shin-1さんの日記

○変われば変わるもの

 ブログで日記を書き始めて二年近くが経ちますが、資金「若松さん、お孫さんは元気ですか」と、あちらこちらで孫の消息を聞かれるようになりました。それもそのはず、これまでは妻と孫のことなどは「私的なこと」として、余り口にもしてきませんでした。ところがブログを書き始めるとそんな家庭の話題を取り込むことが日記の醍醐味とあって、旅の出来事や人との出会いなどに加えて、いわゆる私的な妻と孫の話題がむしろ多くなっているのです。その中でも孫朋樹の話題は最近とみに多く、成長すればするほど話題も多くなって、ブログの人気者になっているのです。昨日もブログは縁のない人でしたが人間牧場の近くに住む人に「キャー虫だーと、逃げまくっていたお孫さんはお元気ですか」と尋ねられました。昨年のこの頃地元の人を招いて水平線の家で一杯飲んだ時、たまたま孫連れて行っていたので印象に残っていたのでしょう。「いやあ、それが大変身で、今は幼稚園が休みの日などはカエルやおたまじゃくしを追い掛け回していますよ」といったら、「変れば変わるものですなあ」と関心しきりでした。

 そもそものきっかけは、シーサイド公園の特産品センターおもちゃ売り場で、恐竜のミニチュアセットを660円で買った時に遡ります。それまでは飛行機の模型に熱中していた孫が、恐竜の模型に熱中し始め、飛行機の模型は一体何だったのかと思わせるような大変身で、恐竜に狂い始めたのです。遊びも恐竜ごっこ、風呂へ入るのも寝るのも恐竜の模型なしでは夜も日も明けない感じになりました。当然7つのポケットを持っている孫は誕生日や旅行のお土産に恐竜の模型を欲しがるのです。

 そんなこともあって、人間牧場へ行くと団子虫を探したり、チョウチョやクワガタを探したり、野性味溢れる子どもに成長しています。今日も午前中は人間牧場で息子が所属する建築関係の集会を開くので準備がてら連れて行ったところ、参加している若いお兄ちゃんにせがんでチョウチョやクワガタを追っていました。また家に帰ると百円ショップで買った網と虫かごを持って、おたまじゃくしやイモリを探しに行こうと私を連れ出しました。我が家の周辺は田舎ゆえまだあちらこちらに田園が開けていて、そんな水棲動物が一杯いるのです。大人でさえも気持ち悪くて触らない腹が赤いイモリを取ったり、おたまじゃくしやタニシをしっかりと取って遊んでいます。これが子どもの自然な姿だと思いつつ初夏の太陽を体一杯に浴びて孫にお付き合いしていますが、少々疲れるのが本音です。

 私にとって自分の子どもの子育ては仕事の忙しさにかまけて妻任せで、成長した子どもが「お父さんと遊んだ記憶がない」などとよく言われます。それもそのはずまちづくりの仕事に熱中し殆ど子どもとは関われなかったのです。孫へのかかわりはその自戒の念かも知れないと妻は苦笑しますが、わが子は10時10分、孫は8時20分といわれるように、子どもは眉毛を吊り上げて教育をします。ところが孫は眉毛が下がるのです。娘や娘婿にすれば「甘やかさないで」といいますが、孫とおじいちゃんの関係はまあこんなものでしょう。

  「誰が好き 聞けば必ず おじいちゃん 心得てます 孫のお世辞だ」

  「虫さえも 触れなかった あの孫が 今は堂々 イモリをつかむ」

  「成長が 昇り調子の 孫比べ 俺は落ち目の しがない爺」

  「この孫が 大人になるのを 見届けたい 大丈夫です いや駄目かもウーン」

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shin-1さんの日記

○鯉の死

 高齢化社会や核家族化社会を繁栄してかペットが密かなブームを呼んでいます。食うことさえままならなかったハングリーな戦後を体験した私などから見れば考えられないような、豊かな社会になった現われかも知れませんが、世の中は成熟社会に向かえば向かうほど孤独になって、何かに救いを求める気持ちはよく分るし、人を信じられない時代にもの言わぬがなつく愛くるしい動物に愛情を注ぐ気持ちはよく分るのです。

