shin-1さんの日記

○久しぶりの野村町と限界集落勉強会

 高知県との県境に位置する旧野村町は、合併して西予市となりましたが、かつては分水嶺を有する大野ヶ原で「大野ヶ原モゥーモゥー塾」などをやって、旧中島町とともに度々訪ねる土地でした。その町が三瓶町や明浜町などの海の町、そして城川町と合併してとんでもない広さになってから早くも3年余りが経ちましたが、「限界集落勉強会」をやるから話に来ないか」という誘いを受け、合併してから始めて訪ねました。

 久しぶりに訪ねた野村町へは、大洲から肱川町経由、大洲から白髭経由、大洲から宇和経由の三本のルートがありますが、私の場合はこれまで殆ど大洲の菅田を通って肱川、鹿野川ダム沿いというコースを通っていました。途中トイレ休憩した大洲メッセで知人に会い、「何処へ行くの」と尋ねられたので「野村町へ行く」と話すと、「そりゃあ断然白髭を通った方が早い」と助言を受けたので、急遽その道を選んでしまいました。大洲から白髭に通じる国道441号は高速道路大洲・宇和間のインターチェンジが出来ているため、高くて立派な橋脚なども見えて、曲がりくねった道路ながらゆっくりと走りました。15分も走ってトンネルを出るともうそこは野村町なのですが、そこから更に立派に改良された国道を走り、意外と早く朝霧湖と命名された野村ダムまで出ました。少し時間的な余裕があるので展望台付近の駐車場に車を止めそこら辺を散策しました。野村町は「ミルクとシルクの町」というキャッチフレーズが定着していましたが、その名が示すとおり展望台付近には県下有数の畜産地を誇示するように大きな牛のモニュメントが建っていました。碑文によると畜産50周年の記念に造られたようでした。私はこの付近から見下ろす野村の町の風景が大好きで、何処か九州大分の由布院の牧歌的遠望に似ているのです。

(湖畔の展望台付近に設置された乳牛のモニュメント)
(朝霧湖の展望台)
(朝霧湖の遠望)
(牧歌的な野村町の市街風景)

 カーラジオでNHKの大相撲大阪場所の中継を聞きながら走りましたが、山の中なので電波の状態が悪く時折しか聞こえませんでした。それというのも野村町出身の玉春日が大好きで、間もなく取り組むのです。上手い具合に朝霧湖の展望台付近は視界も開け連覇の状態も抜群で、そのうち始まりましたが、結果的には引き倒しというという彼独特の技で見事白星です。初日、二日と連敗スタートだっただけにホッとしました。彼は相撲界でも30歳代ながら最高齢の部類なのですが、ひたむきな努力を重ねて居間の地位を保っています。峠を越え大関や横綱などは望むことが出来ませんが、一日でも長く土俵に上がっていて欲しいと願っています。野村総合支所の入口には相撲処とあって幟が立ち玉春日の星取表がありました。二日間の黒星は既に書き込まれていましたが、最新の白星はまだ書き込まれてなく、少し不満でした。

(限界集落勉強会)

 さて今晩の「限界集落勉強会」は10数人のこじんまりした会でした。1時間半ほど私が話題提供のような話をしてそれから食談だそうで、参加者の殆どは顔見知りとあって和やかそのものです。限界集落の勉強会も既に6回の学習会をやっていて、限界集落の問題はこれまでの講師によって語りつくされているような感じが、原田課長さんから送られて来た議事録で読み取れるので、少し話題を変えて話しをしました。基礎知識がしっかりと頭に入っているので、みんな納得顔で聞いてくれました。また5月に山奥組の総会に招かれているので、そこら辺を考えての話に終始しました。

 この会を仕掛けた会長の井上謙二さんは都合であいにく欠席でしたが、原田課長さんは今年度で退職ながらこの日も大張り切りでした。明浜町の企画課長を長らくしていましたが、合併のため最後は海から山へ異動となり、野村総合支所の福祉課長で終わるのも何となく彼らしいと、夢工房の仲間のこれからの人生に、心から大きな拍手を送りました。

 この日は山奥組から井上登さんのも顔を蜂に刺されながら参加してくれました。蜂の話で盛り上がりましたが、私の蜂を飼う夢は彼の話を聞いて少し萎んだようです。でも諦めずにやりたいものです。

