shin-1さんの日記

○東屋やっと完成

 10日ほど前から始めていた日曜大工による東屋の工事がやっと完成しました。今日は朝から西村ジョイへ材料を買いにトラックで親父と二人出かけました。この店は材木も品揃えが豊富で親父と行くのは3度目ですが店の広さに目をパチクリさせながらお目当ての材料を購入しました。この東屋工事は親父が殆ど資金を出してくれましたが、ウッドデッキの材料や防腐剤などの一部は私の出費です。酒も飲まない私ですのでそんなに腹が痛むほどの出費ではないにしても、今月は妻の誕生日などで出費がかさみ、小遣いも底を付きかけているのです。

 今日の作業は貯水タンクを改造した地下室の蓋作りと地下室の掃除です。親父は持ち前の器用な腕で蓋作りに挑戦しましたので、私は地下室に入って中腰で掃除をしました。腰の具合が思わしくない私にとってはこれが中々の重労働で、埃まみれになり汗びっしょりです。最近まで水を貯めて池にしていたので綺麗に洗って乾かしたつもりでも乾燥するとコケ類がびっしり付着し浮かび上がっているのです。最初はボウズリで擦っていましたが一向にらちが明かないので、思い切ってトタンの切れ端で擦りました。よく落ちるのは良いのですが今度は粉塵が立ち込めて、それが汗とくっついて体中泥まみれになりました。最後が箒でかき集め掃除機で吸い取り1時間余りの作業を終えました。

 親父の作った地下室の蓋も立派なもので、後は地下室内の壁側に木製のスノコを作って敷けば色々なものが収納できるのです。さてこの地下室に何を入れればよいのか考えてみました。当面は今年大豊作で大量に作った梅干しの瓶を収納したいと思っています。何せ今年だけでも10本の容器瓶があるのですから、何とかしなければなりません。都合のいい事に来週末には母親の七回忌が控えていて、妻は折に触れ家の片づけを始めたばかりなので、多分賛同するでしょう。更に来年からもし梅が沢山出来たら梅酒も貯蔵したいと思っています。今年度はとりあえず水平線の家へ貯蔵しているのですが、これ幸いで地下室へ移動したいと考えています。

 僅か10日ほどで親父と私の合作日曜大工仕事は無事終わりました。今は戸外では日中30度くらいまで気温が上がり、新設した東屋の下は別天地です。ここに背もたれ椅子を置いて涼みながら瞑想にふけるのもまた乙なものでしょう。まもなく中秋の名月がやって来ますが、出来れば風情も楽しみたいものです。

 昨日気がついたのですが、私設公民館煙会所の南側には濡れ縁があり、東屋との間は人が一人やっと通れる通路になっています。煙会所の濡れ縁から東屋屋内ウッドデッキへは一跨ぎできるのです。これは便利で、煙会所と一体的な使い方が出来るのです。ラッキーとばかりに何度も煙会所とウッドデッキの間を飛び越えてみました。面白いです。

  「親子にて 日曜大工の 東屋が ついに完成 器用なもんだ」

  「濡れ縁を 飛び越えデッキ 使えるね 囲炉裏の部屋が 更に大きく」

  「地下室が 出来て梅干し 収納す 既にスノコを 作りし親父」

  「昔なら 坂本龍馬 かくまえリ 地下室今は 梅干し小屋に」


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shin-1さんの日記

○若松希心物語のはじまり

 人間の生命誕生は生まれてくる10月前に遡りますが、母親の胎内に宿る間の10月は母体以外知る由もないので、外に出た瞬間の誕生が人間としての物語のはじまりとなります。丁度2週間前の8月31日午後3時半頃、息子から一本の電話がかかってきました。「お父さん子どもが生まれた」と興奮した様子で、「母子ともに健康」と言葉をつなぎました。私は「そりゃあよかった。おめでとう」といって電話を切りました。前の日の朝から陣痛が起こり前の日の夜妻と病院に見舞った時は破水まで始まっていたので、息子嫁にとっては長い長い一夜を過ごしたことでしょう。付き添っていた息子嫁の母親も精根尽き果てた感じではなかったかと、まずは安堵の胸を撫で下ろし、若松家6代目の誕生を待ち望んでいた親父の隠居へ行って報告をしました。親父も内孫しかも男の子の誕生に大そうな喜びようで、曾孫12人目の誕生だと指折り数えて見せました。息子からの電話によると出生は午後2時50分、体重は3435グラムだそうです。

 私は誕生の直ぐ後に岩手県室根への旅が迫っていて、病院で生まれて間もない赤ちゃんを僅か1分見ただけでおいとましていたので、嬉しい反面旅先は気になって仕方がなく、旅先から何度も家へ電話をかけ妻から様子を伺いました。難産で感染症にかかるかも知れないと誕生直後から保育器での生活を余儀なくされたのですが、5日後に息子嫁が退院、その明くる日(先週の土曜日)赤ちゃんが相次いで退院し、息子の家は蜂の巣をつついたような賑やかな暮らしが始まったのです。子どもの誕生で長男夫婦は初めて父親と母親になりました。これから先の長い孫の人生を親として歩み続けて行くことでしょうが、親子共々の健やかな成長を願ってやみません。

