shin-1さんの日記

○雨が欲しい日々

「一雨欲しいなあ」と会う人誰もがあいさつ代わりに話します。「天気が悪い」といえば雨や嵐のことをいいますが、天気の良い日がこうも長く続いて水不足が深刻になると、天気がよいのも悪いという表現に変えなければならないと思うのです。わが家の池の水は裏山から流れ出る清水を利用していますが、冬の少雨やこのところのお天気続きで水が出なくなってしまい、飼っている鯉のことが心配になって親父をやきもきさせています。また畑の夏野菜も雨不足で生育が悪く、井戸の水を夕方潅水しなければならず、一仕事あるようです。

 でも雨が降らないことも悪いことばかりではありません。洗濯物は乾くし産後の静養のため実家に帰っている娘はじめじめしない快適な暮しを喜び、お陰様で孫も順調に育っているようです。

(遥か遠くの広島や山口まで遠望できる昨日の人間牧場)

 馬路村でのまちづくり交流会に出かけていて三日ほど家を留守にしていたので、昨日は思い切って人間牧場へ出かけ草刈り作業をしました。前日は第二農場と思っている畑の倉庫が長年の風浪に朽ちて危険になったため壊す作業をしたし、昨日は草刈りとお日様の恩恵をまともに受けて百姓三昧の日々です。雨が少ないため草丈はそれ程延びてはおらず、三回目の草刈りは順調に進みました。

 昨日は草刈り途中で草刈機がトラブルを起こしてしまいました。前々からその予感があったのですが、それでも古い型ながら使えるだけ使おうと考えて使っていますが、ついに燃料タンクからエンジンに行くパイプが裂けてガソリンが噴出し、エンジンが止ってしまいました。普通だと農機具屋さんに駆け込むのですが、この際自分で治してやろうと分解をし始めました。部品を一つ一つ丁寧に外して布の上に順番に並べてゆきました。そしてビニールパイプの予備と交換して元通りに組み立てました。腕の鈍いことを自認する私ですから、壊れて元々の思いでやりました。ところが奇跡が起こったのです。私の修理した草刈機が油漏れもなく前にもまして快調に動くではありませんか。私は凄いと自分自身を褒めてやりたいような心境でした。

(私の修理で見事に甦った草刈機)

 何度か混合油を入れ足し、その都度したたる汗を拭いながら冷たいお茶を飲み、草刈り作業は予想以上にはかどりました。この分だと後半日で残った草は綺麗に刈れるのではないかと思われます。

 草刈り作業をしているとおもしろ教室の事務局の職員が芋畑の様子を見に来ました。芋の生育はこのところの日照りで芳しくなく、中には植え方の浅いものは何本か枯れているようだし、補植が必要な畝もありました。イノシシのことだけに気を取られていましたが、水不足という思わぬ問題に直面して気が気ではないようです。それでも職員さんはその日の芋畑の様子をカメラに収めて帰って行きました。

 草刈りが一段落したので帰ろうと思い梅畑の横を通りました。何やら梅の木に赤いものが沢山見えました。よく見ると一枝そっくり梅の取り残しがあるのです。収穫袋を持ち合わせていないため、麦藁帽子を袋にして木に登って取りました。大豊作の残りなのでそこここにまだ沢山残っていて、10キロも収穫しました。これは完熟梅という、梅干しには最適の梅ではないかと思われるようにかなり熟していました。ダンボールに入れて家へ持って帰りましたが、今年は梅の処理に疲れた妻にして思えば余り嬉しくない農産物かもしれませんが、塩梅干しにして保存したいと思っています。

  「甦る 使い古しの 草刈機 俺と同じで も少しお役に」

  「雨降らぬ 草丈さえも 縮こまり 何か得した 今年の天気」

  「残り梅 取ってびっくり 十キロも 完熟梅を 早速漬け込む」

  「この風景 金にならぬと お百姓 ぼやきながらも この地で生きる」


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shin-1さんの日記

○第5回全国まちづくり大交流会・高知県馬路村④

 「村には価値が生まれる」をキャッチフレーズに全国から150人を越える人たちが集まって高知県馬路村で開かれた全国まちづくり大交流会は、6月8日(金)の前夜祭に参加するべく早めの村入りとなりました。馬路村温泉で受付を済ませた私たち一行は、温泉施設の向かい側にあるバンガローへつり橋を渡って行きました。3棟の一番奥まった一戸建ての家が3日間寝泊りする場所なのです。

(橋の上でおすまし顔の左松本さんと、右清水さんです)

(私たちの宿舎となったバンガロー、3人には勿体ないような代物です)

 早々に着替えをして、前夜祭の会場となる河川敷へ出かけました。釣り橋の上から見ると中洲には椅子や机、それに屋台が並んで準備万端のようでした。私たちは何でも、特に飲み食いは一番とばかりに、6時半開宴だというのに6時には椅子に座って毒見と称して飲み始めたのです。高知県はこれが特長で、アバウトなところがいかにも高知の県民性を表しているようでした。