 「動物(牛やイノシシ)を数に入れたら、愛媛県で一番人口?が多いかも」なんて、野村弁丸出しのとっぽ話で胸襟を開きながら大笑いし、元来た夜道をタヌキ5匹に出会いながらわが家へ帰りました。只今と声を掛けた妻の顔が美しかったです(笑い)。

  「馴染み顔 集まり話す 勉強会 何処かの町の 人に見せたい」

  「蜂刺され 男前顔 腫れあがり それでも会いに 嬉しい限り」

  「嫌いだと 限界集落 いう言葉 それでも事実 田舎は疲弊」

  「牛の数 足せばこの地は 愛媛一 そんなトッポも 酒の勢い」

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shin-1さんの日記

○失くした名刺入れ

 私は名刺入れを三つ持っています。一つは常用の名刺入れで、40枚くらい入ります。二つ目は木で出来た見仕入れで、木のカバンにこだわる時に「木になる名刺入れ」何て洒落た使い方をするため、カバンの中に忍ばせて歩いています。もう一つは前二つの失くした時に使う予備の名刺入れです。これまでにも名刺入れはあちらこちらで紛失劇を繰り返し、そのつど使い分けをしてきました。

 一週間ほど前常用の名刺入れが突如として背広の内ポケットから消えたのです。思い当たる場所を色々と探したのですが発見されず、先日出かけた福岡博多と秋田能代へは木になる名刺入れで望みました。本当はこの名刺入れが一番好きなのですが、この名刺入れには僅か12枚しか入らない難点があるのです。そのため名刺を一箱着替えを入れるカバンに忍ばせて出かけましたが、荷物を両手で持つため名刺の重さが加わって少し難儀をしてしまいました。

(右端の名刺入れが今回発見したもの、真ん中が木になる名刺入れ、左が昔使っていた予備の名刺入れ、いずれも私にとっては外交官くらい大切な持ち物です)

 妻に旅先から電話で名刺入れを探すよう依頼していましたが、妻も捜したものの見つけることは出来ませんでした。今日もう一度自分で探してみようと居間、書斎、車、煙会所などをしらみつぶしに探して回りました。やはりないなあと諦めかけていたら、車の座席の下に転がっているのです。「やったー」と思わず嬉しくなって叫んでしまいました。多分車に乗り背広を脱いで後部座席に置いた時すり落ちたものと思われます。この名刺入れは私が代表を務める21世紀えひめニューフロンティアグループが、無人島キャンプなどの活動を通して環境保全教育に功労があったと、コカコーラから「環境教育賞」なるものをいただいた時、副賞などとともに、メンバーに記念品としていただいたものなのです。故に大切に使ってきました。いいものなのでしょうか、十年以上使っているのに中は少しくたびれて破けていますが、外面はしゃんとして、終身使えるような立派さなのです。外にはコカコーラの透かしが、中にはイニシャルが入っていますが、私にとっては忘れられない思い出の品物なのです。

 最近は歳のせいでしょうか、忘れ物が多いとブログにも書きましたが、全国を渡り歩く私にとって名刺入れは自分の代名詞のような大切なものなので、無くなれば本当に困ってしまうのです。私の友人でえひめ地域づくり研究会議事務局長の岡崎さんも私と同じような瓜二つの名刺入れを使っていますが、彼からも一度だけ「名刺入れを探している」と電話がかかってきたことがあり、「名刺入れを失くすのは私だけではないな」と、人ごとながら安心した事を思い出しました。

 名刺入れには私の名刺とともに、出会った人からいただいた名刺が数枚入っています。人からいただいた名刺はその都度名刺入れから取り出し、毎日三枚のハガキを書く習慣に合わせて整理をするよう心がけていますが、いただいた名刺はその場限りで殆どの名刺は書斎の書棚の一角の名刺置き場に入れられ、何年かすると廃棄処分になるのです。名刺を整理すると面白いと友人から言われていますが、そんな暇と余裕もなく、うず高く積まれています。

 無くした名刺入れの発見によって、名刺入れに入ったままだったいただいた名刺を見ながら、早速遅ればせな返事のハガキを書き、メールを送りました。自分の加齢とともに始まったボケた人生を嘆きながら、これからは絶対この名刺入れを失くすまいと、心に誓いました。

  「失くしたる 名刺入れ出て 一安心 貰いし名刺 頼りにハガキ」

  「これだけは 何としてでも 見つけねば その執念が 見事実りて」

  「俺だけと 思っていたら 友人も 同じ失せもの 探して苦労」

  「貰い物 故になくしちゃ いけないと 心に誓い 肌身離さず」

 

 

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