shin-1さんの日記

○裂き織りの服のプレゼント

 昨日大分に行く途中、少し時間がるので伊方町三崎総合支所へ立ち寄りました。ここには盟友とでもいうべき塩崎満雄さんがいます。塩崎さんは長年三崎町の役場に勤めていましたが、合併した後観光などの仕事をした後、町のツーリズム協会の事務局長に出向し、協会の事務所が三崎に変わったのを機に古巣ともいえる三崎総合支所に帰って来ました。塩崎さんとは彼が西宇和郡連合青年団長、私が愛媛県青年団連合会長という関係の時代から付き合っている、もう40年近くになる私の最も古い友人です。今はお互いがえひめ地域づくり研究会議の代表運営委員として活動を共にしているのです。

 彼は最も三崎町を愛する人間と自負しており、青石文化や裂き織り文化などをテーマにして地域を守る運動を地道にやっています。その力は地域づくりの世界では知る人ぞ知る男なのです。

 一昨日彼の事務所を訪ねました。彼を含めて3名のスタッフでやっていますが、看板やポスターや写真など、かつて私が観光協会事務局長を兼務していた頃と同じように足の踏み込む場所もないほど雑然として、追いまくられる事業の活気がみなぎっていました。彼は私より3歳下ですから来年の春に定年を迎えますが、少し体調を崩していたものの今は回復して元気に働いているようで安心しました。このままの元気な余力を始まるであろう次の人生に生かして欲しいと願っています。

 その雑然とした事務所のロッカーに藍染めの裂き織りの布で使ったベストが吊り下げていました。ベストというよりは半てんという方が正しいのかも知れませんが、私はとっさに3日前にえひめ地域政策研究センターの清水研究員と話した落語のことを思い出し、これを使うと三崎町や塩崎さんの宣伝も出来ると直感し、譲って欲しいと懇願しました。そこは私の考えを読み取った塩崎さんのことです。「差し上げる」という事になりました。私は嬉しくなって早速試着し、そのまま九州への旅と相成りました。佐賀関へ行く船の中で、見知らぬ中年女性に「素敵な半てんですね。それは何織りですか」と声を掛けられました。すかさず私は「はいこれは愛媛県の佐田岬半島の突端にある旧三崎町の裂き織りという織物です。木綿の古布を裂いて織るのです」と、まるでファッションショーのように脱いで見せました。また佐賀関でも同じような問いかけがあり、してやったりとばかりに宣伝をしまくりました。動く広告塔として塩崎さんにいささかなりともお返しをすることが出来そうです。

 モデルがいいからなのかも知れませんが、ご覧下さい。凄くシンプルで一辺に気に入りました。夕日寄席の支配人を自認する清水研究員のおメガネに適うかどうか心配しています。でもいただいた塩崎さんのためにも裂き織りの半てんをしっかりと宣伝しまくりたいと思っています。

 昨日の朝7時発のフェリーに乗って佐賀関から三崎に渡りました。その道中剣道の練習試合に松山へ行くという高校生の団体に出会いました。朝2時に起きて船に乗ったという高校生は眠たそうな目をして雑談にふけっていましたが、話しかけると気楽に応じてくれました。その高校生も「おじちゃんお洒落な服ね」と言ってくれました。

ああそうか、この服を着ると年齢的に「おじちゃん」なんだと納得しながら、笑いを誘う話を話をしたら、仲間が沢山集まってきました。フェリーの中で夕日寄席です。お陰様で70分の道中は退屈せず、その高校生を乗せたマイクロバスはシーサイド公園でトイレ休憩し、再会に驚いた様子でさよならしました。

  「裂き織りの 半てん羽織って 旅をする 目立つんですか 声を掛けられ」

  「モデルいい 裂き織り半てん 似合います 味をしめしめ しっかり使おう」

  「この一枚 織るのに誰が どれ程の 苦労したのか 偲ばれならぬ」

  「夕日寄席 予感的中 半てんを 手に入れ嬉し 腕をまくりて」

 

