shin-1さんの日記

○一宿一飯一夜の宿・大月町ルポ③

 研修会と夕食交流会を終えた私と山本さんは、迎えに来た山本さんの奥さんの車に乗って夜の道をお宿となる山本さん宅へ向かいました。夜のことゆえ何処をどう走ったかは分りませんが、海岸沿いの曲がりくねった道を走ったような雰囲気で約20分走り、午後9時ころに到着しました。奥さんはかつて山本さんと同伴でわが家へ手土産を持って来られたことがあるので凛とした懐かしい顔は直ぐに思い出しました。こうして旅を続けていると、かつての私がそうであったように、一宿一飯の恩義に甘んじなければならず、緊張と恐縮な気持ちが入り混じりましたが、ここは仕方がないとあきらめて山本さんの家族に甘える事にしました。

 2人の子どもにも出会って声をかけ、山本さんと奥さんと3人で酒やお茶を飲みながら12時頃まで話しこみました。今日の研修会のこと、家族のこと、将来のこと、気がかりなこと、人生いかに生きるかなどなど、意の向くままにお互い他愛のない事を心を開いて話しました。特に道の駅を担当しての苦労話や道の駅の活性化については、私も経験者だけにノウハウをかなり突っ込んでアドバイスしましたし、教員をしている奥さんとは学校教育や家庭教育などについても、私の無人島経験、家庭の様子などを時には羽目を外しました。

 お風呂をいただいて明くる日の朝6時半の散歩を約束して床に就きましたが、長旅の疲れか毎日実行している就寝前15分の読書も持参した本のさわりの部分だけしか読めないほどに眠気をもよおし、外の静けさも手伝って早々と深い眠りについていました。毎日12時に就寝し朝4時に起床する習慣も随分慣れてはいるのですが片道4時間の運転と、3時間半の研修会、2時間の夕食交流会の連続はさすがにいい疲労をしたようです。

 嬉しい事に朝4時きっかりに目が覚めました。この日の朝はパソコンもないので久しぶりの朝読書です。失礼ながら部屋の電気をつけ津本陽の「開国」という本を読みました。この本は愛媛県中央青年の家の先生に貰った本です。少し難しい明治維新の歴史書ですが、貰った先生に今度会うまでには何とか読破したいと思って持ち歩いています。時代の流れが変ったとされる日本を震撼させた黒船の衝撃が「遠雷」「黒船」「彦根牛」「大獄」の4つに分類されて書かれている本です。大筋は幕末の動乱は米艦隊ペリー来航で幕を開けました。開国をめぐる幕閣、諸大名、朝廷の激しい対立、米総領事ハリスとの条約調印と将軍継嗣問題で強権を振るった大老井伊暗殺、徳川幕府崩壊の前夜いかなる暗闘と流血があったのか、現代に通じる指導者たちの苦悩と決断が生々しく描かれています。

 やがて30分もすれば外が明るくなりましたが、6時には朝の読書に一区切りをつけ、昨晩のかつて知ったる洗面所で顔を洗い身支度を整えました。山本さんも約束の6時半前に身支度を済ませて二階から降りてきたので二人で外に出ました。外は曇り空ながらすがすがしい朝です。思い切り深呼吸をして歩き始めました。

(海に向かって建つ山本さん宅、閑静な一軒家で辺りには隣近所の家がまったくないのです。)
(少し歩くと山本さん自慢の田んぼが見えてきました。青田の向こうに広がる海は何とも美しい光景でした。3歳でお父さんを亡くした山本さんはお母さんと共にこの田んぼを守り、工事に伴う圃場整備でこんな立派な田んぼに仕上げていました。勤めながら6反もの田んぼを守っています。

(田んぼの前に広がるプライベートビーチは海底が透き通って見えるくらい綺麗な海岸でした。都会の人が羨ましがるような雰囲気の海岸で海を遊び場に何か考えてみたいと直感しました。山本さんの未来の人生が見えてくるようでした。)
(どうです。この美田。思わずうっとりしました。田植えを終えた水面に映える夕日の残照は見てみたい光景です)