(私に抱かれた赤ちゃん、まだこの頃は名前が決まっていませんでした)
(親父に抱かれた希心君、すやすやと眠っています)

 先週の土曜日、誕生とお見舞いを兼ねて退院間もない息子のマンションを親父を連れて訪ねました。親父は誕生して一週間ぶりの孫との対面を楽しみにしていて、抱かせてもらったり記念写真を撮ってもらったり、いい一日となったようです。その写真が昨日息子からメールで送られてきましたが、残念ながらダウンロードに失敗し紹介することができず息子の力を借りねばならなくなっています。(その後ダウンロードが出来たので写真二枚を追加しました)


(希心と名前の付いた誕生10日目の孫、相変わらずよく飲みよく寝ます)

 昨日は松山のワシントンホテルで講演会があったので、少し早く家を出て息子のマンションに立ち寄りました。運良く息子嫁のお母さんが夕食の準備で来られていて、相次いで妹さんもやって来て賑やかな会話がありましたが、当の本人はスヤスヤ眠って何食わぬ顔でした。

 二日前息子は役所に籍を入れたそうです。名前は希望の希と親一心の一字を貰い「希心」(きしん)と名付けました。変った名前だと思いましたが、私も自分の子どもの名前に私の一字「一」を入れて一子・一心・一生・一公と名付けて、親父の叱責をかった経験があるだけに大きなことはいえず、「うんいい名前だ」と息子を褒めてやりました。それにしても息子嫁は幸せです。やはり姉妹愛とでもいうのでしょうか、妹さんが何かにつけて訪れ世話を焼いてくれているようですし、義理の姉である娘も3ヶ月前出産した子どもを連れて毎日赤ちゃんをお風呂に入れに足繁く通っているようなのです。娘は助産婦なので今回のお産についてもわがことのようにアドバイスをして義姉ぶりをいかんなく発揮しているようです。

 何はともあれ誕生して2週間が経ちましたが、母子ともに健康で母乳も沢山出るとのこと、難点は夜と昼を逆転していて、夜はマンション中に聞こえるのではないかと思われる程の大きな泣き声が聞こえるそうです。3ヶ月前に生まれた孫尚樹も、間もなく5歳になる孫朋樹もみんなすくすく育っています。

  「元気よく 泣いて笑って 糞ひって スースー居眠り 孫はいいもの」

  「初孫に カメラ向けたる おじいちゃん まるで幼稚語 目尻を下げて」

  「子は女 孫は男だ 嬉しいな 嫁の親父の 喜び格別」

  「親一字 授けし名前 戸籍入る 終生使う 君のイニシャル」


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shin-1さんの日記

○夢を実現するためのサイクルって

 昨日人間牧場で開いた商工会女性部の研修会に参加した人からインターネットのメールで、私の話に対する感想が寄せられました。要約すると次の通りです。

 「あなたの話には必ず親父ギャグのような笑いの落ちが付いていて思わず笑ってしまいました。とても楽しいお話でした。わたしもあんなに楽しく話せたらどんなにいいかと、あなたが羨ましくなりました。でもよくよく考えてみると夢を実現するにはそれ相応の人に言われる努力がいるのですね。イチローさんの話納得でした。天才バッターといわれるイチローさんでさえ100回打席に立っても35回しか打てず65回は失敗していると思うと失敗なんか恐れていては何も出来ないということですね。

 昨日の話しでは失敗や反対を乗り越えて様々な成果を出された苦労話を聞きました。[夢を実現するためのサイクル]を伝授して欲しいのですが、宜しくお願いします」  ○川×子

 このメールを貰ってはたと困りました。だって私にはそんな秘伝など何もなくただがむしゃらにやって来ただけなのです。そう思いつつ何か考えなければなるまいと考えてみましたが、浅はかな知恵ではいい考えも浮かばず、ギブアップしてしまいました。

 思うに夢を実現するサイクルを言い表して妙な言葉があります。ポール・J・マイヤーの「鮮やかに想像し 熱烈に望み 心から信じ 魂を込めた熱意を持って行動すれば 何事もついには実現する」という言葉なのです。その繰り返しが夢を実現するためのサイクルであるような気がするのです。しかしこの言葉では説明できない部分もあって、私流に考えてみました。

 鮮やかに想像するというのは意識やイメージを頭や心に描くことです。それらは目に見えない部分ですから自分にも周りの人にも残念ながら見えることはないのです。ここでその意識やイメージを絵や言葉に表現してみる作業が必要になってきます。言葉にしたり目に見えるようにすると全体像がはっきりとしてきて、熱烈に望むようになります。その次の作業がまた必要になってきます。それを手に入れるための計画づくりです。どんな人と何を使って何を手に入れたいのか、必要な費用と時間、関係調整など様々なラインとスタッフが組まれます。そこに信念が生まれ行動という次の作業に取り掛かるのです。

