうなずくばかりでした。

 実家をおいとまして、私たちは元来た道を保内まで引き返し、国道197号を以下多方面に向って走り、伊方の亀ヶ池温泉を目指しました。最近出来た温泉ですが、私はまだ一度も行ったことがないのです。妻は民生委員の研修会で一度行ったというので、ドライブがてら出かけました。国道から宇和海に向って九十九折れの山道を下りると亀カ池に出ます。その湖畔に綺麗な温泉が出来ていました。

 丁度昼過ぎだったので妻は瀬戸御膳、私はとんかつ定食を注文しました。このレストランは三崎の大岩さんの系列店らしく、メニューも凝っていました。近頃は夫婦仲が良いのか悪いのか分りませんが、二人で食事に行くと必ず別々の違った品を注文します。そして二人でそれぞれの料理を半分ずつ食べて満足するのです。

 妻の注文した瀬戸御膳は瀬戸町の特産品である釜揚げのシラスがたっぷり乗ってるどんぶりに刺身がついていました。私のとんかつ定食はオーソドックスながらキャベツが沢山ありました。妻の刺身は私が、私のとんかつの半分は妻が、そしてシラス丼は半々に食べ堪能しました。

 やがて妻の予約した岩盤浴の時間になったので男湯、女湯に別れてそれぞれゆっくりとお風呂を楽しみました。風呂は新しくて清潔で、塩サウナまである豪華さです。私はサウナに二度三度入ってたっぷり汗を流しました。妻だけではなく私も少し体がお疲れモードで、休憩所で仮眠をしてゆったりと過ごしました。途中「若松さんじゃないですか」と、知っているような知らぬような人から何人も声をかけられ、立ち話をしたりしました。

 帰りは亀ケ池の近くの旧国道を通って町見や九町を通り、山道をビジターハウスまで登りました。そこでソフトクリームを買い、帰りに長浜町の村上薬局に立ち寄りました。過日私が風邪をひいた折、助けてもらった返礼に行ってない事に同乗の妻が気がついたのです。村上のご主人は奥さん店員共々笑顔で迎えてくれました。気持ちのいい店です。お店はこうでないと繁盛しないと思いました。例によって元気の出るホットニンジンエキスをご馳走になり、身も心もリフレッシュして恋する二人の「日本一細長い佐田岬半島を巡る早春ドライブ」(笑い)を終えました。目出度し目出度しでした。

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shin-1さんの日記

○刀の手入れ

私の親父は若い頃から骨董に興味があって、やたらと色々な物を集めていて、家の敷地内にそれらを展示する海の資料館「海舟館」という個人の資料館を開設しています。資料館といっても家の倉庫を改造した簡単な建物なのですが、多分公立でもないような珍しい物を展示していて、我が家を訪れた殆どの人はその珍しさとこだわりに目を見張って驚くのです。

(わが家秘蔵の刀剣類です)

 親父の偉さはそこら辺に落ちているガラクタ同然のものでもしっかりと手入れをして磨きこみ、しっかりと展示に耐えるようにしているセンスのよさです。例えば親父は元漁師ですが、自分が底引き網の操業中網にかかって引き上げられた戦闘機の機銃を根気良く磨いて展示をしているし、ナウマン象の化石だってきちんと塩抜きをして展示しています。また自分の乗ったり見たりしたことのある瀬戸内海で活躍した木造船の模型を自分で手づくりし20隻も展示しています。

 そんな展示に混じって、刀や槍、火縄銃といった日本古来の美術品も展示をしています。多い時には刀など10振りも持っていましたが、息子や親類に剣道をやる人間が多く、譲ったため今は刀が5振り、槍や薙刀、火縄銃などが所狭しと並べられています。

(刀の手入れをする親父)

 今朝親父の隠居に行くと、刀箱から刀や槍を取り出して時代劇映画で見るような姿で刀の手入れをしていました。そして「お前も長男だし、これらを大事に孫子の代まで伝えるためには、手入れの仕方をもうそろそろ習わなければなるまい」と神妙に言うのです。「まだまだ親父の仕事だ」と思いつつ、「そうじゃねえ」と同調しました。親父の話によると刀や槍は2~3ヶ月に一度は箱から取り出し、刀を保存鞘から抜いて打ち粉を打ち、それを拭き取ること二度三度、その後刀用の油を引いてもとの鞘に収める、次に柄をを抜いて手元の手入れも怠らないようにと、指導を受けました。打ち粉を振り過ぎるといけないし、油をつけ過ぎると光が鈍くなるなど、刀の手入れは細心の注意が必要だと厳しく注意され、手ほどきを受けました。親父のいうのにはそれらの作業はわが息子にも既に伝授しているそうで、知らないし出来ないのはどうも私だけだったようなのです。

