shin-1さんの日記

○父の日の贈り物

 「お父さん、父の日の贈り物は何がいい」と、数日前産後の休養で帰っている娘と娘婿が唐突に聞くのです。この歳になると「欲しいものなどないので「何もないから心配せんでもいい」と返しました。すると娘婿が「お父さんのパソコン用のプリンターはスキャナーがついていないといっていたので、プリンターはどうですか」というのです。でも私のプリンターはまだ使えるし、「勿体ないからまだ使う」と答えましたが、娘婿は早速手持ちのパソコンでプリンターのカタログを画面に写し、「キャノンかエプソンか」などと盛んに話しかけ、結局は「任せる」で一件落着しました。私は誕生日や結婚記念日や父の日などに決まって贈り物をくれる子どもたちに恐縮しています。長女にはその事をいつも言うのですが長女は「子どもを産んで育てたのだからそれくらいのことは甘えなさい」と殊勝なことをいってくれますが、自分のお産で孫の世話をしてやった恩義を感じての話と受け止め今年も父の日のプレゼントを甘んじて受けました。子どもたちはその金額を4等分して長女の威厳を少し上乗せして今年も父の日前の金曜日に大きな箱に入ったインターネットで注文のプリンターが届きました。先日上京した折現在のプリンターのインクカートリッジを大量に購入していて無駄になるといけないので、急な思いつきで全てのブログをプリントアウトすることを決意し、朝な夕なその作業に追われているのです。昨日は九州熊本県あさぎり町からの帰りで、午前中の会議も全てこなせたため午後からは約4カ月分のプリントを終え、後4ヶ月を残すのみとなりました。

 父の日はアメリカが発祥の地と言われていますが、父の日が近づくと新聞広告もデパートの売り場も父の日目当ての商品が数多く売り出されます。人間には必ず両親がいるのですから、プレゼントにこだわるだけでなく死んでなくなったりしていてもお墓参りなどをすればその恩に報いることは出来るのですから、その意味をかみ締めることが大事だと思うのです。日ごろは口うるさく言う父親の存在はこの歳になってもついつい煙たいものです。若い頃はそのうるささが頭に来て口喧嘩もやりましたし、反感反目の抵抗もしました。しかし自分がその歳になって逆の立場に立たされている今思うと、親の言った言葉が一つ一つ胸に迫ってくるのです。幸い4人の子どもは大きな反感反目もせず、反社会的な人間になることもなくここまで成長し、父の日のプレゼントを贈ってくれるような優しい心根の人間に育ちました。世の親がしたような親らしいことは何一つしてやっていないのにです。

 私は子どもの名前全てに私の一字「一」を頭につけています。したがってわが子は全て英語のイニシャルがⅠWなのです。親の思いつきと何気なくつけた名前ですが、先日友人に指摘されて意外な事に気が付きました。長女は一子で子どもの子がついています。故なのか助産師をしています。長男は一心で心がついています。故なのか設計の仕事をして人間の心を追求しています。次男は一生で生がついています。故なのか看護師として人の命に関わる仕事をしています。三男は一公で公が着いています。故なのか警察官として公を守っています。こうして子・心・生・公毎に名前の一字らしい仕事を天職として選んでいるのですから、私の眼力も相当なものです?。

 プレゼントを貰ったから子どもを産んでよかったと思う軽薄な考えは毛頭ありませんが、それでも子どもからの贈り物に感謝したい心境に変りはないのです。

  「自分さえ 忘れていたな 父の日に 大きな箱が ドンとわが家に」

  「一年に 一度の記念日 忘れずに ちゃんと感謝の 子どもに感謝」

  「九十の 父に感謝の サロンパス 今朝も腰貼り 今日も元気で」

  「親父とは 子どもに反感 反抗され 育つもんだと しみじみ思う」 

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○シルバー割引となった2等の切符

 一昨日は旅の日程の都合で小倉から旅客船に乗って松山観光港へ着きました。普通だと博多から新幹線で広島まで出て宇品経由で松山観光港へ向かうのですが、夜遅くの広島からの船便がなく、広島に一泊して早朝の船便で帰っても朝からの会議に間に合わないため、仕方なくノロノロ旅となりました。しかしスピードな旅に慣れている現代社会にあって、超スローな船旅は何とも超安価で贅沢な旅だと実感しました。

 JR小倉駅から船着場までは時間もあるので人影もまばらな動く歩道を歌を歌いながら歩き、港までの一直線の道を迷うことなく到着です。早速切符購入に必要な旅客名簿に備え付けの鉛筆で所定の欄に記入し「若松進一・62歳」と書き込み、カウンター嬢に見せると、「免許証をお持ちならお見せください」というのです。「私は嘘をついてない」と不信に思いながら背広の内ポケットに手を突っ込み、免許証を差し出したのです。「はい結構です」といっていわれた3520円の金額を差し出しました。受け取った切符には「シルバー割引20%」と記されているではありませんか。生まれて初めて受ける「シルバー割引」に私の心は妙に複雑な心境でした。「ああ、私もシルバーと言われる年齢になった」と思う諦めと、「20%得した」という優越感が交錯したのです。そのうち「20%の得」を忘れて、「そもそもシルバーとは何歳からなのか」という疑問が生じ始めたのです。普通世間の常識だと高齢者などの基準は65歳だと思うし、老人クラブの入会もその年齢だと聞いていました。この日は皮肉にも近づきつつある自分の老いを切符の「シルバー20%割引」という文字で初めて確認した記念すべき日となりました。