(河川敷の中洲に並べられた交流会用の机と椅子と屋台、前夜祭のテーマは水だそうでした。)

 「若松さんこっちの席へどうぞ」と、東谷組合長さんに案内してもらった席はまさに一等席で、中州の一番川に近い所で、足元近くを川が流れていましたし、吊橋や吊橋に吊らされた前夜祭の看板が一望できる場所なのです。


(影の主役となった東谷組合長と木下産業建設課長の破顔一笑は、馬路村の幸せを独り占めするような姿でした。)

 やがて日が暮れ始めると前夜祭の幕開けです。まず東谷組合長が大きな天然石舞台の上であいさつです。いつの間にか席は満席、モナカバックを持った上治村長さんも見えられ役者は揃いました。


(石舞台の上であいさつする法被姿の東谷組合長、いかにも似つかわしいやり方です。)

(私の木になるカバンには負けるものの、それとはなしに木の村をピーアールする上治村長はダンディな方でした。)

 やがてビールと地酒と郷土料理のオンパレードに酔いしれながら名刺交換が始まりました。私は前夜祭は少し控え目に席を余り立つこともなく座っての名刺交換でした。それでも「あっこの方は明日の記念講演の若松さん」何て格好で50枚もの名刺を使いました。今回の交流会には150枚の名刺を用意しましたので、多分この人数なら名刺不足はないだろうと考え、それなりの交流でした。

(酒好きの清水さんと松本さんも大満足で、駆けつけた湯浅建設の社長ご夫妻とも久しぶりの面会を果たしました。)

 心配された雨も降らず、最高に盛り上がった前夜祭の余韻はバンガローにまで二次会となって引き継がれ、村役場の職員や県から市町村に派遣されてまちづくりを援助している職員も混じって賑やかな討論会は深夜にまで及びました。この酒の勢いは清水さんの大いびきを誘発し、屋根をたたく雨音や川の流れる音をも掻き消すような、まるで壊れかけた掃除機のような寝息で、私の睡眠を妨げましたが、これもまた良き旅の思い出です。

(会場いっぱいに集まった参加者は、椅子が足らないので床に座るほどでした。)

(どうですか。この大迫力の看板は、その名も大交流会でした。私の話の吊り看板もいいですねえ。)

 さていよいよ本番の研修会がゆずの森で始まりました。木の香の香る素敵な二階の会場からは安田川と村並みが一望できる素敵なシチュエーションで、この会場でなら申し分のない話が出来ると密かに思いつつ、上治村長15分、東谷組合長30分の話を聞きながら、アドリブストーリーを考えましたが、まさに出たとこ勝負の私の話は意外なスタートとなりました。

 清水さんが脇田さんと仕組んで昨年開いたシンポジウムの折作成した私のプロモーションビデオが終わると、ステージのブラインドが一斉に揚げられ、見聞きしている参加者は緑の中に立っているような錯覚で私の話を熱心に聞いてくれました。ステージの上からしか反応は分りませんでしたが、いい感じの反響でした。全国から集まったため長旅の疲れもあったでしょうが多分寝た人は一人もいなかったのではないでしょうか。私の話に限っては大成功だと思いました。

 やがてその余韻は森をテーマにしたゆずの森の駐車場を会場にした交流会へと引き継がれました。最後はどしゃ降りの雨にたたられ水入りのような格好でしたが、ずぶ濡れになりながらも沢山の方々と出会い、名刺交換し、再会を約しました。


(新米役場職員がマグロの解体実演をしました。市場に行って仕込んできたという大きなキハダマグロは話題になりました。こんなことが出来る役場も彼も偉いと思いました。)

(馬路村温泉の料理長さんがカツオのたたきの実演を行いました。藁で燻す独特の作業に、全国から集まった多くの方々から歓声が沸きました。私としてはにんにくのスライスと一緒に食べたカツオの刺身も美味しかったです。)

(かがり火の菅原編集長さんとも久しぶりに出会い旧交を温めました。)

(コナンの里づくりを推進する鳥取県北栄町の四門館長はパンフレットを配ってPRに余念がありませんでした。)

(残念かなステージでのコンサートは雨で全てを聞くことが出来なかったのは残念でした。)

 実り多い、そして思いで多い2泊3日の馬路村でした。来月は電源地域振興センターの招きで再び馬路村を訪れますが、合併もしない僅か1100人の小さな村がこうして元気なのは一体何故なのか、次第に馬路村の村づくりの社会にのめり込んでゆきそうな自分の姿を発見しています。

  「ごっくんを 舌で覚えた 孫の声 じいちゃんお土産 ごっくんお願い」

  「堪能し 馬路を後に 来た道を 心ほのぼの ふるさと帰る」

  「不思議だね 合併しない この村が 何故に元気か 未だ分らず」

  「ユズの香は 村の暮しの 味がする どこか懐かし どこかふるさと」


 