 心のこもった朝食をお母さんと4人でご馳走になりましたが、記念にと旅立ち前にお母さんと奥さんを外に連れ出し記念写真を撮らせてもらいました。

(家族の記念写真です。)

 最近心臓の手術をされたそうですが、何だか自分の死んだおふくろさんを思い出してしまいました。手に持っていたカバンからハーモニカを持ち出し、下手糞ながら「夕やけこやけ」「赤トンボ」「娘よ」の3曲をお礼のつもりでお母さんに吹いて聴かせました。お母さんは神妙な面持ちで拍手までしてくれました。嬉しかったですね。お元気でお過ごしください。奥さんとお母さんとに見送られ私は山本さんの運転する車でリアス式海岸の美しい景色を眺めながら次の目的地である柏島を目指しました。

 お茶を買うため迂回した奥まった道沿いに小学校と中学校が併設されている学校前を通りました。中学校は既に廃校になって、小学生も4人しかいないとか、ここにも間もなく廃校という過疎や少子化の悲劇がひしひしと忍び寄っているようで胸が痛みました。

  「お別れに 下手糞ながら ハーモニカ 吹いて拍手を いただき照れる」

  「一宿と 一飯いただき 後にする 一夜の宿の ほのぼの感じ」

  「若き頃 こうして人と 知り合って 今があるのか 思い出しつつ」

  「海沿いの 青田を渡る 風涼し 向こうに青い 海が開けて」 


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○役場職員の研修会・大月町ルポ②

 高知県は愛媛県に比べ平成の大合併への取組が進んでいない県です。それは高知県の風土がそうするのではないかと思われます。つまり高知県は坂本龍馬に代表されるような進取の気性や中央の意思や指示に反骨精神で望む気風があるのです。先日訪れた高知県馬路村などは僅か人口1100人にもかかわらず、未だに合併もせず生き残っているのですから、感心するというか呆れるというか、どちらにでも取れるのです。愛媛などは様々な意見があったり反対があっても結局はなし崩しや先送りであっさり70が20に合併再編されてしまったのですから、そういわざるを得ないのです。

 昨日と今日訪れた大月町も最初は宿毛や三原など、幡多地方の合併話が持ち上がっていましたが、いつの間にか消滅し現状維持を貫いているのです。県知事が輸入人であることも影響しているのかも知れないと思いますが、ここにきてやっと県知事も重い腰を上げて高知県を幾つかのブロックに分けた合併を提案しているようですが、愛媛県のよき所は学んでもつまらない所は学ばないようにして欲しいものです。

 昨日の研修会は大月町の役場職員組合からの招きでした。私も色々な所からお誘いがありますが職員組合からの招きは余り例がないのではないかと思いましたが、昨年度まで執行委員長を務めていた山本さんが10年ぶりにその座を降りましたが、道の駅を担当する縁もあって、山本さんの紹介でのご縁なのです。昨日は職員組合の広域ソフトボール大会が雨天で一週間延期となっていてダブったため何人かの男性職員が参加できないアクシデントに見舞われました。それでも女性職員を中心に沢山の人が参加し熱心な研修会でした。

(町長さんも熱心です。)

 職員組合の研修会だというのに声をかけた町長さんや議長さん始め議員さん、そして弁当屋を営む顔見知りの女性姉妹もわざわざ特別に参加してもらい、しかも町長さんや堀さんなどは一番前の席に陣取ってかぶりつきで私の話に耳を傾けてくれました。

(左端の2人の女性が馬路村で出会った方です。往復250キロ、片道4時間もかけて馬路村に勉強に来た根性には脱帽しました。)
(右端が今回の研修のきっかけを作ってもらった山本さんです。)