 やがて行動から生まれた成果と問題点が反省評価され次の夢やイメージへとサイクルが回るようになるのです。サイクルですからどの部分が欠落して回転は続かず、遠心力を増すようにはならないのです。私自身が手掛けた夕日も鮮やかに想像するまでに気付きの部分で随分苦労しました。自分で気付かないのに私の潜在能力の中にある夕日に気付かせてくれたのは外部の人でした。そして全国を旅して色々な地域の夕日を見る事によって鮮やかに想像するようになったのです。

ポール・J・マイヤーの言葉の欠落部分をサイクルに組み込んだのですから、これは大変な仕事でした。でもそういうサイクルの一つ一つの部品をしっかりと揃える作業が功を奏し、自称日本一の夕日となったのです。

 夢を実現するサイクルは、継続して習慣化するというもう一つの工夫が必要である事を付け加えておきます。あなたも挑戦してみてください。メールが届いた女性にこのような事をメールにしたためて発信しました。

  「成功と いえるかどうか 分らぬが 俺はこうした メールで発信」

  「牧場で 講演聞いて メールする 奇特な人が いればいるもの」

  「四十人 中の一人で 上出来だ 心に響く 話の成果」

  「成功は 本を読んでも 出来はせぬ 結局自分 やるしかないな」 

 

 

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shin-1さんの日記

○夢実現のサイクルを因数分解する

 人にはそれぞれ多かれ少なかれ夢があります。巨人・大鵬・玉子焼きという時代に育った私たちは、果たせぬ夢とは知りながら巨人や大鵬に憧れ、いずれ夢を掴もうとその夢を実現するため、様々な事を考えそれを言葉や文字に表したり行動しながら夢を勝ち得ようと努力してきました。しかしその夢は余りにも大き過ぎて結果は見果てぬ夢となり、気が付けば社会の片隅にひっそりと生き、気が付けば余命いくばくもない生涯のたそがれ期を細々と生きているのです。夢にはこのように夢で終わってしまう大きな夢もあれば、ささやかな小さな夢であっても実現した夢もあるのです。私はそのささやかな小さな夢の実現について数字で考えてみました。

 10パワーの大きな夢があると仮定します。この夢を実現するために5回の継続・反復努力をしたとします。その成果を数字に置き換えると10×5=50となります。もう一つは1パワーのささやかな夢を仮定しましょう。この夢を実現するため365回の継続・反復努力をしたとします。その成果を数字に置き換えると1×365=365となります。その比較は10×5<1×365となります。数字や数学に弱い私ですが、この数式はまちづくりにかかわって行動する時いつも頭に入れて行動してきました。

 私にとって自分で自分を褒めてあげたい実践事例が三つあります。その一つはシーサード公園の掃除です。朝五時から8時までの役場に出勤する前の短い時間を選んで毎日3時間、12年間もの長い間砂浜やミニ水族館水槽の掃除をしました。県外に出るひもあったりしたものですから、365日全てではありませんでしたが、年間330日くらいは掃除をしました。私の12年間の仕事量は3時間×330日×12年ですから11880時間となります。仮に安く見積もって時給700円と仮定すると驚くなかれ8316千円となるのです。手前味噌な話ですが、これだけの換算金額を奉仕した人はうちの町の役場には余りいないのではないかと自負し、誇りにさえ思っています。

 二つ目はハガキです。広島の半田さんの感化を受けてハガキを書いています。一日3枚ですがもう20年も続いています。これを数字に置き換えると3枚×365日×20年=21900枚となります。凄い数字です。その殆どは夕日をあしらったハガキでしたが、デジタル万能な時代に乗り遅れたようなアナログな情報伝達手段ながら、今もハガキを書き続けています。ちなみに21900枚に切手やハガキ代42円~50円(ここでは中間を取って45円とします)を乗じると3×365×20×45=9855百円となるのです。これも手前味噌な話ですがこれだけの換算金額を自前で自分の町を宣伝した人はうちの役場には余りいないのではないかと思うのです。

 三つ目はブログです。丁度2年前の9月にに始めたブログも2年になりました。パソコンに弱い人間を自負している私には自信もなく始めた習慣です。とりあえず2年間毎日書こうと思いました。残念ながら県外へ出ている時にはパソコンが使えず書けない日がありますが、それでも毎日2本程度のブログをかけるまでに成長しました。一日2本×300日でも一年600本、つまり2×300×2=1200ページもの文字文章ががストックされた事になるから驚きです。