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shin-1さんの日記

○再びの千本山③

 私たちの日々の暮しは何気なく過ぎて行くことの中に、まるでサンドウィッチのように初めて体験する出来事が組み込まれいます。その数と衝撃が多ければ多いほど人生は充実しているのでしょうが、普通の人にとってはそんな機会はそれ程多くはなく、ましてやそんな機会に例え出会ったとしてもカルチャーショックと感じにくいものなのです。幸い私のリタイアしてからの人生は「旅」と「まちづくり」、それに「人の心」がテーマなので、日々多くのカルチャーショックに出会える幸せをかみ締めています。

 この3日間、全国まちづくり交流会で訪ねた馬路村での出来事も様々なショックに出会いました。馬路村へはこれが3度目の訪問でしたが、過去2回と変わらぬ大きな発見が幾つかありました。

 ①人との出会い

 今回は全国まちづくり大交流会と銘打って、北は北海道から南は沖縄与論島まで全国から多くのまちづくり人が集いました。鳥取県北栄の四門さん、山梨の市原さん、、東京のかがり火菅原編集長さん、松下政経塾の兼頭さんたちに混じって高知県奈半利町の坂本さんご夫婦やその仲間など、会場には再会を喜ぶ顔々がいっぱいありました。勿論地元の東谷組合長さん、木下さん親子、魚梁瀬の湯浅社長さんご夫妻、馬路村の青年など多彩な顔ぶれに出会いました。特に奈半利町の坂本さんなどはわざわざ自分が作ったお米を二袋も手土産に持ってきてくれ大感激の再開でした。日ごろ交流をしている人でも違った場所で会うとまた違った趣きがあるものです。

 今回も多くの新しい顔に出会いました。100枚以上を用意した名刺も殆ど空になってしまいました。前夜祭まではそれ程ではありませんでしたが、私の講演後に行われた交流懇親会はあっという間に100枚の名刺がなくなってしまったのです。「北海道へ話しに来てくれないか」などと早くも次なる出会いを予約してくれる方々や、伊勢志摩の二見からやって来た同名町の人々との出会いは嬉しい出会いでした。これからもこの人たちと一緒に楽しい旅を続け、ささやかな夢を見たいものです。

(木下課長さんたちが作ろうとしているささやかな森も、多分2年後には馬路温泉の窓越しに見える素敵な森に生まれ変わることでしょう。蒔かない種は芽吹かないし、植えない木は育たないのです。)

(対岸の馬路村温泉)

 ②自然との出会い

 今回の旅で不自然も人の想いで自然になる事を学びました。前回訪ねたときはまだゆずの森は殺風景でしたが、僅か二年の間に植栽した木々は緑の木陰を作り自然と同化していました。東谷組合長さんが黒川温泉に学んだ最も苦心して作った不自然空間なのにそこは自然がいっぱいあってまるで違和感がないのです。ふと私が手掛けたふたみシーサイド公園の人口砂浜を思い出しました。他所から運んだ凄い量の砂で砂浜を復活させたため最初は違和感がありましたが、10年も時が経つと砂は波に洗われ波に流され、風が砂を運んで見事なまでにS字形に変形し美の空間を作っています。勿論私が12年間もこまめに毎朝掃除をして美しさを保った人為的な努力もありますが、人間と自然の相互努力はまちの原風景を変えてゆくのです。

 今回エクスカーションで訪れた千本山の杉は人間の力ではどうにも出来ない時空を越えた自然の営み故に大きな価値があるのだと改めて思い知らされました。初めて千本山の杉の木に出会った前回の感動とはまた違った新しい発見があったのです。

(千本山の入口)
(千本山の入口にかかった木製の吊橋、この橋を渡ると200年のタイムトンネルを越えたまるで別世界が広がります。)

(森の案内人。朴訥とした語り口がまた味があります。)

(全国から集まった人たちは大きな口を開けて天を仰ぎ、杉の木と対話しています。)

 人間牧場にある150年生魚梁瀬杉の切り株を使って環境問題をとらえる私にとって、この森はまさに「森は海の恋人」なのです。屋久島に次いで日本屈指の降雨量を誇る魚梁瀬で一年365日に僅か一つの年輪しか刻まない木々が私たち人間に何か訴えているような気もしました。

 帰り道、魚梁瀬地区に住んでいる湯浅建設の社長さん宅を訪問しました。魚梁瀬小学校の真ん前にある事務所兼自宅の社長室で談笑し奥さんにお茶を入れてもらって昼食を食べました。ご夫妻にはわざわざ魚梁瀬杉の板を木下課長さんと人間牧場まで運んでもらった恩があるのにまたまたのご厄介です。また何時の日にかお会いしてお話したいものです。