 それにしても「2等」という言葉がまだ乗り物の世界では平気で使われていることも驚きの一つです。特等、特1、1等、2等とランクが分かれていて、ランクが高い船室は上の方にありますが、フェリーで船底に車を積載するため船底の船室はありませんが2等はとにかく一番下なのです。他の上位ランクが個室風なのに比べ2等船室は大広間風で、昔のように何処に寝てもよい早い者勝ちの場所取りはさすがになくなりましたが、人間の寝れる範囲に通し番号が打ってあって、指定された自分の場所を確かめながら下毛布と上毛布を広げ、枕に上カバーを掛けて居場所を確保するのです。

 この航路は旅行会社の募集した四国遍路の旅に参加する九州地方の人々が、団体で乗り込んで中々賑やかでした。殆どに人は私と同じ60歳がらみの定年退職もしくは初老といった風格の人ばかりで、見ず知らずの人ながら気軽に話しかけてくるのです。「どちらまで」から始まる会話は身の上話や八十八ヵ所の話まで巾が広く、結構飽きずに話が延々と続くのです。

 私はこの航路に乗ると浴室に一番乗りで出かけます。小さい風呂ながら動く船の風呂に入れるとはまるで世界一周のクルージングを楽しむような贅沢なものです。シャンプーもボディソープも用意されて中々のものです。酒を辞めたため風呂上りに一杯はさすがになくなりましたが、約1時間前の乗船ですから午後9時55分発までには十分風呂を上がることが出来るのです。11時になると消灯し、朝4時には点灯されるその間の5時間が就寝なのですが、私のように旅なれていると10時には床に就き4時半まで眠るので7時間弱は睡眠時間を確保できるのです。

 でもいつも思うのですが、年金暮らしになると見栄や無駄のない暮しに徹底した方がはるかに気楽で得策なのです。格好をつけて特等室を取ったところで高い金を払って船室という檻の中に入るだけなのです。2等だと隣のおじさんやおばさんのいびきや会話が多少気になりますが、それでも人々の暮しの息遣いが見えてくるのです。今日もこうして新幹線や高速船のスピード旅では味わえない、スローゆえのゆったりした雰囲気が味わえるのですから嬉しいことです。

 朝5時、四国・愛媛・松山の港桟橋に降り立った時初めて、昨夜海の上にいた事を実感しました。

  「シルバーの 二割割引 烙印を 押された切符 記念に持って」

  「船中で 動くお風呂は いい湯だな のんびりスロー 気分最高」

  「一万で 二日間も 乗り放題 そんな旅する 老人横に」

  「どちらまで 会話始まる 船の中 思わぬ出会い ハガキひょっこり」

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shin-1さんの日記

○熊本県あさぎり町へ行きました

 「弁当を忘れても傘を忘れるな」とは、島根県や鳥取県へ行った時よく言われた言葉です。山陰ほどではないにしても九州地方は入梅しているので、傘を忘れたら偉いことになるとそればかりが頭にあって、駐車場に止めた車から降りて九州への旅に出る時傘は忘れず持ちましたが、何と商売道具のデジカメを車の中に置いたまま出かけ、九州に着いた汽車の中で「しまった」と思い出しましたが後の祭りだったのです。ましてや普通持っても行かぬ資料用のDVDをカバンに入れたものの、現地では動かすことが出来ず、今回の九州の旅は私の思考回路が最初から狂いっぱなしでした。ましてや思ったより2時間も早く待ち合わせの場所に到着したものの、担当者の携帯をメモしていたのを家の机に置き忘れて、結局は時間通りの待ち合わせ送迎となりました。それでも遅れた訳ではないので、近くを流れる球磨川を見に行ったり、駅の近くの阿蘇神社を散策したりと成果は多かったようです。

 何はともあれ博多・熊本・八代経由で人吉まで行き、車窓に見える球磨川沿いの風景を堪能しながら人吉駅であさぎり町教育委員会の森さんと落ち合い車上の人となりました。「合併してひらがなのあさぎり町となったこと、町長さんが民間人でまだ選ばれて間がないがまちづくりに対する意欲が高いこと、今日はそこそこ集まる」などと、アップダウの激しい農面道路を進みながら森さんと雑談し約30分で須恵文化ホールに到着しました。500人収容の文化ホールは多分、合併前のどこかの町の施設を引き継いだであろうことが、私設名から容易に感じ取ることができました。

 面識はないのですが、昨年10月27日、熊本県城南町で開かれた熊本県社会教育研究大会が縁での今回の講演会招致だと思われるので、その際出席していた那須社会教育委員長さんや婦人会長さんとも控え室で楽しく面談しました。

(500人収容の立派な文化会館の緞帳も見事でした)

 緞帳が上がり町長さんのあいさつで講演会は始まりました。考えていた出だしのパソコンが使えないため急遽話の組み立てを変えて約1時間半の予定でお話しましたが、会場のマイクの通りもよく参加者の反応がよかったため約10分も延長してしまいました。多分それは控え室で町長さんと話をしたからこちらもその気になったような気がするのです。

 町長さんは就任後まだ2ヶ月ほどしか経っていないそうですが、松下系の会社に勤めていたそうで、「パソコンを持ち歩いています」といわれるだけあって、今流デジタル人間のようです。町長さんのパソコンには毎日のように町民からメールが入るそうで、その対応を動きながらやっているとのことでした。このやる気こそが町を変えてゆくのだとも感じ心の底で感心したのです。