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shin-1さんの日記

○豊予海峡交流会

 気の合った仲間が集まって久しぶりに交流会をしようと誘いがありました。何とこれが九州と四国の交流会ですから10人足らずの少数人数とはいいながら考えはでっかいのです。九州と四国の間には豊予海峡という海があって、交通の便の悪い時代には別府温泉へ修学旅行に出かけるような遠い所でした。ところが三崎半島の突端と九州の佐賀関間にフェリーが就航して僅か1時間10分で結ばれ、このような交流が出来るようになったのです。70分だったら何のことはなく移動できるので思いつきました。

 三崎半島の旧三崎町までは瀬戸内海と宇和海を交互に見ながら私の町からだと1時間半くらいです。危ないからイクナと国道の名前を逆さに読まれ悪評をかこった岬頂上線は潮風メロディーラインと呼ばれて快適ですが、豊予海峡の洋上を国道が走る、つまり四国側の国道も九州側の国道も々197号線なのです。

 私の集会の都合で午後5時30分発のフェリー便にしてもらいましたので、南予を中心に私を含めて7人が三々五々三崎総合支所に集まりました。遠くは四万十川の中流域旧西土佐村の役所に勤める和田修三さんも遠路はるばる参加してくれました。私の親友であるツーリズム協会の塩崎満雄さんの事務所が三崎総合支所に移転したため、しばらくの間観光やまちづくりについて談義ししましたが、役所の中には知人や友人、それに顔見知りも沢山いて気軽に声を掛け手もらいお茶までサービスしていただきました。

 少し陽が短くなって午後5時30分出港のフェリーが佐賀関についた頃は夜の帳もすっかり降りて、鈍い街路灯の光に照らされた佐賀関港へ18時40分に着きました。渡部さんと姫野さんが桟橋まで迎えに来ていて、私たちは早速あまべの郷関あじ・関さば館へ向いました。

?関あじ・関さば館は、都さんが興した佐賀関観光有限会社で、今年の1月22日にこの会社を立ち上げるための研修会に招かれた時はまだ建設中でしたが、この春オープンして営業を続けています。そんなご縁もあって関あじ・関さば館へ到着すると都さんが持っていてくれました。懐かしいお顔に出会いましたが、このところ体調を崩しておられるらしく、ビールの差し入れをして早々に引き上げられました。




 それにしても、この日のお目当ては関あじ・関さばを堪能するほど食べようと乗り込んだのですが、あじ・さば・イサキ全ての活造りは最高の味で、日ごろ全国を巡って刺身を食べ歩いてい

る私ですが、新鮮さも味も、そして出すタイミングも全てに満足のいくものでした。他の人たちは正直言って失礼な言い方ですが刺身の本当の味は分らないかもしれません。

 飲むほどに酔うほどに元気になるのが私たちの年代です。海の向こうに来ていることもあって少しぐらい大きな事を言っても壁や障子に目や耳がある訳でもないし、借りきりで他の人もいないことから、ボルテージは上がる一方でした。多勢に無勢の勢いも見方をして愛媛県人、高知県人大いにトッポ話をしました。酒を飲まない私にとっては多少劣勢のようでした。

 折角来た余勢を借りて2次会に繰り出し、小さなスナックの客となりました。最初は何人かのなじみの客がいましたがそのうち引き上げ、またしても貸切状態です。ナツメロ・リバイバル・流行歌を9人が次々に歌うものですから、結局は12時までの楽しみ、宿へ引き上げたのは12時を回っていたようです。

 いやあ、交流はいいものです。宿で同じ101号室に床を並べた塩崎満雄さんとこうして他愛のない夜話をするのも何年ぶりでしょうか。青年の頃の思い出が蘇ってきました。

 明くる朝私は5時に起きて宿をそっと抜け出し、界隈の散策を試みました。わが家は今度の日曜日に母親の7回忌の法要が営まれます。そのため私一人が7時発のフェリーに乗って海を渡って帰りました。


(フェリーの窓から見えた佐田岬半島の突端の灯台、向こうには佐賀関の煙突、そして三崎半島の頂上には20基を越える風力発電のための風車が見えました)

  「牧場で 飲みし友だち 次は関 誘いを受けて 大挙乗り込む」

  「声を出しゃ 聞こえそうなる 所だが、橋やトンネル 物議をかもす」

  「関さばや 関あじたらふく 食いました 残りは無残 大根と串のみ」

  「また会おう 硬い握手で分かれたが 一ヵ月すりゃ 元のもくあみ」

 

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