  「奥の奥 森の巨人に 会いに行く ものは言わぬが 教え請いたく」

  「中型の バスがやっとの 狭い道 それでも人は 一目見たくて」

  「吊橋は 何か旅情を かきたてる 向こうに住みし 人の気配が」

  「目だたずに 咲きし卯の花 芳しく 初夏が来たよと ささやくように」  




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shin-1さんの日記

○今日は天然ウナギの蒲焼だ②

 高知県馬路村に行くに当たって数日前、馬路村役場の木下課長さんから、「馬路に来る時はクーラーボックスを持って来るように」と電話がありました。昨年魚梁瀬に講演で行った時もそうでしたが、今度も安田川の清流で育った天然ウナギをゲットしたとのことでした。木下課長さんは役場職員でありながらウナギ捕りの名人で、延縄を仕掛けてウナギを捕るのです。昔は何処の川にでもいたウナギですが、今では養殖ウナギが主流で、天然のウナギなど食べようと思っても私たちのような貧乏人には高嶺の花で中々手に入らないのです。今回の第5回全国まちづくり交流会は高知県の美味しい郷土料理が食べれることも魅力のひとつで、時々刻々と木下課長さんから入るマグロ、ドロメ、カツオ、土佐ジローなどの食材情報に一喜一憂しながらその日の来るのを首を長くして待っていました。

 私とえひめ地域政策研究センターの清水さん、松本さんは木下課長さんと海岸国道で落ち合い、まずマグロを使った海鮮丼を食べて安田川沿いの道を上流へと向かいました。私は積もる話もあるので木下課長さんの車に便乗し詰まる話をしながら馬路村入りしました。少しの時間木下課長さんの案内で村のあちこちを案内してもらいましたが、彼が自主的に手づくりで作った木の看板が要所要所に建っており、感心してみて回りました。

 最初の看板は湧き水の側にありました。伊予路では水不足が心配されているのに、馬路村ではいたる所から水が湧き出していました。何とも羨ましい限りで、水の落ちる直ぐ下には天延のワサビがいっぱい生えていました。
(桜の木にくくりつけられている湧き水を示す手作り看板)

(看板に偽りなく岩の隙間から流れ出る水はとても美味しい湧き水でした。)

その後温泉センターを通り越して、昔の森林鉄道の跡と思われるノスタルジックなトンネルを通りました。普通乗用車一台がやっとというトンネルは出口と入り口を補強して長年の風雪の後がうかがえましたが、ここにも素敵な看板がありました。

(ノスタルジックな雰囲気が漂う森林鉄道の名残トンネル)

(このトンネルにはこの看板が似合います)

 トンネルを抜けると見覚えのある第三セクターアクロスの工場の屋根や陸橋が見え、木下課長さんの家に通じる狭くて急な坂道を車で登って行くと、木下課長さんのお母さんが笑顔で出迎えてくれました。失礼な話ですが木下課長さんは今でもべっぴんで、昔は相当綺麗だったんだろうと想像したりしながら四方山話をしました。お茶を入れてもらったり、自家製蜂蜜をなめさせてもらったり、田舎暮らしを楽しそうに語ってくれました。

(木下課長さん親子とともに。この親にしてこの子ありです)

 家の直ぐ側の小川から引いた水槽にはあの天然ウナギが篭に入れられて私の来るのを待っていました。多分これだけの天然ウナギを集めるのには何日も川に出て仕掛けをしたのではないかと頭が下がる思いでした。

(これが木下課長さんが延縄で釣り上げた天然ウナギです。腹は天然独特の黄色味を帯びていかにも美味しそうでした。)

 前回は土産にもいただきましたが、軒先でお母さんが炭火で焼いてご馳走をしてくれました。今回は前夜祭と当日の交流会、つまり昨日と一昨日に天然ウナギは全国から来た人に大判振る舞いをされましたし、私にも今朝土産としてクーラーに氷とともに生きたまま入れられて、わが家へやって来たのです。

 私は所用で別の会合に出席して夕方家に帰り、早速軍手をはめてウナギをさばきました。ウナギは氷水に入れられているため仮眠状態でそんなに格闘することもなく案外スムースにさばくことができました。自慢のタレをつくり七輪に火をおこして焼きましたが、夕食前の娘がいい匂いだと焼いてる煙をいち早く察知し、妻も焼きながら焼きだちの天然ウナギをつまみ食いしました。とにかく「美味い」の一言でした。娘婿も孫も思わぬウナギ丼のご馳走にお代わりをするほどで、肝吸いとともにご馳走様でした。馬路村ではウナギも人間も全て天然なのです。

  「天然の ウナギさばいて 七輪で 蒲焼つくる 何て贅沢」

  「お代わりと 茶碗突き出す 孫の顔 天然ウナギ 少し多めに」 

  「蒲焼の 匂い四方へ 広がって 夕餉の膳が 活気に満ちて」

  「鉢巻を 締めてウナギと 格闘す 包丁研いで 背開き一機」

 