(親父自慢の一振りです)

 親父が一番自慢にしている刀は昭和41年に打った現代刀ながら「肥前国住兼元」作の一振りです。これはかなりの金をつぎ込んで手に入れたもので、鑑定書では「重要貴重刀剣」にランクされているのです。親父は元々古刀が趣味ですが、この分厚くて長い優れものを大切に保存してきました。「わしが死んでもこの刀と機関銃だけはこの家の宝物として孫子に伝えて欲しい」というのが口癖なのです。

 刀箱に入れ大切にしまっているこれらを私は長男としてしっかり受け継ぐ決意をした朝でした。それにしても3ヶ月に一度手入れが出来るか心配です。

  「長男の お前が受け継げ そういって 刀の手入れ 仕方教える」

  「値打ち物 売れば値打ちを 感じるが ただあるだけで 値打ち分らぬ」

  「そういえば 二人の弟 嬉しげに 刀貰って はしゃいでいたっけ」

  「三ヶ月 一度は刀に 向き合って 打ち粉油で 手入れする羽目」 




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shin-1さんの日記

○「ふなや」にて

 最近はホテルでの会議が主流になって、公民館や市民会館などのような公共施設利用の会合が少なくなる傾向があるようです。公共説を運営する地方自治体の財政が厳しくなって、「公共施設は無料」という神話が崩れたため、同じ使用料を払うなら少々高くても快適でサービスの行き届いた会場がいいと思うのは無理からぬことなのです。

 昨夕は愛媛県建材同業会総会の記念講演を頼まれて道後温泉の「ふなや」というホテルへ行きました。「ふなや」といえば皇室関係の宿泊場所となる愛媛県随一の呼び声高い由緒のあるホテルです。このホテルを会場に選んだ建材同業会のレベルが推し量れる感じがして、内心恐る恐るの出かけました。車止めから手配が行き届いていて全てかゆい所に手が届く気配りを感じながら玄関ロビーへ入りました。30分前に到着したので総会の真っ最中とかで私は応接室へ案内されました。この応接室は古い建物の一部を復元したもので、壁には昭和天皇以来多くの皇室関係者が、名だたる全国大会が愛媛県内で開催される度に訪れていて、壁にはその写真が幾枚も飾られ、さしずめ資料館という感じです。随所に見られる洋風建築の調度はまさに超一級の感じがしました。また窓の外に目をやるとこれが道後温泉?と思わせる静寂で広大な庭が見え隠れして、何ともいいようのない至福のひと時を過ごさせてもらいました。
(案内された格調高い応接室、壁には宿泊された皇室の方々の写真が数多く飾られていました)
(窓のガラスもアーチ型の入口も、更には窓越しに見える庭の風景も素敵でした)
(大理石でできた暖炉とステンドグラスの調和も何ともいえないレトロな雰囲気です)
(天井の明かりは明治・大正・昭和初期の趣きです)
(四方の窓にはさりげなくステンドグラスがちりばめられていました)

(窓越しに見える庭園の木々もかすかに芽吹いていました)

 やがて案内されて講演会場へ入りました。これまた素敵な会場の設えで、金屏風や吊り下げられた演題が何とも面映い感じです。雰囲気的には多分この一年間で最も素敵な会場の設えではなかったかと思いました。


 話は僅か50分、懇親会の前座といったところでしょうが、それでも与えられた時間をまるでビデオテープを早送りするように早口で喋り続けました。私の場合はその場の雰囲気で話す悪い癖があるので、どんな話をしたのかよく覚えていませんが、それでも反応はあったらしく、その後の懇親会では多くの人と名刺の交換をさせてもらいました。その中には宇和島から駆けつけた橘さんとお話が弾みました。というのも橘さんの奥さんは双海町出身だそうでした。奥さんのお父さんは私の恩師で元下灘中学校の校長をしていた古田竹雄先生なのです。古田先生はも亡くなられましたが、校長時代私が宇和島水産高校の受験の際、わざわざ校長でありながら私一人を連れて宇和島まで受験に連れて行ってくれたのです。忘れもしませんが宇和島城の直ぐ下にある丸重旅館に校長先生と二人で同じ部屋に枕を並べて泊まり、色々な話をしました。運良く合格した時も、昔のことゆえ校長先生が知人に合格発表を見に行くよう頼み、そこから第一報が電報で学校へ届いたのです。