 もう一つこの数式が当てはまるのはまちづくりの現場です。少し悪い表現ですがまちづくりは「1人の気違いと10人の馬鹿」がいれば何とかなるといわれています。しかし10パワーの人が5人いるよりもたとえ1パワーでも365人いる方が、まちづくりの計算上は上手くいくのです。まちづくりの世界では人づくりやリーダー養成が持てはやされていますが、そうした特別な人に依存し過ぎた結果、かつての繁栄の姿は見る影もないという現場をよく見かけます。地域住民がしっかりと大地に根を下ろして長続きしてこそのまちづくりです。この場合も10×5<1×365の計算が成り立つのです。

  「数字など 弱い私が 掛け算で 説明するは 自殺行為だ」

  「コツコツと ただコツコツと 積み重ね 年数経つと えらい数字に」

  「洪水を 起こす大雨 基たどりゃ 一滴の雨 なるほどなるほど」

  「夢などは かなわぬものと みな思う 小さな事を やれば出来るぜ」


 

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shin-1さんの日記

○小さな集会ですがいいですか

 日本銀行の中にある金融広報委員会から講演依頼が舞い込みました。普通私たち愛媛県で活動している金融広報アドバイザーは県外へ招かれることは滅多にありませんが、「小さな集会でいいですか」と念を押されて了解し昨日出かけて行きました。何せ高松市内といっても高松空港が直ぐ傍にあるという郊外の学校です。参観日を利用した家庭教育学級でPTA会員さんに子育てとお金の話をするのですから参加者も30人を切るような小さな集会でした。「小さな集会でいいですか」と聞いても普通は行って見るとその言葉が謙遜だったりするのですが、昨日は紛れもなく小さな集会でした。

 私の名前や演題は黒板に書いてあって、まさに手づくりという集会です。最後は30人ほどになっていましたが、最初はどうなることかと思いました。それでも皆さん熱心にメモを取り、質問も子どもの小遣いについてのいい話でした。人数を集める愛媛県内の集会になれている私にとって、校長先生も教頭先生も出席されない集会は少し違和感を覚えましたが、それでも自主的にPTAの役員が運営するやる気の感じられるいい集会だったと感じつつ、片道3時間、往復6時間の道程を来た甲斐があったとほのぼのとした気持ちで、来た道とは少し違う国道377号線を走リ、大野原インターから高速道路を走って帰りました。

 腰を痛めていたこともあって、少々難儀をした旅でしたが、桜三里のトンネルを越えたころ、綺麗な夕焼けが目の前に現れました。運転中なのでじっくり夕焼けを鑑賞することは出来ませんでしたが、膝横にいつも置いているデジカメで安全を確認品がr思わずパチリと撮りました。

 川内インターチェンジを越えた辺りに来ると高速道路の真ん中にドラマチックな大きな秋の夕日が今まさに沈まんとする最中でした。

 今頃は夕日のメッカわが双海町でもこの綺麗な夕日を沢山の人が見ているのだろうなあと思いつつ、車を走らせました。もう5分早ければ伊予灘サービスエリアで自慢の夕日を見れたのに残念としか言いようがないのです。その伊予灘サービスエリアに差し掛かったところ、ズボンのポケットの携帯が鳴り始めました。仕方がないのでサービスエリアの駐車場に車を止めて電話に出たら、広島の友人からでした。「今双海町のシーサイド公園で綺麗な夕日を見ました。あなたがいつも自慢している通りの夕日を見て感動しました。これから広島へ帰ります。お陰様でいい旅のお土産が出来ました」と感謝の弁でした。

 彼は先を急いでいるため、これから会おうとの私の誘いを断って私とすれ違いとなりました。でも嬉しい電話でした。多分今頃はこの下辺りを走っているのだろうなあと思いつつ伊予のインターで降りました。

 岡山・香川と2日間続いたハードな旅はやっと終わりました。この上は早く腰を直していい身体でいい旅を続けたいと、日ごろの不摂生を自分自身に詫び、健康への誓いを新たにしました。

  「小さくも ほのぼのとした いい集会 みんな熱心 俺も熱弁」

  「帰り道 真赤な夕日に 顔染めて 思わずパチリ 車の中から」

  「あの夕日 やっぱりメッカで 見たかった 綺麗だったが 綺麗さ半分」

  「電話にて 夕日の御礼 言われたが いえいえどうも 言っていいのか」


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shin-1さんの日記

○今日も忙しい一日でした

 昨日の夕方出張先の高松から遅くに家に帰ると、妻が親父の託をいいました。「このところの雨不足で冬野菜の作付けや種蒔きが遅れていて、雨を待っていたのでは大根も育たないので、明日朝種を蒔くから手伝うように」というのです。そういえば去年のこの頃には青々とした大根の双葉が生えていたような記憶があるのです。親父は池を潰した上に建てた東屋の工事で、私は講演活動や腰の具合が悪いことなどを理由に、今年の種蒔きを渋っていましたが、ついに重い腰を上げたのです。