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shin-1さんの日記

○高知県馬路村からの発信①

 四国で今をときめくような活動をしている人の中に徳島県上勝町の横石さんと高知県馬路村の東谷さんがいます。今日は東谷組合長に頼まれて高知県馬路村へやってきました。今日が本番の全国交流会の記念講演を頼まれて、昨日えひめ地域政策研究センターの清水さんや松本さんとともに馬路村入りをしました。昼間は途中で落ち合った木下課長との昼食、木下課長宅の訪問などあわただしい時を過ごしましたが、昨晩は村の中央を流れる安田川の河川敷にしつらえた前夜祭会場で全国の仲間と楽しいひとときを過ごさせてもらいました。北海道から沖縄まで100人を超える人が参加していましたが、全国に名だたる馬路村だけあって参加者の関心も高く、名刺を50枚も使いました。特に魚魚梁瀬杉で知り合った湯浅社長ご夫妻との懐かしい交流や、知人湯人も多く、飲むほどに酔うほどに酒と郷土料理も手伝って交流は深まり、温泉のバンガローに駆けつけた木下課長たちと深夜に及ぶ激論を重ね、「明日があるから」と就寝しました。昨夜は心配された雨もどうにか交流会では持っていましたが、深夜になって雨脚が強くなり、木下課長の話だと30ミリも降ったとか、さすが全国有数の雨所だけのことはあるようです。

 今日は心配された雨も何とか持って、千本山という杉の原生林見学ツアーに参加して2年ぶりに大きな杉の木と対面しました。一度ならず2度までもこの山に足を踏み入れましたが、やはり自然の醸す偉大なパワーに圧倒され、人間の力の無力さをまざまざと見せつけられた感じです。今はウツギの卯の花が満開で道ばたのそこここに咲いていて、「♭卯の花の匂う垣根にホトトギス早も来鳴きてしのびね漏らす夏は来ぬ♭」などと思わず口ずさんでしまいました。

 さて今日の私の仕事は僅か1時間15分ですが記念講演です。村長さんの15分間の村紹介、東谷さんの40分のゆずの里の活動紹介に続いて私が登壇しました。来る道すがら清水さんと松本さんと相談していたプロモーションビデオを入りに使い、よどみなくアドリブの話を無事時間通りにおえることができました。困ったことにセンターの松本さんが販売目的で持って行った研究会議20周年記念誌が何冊か売れて、その裏表紙にサインを求められました。字のうまくない私としては断ることもできず、ついつい調子に乗って「逢う人も逢う人も福の神」と「人でも仕事でも愛する所に集まってくる」を書かせてもらいました。

 昨日の交流会では私の存在はできる限り目立たないようにしていましたが、今日の交流会では講演の反響をもろに受けて名刺を交換しなければならないような予感がしています。

 木下課長さんにお願いしてブログを書ける場所まで連れて行ってもらって、このブログを書いています。多分もう二度とこんなことはないと思うのですが、沖縄石垣島に続いて馬路村から2度目のブログによる情報発信をしました。記念すべき記事になりそうですが、昨晩同室の清水さんや松本さんとの激論の余波を受けて少々寝不足、加えて時間が気になって良い文章が書けませんでした。

 さあこれから夜の部の始まりです。

  「杉の木の 年輪学ぶ 生き方を これから余命 肝に銘じて」

  「これだけの 人が動くか 馬路村 合併せずも 生き生き生きて」

  「俺のため ウナギを用意 してくれた 友の心に 思わずほろり」

  「伊予路では 雨が降らぬと 嘆くけど 今宵ここでは 降らぬか嘆く」

 

 

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shin-1さんの日記

○娘夫婦親子に乗っ取られた居間と寝室

 5月18日の出産と退院後の実家での子育てで、娘夫婦と親子がわが家で暮らすようになって丁度哀調回復も順調で3週間が過ぎました。娘のお産は産気づいてから僅か1時間半余りでの出産だったので産後の体調回復も順調で、母乳の出も申し分なく今のところはホッとしています。第二子は生まれた時少しのハプニングがあって保育器に少しの間入っていましたが、問題もなく母子ともに退院して順調にスクスク育っています。母乳が行き届いているのか二日前の定期健診ではかなりの体重増でこれまた順調にスクスク育っています。まるでセミのように鳴き声も日増しに一段と大きくなっていますが、眠ることは兄と同じスヤスヤとよく眠り夜も昼も母親は大助かりです。孫で4歳になっている兄の朋樹君は相変わらずのやんちゃぶりで、朋樹プロジェクトは次男が就職のため一抜けしましたが、相変わらず松山の幼稚園へ連れて行ったり迎えに行ったりと相変わらず私たち夫婦に大きな負担がのしかかっています。それでも孫の世話は楽しくて眉毛は8時20分と下がりっぱなしです。娘婿は大学での仕事や出張で中々大変なようですが、産後の暮しを組み立てるのに懸命で目下のところ気がねの居候をしてわが家から通勤しています。朝孫を幼稚園に連れて行って出勤し、仕事が終われば居残りの孫を幼稚園に迎えに行って夕方8時頃に帰ってきます。

 娘のお産に当たっては娘、娘婿、孫、赤ちゃんとそれぞれがかなり重いハードルを持って寄り添うように生きていますが、一番の陰の功労者は妻なのです。家族の食事や洗濯、掃除や育児手助けなど数えればきりがないくらい毎日多くの仕事を、勤務しながらこなしています。娘の回復が順調なので、掃除や洗濯などは娘がかなりやれるようになりましたが、新生児の入浴補助などになると、わが家はまるで蜂の巣を突付いたような大騒ぎです。それでも娘は助産婦なので要領よく事を運ぶのですが、お湯の世話など限りなく妻の仕事は深夜にまで及ぶのです。まあもう直ぐ娘の家族が引き上げるまでの期限付きですからみんなで手助けしたいと、ワイワイガヤガヤいいながら楽しみたいものです。幸い今は初夏で気候も暑くなく寒くなくのベストコンディションなのが大助かりです。