 合格発表のその日、私は構内放送で「三年B組の若松君、至急校長室へ来て下さい」と放送で呼び出されました。不安な気持ちで校長室へ入りました。喜色満面な笑みを浮かべて「合格おめでとう」と校長先生の友人から届いた祝電を、校長先生から渡された嬉しい記憶は今も忘れることが出来ません。もう時効になっているので言っていいでしょが、その当時は車の運転なども緩やかで、福岡先生に許しを得て、先生が通勤に使っていた単車を中学生でありながら無免許で運転し、家までこの合格通知を届けに帰ったのですから、面白い時代でした。

 宇和島での三年間の学業を終えた卒業式の日に、3年間皆勤賞、優等賞、産業教育振興中央会長表彰の三賞を受賞し、お礼に伺った時も、涙を流して喜んでもらいました。晩年は不遇にも火事で奥さんに先立たれましたが、いつも目と声をかけて励ましてくれました。

 飛んだ横道にそれましたが、「ふなや」でのほのぼのとした懇親会を早々においとまして、8時に会う約束の友人と打ち合わせを行なった後、夜遅くわが家へ帰りました。

  「会議など 何処でもいいと 思うけど 雰囲気だけで 話も変わる」

  「何処となく 奥ゆかしさの あるホテル 通され時間 静かに過ぎぬ」

  「道後にも こんな静かな 場所がある 木々は早くも 芽吹きの気配」

  「三級な わが身だけれど この場所に 座れば一級 そんな気がして」

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shin-1さんの日記

○サンプル

 最近都会の街を歩いていると、色々なプレゼントを訳もなく貰うことがあります。例えばプレゼントといえるかどうか分りませんが、ティッシュペーパーなどはその典型で、同じ道を往復すると、「さっき貰ったばかりなのにこの人は渡した人の顔を忘れているのかしら?」と思うほど、同じティッシュペーパーをくれるのです。多分渡すことを依頼した側はできるだけ多くの人に渡して欲しいのでしょうが、渡すことを依頼された側は与えられた時間に与えられた量を配るのがノルマであって、要は誰に渡したかなど問題ではないのです。ティッシュペーパーの出所は主に消費者金融などへのお誘いで、ティッシュに手を出しても、うかつに誘いに乗ってはいけないのです。

 昨日は会合に出席するため松山へ出かけました。出かけるというよりは県庁所在地の松山での会合が多いため、品数豊富なスーパーや本屋など立ち寄る店が多く、見慣れた風景を見ていると、まるで松山からわが家へ通っているような錯覚さえ覚えるのです。立ち寄ったスーパーは夕食の買い物時間だったせいでしょうか、レジは多少混雑していました。食料品売り場の店内を歩くと試食品があちらこちらに置かれていて、主婦たちはつまみ食いしながら買い物を楽しんでいました。勿論手をつないでいた子どもにもそんな試食品を食べさせながらの買い物です。「おひとついかがですか」と勧められましたが、会合へ行く途中なので辞退し、レジで支払いを済ませ店を出ました。

 化粧品、食料品、日用品、飲料品、これが試供品の4大品目といわれるように、テレビでも雑誌でもインターネットでもお目当て新商品をPRするための誘いが行われています。その最たるものは化粧品で、「サンプルを送りますのでお試し下さい」とか、「自信があるのでアンケートにご協力下さい」とかいって、申し込みした人にサンプルを送りつけるのです。「無料でそんなことしたら損をするのでは?」と思いがちですが、サンプルに関するコンサルが綿密に消費者の心理を分析してアドバイスをしているだけあって、しっかりと投資効果をキープしているのです。主婦の場合思い込みが強く、一度使うと「自分に合っている」と思い込み、「綺麗になった」と褒められると有頂天になってアリ地獄の底まで付き合うそうですから、用心しなければなりません。「特にお客様の中からあなただけが選ばれました」となると余計有頂天になってしまうのです。