(一面真っ白な石灰を振り撒いた菜園)
(ネギも綺麗に植え替えられていました」

 今朝6時に、自宅横の家庭菜園へ行ってみると、畑はまるで雪が降ったように一面真っ白でした。親父は妻に頼んで近所の肥料屋さんに石灰を買いに行き振り撒いたのだそうです。実はこれが野菜作りにとっては大事な作業で、酸性化した土地を中和したりアルカリ化しなければ、作物が上手く育たないのです。朝ご飯を食べてから作業をしようと親父に伝えて妻と二人で朝ご飯を食べました。朝ご飯を既に終わっていた親父はその間耕運機を引っ張り出して中耕しせっせと畝を立てているではありませんか。90歳とは思えない健脚ぶりで、30歳も歳が若い私など足元にも及ばないのです。やがて畝に一本の糸が張られ親父が鍬で掘った溝に私が種を蒔いてゆくのです。大根の種はかなり小さく、目の薄い親父ではとても10センチ間隔で種を蒔くことはできないのです。ましてやカブの種となると益々小さくて、私でさえもかなり苦労をしました。私が蒔いた種を親父は薄く土を被せ、その上に籾殻を蒔いて保水を補助をするのです。

 種蒔きが終わったので私は風呂に入って身支度を整えシーサイド公園へ出かけました。地元の新聞の取材を受けるため9時に待ち合わせをしていました。今日の取材は人間牧場なので別々の車で下灘コミュニティセンター駐車場まで行き、新聞社の渡部さんを乗せて山道を登りました。渡部さんは菊間町松尾地区出身とか、旧菊間町役場の渡部さんとは同級生だと聞いて二度びっくりです。松尾地区へは何度も足を運んだだけに懐かしさも一入です。取材が終わって渡部さんをトラックに乗せ下山して別れ、私は再び人間牧場へ向かいました。今日は午後中予地区の商工会女性部の指導者研修会が人間牧場で予定されているのです。それまでに掃除をしたり、風呂を沸かしたりと思っていたのですが、時間的な余裕がなく足湯を断念せざるを得なくなりました。



 やがて商工会の尾形さんや久万高原町の渡辺さんなど40名ほどの美しい?女性がゾロゾロやって来ました。中には顔見知りも沢山いて、私の話目当てにやって来たのだと懐かしい会話を交わしましたが、正直言って「話しにくいなあ」と思いましたが、この場に及んで後に引くこともできず、請われるままに1時半から3時まで魚梁瀬杉の高座に座布団を敷いて上がりました。皆さん熱心に聞いてもらいました。今日の人間牧場は吹き抜ける風も心地よく、遠望は利かないものの心配された「夕方から雨」の予想もはずれ、時折薄日の差すまずまずの天気で、皆さん満足の様子でした。

 4時過ぎに近づいた研修会の打ち合わせのため来客が来るので、急いで人間牧場の片づけをして女性の皆さんの後を追うように下山し、わが家に帰って来ました。松山から来た次の来客3人はは既にわが家に到着していて、親父の案内で海舟館や煙会所の見学をしていました。物珍しいものが沢山あるので、皆さんは目を白黒させながら見学していました。最近はわが家のこうした見学に加え、15分も離れた人間牧場の見学が加わったため何かと忙しく、ガソリン代も高いことから馬鹿にはならないほどで、数日前に入れたトラックのガソリンが早くも底をつきそうなのです。今日は人間牧場へ2回上がりましたが、多い日には4回も上がるのです。それでも皆さんが喜んでくれるので極力対応するようにしているのです。

 明日も午前中10人程の人が人間牧場にやって来る予定です。明日はその後松山で講演会です。不思議なものであれ程不具合だった腰の具合が商工会女性部の皆さんのお陰で随分楽になりました。

  「今日もまた 人間牧場 大盛況 中年女性 美しかりけり」

  「牧場は なんぼで出来た 聞く人に お金じゃないよ 想いと答え」

  「その昔 一緒に活動 した仲間 今日は女性部 化粧厚めで」

  「あちこちの 土産持参で やって来た やはり女性は 気配り違う」 

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shin-1さんの日記

○真庭市落合への旅

 鳥取県へ旅する時や津山に行く旅のつれづれに立ち寄ったことのある落合町が、合併して真庭市になってから初めて、「おちあい老人大学」の講師としてお邪魔する機会を得ました。真庭郡の9つの町村が合併した5万人余りの真庭市は、郡の中心付近にある勝山町に市役所本庁が置かれ、市内に高校が4つ、インターチェンジが5つ、道の駅が5つと、5万人の街としてはかなり贅沢な街に変貌を遂げていました。岡山側から行くと落合は岡山県最大の河川旭川中流域にあり、落合インターチェンジから降りれば直ぐの所に会場となる公民館はありました。近頃はカーナビのお陰で会場を探して右往左往することもなく、すんなり一発で開会1時間前の9時に会場へ到着してしまいました。会場入口には自主運営を心がけているのか役員の方々が早くも受け準備をしていました。学長の辻騏一郎さんは合併直前まで落合町長を5期も務められた立派な方で、控え室での雑談から高潔なお方とお見受けしました。