 私はふと自分の知ってる何人かの首長さんの顔を思い浮かべました。その中に昨年関東のある市で青年会議所主催のまちづくりシンポが行われました。パネラーで招かれたよそ者の私と市長さんと会議所理事長、それにコーディネーターが議論を戦わせました。その時市長さんは「私は毎日パソコンに届く市民の意見に耳を傾け、開かれた行政をやっています」と話されました。私は議論を吹っかけ「私は古い人間でパソコンを学校で習っていません。多分市民有権者の年齢の高い人は殆どの人がパソコンを使えないものと思われます。私はブログを書き、メールをやっていますが、幾ら私が立派な事をブログに書いてもパソコンを操作できない人にとってはタダの電子ゴミなのです。確かにデジタルの効果は認めますがそれがあたかも全ての意見であるかのような錯覚は止めた方がいい。4年間意見を聞き続けるのも大事だが、自分が首長になるとき自分と有権者に約束した公約をマニフェストとしてやるべきである。声は庭先や職場で直接聞けばいい。」といい、会場からやんやの喝采を受けました。市長はむっとして「何をたわけたことを、お前のようなよそ者に何が分る」と声を荒げましたが、後日お便りが届き私の話を分ってくれたようで、先日東京でお会いをして握手をして雪解けとなりました。
 私は町長さんのようなデジタル人間ではなくアナログ人間なので、毎日3通のハガキを20年も書いております。あえて今日町長さんに下手糞なハガキを出しました。同じ松下系の松下幸之助さんから「掃除も出来ないような人間はまちづくりを語る資格がない」といわれ、12年間朝5時から朝8時まで役場に出勤するまでの3時間の掃除をやってみました。言われるとおりまちづくりの何であるかがやっと分りました。今私の所へ松下系の松下政経塾から兼頭さんという若い青年が人間牧場に足繁く通っています。東大
経済学部を出たような彼が、高校しか出てない私の元へ何故来るのかは定かではありません。でも二宮尊徳の「遠くをはかるものは富み、近くをはかるものは貧す」のことわざそのままに、年輪の哲学をお互いが語り合っています。

 私の今回の旅は私の話よりも、町長さんとの出会いの方がはるかに沢山の学びをさせてもらったような旅でした。残念ながら私は町長になるような器でもなく、町長に立候補して選挙を戦った苦労経験などもないのです。合併したとはいえ1万8千人の小さな町をどう変えるのか、町長さんには多くの試練が待ち受けていることでしょう。ご活躍ください。陰ながら祈ります。

 私は双海町の町長さんと同じ3つの気持ちでまちづくりをやりました。「町を愛する」「町のためにやる」「町をよりよい方向に導く」でした。私が職員としてやった3つのこと。「知恵を出す」「汗を出す」「責任逃れをしない」でした。

 結局町長さんは「金を出す」「口を出さない」「責任を取る」の気概で私たちに仕事を任せたから、5期20年を「責任を取る」こともなく職務を全うしました。


(この結び目を作るのが町長さんの仕事かな)
  「傘持って カメラ忘れた 慌て者 それでも何とか 様なる話」

  「よくもまあ あんな激務の 首長に 好んでなるとは 俺は嫌だな」

  「デジタルな 世の中ですね カバンには パソコン入り お金じゃないよ」

  「俺にゃない 地盤看板 カバンさえ だからなれぬと 妻の一言」 

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shin-1さんの日記

○素晴らしいアイディアのハガキと名刺

 今朝旅先の熊本県から帰郷すると郵便物に混じって沢山のハガキが届いていました。その中にキラリ光る一個のハガキを見つけました。ハガキを一枚といわず一個といったのは下の写真のように白樺の木をスライスしたハガキだからです。80円と50円の切手を合計130円分貼った特製ハガキは真ん中をくり抜いて駿馬がこれまた程よく彫刻されていて、全体の美しさもさることながらボールペンで書いた文字がまたとても美しく、嬉しくなりました。差出人は木曽町大目富美雄とあります。実はこの方、先日高知県馬路村行われた全国まちづくり交流会で知り合った方なのです。私の手元に残っている名刺を繰ると木曽町役場企画調整課に勤める課長補佐と書いています。ハガキの裏には「若松さんの実践的な話ハーモニカの音色、まちづくりは自分が楽しくなければ駄目、子どもたちが自分の町を語れるように・・・・」など、私が講演で語ったことが短くまとめられ、「ハガキ3枚のハガキを毎日書く事を20年間続けているという貴重な話」で結んでいるのです。

(長野県木曽町の大目さんから送られてきた木になるハガキ(左)と、高知県馬路村で開かれた全国まちづくり交流会で大目さんからいただいた名刺)

 馬路村で150枚も名刺交換したのに何故大目さんの事を覚えていたかというと、それは名刺のアイディアが凄かったからです。大目さんの名刺は上の写真のように本物の免許証と見間違えるほどの精巧さで作られていているのですが、よくよく見るとアイディアが一杯なのです。氏名・生年月日はかわらないものの、職場は役場企画調整課(課長補佐)、電話・FAX・E-mall、平成19年の異動まで有効、免許条件 眼鏡等、免許の種類はこれまで歩いて来た職場に1、異動したことのない部署には1がつけられているのです。私も色々な名刺を見てきましたが、このアイディアはダントツで、正直手渡されたときは間違って運転免許証を手渡されたような勘違いをしてしまうほど実に精巧に出来ています。ひょっとしたら偽札と同じで悪用されるのではないかと心配したほどです。そんなご縁がたった一枚の名刺で出来ていたものですから、今日木で出来たハガキをもらった時、一事に秀でたものは万事に秀でると直感したのです。大目さんの話によるとこの名刺は名刺コンテストでグランプリを獲得したそうですが、私にとってこの名刺は一生忘れない思い出の一枚となることでしょう。