 娘夫婦とその家族が実家での暮しをする場所は私たちの居間と寝室になりました。第一子誕生の時は妻も居間で寝て手助けしていましたが、今回は私たち夫婦は2階の客間で寝る事にしました。全ての一日の仕事が終わって2階に上がって休むのは11時近くになりますが、それでも明くる朝の6時まで何の仕事もなく私たち夫婦は休めるのですからこの上ない至福の時間となります。多分娘夫婦は授乳や泣くこの世話で眠れない夜を過ごすのでしょうか、私たちにはかすかな息遣いしか伝わってこないのです。朋樹くんは相変わらずの寝坊で、幼稚園に迎えに行っての帰りには車の中でグースカと平気で昼寝をしますし、帰って食事と風呂を済ますと、私が本を読んでやり夢の世界へと旅立つのです。

 まあ後10日ほどは楽しくも賑やかな暮しが続きますが、2ヵ月後にはまた長男夫婦に子どもが誕生の予定ですから、当分この騒動は続きそうです。

  「いいもんだ 赤子の泣き声 家中に 響きわって 幸せですね」

  「寒くなく 暑くもなくて 順調に 育つ赤子の 日増し大きく」

  「幼稚語で 話す言葉の おばあちゃん 答えるように 思わずニヤリ」

  「母親を 取られたような 気がすると 思い不憫な 兄を抱きしめ」

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shin-1さんの日記

○二宮金次郎の銅像

 私の町の小学校に二宮金次郎銅像が2つ建てられています。誰がどんな目的で建てたか定かではありませんが、二宮金次郎のことをつい最近になって色々な書物で見かけるようになりました。多分世の中が不景気になると、質素倹約を旨とした先人の教えが世の人に大事だと教えるためでしょうが、私自身は自分の講演に二宮金次郎のことをよく話しに出すものですから、折に触れ二宮尊徳翁夜話などを読んで若い頃から勉強をしているところですが、二宮尊徳の教えは論理的で分りやすいのが特長といえましょう。いずれ人間牧場で尊徳翁夜話などを素材に塾でも開いたらと考えているところです。

 昨日えひめ地域政策研究センターに覗いた際、月刊誌の閲覧コーナーで「かがり火」という雑誌を見つけました。明日馬路村で会う予定の「かがり火」編集人の菅原欽一さんのことも気になっていたので、偶然にも「かがり火」に目を通しました。その中にある会社の社長さんが会社経営の指針にしているという二宮尊徳のことばが書かれていたので紹介します。                           

遠くをはかる者は富み 

近くをはかる者は貧す

それ遠きをはかる者は百年のために杉苗を植う

まして春まきて秋実る物においてや

故に冨有り

近くをはかる者は

春植えて秋実る物をも尚遠しとして植えず

唯眼前の利に迷うてまかずして取り

植えずして刈り取る事のみ眼につく

故に貧窮す

 この教えは目先の利益を追わず、長期的視野に立って経営を行うことの大切さを説いていますが、小さなものを積み重ねて大きな物を作り上げる積小為大と一見反するような感じもしますが、考えは一緒なのです。

 もうひとつ興味深い話が載っていました。明日行く馬路村の奥のまた奥に魚梁瀬という集落があります。その奥の奥に魚梁瀬杉の原生林がありますが、そこから切り出した150年生の杉の原木の切り株が何故か私の人間牧場にあるのです。その年輪を数えながら人間の人生の短さをしみじみ感じるのです。と同時にたった一つの年輪を作るのに何と1年365日かかるのですから、気の年輪は大したものです。計算だと驚くなかれ150年×365日=54,750日かかった計算になるのです。私は先日もおもしろ教室で人間牧場にやって来た子どもたちのこの話をしてやりました。まさにこれこそ環境教育であると同時に経営の理念でもあるのです。

 偶然にも明日は「かがり火」編集人の菅原欽一さんと出会い魚梁瀬杉の原生林を訪ねます。もう少し奥の深い学びをして、少しでも進化して帰りたいものです。

  「尊徳翁 何年経っても 衰えず 教え隅々 心動かす」

  「尊徳と 言えば馬鹿者 勘違い 損か得かと 言葉通じず」

  「百年の 大計杉の 木を植える 今日の幸せ 飯が食えたら」

  「尊徳の 教えしみじみ 考える まだまだ浅い 俺の生き方」



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shin-1さんの日記

○ハガキ千客万来

 数日前新聞に載った私の講演要旨は反響があってかなりの方々からお電話やお便りをいただきました。中でもハガキは50枚にものぼり、ハガキの千客万来といったところです。葉外を貰うということはそれなりに嬉しいのですが、返事を書くことは20年も一日三枚のハガキを書いている私でも大変で、毎日せっせとハガキを書き綴っている今日この頃です。その点メールは簡単で多分送信には1回10円くらいはいるのでしょうが、新聞を読んだ感想のかなりのメールはその都度処理をしたもののハガキはまだ未処理のまま机の上に置かれ、今日も朝から早起きをして書いているのです。ブログやメールをやり始めてからハガキは1日に10枚が限度ということが分りました。昨日はその10枚を書き上げ投函しましたが、やはり最後は字が乱雑になって申し訳ないことをしたと投函しつつ深く反省するのです。

