shin-1さんの日記

○ポカポカ陽気の水ぬるむ頃

 桜の開花も間近となって、海沿いの町にも春がやって来ました。もう間もなく海岸に沿って伸びる国道には桜の帯ができることでしょう。今日は孫朋樹の守りと遠来のお客様がやって来るため、限界集落の勉強会は残念ながら欠席しました。そのお客様も午前中に帰り、昼は妻の用意してくれたお弁当を孫と二人人間牧場のウッドデッキで広げ、長閑なひと時を過ごしました。早いもので孫ももう5歳です。食欲などは私より旺盛で、大きなお結びを6個用意していましたが、私は2個、孫は3個もペロリ平らげ、おかずも殆ど孫が食べてしまいました。

 今日は人間牧場に植わった周りの木々の下枝の剪定です。防風垣から生長した杉の木なのでいびつな格好をしていて、下枝が風景を遮っているのです。木によじ登ってその下枝を切り落としました。多分もう大風も吹かないので、防風より景観なのです。海に向って立つ水平線の家の右側に立つ杉の下枝を切り落とすと、それは見事なやぶ椿の木が現れました。このやぶ椿は少々晩生なのか春三月を終りだというのにまだ蕾が多く、これから花盛りとなるのです。最近は洋風の椿が主流となっていますが、やぶ椿のような二本の在来種も捨てがたい味があり、椿の真赤な花が落ちた姿もこれまた素敵な風情を醸してくれるのです。

 今日は茅の剪定も行いました。茅とはススキのことで、水平線の家の屋敷には何年間も放任していたため無数の茅が根を張っていましたが、新築の折全て根こそぎ抜根してしまいました。一株だけ風情を演出し下にある墓地を隠すため残していましたが、これがまた四季折々の顔を見せてくれるのです。春先の新芽、夏の涼しさ、秋のススキ、冬枯れの寂しさなどたった一株だのに季節を感じさせる一品です。今はすべて枯れてまるでドライフラワーのようです。

 草刈機を回して根元から刈り取りましたが、その硬いこと硬いこと、容易には刈り取れませんでした。それでも10分ほどで狩り払い、その残茎はその横に植えたブルーベリーの畑の草押さえとして入れました。

 孫と二人でお昼寝タイムを楽しみました。最近は孫もお昼寝がなくなりましたが、私は昨晩が遅かったため少し眠気をもよおしました。二人で二階のロフトに上がり、通称寝部屋と呼んでいる畳一畳の部屋に入り、寝袋にくるまって毛布を被り、二人が一時間ほど眠ったのです。孫はまるで湯たんぽのようでポカポカしてとても気持ちのいい至福のひと時でした。

 帰りに孫のリクエストに応えて海岸で磯遊びをしました。今日の海も穏やかで、海岸にはワカメが沢山流れていていました。磯遊びをしている他の人は水に濡れながらワカメを採っていましたが、私はいながらにしてビニールの袋にいっぱいワカメを集めました。孫は相変わらずカニやヤドカリなどを探して石を剥いでいました。カニを見つけては大騒ぎしている姿を見ると、こちらまで嬉しくなるのです。

 帰宅して仕事から帰った妻と一緒にワカメを茹で、庭に張ったビニールの紐の上に干してゆきましたが、あいにく夕方からポロリポロリと雨が落ちだし、「あなたがこんな真面目な事をするから雨が降る」と笑われてしまいました。ああーなげかわしいですね。

  「孫の守り 実は私を もて遊ぶ 野山海まで 日がな一日」

  「湯たんぽを 抱いているよな 孫と寝る 昼のひと時 ついうとうとと」

  「浜に出て ワカメ大漁 意気揚々 挙句の果ては 茹でて干す羽目」

  「子どもには 浜での遊び 新鮮か はしゃぐ孫見て 首をかしげる

  追伸

  今夕、妻が先日採ってきたニナを塩茹でしました。爪楊枝でほじり美味しいと二人で食べましたが、孫は何故か食べず、そのうち目にいっぱい涙をためて泣き出しました。聞けば「せっかく採ったニナを茹でて食べるのは可哀想だというのです。困った私たちは食べるのを止め、台所に今日採ったニナがあるのを見せました。バケツのカニはカニやニナ、それにハゼが2匹います。安心したのか泣くのを止め、私の布団に潜り込んで、カニの話しを聞きながら寝ました。どう教育したらいいのか、突然の出来事に戸惑いました。