(私の席のその隣の席に座られた右端が執行委員長さんです。)

 約10分の休憩を挟み後半は私を口の字の机配置に変えて質問座談会形式で5時までの2時間余り話し合いが持たれました。進行は先日馬路村で出会った二人の女性のひとりですが、彼女の進行は中々のもので男性顔負けといった感じでした。大まかな話は、今日の話を聞いての感想や意見、このような研修会に参加しない意識の低いと思われる人をどうするか、どんな方法で人づくりをすればいいのか、合併までにどんなまちづくりをしなければならないか、一村一品運動との関連についてなどなど多岐にわたっていましたが、少し眺めのコメントをはさみながら解説して行きました。推し量るに大月町に限らず、どの町も職員のやる気にはばらつきがあり、やらない方が失敗も少ないので得だという甘えの構造が蔓延しているようにも思え、町の魅力ある物語を作ろうと情熱を持って35年間働き続けた自分と比較しながら少し腹立たしくもなりました。

 今回は馬路村で試したプロモーションビデオを前もって約5分間上映しましたが、私が主役の出演だけに多少面映い感じもしましたが、それでも私の生き方や私のやったまちづくりの手法がコンパクトに紹介されていて、フーテンの寅さんと下灘駅の場面を私に置き換えるシーンは思わず笑いの零れるテクニックだけに、雰囲気作りには随分役に立ちそうです。

 この日の研修会には多くの女性保育所職員が参加していました。保育所の職員さんは感動商売とでも呼ぶべき子どもたちと直接関わる現場で働いています。子どもたちと一緒になって時には笑い、時には涙する感性を持ち合わせているため、話を聞いた反応が他の役場職員より早く伝わってきます。保育師さんたちのお陰で私の話も随分乗ってきました。またその余韻を引き継いだ夕食懇談会は酒の勢いもあって更にその交流が深くなり、いつか人間牧場へも研修旅行として訪ねてみたいという決欄にまで達したのです。

 最近まで助役という名前だった役職が法律の改正によって副町長となり、中々呼び辛い顔に見覚えのある副町長さんも研修会に参加していただいた方の一人です。私と同じ年配にお見受けしましたが、副町長さんの話によると、かつて私も副町長さんも若い頃、松山で公民館関係の全国大会が開催された時、愛媛大学の讃岐先生と私と3人で夜遅くまで飲んだそうで、すっかり忘れていた若き日の記憶を甦らせて懐かしい出会いとなりました。

  「講演を 終えて座談の 手が上がる 思わず万歳 胸を打たれる」

  「町長も 議長も議員も 職員も この町どうする 額を合わせて」

  「参加者の 心の扉 開かせる 俺の仕事に 反応あった」

  「ビデオ見て 思わず笑い 和やかに 見せる効果も 少しはあった」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○「今日と明日は高知県大月町へ出かけて留守です 」・大月町ルポ①

?こんな見出しのような捨て台詞を書いて昨日高知県大月町へ出かけました。というのも、私のブログを熱心に毎日愛読している方々から、2~3日家を留守にしてブログの記事を書かないと、「おいどうした」とか、「病気ではありませんか?」などと心配してメールをくれる方々がいるので、今回はあえて見出しだけで本文のないブログで消息を知らせていました。6月23日の大月町での仕事を終えてわが家へ帰ってみると、さすがに「おいどうした」や「病気ではありませんか?」はありませんでしたが、「高知県大月町は如何でしたか」とか、「毎日忙しそうで何よりです」とか、微細なメールが何件か入っておりました。