 私たちは20年間無人島キャンプなどを実践してきましたが、その都度無人島で拾った小石や流木板切れなどに宛名や手紙を書いて家族や友人宛に送りました。その都度家族や友人はとてつもない変った便りに驚いたようでしたが、大目さんからいただいた木のハガキは、数多い私へのハガキの中で今年最高のグランプリに輝くのは間違いないと思いましたし、名刺と共に人間牧場へ持って行って大切に飾り、来訪者に自慢してやりたいと思っています。それにしても世の中は面白いアイディアを持った人がいるものだし、それを行動に移した大目さんは偉いと思いました。「大目玉」という言葉があります。悪い事をして叱られることのようですが、私にとって大目さんからのハガキと名刺は「大目玉を開けよ」と教えてくれたショックでした。

 毎日色々な人に会い、名刺を交換する光景を何度も見てきたし、私自身もそんな行動を今も取っています。また出会いの感動や感想をハガキに託して相手に送ることもしてきたし相手から貰いもしました。たった一枚の名刺が、たった一枚のハガキが心を揺さぶり、覚えていてもらえるならこれほど凄いことはありません。今一度名刺やハガキについて考えてみたいものです。

 先日馬路村でこのことが話題になりましたが、馬路村の木下産業建設課長さんも面白い名刺を持っています。同じものを私に数枚作って送ってくれましたが、名刺入れから差し出した名刺は「あれ裏側かな」と思うほど自分の名前が小さくて右手の親指で丁度隠れるようになっていました。名刺を貰った瞬間の「あれっ」が人を引きつけるのです。ただしその一矢の次にどういう言葉の二の矢三の矢を出させるか、これがないと、折角のショックが台無しになるという話をして盛り上がりました。

 私の漫画チックな名刺と人間牧場主という肩書きはその点大目三の名刺には適いませんが中々の秀作だと思っています。名刺一枚にも知恵を出す、ハガキ一枚で相手への思いを伝える、こんな市役所の職員は残念ながらもう少なくなりました。

  「免許証? いやいやこれは 名刺です いやはや参った 一本取られ」

  「おっ来たか 名刺で驚き 次ハガキ 次は何かと 大きな期待」

  「裏返し? いやいや裏では ありません 表向きです 私の顔は」

  「ちょっと待て 思わせぶりな 人ありて 何処か気になる だからおもろい」



 

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shin-1さんの日記

○変われば変わるもの

 ブログで日記を書き始めて二年近くが経ちますが、資金「若松さん、お孫さんは元気ですか」と、あちらこちらで孫の消息を聞かれるようになりました。それもそのはず、これまでは妻と孫のことなどは「私的なこと」として、余り口にもしてきませんでした。ところがブログを書き始めるとそんな家庭の話題を取り込むことが日記の醍醐味とあって、旅の出来事や人との出会いなどに加えて、いわゆる私的な妻と孫の話題がむしろ多くなっているのです。その中でも孫朋樹の話題は最近とみに多く、成長すればするほど話題も多くなって、ブログの人気者になっているのです。昨日もブログは縁のない人でしたが人間牧場の近くに住む人に「キャー虫だーと、逃げまくっていたお孫さんはお元気ですか」と尋ねられました。昨年のこの頃地元の人を招いて水平線の家で一杯飲んだ時、たまたま孫連れて行っていたので印象に残っていたのでしょう。「いやあ、それが大変身で、今は幼稚園が休みの日などはカエルやおたまじゃくしを追い掛け回していますよ」といったら、「変れば変わるものですなあ」と関心しきりでした。

 そもそものきっかけは、シーサイド公園の特産品センターおもちゃ売り場で、恐竜のミニチュアセットを660円で買った時に遡ります。それまでは飛行機の模型に熱中していた孫が、恐竜の模型に熱中し始め、飛行機の模型は一体何だったのかと思わせるような大変身で、恐竜に狂い始めたのです。遊びも恐竜ごっこ、風呂へ入るのも寝るのも恐竜の模型なしでは夜も日も明けない感じになりました。当然7つのポケットを持っている孫は誕生日や旅行のお土産に恐竜の模型を欲しがるのです。

 そんなこともあって、人間牧場へ行くと団子虫を探したり、チョウチョやクワガタを探したり、野性味溢れる子どもに成長しています。今日も午前中は人間牧場で息子が所属する建築関係の集会を開くので準備がてら連れて行ったところ、参加している若いお兄ちゃんにせがんでチョウチョやクワガタを追っていました。また家に帰ると百円ショップで買った網と虫かごを持って、おたまじゃくしやイモリを探しに行こうと私を連れ出しました。我が家の周辺は田舎ゆえまだあちらこちらに田園が開けていて、そんな水棲動物が一杯いるのです。大人でさえも気持ち悪くて触らない腹が赤いイモリを取ったり、おたまじゃくしやタニシをしっかりと取って遊んでいます。これが子どもの自然な姿だと思いつつ初夏の太陽を体一杯に浴びて孫にお付き合いしていますが、少々疲れるのが本音です。