 数日前に届いたハガキに懐かしい一枚がありましたので紹介します。

 「こんにちは。突然のお便り失礼します。松山に住む母が若松さんの講演会の新聞の切抜きを送ってくれまして、懐かしくてお便りさせてもらいました。下灘満野に住んでいた時、私は小学生でした。今は広島に住み、大学生と高校生の息子がいます。若松さんもお元気そうで何よりです。『変えてはならないもの』の言葉に感銘を受けました。ありがとうございました。これからもお元気で。広島市安佐南区・・・・・・・・T。  絵は母が書いた梅です。

 Tさんのご家族のことはよく覚えています。下灘満野を家族で離れられた折、広報のコラムにも書いた覚えがあるのです。地元の人からは中々届かないハガキですが、こうして異郷の地で暮らすと望郷の念に駆られるものなのか、改めてふるさととへの思いの深さに驚いた次第です。

 「そうかはやTさんの子どもが大学生と高校生か」と自分の年齢の高さを振り返り納得しながら、早速私も返事のハガキを書きました。双海町のその後の様子、私のその後や近況など夕日をあしらった絵葉書に少し小文字で少し多めの文章を・・・・・・。そして広島へもちょくちょく行くので会いたいとも追伸しました。

 新聞記事を送ってくれたお母さんのことも気になって、早速松山市の電話番号をくって見ました。記憶の彼方にあるY・Yの名前を見つけました。見つけたのが早朝4時なので8時頃ににでも電話してみようと思っています。何はともあれ嬉しい知らせに一昨日は一日中ほのぼのとした一日でした。

  「覚えてる? 覚えているよと 返事書く 海を渡りて 懐かし人の」

  「電話帳 目細め探す 彼の人の 名前見つけて 胸が躍りぬ」

  「新聞の 切り抜き送る 母の知恵 赤糸手繰る 望郷心」

  「二人子も 早そんなにと 納得し 自分の歳を 重ね合わせて」 

 

 

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shin-1さんの日記

○クワガタに歓声

 一年前には「キャー虫だー」と泣き叫んでいた孫が何処でどうなったのか、最近は虫好きになってトンボやチョウチョを追い回すようになりました。多分孫と二人で行った100円ショップのダイソーで買った虫かごと、虫取り網が気に入ってからだろうと思うのですが、団子虫も平気で捕まえれるようになってえらい進歩です。

 3日ほど前親父が畑で小さなクワガタを見つけ、小さなナイロンの容器にビワの実と一緒に入れて持ってきてくれました。孫は恐竜やムシキングに心酔しており、「ウワー凄い」と気に入ったのは良いのですが、寝ても枕元に置き、風呂に入るときも窓辺にクワガタの入った虫かごを置くほどの熱の入れようで少々困っているところです。最初は恐る恐る外から眺める程度でしたが、鋭い角を持っているため背中から握るコツを教えてやったところ、虫かごの中に手を突っ込み手で平気で触れるようになって益々エスカレートするのです。

 親父に御礼に隠居へ連れて行ったところ、親父は孫にクワガタやカブトムシの捕り方まで話すものですから、やれクヌギの木だとか、やれハチミツだとか完全に捕獲作戦まで頭に描くようになってもう大変です。一昨日は幼稚園から帰ると早速パンに塗る小袋入りのハチミツを持って捕獲に出かけました。出かけたといってもクヌギの木があるわけではなく、裏庭に近くにあるビワの木の小さな穴にハチミツを少し垂らすだけなのですが、孫はワクワクして一緒にやりました。孫にとっては他愛のない夢なのでしょうか、目を輝かせてクワガタやカブトムシの来訪を待っているのです。

(10のポケットが減り、王子様の座を奪われた孫朋樹君ですが、それでも弟の誕生は嬉しく、時々抱かせてくれとせがみます。弟の名前は尚樹に決定しました。)