 わが家の親父も母の死以来同じ敷地内に住んでいるとはいいながら、忙しく振舞う私たち夫婦とも意外と疎遠で、孤独に絶えながら生きていると思うのですが、その救いを若いころからやっている鯉の飼育で幾分紛らわせていたような気がするのです。家の敷地内に池を二つも掘り、自動浄化装置まで備えた鯉の飼育池には8匹の鯉が元気よく泳いでいました。親父の日課は鯉餌やりから始まり、散歩、農作業や趣味の骨董品の手入れなど領域も広く生きがいを持って生きているようにも見えますが、やはり寄る年波のせいか、時々弱音を吐くものの年齢90歳にしては元気で日々を暮らしているのです。

 昨日の朝、小降りの雨の中私の書斎の窓から親父がやって来て、悲しげな声で「鯉が死んだから写真を撮ってくれ」というのです。「自慢の鯉だったのに」というので池に行って見ると、一番大きな鯉が池のそこに沈んでいました。たも網で上げましたが、二人の力でやっとというほど大きくて、10キロはくだらないようでした。早速鯉を持ち上げた親父の姿をデジカメに納めました。

 母親生前中から飼っていたわが家の池で一番大きな思い出の鯉の死は親父にとって相当ショックだったようで、雨の中畑の隅に穴を掘り埋めてねんごろに供養していました。「もう生きものは飼わん」とか、「池は潰す」などと狼狽した言葉をつぶやきながら小雨の池の側で一日を過ごしたようです。

 昨日は愛媛県公民館連合会の新任職員ネットワークセミナーがあって、昼間家を留守にして帰ってみると、何が原因なのかもう一匹の鯉も瀕死となりました。早速出入りの別府養魚場に電話をかけてましたが、あいにく留守とのことでした。降って湧いた鯉の死の大騒動は今日も続くでしょうが、早く鯉の死のショックから立ち直って欲しいと願っています。

 最近松山の郊外などに行くとペット霊園などの看板が目に付くようになりました。犬や猫に始まり鳥や爬虫類まで様々なペットを飼う人が増えています。犬や猫は外という常識も今では非常識で、人間と共に暮らすような飼い方に変わってきています。当然犬や猫は同居動物で、人間と同じように服を着せ、人間と同じように病院や美容院、温泉にまで行くのです。ペットを飼わない人たちには理解し難いこんな風景の中で運命を共にしてきたペットの死は、やはり人間と同じような魂の葬り方を求めるのは当然かも知れません。平気で嘘をつく人間に比べペットは従順で愛くるしく、死ねば嘆きの深さは計り知れません。

 私の家の近所でも最近は家の中で犬や猫を飼っている人が増えてきました。「家族の死より犬が死んだ方が悲しい」なんて言葉を平気で口にする人もいるほどですから動物とのパートナーシップも相当なものです。

 今わが家には産後の休暇を実家で過ごす娘家族が同居して賑やかです。4歳の孫と生まれたばかりの新生児が泣いたり笑ったり一喜一憂する姿に平和も感じるしいとおしいいとも思います。親父の悲しみを少しでも和らげてやりたいのですが、今日から私は熊本県あさぎり町への出張で家を留守にします。

  「鯉が死に ショック受けたる 親父見て 悲しみ分かち 思い出スナップ」

  「雨の中 畑の隅に 穴を掘り ねんごろ供養 親父の背中」

  「思い出の 品また一つ 消え去りぬ 母は今頃 何処を旅して」

  「夜が長い 一夜明けたる 池の側 父は何やら 鯉に言葉を」  

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