 昨日は梅雨の中休みとでもいうのでしょうか、雨に合うこともなく宇和島道路の完成などもあって予想以上に早く大月町に到着しました。途中2ヶ所で途中休憩をしました。まず1ヶ所目は愛南町の旧内海村のトンネルを出た所にある元内海村助役だった木口さんのお家です。私は宿毛市などに行くため南に下る場合は必ず道筋の知人友人に会うよう心がけていますが、昨日は木口さんのお家の玄関先でにお会いしました。木口さんとは元村長の加幡さんと同じく若い頃から肝胆相照らす仲で、お宅に泊めてもらったりしながら村づくりやまちづくりについて、酒を酌み交わしながら夜のふけるのも忘れて話し合ったものです。この日は運良く木口さんは在宅、家の庭で作業中で久しぶりに面談しました。合併で退職した後の消息、今の日々の過ごし方、合併後の行政や政局などなど立ち話ながら色々な話をしました。木口さんは私よりも若くての退職なので、今は教員をしている奥さんが出働き、家を守るのは木口さんという面白い構図になっているようですが、体調もすこぶるよいようで、お互い元気でいようと励ましあって分かれました。

 2ヶ所目は大月町の目と鼻の先である宿毛市の道の駅でトイレ休憩をしました。宿毛はご承知のようにダルマの夕日で売っている土地なので、これまでも特別な意識をもって見てきました。ダルマの夕日が見える場所を尋ねたりした記憶があり、この道の駅にも何度か立ち寄ったことがありますが、この道の駅は少し右肩下がりではないかと思われるような雰囲気に見て取れました。

 まず道の駅の構成です。道の駅には休憩機能、情報機能、経済機能がありますが、休憩機能は果たしているものの、情報機能は駐車場にある看板のみで、インフォメーションする場所も分らず、市の顔としての機能が果たせていないように思われました。この国道は高知の重要な観光資源である足摺岬へのルート上にあるのですから通過するだけでは勿体ないと思うのです。

 問題は経済機能です。たしかに自動販売機はいっぱいありますが、その自動販売機も環境などには配慮せず無造作にむき出しって感じでしたし、何よりもお店がテナントで地域との密着や地域の主張がまるで見えてきませんでした。道の駅の草も伸び放題、救いはトイレが綺麗かったぐらいでしょう。道の駅の裏に広がる宿毛湾の風景への誘導などはまったくなされておらず、和風野外ステージの中には通行人がわが者顔でテントを張って洗濯物を干し、何やら食事を作っていました。管理者の見回りもなく、道の駅に思いを寄せる私としては少し心が痛み、他人事ではないほど心が痛みました。この現状を施設設置者の市役所は果たして知っているのか、知っていても黙認しているのか分りませんが、とにかく凋落ぶりが目に付きました。

(道の駅の表玄関、草が伸びているため何となく活気がないように見えました。)

(いい施設だのに野外ステージや海への誘導が出来ていませんでした。)
(海岸には穴の開いた洞窟などもあっていい原風景が広がっていますが、この資源が生かされていませんでした。)

(まるで自動販売機の展示場です。道の駅は環境がテーマの時代なのに余りにも無造作です。)

(この看板はやはり目に付くいい看板でここのランドマークでしょう。ならばこの夕日の看板の前で記念写真を撮ると一枚の絵になるような工夫が必要だと思います。)

(幡多地方は広域観光を推進しているのですから、幡多のインフォメーションセンターとしての昨日が必要だと思います。)
 宿毛の道の駅を出て大月町の道の駅に到着しました。多分2年ぶりくらいの立ち寄りだと思うのですが、直前に見た宿毛の道の駅と比較すると、随分活気があるように思えました。掃除も行き届き、今までなかった野菜や魚を専門に売る施設が完成し、多くの商品が入荷して盛況でした。特に魚売り場は新鮮な魚が並んでいて、道の駅の近くには見えない海ながら、大月町が海の町であることを深く印象付けました。