 会場は予定されている250人をはるかにしのぐ満席の状態で、賑やかな話し声でまるで蜂の巣をつついたようでした。副学長さんや学長さんのあいさつが終わると私が紹介されいよいよステージに上がりました。この日の演題は、担当の尾崎ひろみさんが「ニコピンコロの人生設計」という私のホームページ講演ジャンル一覧表から引用した素敵なタイトルを与えてくれましたので、少し砕けた話をしてしまいました。それにしても講師依頼のお手紙やメールをいただいて「尾崎ひろみ」という名前は何処かで聞いたような名前だと思っていましたが、このブログを書きながら私の弟嫁の旧姓が「尾崎弘美」であることを今思い出しました。「ひろみ」と「弘美」の文字こそ違え同姓同名の「おざきひろみ」なのです。世の中にはこんな不思議なご縁もあるのです。

 それにしても今日の演題「ニコピンコロの人生設計」は今更ながらいいタイトルでした。私はいつも高齢者に「ニコニコ・ピンピン・コロリンシャ」運動を提唱しているのです。控え室で担当の尾崎さんと話していたら、尾崎さんはニコを二個、つまり夫婦でと思ったらしく、私はそんな事を思っても見なかったのでまた新しい発見のなりました。

 それにしても「おちあい老人大学」の元気は凄いものです。控え室で雑談していると友人から携帯電話がかかりました。友人「今何処」、私「うん今大学に来ていて女子大生と話よる」、友人「何処の大学」、私「おちあい大学」、友人「その大学何処にあるの」、私「岡山県」、友人「そんな大学あったっけ」、私「あるあるおちあい老人大学」、友人「女子大生ってお幾つの人たち?」、私「うん7・80歳の女子大生」、友人「エッ、それも女子大生かな・・・・(大笑い)」、私「・・・・・(大笑い)」でした。

 私はこの日マイクを持ってステージから降りて、大学生に「何歳まで生きるご予定ですか?」とインタビューしたり、「お金持ちになりたい人、幸せになりたい人、健康で長生きしたい人、成功したい人」などについて手を挙げてもらうなど、極力分りやすい話をゆっくりと大きな声で話すよう心がけました。2時間という高齢者には少々長丁場でしたが、眠る人もなく入れ歯ガクガクの楽しいい話に会場は騒然大爆笑の連続でした。帰り際多くの人に見送ってもらい、何人かの高齢者は握手までしてくれ、見えなくなるまで手を振って送ってくれました。ほのぼのとしたおちあい老人大学は昼食を挟んで午後からはクラブ活動をするそうでした。

  「落合の 老人大学 招かれて ニコピンコロの 人生語る」

  「爆笑の 渦に包まれ 講演会 握手してねと 女子大生?が」

  「なんぼまで 生きるとマイク 向けたなら 死ぬまで生きる 元気に答え」

  「わが仕事 元気と笑いの セールスマン 全国行脚 いつまで続くか」 



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shin-1さんの日記

○黎明の瀬戸大橋を渡って

 昨日は疲れてしまってブログを書く暇も気力もなく、帰宅すると風呂に入り遅い夕食を済ませて、珍しくバタンキューでした。この歳になると何時に寝ようが朝4時起床の癖はいかんともし難く、今朝も昨日の宿題を取り戻すべく4時前に起床して机に向かってブログを書いているのです。

 昨日は朝急な思いつきで、折角岡山へ行くのなら黎明の瀬戸大橋を渡ろうと6時の日の出を想定して朝4時ちょっと前に自宅を出ました。暗闇の高速道路をひた走りに走って、坂出ジャンクションから瀬戸中央自動車道コースを選ぶ準備をし始めた丸亀辺りから空が明るくなり、美しい讃岐富士をシルエットに見しながら走るとやがて瀬戸大橋です。

 世紀の一大プロジェクトといわれるだけあって瀬戸大橋はいつ通ってもやはり素晴らしいの一言です。瀬戸内海には三橋時代と言われるようにしまなみ海道、瀬戸大橋、明石鳴門大橋など、様々な橋が架かっていますが、今治~尾道間の来島海峡にかかる来島大橋、坂出~岡山間の瀬戸内海にかかる瀬戸大橋、徳島~明石の鳴門海峡にかかる大鳴門橋、明石海峡にかかる明石海峡大橋は、やはり日本が世界に誇る名橋だと、いつ通っても、眠ることなく見とれてしまうのです。