 私にとって自分の子どもの子育ては仕事の忙しさにかまけて妻任せで、成長した子どもが「お父さんと遊んだ記憶がない」などとよく言われます。それもそのはずまちづくりの仕事に熱中し殆ど子どもとは関われなかったのです。孫へのかかわりはその自戒の念かも知れないと妻は苦笑しますが、わが子は10時10分、孫は8時20分といわれるように、子どもは眉毛を吊り上げて教育をします。ところが孫は眉毛が下がるのです。娘や娘婿にすれば「甘やかさないで」といいますが、孫とおじいちゃんの関係はまあこんなものでしょう。

  「誰が好き 聞けば必ず おじいちゃん 心得てます 孫のお世辞だ」

  「虫さえも 触れなかった あの孫が 今は堂々 イモリをつかむ」

  「成長が 昇り調子の 孫比べ 俺は落ち目の しがない爺」

  「この孫が 大人になるのを 見届けたい 大丈夫です いや駄目かもウーン」

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shin-1さんの日記

○鯉の死

 高齢化社会や核家族化社会を繁栄してかペットが密かなブームを呼んでいます。食うことさえままならなかったハングリーな戦後を体験した私などから見れば考えられないような、豊かな社会になった現われかも知れませんが、世の中は成熟社会に向かえば向かうほど孤独になって、何かに救いを求める気持ちはよく分るし、人を信じられない時代にもの言わぬがなつく愛くるしい動物に愛情を注ぐ気持ちはよく分るのです。

 わが家の親父も母の死以来同じ敷地内に住んでいるとはいいながら、忙しく振舞う私たち夫婦とも意外と疎遠で、孤独に絶えながら生きていると思うのですが、その救いを若いころからやっている鯉の飼育で幾分紛らわせていたような気がするのです。家の敷地内に池を二つも掘り、自動浄化装置まで備えた鯉の飼育池には8匹の鯉が元気よく泳いでいました。親父の日課は鯉餌やりから始まり、散歩、農作業や趣味の骨董品の手入れなど領域も広く生きがいを持って生きているようにも見えますが、やはり寄る年波のせいか、時々弱音を吐くものの年齢90歳にしては元気で日々を暮らしているのです。

 昨日の朝、小降りの雨の中私の書斎の窓から親父がやって来て、悲しげな声で「鯉が死んだから写真を撮ってくれ」というのです。「自慢の鯉だったのに」というので池に行って見ると、一番大きな鯉が池のそこに沈んでいました。たも網で上げましたが、二人の力でやっとというほど大きくて、10キロはくだらないようでした。早速鯉を持ち上げた親父の姿をデジカメに納めました。

 母親生前中から飼っていたわが家の池で一番大きな思い出の鯉の死は親父にとって相当ショックだったようで、雨の中畑の隅に穴を掘り埋めてねんごろに供養していました。「もう生きものは飼わん」とか、「池は潰す」などと狼狽した言葉をつぶやきながら小雨の池の側で一日を過ごしたようです。

 昨日は愛媛県公民館連合会の新任職員ネットワークセミナーがあって、昼間家を留守にして帰ってみると、何が原因なのかもう一匹の鯉も瀕死となりました。早速出入りの別府養魚場に電話をかけてましたが、あいにく留守とのことでした。降って湧いた鯉の死の大騒動は今日も続くでしょうが、早く鯉の死のショックから立ち直って欲しいと願っています。

 最近松山の郊外などに行くとペット霊園などの看板が目に付くようになりました。犬や猫に始まり鳥や爬虫類まで様々なペットを飼う人が増えています。犬や猫は外という常識も今では非常識で、人間と共に暮らすような飼い方に変わってきています。当然犬や猫は同居動物で、人間と同じように服を着せ、人間と同じように病院や美容院、温泉にまで行くのです。ペットを飼わない人たちには理解し難いこんな風景の中で運命を共にしてきたペットの死は、やはり人間と同じような魂の葬り方を求めるのは当然かも知れません。平気で嘘をつく人間に比べペットは従順で愛くるしく、死ねば嘆きの深さは計り知れません。

 私の家の近所でも最近は家の中で犬や猫を飼っている人が増えてきました。「家族の死より犬が死んだ方が悲しい」なんて言葉を平気で口にする人もいるほどですから動物とのパートナーシップも相当なものです。

 今わが家には産後の休暇を実家で過ごす娘家族が同居して賑やかです。4歳の孫と生まれたばかりの新生児が泣いたり笑ったり一喜一憂する姿に平和も感じるしいとおしいいとも思います。親父の悲しみを少しでも和らげてやりたいのですが、今日から私は熊本県あさぎり町への出張で家を留守にします。

  「鯉が死に ショック受けたる 親父見て 悲しみ分かち 思い出スナップ」

  「雨の中 畑の隅に 穴を掘り ねんごろ供養 親父の背中」

  「思い出の 品また一つ 消え去りぬ 母は今頃 何処を旅して」

  「夜が長い 一夜明けたる 池の側 父は何やら 鯉に言葉を」  

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shin-1さんの日記

○郷土に錦

 旧双海町奥東出身で東京で活躍されている人に清野茂次さんという人がいます。ふるさと大学「伊予塾」の講師として2006年6月9日に来県されリジェール松山で開かれた講演会には300人もの人が集まりました。私は出席できなかったのですが愛媛新聞で特集が組まれその一部始終が報告されました。