 この頃ふと気がつくことがあります。お年寄りがテレビを見るのは水戸黄門などの時代劇が多いのだそうですが、その時間帯になるとヒアルロンサンやグルコサミン、コラーゲン、ブルーベリーエキスなどとお年寄りの心情をくすぐるようなサプリメント商品の宣伝がテレビから訳もなく流れているのです。お年寄りにとって元気の減退、足腰の痛み、目のかすみ、頻尿不眠、糖尿病などなど健康への不安は枚挙に暇がなく、さもそれらを飲んだり食べたりすれば、即そうした悩みから開放されると勘違いを起すのです。その結果高いサプリメントに手を出して、かえって健康を害することがあるのです。

 人の事をいえぬ経験を私も持っています。青汁がいいと雑誌に書いてあって、「このハガキを出せば無料サンプル送ります」に釣られて送ったのです。間もなくサンプルは送られてきましたが、その日から電話攻撃に会い青汁どころか青色吐息となってしまいました。美味しい話には必ず裏があります。サンプルにご用心。

  「サンプルや 試供品攻め これでもか 相手の作戦 一枚上だ」

  「東京じゃ ペーパーもない 当たり前 ティッシュ助かり ほっと一息」

  「裏を見りゃ 消費者金融 PR 期待はずれの 人に渡して」

  「ハガキ出し 送られて来た 試供品 電話攻撃 青色吐息」

  


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shin-1さんの日記

○イチゴの水耕栽培

 先日孫と二人で翠小学校の近くにある観光イチゴ園に行きました。毎年のことながら5歳にもなると孫はそれなりに私の心を読み取って様々な要求をしてくるし、その要求が私のへそ曲がりでどの程度なら通るのかもう熟知しているのです。そんな孫と私の関係は妻に言わせれば今流行のテレビ番組「相棒」とそっくりなようです。

 「おじいちゃん、今日はイチゴ狩りに行こう」と誘われました。車を走らせれば馴染みの農園へは5分で到着です。孫は毎年何度かイチゴ狩りに来ているためすっかりお馴染みさんで、雑談をしながらハウスの中へ入って行きました。ハウスの中はもう春を通り越して初夏のようなポカポカ陽気です。ミツバチも飛び交い真赤に熟したイチゴがたわわに稔っていました。

 この観光イチゴ園も創業以来もう5年以上も経っているので、さちのか、とよのかなど様々な品種が植えられていて、酸味が合ったり奄美が濃いかったりして味が微妙に違うのです。孫はヘタを入れる小さなバケツを持って当りかまわず歩き回り、良く熟れた鹿も大きい実をどんどんちぎって食べています。私などは大人だというのに孫の半分も食べることができず、今更ながら孫の食欲には驚かされるばかりです。

 「おじいいちゃん、お母さんとおばあちゃんにお土産を買って帰ろう」というので、事務所でパックを受け取り②パック詰め合わせました。これも孫のやさしい心の表れでしょうか、ついつい嬉しくなりました。やがて腹いっぱいになってハウスの中のベンチに座って休憩していると、孫が便ーるパイプを目敏く見つけ、「おじいいちゃんこのパイプは何に使うの」と質問するのです。私は分らぬまま、このパイプからイチゴに水やご飯をあげるのよ」というと、孫は「フーン」とうなずきながら、「じゃあ僕の食べたイチゴはご飯を食べたんだからそのご飯も一緒に食べたの」と逆質問です。「ウーン、困った」でした。

 私たちは植物にとって最も大切なのは土と水と太陽と栄養になる肥料だと子どもの頃から教わってきました。ところがこのイチゴの栽培は全く土を使わない水耕栽培なのです。土が無くても植物は出来るのか最初は戸惑いましたが、このイチゴのようにロックウールといわれる綿のような土に変わる代用品があれば植物は管理さえすれば立派に育つのです。むしろ土だと中に微生物や病原菌があって、発達を阻害することだってあるのです。その点水耕栽培は栄養を根元に散布し、葉面に散布すれば化学的には土と同じ、自然と同じように成長するのです。

 だとしたら、孫が言うようにまるでストローのようなパイプから送られてくる栄養分を私たち人間は、イチゴという物体を通じて食べているに過ぎないのです。「イチゴが食べた食べ物を人間が食べる」何と不思議な出来事なのです。