 道の駅に入って直ぐに「若松さんようこそ」と、一人の紳士風の方に声をかけられました。その方が後の会議に出会って大月町長さんだったと知り2度びっくりでした。私は美味しいイチゴ味のソフトクリームを注文しそれを食べながら駅長さんや事務員さんと楽しいおしゃべりをしました。お二人とも愛想がよく、知人である道の駅の前の弁当屋さんが休みなので尋ねましたが、早速電話をしてくれて午後の研修会に来られるとの連絡を受けました。インフォメーションも抜群で何かほのぼのとした気持ちで道の駅を後にしました。多分明くる日の今日帰りにもう一度立ち寄って魚を買い求め、発泡スチロールに入れて持ち帰る気持ちになったのは、職員さんの温かさに触れたからでしょう。さらには今日、かつてわが町に視察に来た見覚えのある柏島のおばちゃんに声をかけてもらいじゃこ天までお土産にいただきました。嬉しい出会いでした。

  「今日と明日 留守だと書いて 家を出る さすがにブログ 効き目抜群」

  「旧友と 久しぶりにて 会話する 俺と同じの サンデー毎日」

  「道の駅 ピンからキリまで ありまする 思い寄せねば 今に飽きられ」

  「南国の 太陽に似た おばちゃんが 懐かしそうに 俺に声かけ」



 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○男時と女時

 昨日は夏至でした。一年中で夜が一番短く昼の長ーい一日でした。このところ娘のお産後の実家での休暇による新生児の世話の疲労が蓄積している妻は、肩こりと睡眠不足の重なりで少々お疲れモードのようですが、特に夜の短い睡眠不足は私から見ると寝ている方なのに、なかなか解決はしないようです。冬至なら灯火親しむのでしょうが、夏至は朝が早く夜が何時までも明るいのでお天道様を親しみ、外明かりで本を思う存分読みたい心境です。

 昨日ある本を読んでいると「男時」という言葉を見つけました。はて「おじ」と読むのか何と読むのか分らず、ましてや意味さえも分らないので、広辞苑で調べてみました。残念ながら私の広辞苑には載っていません。しからばとヤフーの辞書で調べると「おじ」と読む、意味は「何でも上手くいく時」だそうです。ちなみに反対用語は「女時」で「めじ」と読みます。「上手くいかない時」です。

しかし驚きました。男が上手くいって女が何故上手くいかないのか、語源を辿るほどに男女の差別が見えてくるのです。日本はその歴史を見ても明らかなように、今でこそ男女同権の世の中に見かけはなっていますが、つい最近まで男尊女卑の国でした。「女性は子どもを産む機械」などと大臣が言って世間の批判集中砲火を浴びたことは記憶に新しいことですが、言葉の世界ではこうした差別が沢山現存しているのです。

 「男時」「女時」の語源は能の世阿弥であることに行き着きました。世阿弥といえば風流を楽しむ詫び寂びの世界で名を成した歴史上の人物ですが、もし世阿弥が今の時代に生きてこんな言葉を言ったなら、世の女性たちはどんな叱責を浴びせるのかと思うと、人の世の華やかさに比べ、裏側に陰湿めいた感じを覚え、少し世阿弥の評価を下げねばなるまいと思ったものです。

 昨日は一日中雨模様の天気でした。松山で開かれる金融広報員の研修会があったので車で出かけました。梅雨の季節、夏至の寝不足などが重なり気分を高めるような条件ではありませんでしたが、何故か信号が殆ど青で、出勤時だというのにスイスイと

僅か30分で松山へ到着してしまいました。このことを「男時」というのだろうと納得して、仲間に「今日は男時でしたと言ったら「剃れ何ですか?」と聞き返されきょとんとしていました。しかし私のようにラッキーだった人だけではなく、昨日は朝からアンラッキーな人が沢山いた事をテレビのニュースで知りました。東京や埼玉では電車の架線が切れて4時間以上にわたって列車が止ったそうです。線路を歩く長い列や、列車に閉じ込められ気分を悪くした人の怒号や体調を崩した人の姿を見ながら、女性には悪いのですがこれこそ「女時」だと思いました。