 私たちにとって初孫である朋樹君は少子化そのままにこの4年余り7つのポケットを持った王子様に君臨し、甘やかされて育ってきました。親父は大じいいちゃん、私たち夫婦はおじいちゃんとおばあちゃん、大阪のおばあちゃん、お父さんとお母さん、長男夫婦はおばちゃんとおじちゃん、次男と三男はおじちゃんと加えると何と10個ものポケットになって、誕生日、こどもの日、お年玉、お土産を全て自分のものにしてきました。ようね気に夢中になった飛行機も、今夢中の恐竜もまるでデパートの売り場のように揃っています。こうした作られた遊び道具にそろそろ飽きて、カードとか生きた虫に興味を示すのは成長している証拠でしょうが、甘やかしの構図に少し変化が出始めています。それというのもつい最近第二子の孫が誕生したため、王子様の座を弟に奪われてしまったのです。母親もおばあちゃんも何かにつけて幼稚語で赤ちゃんにすり寄り、自分はかまってくれない不満から「男同士」などといって盛んにおじいちゃんである私にすり寄ってくるのです。私もそんな寂しさを紛らわせてやるため努めて朋樹君の面倒w見てやります。でも何かあると必ず「お兄ちゃんになったのだから」と自覚を促す言葉が無造作に飛び出す度に満悦と不満の狭間で葛藤が起こるのです。

 クワガタへの関心はそうした不満の現われかもしれないと、クワガタに果物をやったりしながら孫と一緒に熱中しているのが私なのです。さて昨日早起きした孫がハチミツをビワの木に塗ったことを思い出し「おじいちゃんカブトムシを捕りに行こう」と誘いました。行きましたが何ら進展もなくハチミツのみがビワの木に残っていました。「まだカブトムシは幼虫から孵っていないのかも知れない」などといって納得させましたが、今年の夏は早起きしてクヌギ林へカブトムシを朋樹君と捕りに行きたいと約束をしました。


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shin-1さんの日記

○ヤッホー、私のメールが初めて外国へ届きました

 私のパソコンにはやたらと訳の分らぬ英文のメールが何処からともなく送られてきます。最初はエッと思って開いてはみたものの、それは迷惑メールと知ってからは無造作に迷惑メールとして処理しているのですが、それでも毎日届いて出張で2、3日家を空けようものなら100通に余ってその処理にうんざりするのです。

 そんな英文に混じって外国から一通のメールが届きました。オーストリアウィーンの日本人学校にこの春赴任したわがふるさと双海町出身の中尾先生からです。先生とは教育長時代の2年間同僚として仕事をした間柄です。中尾先生は小学校の先生ながら派遣社会教育主事として教育委員会で仕事をしました。優秀な方で2年間の仕事ぶりは目を見張るような活躍でした。特にマニフェストよろしく私が公表して望んだ双海町誌編さんの仕事や双海の子育て10の約束などをことごとく完成させてくれました。圧巻は就任そうそう町の入口に設置された有害図書自動販売機の撤去をめぐり、住民運動にまで発展させ撤去にこぎつけた仕事で、彼のひたむきな努力の成果でした。彼は2年間の2回も外国に行く幸運にも恵まれましたが、それは実力で勝ち取った大きな成果だろうとしみじみ思いました。

 そんな2年間を経て地元の小学校に赴任していましたが、思うところあって日本人学校で勤務する決意をして見事その切符を手にしてこの春家族とともにオーストリア日本人学校へ赴任して行きました。

 赴任先から春先一通の絵葉書が届きましたが、この春中尾先生と同じようにえひめ地域政策研究センターに伊予市役所から出向している松本君に中尾先生のメールアドレスを聞きだし、無謀にも外国へメールを送ったのです。

 haruji@・・・・・・・jp 」、これが私が初めて外国へ送ったメールアドレスです。多分届かないだろうと思って半信半疑送ったメールでしたが、昨晩中尾先生から、「メールが届きました」と返事が帰って来ました。「ヤッホー、私のメールが初めてオーストリアウィーンという海の向こうの外国へ届きました」。嬉しいことです。しかし驚きました。これが現代の情報化社会と分っていても瞬時に私のメッセージが届くなんて・・・・・。私がわが家の書斎を基地にパソコンでインターネットを始めてもう二年近くになりますが、昨日という日くらい嬉しい日はありませんでした。昨日は私にとっていわゆる小さな記念日です。これからも中尾先生とのメールのやり取りを通して新しい可能性にチャレンジしたいと思っています。

 「おい松本君、中尾先生が赴任している3年間の間に、何とかお金を貯めてオーストリアの中尾先生に会いに行こうや」と話したところ、彼も同感なようでした。アメリカ・メキシコ・ハワイ・韓国・オーストラリア・ニュージーランド・香港・マカオなどには行ったことがありますが、ヨーロッパの国々へはまだ私は行ったことがありません。夢を膨らませるのもいいもんだと思っています。

 それにしても若いっていいねえ。ウィーンで3年間も家族で暮らそうという意欲があるのですから。私など言葉の壁に阻まれて・・・・。でも英語が話せない私だって30歳でアメリカへ行こうと決意し青年の船でアメリカやメキシコへ行ったのですから・・・。

 奥さんと二人の子どもさんの外国での暮しが無事で楽しいものになりますようかげながら心より祈っています。

  「初めてだ 海の向こうに 住む人へ 半信半疑の メールを送る」

  「届いたと メールが届く 嬉しい日 小さな記念日 六月五日」

  「時差ありて 今頃どうして いるのやら 思い巡らす 友の姿を」

  「外国が 人の想いで 近くなる メール届いて もっと近くに」

 

 

 

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