 じゃあこのイチゴハウスの栄養分となる液肥は一体どんなものなのか、そこまでは知る必要がないまでも、その液肥が安全な物かどうかは知っておかなければならないのです。

 宇和島地方は鯛やハマチの養殖が盛んですが、ハマチに食べさせた餌がイワシだとしたら本当にイワシににた味がするかもしれないと、真剣に考えた時期がありました。実はハマチを冷蔵庫で長く保存して食べると本当にイワシの味がするという話もまんざら嘘ではないようです。

 イチゴを食べるときは液肥を食べているという感覚で食べると味も素っ気も無いので、やはり余り気にせず食べることが肝心かも知れませんね。

  「水耕の イチゴの食べた 養分を 人間食べて 美味い美味いと」

  「じいちゃんの 好みしっかり 掴んでる 五歳の孫の 人を見る目が」

  「何となく 土の匂いの しない分 物足りなさを 感じるイチゴ」

  「土も無く どうしてイチゴ 出来るのか 不思議な時代 俺は分らぬ」

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shin-1さんの日記

○私はエッセイスト?

 リタイアし自由人になって早いもので3年が過ぎました。新聞紙上に人事異動の記事が載る季節になると、華やかなご栄転の顔写真入りとは対照的に、最後の欄に虫眼鏡で見ないと見えないほど小さく、印象的に退職者の名前が掲載されているのです。部長で辞めた人も係長で辞めた人も人それぞれですが、多分この記事にさえも載らない多くの人たちが第一線から退く事を思うと、仕事の値打ちとは、人間の値打ちとは一体何なのかと、しみじみ思うのです。多分公務員だと職責上えらかったであろう人たちは、天下って多少の不自由はあっても、力を誇示し続けるのでしょうが、平で辞めた人たちにはそんな恩恵も無く社会の荒波に放り出される運命にあるのです。でもご安心下さい。社会は心さえしっかりしていれば、4月1日が再スタートで誰からも文句を言われる自由人としての暮らしが待っているのですから・・・・・・。私のように・・・・・。

 私は今自分の役職を調べて見ましたら、退職と同時にかなぐり捨てたはずなのに、人間牧場主、えひめ地域づくり研究会議代表運営委員、愛媛大学法文学部非常勤講師、夕日のミュージアム名誉館長、21世紀えひめニューフロンティアグループ代表、国土交通省観光カリスマ、地域活性化伝道師などなど十指余る役職があるのです。最も嫌いなひどい時は先生とか元教育長などの名前でも紹介されたりして、「私は先生ではない」と打ち消すのに懸命なのです。

 そんな折、私の友人が会社員なのに名刺に「エッセイスト」と刷り込んで配っているのを見て、悪くはないなと思いながら、いっそ私「もessayist」という名前でデビューしようかとも思ったりしています。エッセイストとは、エッセイを書く人、随筆家のことで、形式にとらわれず、個人的観点から物事を論じた散文や、意の趣くままに感想・見聞などのまとめた文章を、新聞や雑誌あるいは単行本などに執筆する人のことをいい、エッセイストだけではなく、エッセイスト以外の肩書きを持つ場合が殆どなので、私もそんな概念にピッタリなような気がしているのです。

今のところ頼まれて雑誌やインターネットサイトに定期的に記事を書いているし、ブログもある意味エッセイなので使ってみたいと思っています。しかし仮にもエッセイストと名乗るからにはそれ相応の勉強や努力が必要で、納得のいく文章が書けるようにならないと軽はずみに使うことは出来ないと思っています。

 最近、私のブログも相当認知されて、読者が少しずつ増えてきました。エッセイを書くには、まず知識を習得するため読まなければなりません。暇さえあれば読書を欠かさないことがまず絶対条件でしょう。次に書くことです。自分でいいと思った文章でも人の批判に晒さなければ何の価値も無く成長だってないのです。その点だけでは私は合格点だと思っています。本もそれなりに読むし、書くことだってそれなりの量をそれなりのスピードで書いてます。問題はそこからです。文章には天性のようなものがあって、幾ら努力しても一定のレベル以上へは進むことができないのです。私は子どもの頃から国語が好きで、文集を沢山書いてきました。また役場に入ってからも町の広報を10年間担当して書いてきました。しかし残念ながら凡人の私はそこから上達しないのです。これまで5冊もの自著本を出し、共著本にも名前を連ねましたが、どうも満足がゆかないのです。多分それこそが天分の無さだと自負するところです。