 上手くいく時を「男時」、上手く行かない時を「女時」という言葉に、62年間生きてて昨日始めて出会いました。「ああ私はまだまだ知らない言葉がたくさんある」とも感じました。人間は様々な時と場所と方法を得て言葉を覚えます。そして様々な時と場所と方法で相手にその言葉を伝えて暮らしているのです。言葉の豊かな人であっても、使う相手がその意味を知らないと「何ですかそれは?」なんて調子で相手に伝わらない言葉も沢山あるのです。別に難しい言葉を使わなくても日々の暮しは出来るのですが、せめて人間に生まれた以上豊かな言葉を持ち、豊かな言葉を持った相手と豊かな会話をしたいものです。

 昨日の研修会には東京から来た講師がお話しをされ、発表や発言、司会や好評など様々な役割を果たされました。「いい話だった」と思う人、少し的が外れた話だったと思う人もいましたが、それは自分という物差しでの話での尺度ですが、少しだけ満足度が足りないような感じで、一日の最初は「男時」、一日の最後は「女時」のようでした。

  「この言葉 何という意味 知らなんだ 六十二年も 生きてて未だ」

  「昔人は 男女の差別 知る由も ないよな言葉 残せど風流」

  「男時だと 知ってウキウキ 全て青 信号だって 青は男時」

  「わが妻に 女時話して 目くじらを 立てられしもた 話すじゃなかった」 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○几帳面に記帳面する友人

 私「この杉板の切れ端はどうしているの?」。友人「多分何にも使わず焼却処分しているのじゃないですか」。私「うーん、勿体ないなあ、何かに使えるかも知れよ」。友人「何かって?、どんな使い道がありますかねえ」。私「例えばこの型抜きされた板を4枚使って和紙を貼り、電気を入れるとうちわの型が透けて面白いかもしれないなあ」。友人「面白いアイディアですね。メモしときましょう」。私「ひょっとしたらこれは灯篭流しの灯篭にでもしたら面白いかも知れない」。友人「うんそれも面白い」。てな調子で人の話を聞く度にひらめいたり人に聞いた事を熱心にメモする友人が高知にいます。彼との出会いは道後メルパルクで開かれた「地域の自立とは何か」というシンポジウムの打ち合わせを兼ねて一昨年の12月8日に馬路村へ行ってからですから、そんなに古い付き合いではありませんが、この2年間で最も急接近した人の一人であることは間違いありませんし、こうした向学心がそうするのか最も成長著しい人間だと思うのです。仕事にせよまちづくりにせよ、人間の持っている才能なんてたがが知れています。問題はやる気があるかどうか、そして思い立ったら失敗を恐れず実践できるかどうかが問題なのです。

 始めに書いた私と友人の会話は6月8日に高知県馬路村で開かれた全国まちづくり交流会での出来事でしたから、あれからまだ2週間しか経っていないのですが、今日外出先から帰って郵便受けを見ると何やら見覚えのある板切れが入っていました。下の写真の左側が端材を使って友人の製作した特大のハガキなのです。いやあ驚きです。

 少し説明すると高知県馬路村は魚梁瀬杉の産地です。今でこそゆずで有名な村ですが、高知県の県木にもなっている魚梁瀬杉は古い歴史を持った木材なのです。しかし最近の国産材は低迷しており、また魚梁瀬杉は高価なことから中々普及しにくい難点があるのです。そのような木材を何とか世に出したいと第三セクターエコアスという会社を作り木のうちわ、木の名刺、木のカバンなど次々にヒット商品を開発して世に送り出しているのです。しかしその道は前途多難なようです。

 さて、この写真に写っている右側が木製うちわです。このうちわを作るには左のような薄くスライスした杉板を型でプレスして打ち抜くのですが、右が使える部分、左が商品にならず捨てる部分です。いくら過ぎの名産地で杉が沢山あるといっても、製品率の悪さは目を覆うばかりです。この端材はその点だけでも素材が高くつき過ぎる原因ですから商品としては失格なのですが、端材が生かされるなら、面白いかも知れませんね。