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shin-1さんの日記

○好きなことば

 色々な本を読み、色々な言葉に出会い、色々と書き留め、色々な場所で思い出して活用してきましたが、それらの殆どはいつの間にか忘れ去ってしまいました。また自分もそんな色々な言葉に感化されて、色々な言葉を作り、それもた自著本に書き留めたりして、自分以外の人が私と同じように色々な場所や場面で利用したと、風の頼りに書いていました。

 一昨日私の元に一通の封書が届きました。埼玉県熊谷市の龍前宏さんからです。埼玉県での私の講演が縁で付き合いが始まり、不定期ながら自分が雑誌に書いたコピー文とレコーダーテープが届くのです。龍前さんは相当博学で愛読者らしく、毎回ドキリとするような文章を送ってくれるのです。それは多分最近読んだどの本よりも多い情報量で、私の硬化しつつある頭脳を叩き割って、新しい知恵を注入してくれるのです。

 今回は「私の好きな言葉」と題して、成田公民館長に就任以来隔月発行されている「公民館だより」の片隅に、読書遍歴を通じて、琴線に触れた先人達の名言を掲載していた幾つかの言葉が届きました。

 世の中にもし幸福というものがあるとすれば、それは他人に喜びを与える以上の幸福はない。そして、そのために、人はどれほどのことを忍ばねばならぬものだろうか。

                       白州正子著「銀座に生き、銀座に死す」より

 欲なければ一切足り、求むるあれば全て窮す。

                       良寛和尚のことば

 ふりむくな、ふりむくな、うしろには幸福はない。

                       寺山修司詩集より

 一夜の楽しみは酒、ひと月の楽しみは淡い恋、一生の楽しみは友。

                       「戦艦大和の最後」の著者、吉田満のことば

 どんなに賢くとも、にんげん、自分の背中を見ることはできないんだからね。

                       山本周五郎著「さぶ」より

 湖に浮かべたボートのように、人は後ろ向きで未来に入ってゆく。目に映るのは過去の風景ばかり。明日の景色は誰も知らない。

                       フランスの詩人 バレリーのことば

 互いに非難することがあっても、非難できる資格が自分にあったかどうか、あとで、疑わしくなる方がいい。

                       吉野弘 作詩「祝婚歌」より

 人間は二度と生まれてはこられない。又、そんなにいつまでも生きていられるものでもない。一日一日無理をせず、最善を尽くして生きてゆこう。

                       昭和天皇侍従長 入江相政著「不如意の美」より

 人の美しさは顔形だけではない。美しいことばを使い、美しい表現力を持つこと。わからない言葉や文字に出会った時、おっくうがらずに辞書を引き確かめる。その積み重ねが人の魅力をつくる。

                       美容学校長 小暮実千代のことば

 人間が身体を養うのに食べ物が必要なのと同じように、人の心や魂にも養分が必要だ。そういう魂の食べ物が美術であり、音楽であり、演劇であり、文学なのだ。

                       作家五木寛之のことば

 人と人とは互いに理解しなきゃ仲良くはなれない。こっちが胸を広げなきゃ相手も胸を広げない。それは人間のルールだ。

                       柳家小三治(噺家) 一冊の本より

 何千億か、何万億か、永遠の宇宙に浮かぶこの地球。ほんの一瞬だけ生きる人間、その人間が一生の間に使うものの量というものは、ほんとうにわずかなものだ。

                       沢村貞子著「老いの楽しみ」より

 そろそろ自分自身が感じる幸福を探すことだと思います。他人に見せるための幸福は、所詮は薄っぺらなものでしかない。お金や物にとらわれるのはもう止めにしませんか。個人としての自分、そして自分がやるべき仕事、その一点を見つめることで、きっと幸福の芽が顔を覗かせると私は思います。

                       新藤兼人(九十六歳)著「いのちのレッスン」より


  「魂を 揺さぶるような 言葉抄 俺はまだまだ 門前小僧」

  「なるほどと 合図槌打ちて 文を読む 一歩前行く 言葉数々」

  「人生の 奥行き間口 大きくて 気付かぬままに 死んで行くかも」

  「人間は 言葉を餌に 生きている 言葉次第で 生きる勇気が」 

       

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