 ある意味で格好いいエッセイストになれるかどうか、今後の精進でしょうが多分縁のない社会かも知れません。

  「エッセイを 頼まれ書くが 上手くなく エッセイストには なれぬ落胆」

  「将来は エッセイストの 肩書きを 名刺に刷って 配ってみたい」

  「また俺の 心でうずく 夢一つ エッセイストを 目指す野望が」

  「原稿を 頼まれ送る これエッセー 原稿料まで いただき嬉し」 

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shin-1さんの日記

○中学校の卒業式

 私はこれまでどれ程の数の卒業式に参加したのだろう。自分の小・中・高等学校、子どもの小・中・高等学校、PTA会長としての高等学校、教育長としての小・中学校、三男の警察学校と、まあ両手では数え切れないほどの卒業式に出席しました。その度に時には涙し、時には凛とした新たな旅立ちを感じたものでした。子どもが巣立ち、自分も第一線を退いた今は、卒業式などテレビのニュースで見る程度となっていました。ところが最近になって学校評議員なるお役をいただいて、学校に意見を述べる機会があるようになって、学校から卒業式や入学式の案内が届くようになりました。でも忙しい日々の暮しでどうしても日程が合わず、ついつい欠席していました。

 今年も案内があったものの、日程が合わず欠席を決め込んでいましたが、偶然にも会議の予定が変更となり思い切って出席する事にしたのです。合併前は町会議員さんたちも大勢参加していたため来賓の数も多かったのですが、合併後はやたら寂しくなったと参加した人から聞いていたのですが、子どもの数が年々減少している現状では、卒業式の在り方も随分変わっているようでした。

 今日卒業式に出席した上灘中学校は自宅の目と鼻の先なので、少し早いと思いつつ歩いて出かけました。卒業式には花がよく似合うと思いながら一歩外に出ると、道端に綺麗なさくらんぼの花が満開を迎えていました。

 やがて運動場を通って正面玄関から校舎内校長室に入りましたが、来賓の方々はもう殆どお見えで、私は遅い方で、近い人ほど遅いというジンクスは当っていると思い、校長室を通り越して応接室でお茶の接待を受けました。応接室には歴代の校長さんやPTA会長さんの写真が壁の両面掛けてあり、一種独特な雰囲気です。

 やがて校長先生の案内で式場となる体育館に案内されましたが、入口には入場を待つ卒業するであろう生徒さんがにこやかに出迎えてくれ、顔見知りの子どもたちも沢山いて、「おめでとう」と声を掛けさせてもらいました。

 やがて式典は始まりました。今年の卒業生は26人だそうで、今更ながら生徒数の少なさを実感しました。それでも卒業式は工夫を凝らしていて、卒業証書授与、式辞、祝辞、来賓紹介、記念品贈呈、送辞、答辞、合唱など、どれをとっても何の文句もつけようが無いほど無駄が無くシンプルで、それでいて主役の子どもたちの動作がきびきびとした、100点満点の卒業式でした。子どもは訓練によって変わるものなのですが、訓練を繰り返すとそれが習慣になります。普通だと先生が起立、礼などと号令を掛けるのですが、それもなく身についた習慣が一際目立った式典でした。

 卒業式にはシンプルなピアノの音色がよく似合います。三年生の合唱「旅立ちの日に」、在校生の「そのままの君で」、全員の「校歌」斉唱を歌い、聞きながら涙を流す生徒の爽やかな姿に遠い昔日の思い出をダブらせながら私も涙を流してしまいました。今日卒業した子どもの中には、何人かハガキのやり取りをした子どももいて、まるでわが子のように感動が伝わってきたのです。

 校門を入った職員室の直ぐ横に早咲きの桜が、卒業生の旅立ちを祝福するよう印象的に咲いていました。満開です。この桜もやがては散り行く運命にあり、遅咲きの桜にその座を奪われるのでしょうが、卒業する生徒も人それぞれです。早咲きもあれば遅咲きもある、長い人生ですから、しっかりと自分を見据えて生きて欲しいと願っています。今日卒業した子どもと同じように3年前赴任して来られ、子どもとともに3年間を過ごされた校長先生のはなむけの言葉も印象的でしたが、子どもとともに熱い涙を流して顔をくしゃくしゃにしていた校長先生の姿はもっと印象的で素敵でした。