 昨日の朝は風もなく穏やかな初秋の朝でした。構想道路ですから橋の途中で止ることは許されず、先を急いで高速で走る他の車に先を譲りながら時速80キロで朝日を横目で見ながら、用意したデジカメを危なくない程度に向けて、車内から2~3枚写真を撮りました。目論見どおり番の州工業地帯の横の山から輝く朝日が顔を出しました。そしてその朝日が瀬戸大橋をまるでスポットライトのように照らすのです。思わず見とれながら児島~坂出間をあっという間に駆け抜けました。自分の車の下を白波を立てて通る船の姿も、音を立てて走る列車も、日本の朝日が美しく照らしていました。やはり早起きは三文の得だと思いつつ、今度は夕日の沈む頃を選んで走ろうと密かに心に決めました。

 橋は目的を持って通るためにあるのですが、瀬戸大橋も開通以来20年を迎えるとすっかり様変わりしてきました。最初は物珍しくて途中の与島パーキングに立ち寄って見上げたり、フィッシャーマンズワーフなどで買い物や観光を楽しんでいましたが、今は与島やフィシャーマンズワーフに立ち寄る人も殆どなく、坂出のゴールドタワーさえ散閑として営業が立ちいっていかなくなっていると聞きます。日本人の初物食いや飽き易い性格はここでも大きな誤算となって現れているのです。橋の通行量が高いことも再三話題になりますが、これだけの便利さを与えてくれるのですから、私は決して高いとは思わないのです。

 橋の見方をこうして工夫して見てみると、かなり新しい発見がありました。直ぐ下の坂出製油所などは鉄の塊のような殺風景だといつも思っていましたが、まるで聖火のように鉄塔の上で赤々と燃える火も見えましたし、山の頂上にある巨大な鷲羽山の遊具群も遠望できるのです。また橋それぞれに吊橋の工法が違っていて、幾何学模様が朝日に輝いて美しく見えました。いつもは車道の下を走る列車から車窓の光景として見る風景とは違う楽しみがありました。

 昨日は日帰りでしたので、午後の早い時間に再び瀬戸大橋を渡って帰りました。

  「早起きし 朝日輝く 橋を見る 目論見通り 心洗わる」

  「デジカメで 写す一瞬 車内から 忘れフラッシュ 鈍く光りて」

  「助手席に 木になるカバン 座らせて 相棒私? 橋を渡りぬ」

  「日本一 いや世界一と 自慢する 幾何学模様の 端を見上げて」

 

 

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shin-1さんの日記

○木になるカバンのライバル現る

 一昨日私に届いた封書の中に長野県木曽町役場企画調整課大目富美雄さんから届いた一通がありました。封を切ると中から木曽市民タイムスというタブロイド版32ページの新聞が出てきました。その新聞のトップ記事に今年の夏高知県馬路村で行われた全国地域づくり大交流会で知り合った木曽町の大目さんが出ているのです。注目すべきはその内容です。「木曽ヒノキ使いアタッシュケース」「持ち歩いて林業、観光PR」という大見出しに詳しい記事が載っていました。

 木曽町役場の企画調整課長補佐・大目富美雄さん(50)はこのほど、王滝村の王滝木材加工組合に依頼して木曽ヒノキ製のアタッシュケースを作った。一部の部品を除いてすべて木曽ヒノキの天然木使われている特注品で、大目さんはこのケースを持ち歩いて県内外で開かれる会合などに出席して木曽の自然や林業、木工業の魅力をPRする考えだ。とリード文が書かれています。

 本文はアタッシュケースは縦31センチ、横41センチ、厚さ9センチの角形で、重さは1.5キロある。中の深さは5センチで、取っ手も木製だ。木でない部分は、ふたの口金とちょうつがい、底部を保護するゴムだけだ。大目さんは、6月に高知県安芸郡馬路村で開かれた「全国まちづくり大交流会」に出席した際、講師として出席した若松進一さん=愛媛県伊予市双海町が持ち歩いていたスギ製のケースに注目した。「こんなケースがあれば木曽の林業や観光をPRできる」と考えた。

 しかし、木曽郡内で製造する業者はなく、6月下旬に王滝村木材加工企業組合工場長で知人の畑中盛人(48)

ー木曽町開田高原末川=に依頼した。一からの設計で、コストは一個4万6千円とかかったが、畑中さんは「人工林ヒノキなど他の木をうまく使えばコストをもっと下げられると話す。大目さんは、ケースの中に木曽郡内で作られているヒノキ製のうちわや名刺、はがきなどを入れて各地で宣伝する予定でいる。「このケースを見た人が、木曽に興味を持ってくれれば」と願っている。で結ばれています。

 いやあ驚きました。私はこの木になるカバンを提げてもう20年も全国を行脚していますが、「このカバンいいねえ」と感心する人に沢山出会ったし、木材産地に殴り込みをかけたつもりで話しても産地の人は関心は示すものの一向に動かなかったのです。