 その清野さんが母校である下灘小学校と下灘中学校でそれぞれ1時間ずつ児童生徒の前で講演するというので、市の上田教育長や地元出身の三徳電機社長の三井新太郎さんたちとともにお世話をさせてもらいました。私が役所在職中に一度お会いしている方だし、実家の清野家の皆さんとはご実懇にさせてもらっているので肩肘張らない同行となりました。

 シーサイド公園で待ち合わせ昼食を取った後まず下灘小学校に向かいました。校長室に案内されましたが、久しぶりに訪ねた母校の姿に感慨一入のようでした。

 池田校長先生の案内で会場となった体育館に入りましたが、50人ほどの児童数に驚いたようでしたが、児童の暖かい拍手に迎えられ、清野さんの講演が始まりました。清野さんが褒めるほど児童の聞く態度は立派で、パワーポイントを使って分り易く話すものですから、子どもたちも納得の感じでした。特に日本の国家的プロジェクトといわれる明石海峡大橋や瀬戸大橋の設計に深く関わられているため、子どもたちは講演会終了後の質問の時間も、殆どの子どもが手を挙げる盛況ぶりでした。

 また最後は望郷の思いを歌に託され、ピアノの伴奏に合わせて「みかんの花咲く丘」を児童とともに大合唱しました。

 続いて下灘中学校へ会場を移してのお話です。

 新しく赴任してこられた二宮校長先生の案内でこちらも体育館での講演となりました。清野さんは戦後の学制改革以前に小学校を卒業しているため、中学校は松山工業高校、松山南高校へ進んでいるため、残念ながら下灘中学校の卒業生ではありませんが、それでも中学生には中学生なりの少し難しい話を「おじいさんから孫たちへおくることば」と題してしてもらいました。

 文系でなく理系の人なので最も得意とする専門分野の話は聞いても分らないものなのですが、技術士らしく理路整然と分り易く話されました。
 清野さんは1933年生まれ、52年松山南高校卒、56年日本大学工学部工学科卒、58年オリエンタルコンサルタンツ入社、86年に社長、会長を経て2005年から相談役・名誉会長を務めています。建設コンサルタント業振興への貢献で97年に建設大臣表彰、04年に黄綬褒章を受けています。建設コンサルタンツ協会、日本技術士会顧問なども努めておられます。

 小さな田舎町から飛び出し、日本や世界を股にかけて活躍する郷土の生んだ逸材なのですが、やはりふるさとへの思いは相当なもので、いつも頭から離れないと述懐されていました。そのことばを裏打ちするように心がけてきた次の5つを話されました。

 心がけてきたこと

 1、自分のふるさとに誇りを持つ

 2、両親や兄弟、仲間に感謝する

 3、毎日の仕事を大切に知る

 4、日本人としての誇りを持つ

 5、いつも感謝の気持ちを忘れない

 「郷土に錦を飾る」という言葉があります。清野さんや私たちを含めて戦後の混乱した世相の中で221世紀は誰もが都会に憧れ、都会の雑踏の中に消えて行きました。一旗揚げる気持ちで出かけてものの殆どの人は挫折や失敗を繰り返しましたが、清野さんの場合は夢をたゆまぬ努力で勝ち取り大成功を収めたのです。まさに一旗揚げ、郷土に錦を飾りました。今は亡きご両親もさぞかし自慢の息子であったに違いありません。清野さんの偉さはやはり原点であるふるさとを忘れないことだと思うのです。

 この日清野さんは小学校と中学校に目的ご芳志として図書を寄付されました。やがてこの本を読んだ子どもたちが第二・第三の清野さんを目指してくれることを期待したいものです。


 講演会終了後、わが人間牧場や翠小学校を案内しふるさとささやかにを満喫していただきました。

 その夜、三井さんの肝いりで交流食談会が持たれました。

  「ふるさとに 錦を飾る 人ありて 話すことばに 苦難感じる」

  「熱心に 聞き入る児童 それぞれに 今に自分も 夢が芽生える」

  「学校に ありし銅像 金次郎 幼き頃の 思い出ダブらせ」

  「美味いね 郷土の料理 堪能し 思い出話に 花を咲かせて」


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shin-1さんの日記

○ビワの実の熟れる頃

 雨の少ない年は果物が美味いとよく言われますが、確かに今年のビワは玉太りもよく甘味も十分乗ってどれを食べても美味しいものばかりです。今年一番最初にビワを食べたのは確か先月17日でした。あれから1ヵ月近くが経過しているのに、極早生、早生、中生、晩生とそれぞれ微妙に違う品種の特性があって結構長い間その味を楽しめるのです。わが家には残念ながらビワの木がないたことが幸いし?、近所の知人友人が思い思いに持ってきてくれるのです。みかん一辺倒だったわが町も自衛本能とでもいうべきか生産の柱をみかん・晩柑・キウイフルーツ・ビワなどを組み合わせて栽培している人が多くなりました。とりわけこの10年ほどでビワの植栽や収穫量は急速に伸び、海沿いの温暖な気候を利用して新興産地となりつつあるようです。やまのあちこちには4月頃、袋を被せた美しい光景があちこちで見られるのも今様なのです。