  「早咲きの 花に送られ 旅立つ子 明日は合格 通知願って」

  「三年間 ともに過ごした 校長の 顔がくしゃくしゃ 素敵でしたね」

  「式場に どこか寂しい ピアノの音 心に響き 涙止らず」

  「私宛 ハガキをくれた 顔見つけ 祝福会釈 思わずにこり」



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shin-1さんの日記

○タイムカードの思い出

 先週の金曜日、所用で市役所支所へ行きました。普通の住民は玄関から入るのですが、途中新しい庁舎に変わったといいながら、35年間もこの役場で働いてきた私は、どういう訳か脇にある通用門の裏口から入る癖がついていて、いつの間にやら足が自然とそちらへ向くのです。ふとその事に気がつき、「そうだ、次回からは内間の人間ではでないのだから正面玄関から堂々と入ろう」と、決意を新たにしたのです。それにしても長年の習慣は恐ろしいもので、役場=裏入口だったのです。

 通用門の入った所にタイムカードが置かれています。このタイムカードも今となっては笑い話のようですが随分物議を醸したものです。タイムカードが導入される前の役場は「出勤簿」と称する台帳がありました。例えば今日だと3月17日の欄に印鑑を押すのです。それはアバウトなもので、遅れて来ても早く帰っても押せますから、ハンコ一つでその日の出勤を証明する唯一の手がかりとなるのです。ずるい人は前日休んでもそこに休みのハンコを押さず、何日かしてそっとハンコを押せば出勤もどきになったりしていました。ところが逆に私のように社会教育などで夜遅くまで働いてもそんなものは自己申告ですから、超勤簿という別冊を見ない限り出勤簿には何ら証拠として残らなかったのです。また役場に立ち寄らずに直接現場に向う場合も、どこか後ろめたいような気持ちで出勤した時押していました。この出勤簿は何故か普通はいかにも重々しく助役室の机の上にあって、助役の顔色を伺うようになっていたのです。役場職員の中には出勤簿にハンコを10日間も押さず助役からきついお叱りを受ける自堕落な職員もいたのです。

 新しい役場庁舎がが出来た少し以前ですが、役場の人事管理がうるさくなって、出勤状況や勤務評定のためにタイムカードが導入されることが検討されました。民間企業では既に導入されていたのに役所では職員組合などの会合で、やれ賛成やれ反対と思い思いの意見をいいあった長閑な時代でした。タイムカードを出勤時毎朝挿入すると、出勤時間が正確に記入されます。私にとってこれは随分不都合なものでした。というのも私は毎朝12年間朝5時から8時まで、まるでフレックスタイムのようにシーサイド公園の海岸清掃や水槽掃除をしていたものですから、時には長引いて8時半に間に合わないことがあるのです。仕方がないので人事管理の担当者と相談し、ペン書きでそのことを記入させてもらいました。

 そんな長閑な経験からふと思ったのは、タイムカードを導入した時、職員の行動がタイムカードに合わせるようになったことでした。ハンコを押すアバウトな役場の暮しがタームカードという機械に支配されたのです。それまで遅れ気味に来ていた人は飛び込みにも似た行動で遅れなくなったことは立派というより当たり前になりましたが、早く来て掃除などをしていた人がタイムカードに合わせるよう遅く来るようになりました。また、タイムカードさえ押せば何をしたかなどはカードに記入されないので、登庁・退庁さえ記入すれば、後はキセルのような仕事ぶりになった人もいました。

 タイムカードという機械の導入によって確かに便利になり一見人を支配したように見えますが、その陰には機械で見えない部分の÷知恵も働くようになるのです。要は自分の生き方をどう戒めて生きるかにかかっているのだと思うのです。出勤簿が懐かしくなりました。

  「出勤簿 なんて帳簿が あったっけ タイムカードに 懐かし日々が」

  「通用門 未だに利用 こりゃいかん 次から堂々 正面玄関」

  「役場から 見ていた外も この頃は 外から役場 見える身分に」

  「出勤簿 押したハンコが 今もある これで仕事の 全て決栽」

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