 大目さんの行動は一種のパクリですが、いいことは真似をして行動するまちづくりの鉄則は十分伝わってくるのです。大目さんは今日から私の仲間であると同時に強力なライバルなのです。全国に名だたる木曽ヒノキの産地ですから木の話は山ほどあるでしょうし、私など太刀打ちできません。でも私にはオンリーワンの20年間も使い古した木になるカバンがあるのですから、自信を持って生きて行きたいと思います。

 大目さんに招かれて11月1日には木曽町へ講演に出かける予定です。その時は是非大目さん自慢のカバンと面会したいと思っています。出来れば市民タイムスにもカバンの出会いをメモ程度に・・・・・・。

  「世の中は 直ぐにやる人 やらぬ人 色々いるが やった方勝ち」

  「強力な 木曽のライバル 現れる 嬉し恥かし 使い古しで」

  「只者じゃ ないなと直感 会った時 早速動く 軽さに脱帽」

  「今日もまた 木になるカバンを 提げ歩く カルチャーショック 与えるために」

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shin-1さんの日記

○久しぶりのお湿り

 7月14日に台風4号、8月2日に台風5号がそれぞれやって来てそれまで水不足だった四国地方に満水の水をもたらしましたが、それ以来約1ヶ月余り雨らしい雨が降っていません。家庭菜園の里芋などは完全に旱魃の影響で、枯れかけているようです。わが家では今年里芋の作付けを増やしたのですが、残念かな不作に終わりそうです。県内の各地では芋炊きの話題があちこちで聞こえるようになりましたが、芋炊きに欠かせないのが早生系の里芋なのにこれほどの日照りでも、東予の旧土居町や南予大洲市のプロの農家はしっかりと特産の里芋を作っているのですからさすがです。

 この1ヶ月親父の日課は夕方陽が沈み始めると決まったように畑に出て陽が落ちるまで水やり作業に明け暮れました。私や妻はそんなに水をやると育つものも育たないと遠目で見ながら批判していましたが、それでも親父は一生懸命水をやってくれました。最近は天を仰ぎながら降らない雨を恨んだり、「水やりは今年でもう限界だ」などといいつつ、それでもせっせと井戸水を畑に振り撒いているようです。

 昨夜午前3時ごろ外のトタン屋根を叩く雨音で目が覚めました。窓越しに外を見ると宵闇の中でシトシトと雨が降っていました。菜園にとっても水遣りに疲れた親父にとっても恵みの雨だと思いつつ、またひと眠りしました。朝起きてみると雨は止んでいましたが、夏の暑さに乾いていた土地は濡れていて、心地よい朝の風が初秋を感じさせてくれました。

 台風9号が関東地方を直撃して去って行きました。台風といえば九州や四国が本場で、関東地方の人たちにとっては他所のことと思っていたのでしょうが、私の友人が多く住む長野県南牧村では集落が孤立したと新聞が報じていて、心を痛めています。日本一の野菜の産地である南牧村は、今年水不足で野菜が不作だったと中島美人村長さんから毎年届く夏レタスの箱の中に書き込まれたメッセージに書かれていました。その南牧村が今度は雨の被害に会うのですから世の中は何が起こるか分らないものです。ブログ画面を通じて台風被害に対するお見舞いを申し上げます。

 本来ならわが家ではもう冬野菜の作付けが終わっている頃なのですが、降らない雨で畑はまるで運動場のようにカチカチで、鍬も耕運機も歯が立たないのです。親父の姿や言葉も焦りありありで、特に大根作りの名人と噂される親父にとっては、今朝方の久しぶりのお湿りは待ちに待った天からの贈り物のようで、嬉しそうでした。

 先日港でははまちが沢山獲れてそのおすそ分けをいただいたので、そのまたおすそ分けを友人の家に持っていったところ、キャベツやブロッコリーの苗を沢山いただきました。植えようと思いつつ思案はしてもこの日照りでは付かないかも知れないと思って水遣りをして木陰に数日置いておきました。苗をいただいた方から電話が入り、「苗は暗い場所に入れてはいけない」と忠告がありました。苗は自然体で太陽に当てないと痩せ細って体力を失うのだそうです。なるほどと思いつつそれじゃあと思いついたのですが、親父は既にその苗を目敏く見つけ、固い畑を耕して苗を植え、朝晩水遣りを欠かさずやってくれているようです。昼は友人から貰ったという寒冷遮を被せてまるで玄人のような野菜作りです。このブロッコリーやキャベツも昨夜の雨で元気を取り戻しているように見えました。

 連日30度を越えていたテレビ画面の天気予報だと今日の最高気温は30度とか29度まで下がり、残暑といいながら少しずつ季節は動いているようです。

  「お湿りで 大根蒔けると 嬉しそう 親父の顔に 正気が戻る」

  「僅かだが 季節の変化 感じ取る セミの鳴き声 最後のあがき」

  「さあ秋だ 忙しくなる 何もかも カレンダー見て 心引き締め」

  「気が付けば 二人だけにて 食事する 部屋のガランに 虫の鳴き声」

 

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