 ところが最近はカラスがこの袋目がけて飛来し、辺りかまわず食い散らすのです。農家は折角の労作を食べられては大変と食害対策としてあの手この手を考え、ガス玉で驚かせたりビワの木にテグスを張ったりと、要らぬ労力をかけてカラスとの知恵比べをしていますが、今のところ不意打ちを得意とするカラスに軍配が上がってるようです。しかし当のお百姓さんにとってカラスの食害死活問題ですから、憎きカラスの夢を見たり時には有害鳥獣駆除という方法でお尋ね者の一掃駆除を猟友会にお願いしていますが、撃ったカラスの足を役場に持参する確認方法で調べてもまだカラスが一枚上といわざるを得ないようです。

 わが家に持ってきて貰うビワは出荷できない品質の全て2級品なのですが、味は1級品と殆ど変らないのです。ここでも買う側消費者の「見た目」の美しさが求められているようで、少し風傷のあるものや、形の悪いもの、カメムシ虫害にあったものなどいわく因縁の付いたものは製品であって商品にはならないようです。冬の寒さの中での摘果や高い木の上での袋をかける危険な作業をした成果がこれなのかと思うと、報われない苦労に感謝しながら食べない訳にはいかないのです。

 ビワは他の果物に比べ種の分量が多く、皮やヘタや種が約半分もあるのが難点だ思うのですが、それでも季節を感じる果物としては最高に美味しく、傷み足が速い果物だけに今は毎日食事代わりのような感じで楽しく食べています。

 公民館に勤めていた頃、生活改善グループの特産品開発でビワの瓶詰めの実習をしたことがあります。ビワを半分に割り中の種を取って黒く参加しないように下処理をして瓶に詰めシロップを加えて機械で栓を締め、蒸気殺菌をして出来上がった瓶詰めを何本か貰ったことがありました。何ヶ月か後に食べてみましたが美味しくいただいたし、今でも妻は瓶詰めのビワを入れた寒天ゼリーを作りますが、これも夏の涼を誘うデザートとしてわが家では親しまれています。

 台風被害、ヒョウ被害に遭った「訳ありリンゴ」や「訳あり柿」などを農家を助ける運動としてやっていて、私も地域づくりの仕事をしている関係上よく買いますし、日曜市などにはこうした産品が安値で出回ります。見た目本位から味本位や安全本位に変わって欲しいと思いつつ、相変わらず風評被害を撒き散らす庶民意識に青色吐息のこの頃です。

 今年も美味しいビワを届けていただいた農家の知人友人に感謝をしつつ、今朝も朝フルといきましょうか。

  「ビワを見ず 俺の顔見て 見た目より なんて口する 二人食卓」

  「下取りを して欲しいねと 種の量 皿に山盛り 腹はそんなに」

  「もう一個 更に一個と 食べ過ぎて ビワ腹ふくれ ご飯食べれず」

  「食前に 食べるが本当 果物は 食後デザート 太る原因」 


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shin-1さんの日記

○エッ、「刺身」は魚の名前なの?

 今朝は仕事の都合で昨晩わが家へ来れなくなった娘婿の代わりに孫朋樹のアッシー君として、松山の幼稚園へ送ってゆく事になりました。両親が勤めていることもあって近頃は親離れがいいというべきなのか、「一番大好きなのはおじいちゃん」などと、私の心情をくすぐるような甘い言葉で私の関心を引き付けるのです。4歳にもなると人の顔色が分るのかなあと思いいつつ、送迎に甘んじる甘い8時20分型眉毛の私がいるのです。

 今朝はあいにくの雨模様の中でしたが、双海町の海岸には合羽を着て釣りをする物好きな人が何人かいて、孫はそれを見るなり「おじいちゃん、友だちの○○君は今度お父さんと釣りに行くんじゃと」というのです。「朋樹君も行きたいの?」と私が尋ねると、「うん行きたい」と返事が帰ってきました。孫はこの頃少しずつ刺身が食べられるようになって肴の名前が食卓の話題に上るのです。「朋樹君はどんな魚の名前知っているかなあ」と尋ねると、「うん、ハマチに鯛にアジ、それにお刺身も知ってるよ」と驚く発言をするのです。「朋樹君刺身は魚の名前じゃないよ」と否定したものの、「どうして?」という追求に一瞬言葉を見つけることが出来ませんでした。孫にとっては魚の刺身はハマチや鯛と同じように魚の名前と勘違いしているのです。都会東京の話ならいざ知らずこんな田舎で暮らしながらうーん・・・・・・と思いました。

 そういえばつい最近は半調理若しくは全調理した魚がやたらと多く、元の姿を想像できないような魚が主流を占めていて、家の台所では買ってきた調理品を皿に盛り付けるだけ、ひょっとしたら盛り付けたままの姿で膳を囲むことだってあるのです。まな板や包丁さえもない家庭が増えてきました。面倒臭いと魚臭いの両面から魚離れが進み、子どもの頃から魚よりも肉を好む食生活に慣らされてしまっているのですから、「魚の絵を書きなさい」といきなり言われても、魚を釣りに行ったこともないし、丸ごとの魚を見たこともない子供にとっては書きようがなく、結果的には魚の切り身や刺身を書く時代になってしまっているのです。島国日本、魚の国日本は最早かつての思い出としてでしか語られないのかも知れません。

 私は近いうちに孫を釣りに連れて行ってやりたいと思いました。できれば忙しい娘婿を連れ出して親子で釣りをさせたいとも思いました。そうすれば共有や共感、共鳴の世界が生まれるような気がするのです。

 今朝下灘の親類から沢山の魚が届きました。今の時期は魚が最も痛みやすい時期なので、朝早くから起きてその処理をしました。鯛とニベは刺身にするため3枚におろし、ハモは背開きにして骨切りをしました。一見不器用な私ですが昔は漁師の端くれで、魚のことはちょっとした調理師には負けないくらい腕がいいと自分では思っています。甲イカはセンゴと皮と内蔵を取って水洗い、タコは塩でヌメリを落とし、約1時間半で冷蔵庫に入れれるだけの下処理をしました。これで冷凍をすると約1週間は美味しい魚が毎日食べられるのです。孫も娘婿も魚は大好きなので折に触れ魚そのものを見せて魚体をしっかりと目に焼き付けさせたいと思いました。

  「刺身とは 魚の名前 思う孫 何と説明 お爺しっかり」

  「絵を書けと 行ったら子ども 切り身書く 世も末日本 これでいいのか」

  「夏が来て ハモの湯晒し 梅酢和え 風流楽し 食が進んで」

  「食育が 大事だ思う 近頃は 親さえ魚 さばけぬ時代」

  

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shin-1さんの日記

○私に影響を与える人

 私にとって生き方や知識など影響を与える人は沢山いますが、中でも熊谷市に住む龍前宏さんは「音と文字の達人」で、不定期的に著名な方のダビングラジカセテープと、自分で書いたエッセイを送ってくれるのです。私はそのテープを車に持ち込み所用道中の行き帰りに、特にラジオの電波受信状態が悪いときなどカーラジカセで聞いています。名を成した著名な人の知られざる努力や工夫、それに考えが、本人の肉声で語られていてとても参考になるのです。私たち人間は大きく分けるとおおよそ3つのことで体内に知識を習得します。活字を読むという行為、話を聞くという行為、見るという行為です。読むと見るは目から入ってきますが、聞くは耳から音として入ってきます。私は子どもの頃からどれ程の本を読み、どれ程の人の話や音を聞き、どれ程のものを見てきたことでしょう。その一部始終が脳と心に無形ながら知識となって埋め込まれているのです。もう六十二歳の峠を越え、覚えていること全てを思い出すことは不可能なのですが、それでも六十二年間生きててもなお今日まで読まなかった活字、聞かなかった話や音、見たこともないものを見聞きして相変わらず蓄積しようとしているのですから人間とは、いや自分は素晴らしい遺伝子を持った生きものだと思うのです。これからも命のある限り読んだり聞いたり見たりしながら衰えゆく体力を少しでもカバーして生きて行きたいものです。

 さて今回送られて来たのは向田邦子さんが1981年東京大手町日経ホールで行った講演テープと、3枚のコピーでした。向田邦子さんのテープはまだ聞いていませんが、3枚のコピーは凄い内容なのです。

 1枚目は龍前宏さん自身が俳誌相思樹5月号に書いた西郷と龍馬という記事です。その記事は作家海音寺潮五郎の「西郷隆盛」という小説の書き出しを引用しながら一枚の写真の解説をしています。丁寧にもその添えれられた写真のコピーは見易いようにA3版に拡大コピーしているのです。この写真には1865年(慶応元年)2月上野彦馬撮影とあるそうですが、オランダ人宣教師フルベッキを中心にして西郷隆盛をはじめ尊皇攘夷の志士46名が一堂に会して写っている写真なのです。

?坂本龍馬、大久保利通、勝海舟、桂小五郎、高杉晋作、伊藤博文、岩倉具視など「これは本当の写真?」と思われるほど多くの人たちが写っているのです。龍前宏さんもそうですが幕末を中心とした歴史に強い関心を持っている私にとってもこの写真は貴重なものとなりました。それにしても写真に写っている志士たちは若いですね。これからじっくり写真に写っている人たちの面影や業績を追ってみたいと思っています。

 もう一枚のコピーは平成元年6月25日の新聞切抜きです。朝日新聞の天声人語、毎日新聞の余録、讀賣新聞の編集手帳、東京新聞の筆洗、産経新聞の産経抄を羅列的にコピーしていますが、ご存知6月24日は昭和の歌姫美空ひばりの命日です。龍前宏さんは私宛の手紙に「今月の24日は美空ひばりの祥月命日です。平成元年6月25日の朝刊各誌のコラムはひばり一色でした。私は同時代を生きられたことに幸せを感じております。」と書かれていました。

 しかしそれにしてもここまで朝刊各誌のコラムを保存し比較検討している人は聞いたことがありません。美空ひばりという切り口でもその書き方は様々です。いい勉強になりました。このコピーも大切に保存したいと思っています。

 日々の暮らしの中で何気なく聞く話し言葉や音、何気なく目に入る景色や文字などがいかほどの知識として脳や身体に蓄積されるかは定かではありません。しかし少なくともこうして意識的に学習する行為は大きな価値を産むに違いないと、龍前宏さんの存在を心に刻む今日この頃です。

  「送られし テープとコピー 前にして 学びの心 少し持ち上げ」

  「一枚の 写真が語る 物語 日本の夜明け 彼らつくりぬ」

  「数々の 歌を残せし 歌姫の 死を取り上げて コラムを書きぬ」

  「一度だけ 会っただけだが 影響を 及ぶ人から またも届きぬ」  

 

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