 結局は私の提案を試作して和紙を裏面全体に貼りまずは特大ハガキが誕生しました。このハガキが4枚そろうと電気の和風笠か行燈、若しくは灯篭流しようの灯篭が出来るという算段です。多分友人は近々に2枚目。3枚目・4枚目と送ってくれるに違いありません。彼は下手糞ながら墨字が得意です。今回も墨でハガキを書いてくれました。和紙に墨字は何とも風流でよく似合います。今日は仕事から帰った妻とことの仔細を話し傾向との近くに特大ハガキを置いてすかしてみましたが、中々いいものです。特にうちわのくり抜きが醸すシルエットはやはり夏を感じさせてくれるのです。

 世の中はこうして新しいものが生まれては消えて行きます。友人のこんな試作品も多分何度も何度も失敗を繰り返すことでしょうが、やってみなければ分からないところがまた面白いと思いました。

 友人の別名は山猿、私へのメールにはいつも海猿様と書かれて届きます。山猿の勇気ある行動に大きな拍手を送ります。

  「この端材 何かに使え そうすれば もっと儲かる 早速試作」

  「木と和紙と 墨が織りなす ハーモニー 美し日本 何か演出」

  「儲からぬ うちわ作って 内輪もめ それもそのはず 半分捨ててる」

  「気を使い 工場見学 するうちに ひらめきましたよ 俺のアイディア」

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○PTAの同窓会

 PTAとはペアレンツ・ティーチャー・アソシエーション、つまり子どもを持つ親と教師の会の略称なのですが、日本全国の殆どの学校にはPTAという団体が組織されていて、それぞれ会費を徴収しながら活動をしています。アメリカから戦後渡ったこの社会教育関係団体は崇高な理念とは裏腹に意外とその実態は形骸化しているようです。会員となるべきはずの親は会則にしたがって会費を徴収されますが、殆どの人はお金を出すだけで活動には参加しない幽霊会員なのです。しかも本来会員になるべきはずの教師は参加せず、「親の会」的存在だし、もっとも危惧するのは親は両親のはずなのにいつの間にか親は殆どが母親だけなのです。私がはからずもPTAの会長になった時、就任あいさつで「PTAとかけて何と解く。破れたブラジャーと解く。その心は父(乳)が時々顔を出す」と発言して爆笑されたそのままに、母親以外の父親は会長や副会長といった役員がいい訳程度に顔を見せているのです。子どもの教育にとって母親の包容力も大切ですが、父親の理性も欠かせない大事な役割だと思うのですが残念ながらその実態は今も解消されないでいるようです。最近は「おやじの会」などがことさらに強調されて組織されていますが、これはPTAの親団体を母親に乗っ取られている紛れもない事実で、「お父さんもっとしっかり」とそのふがいなさや、何故親父の会をまことしやかに作って活動をしなければならないのか、指導者の指導の在り方に疑問を持っています。

 昨晩、高校PTAの同窓会とでもいうべき「まさご会」の役員会に出かけました。はからずも私がその会の会長をしていますが、役員会には校長・教頭・事務長の学校関係者と、会長・副会長・幹事・監事が10人余り集まりました。大人の会なので場所も市駅前のこじんまりした小料理屋です。会費制で飲み会がセットされていました。会議は学校長が学務を報告したり収支決算や役員改選を主な議題として話し合われました。肝心の役員改選は昨年の役員会で私を含めた役員全員の再任が決まった時、来年度の会長を決めていたので、私の退任がすんなり決まりました。老兵は去るのみです。

 私にとってPTAは実に楽しいものでした。PTA活動によって学校や子どもの実態が見えてきたし、PTAで学んだことや知り合った人は数えることが出来ないくらいです。PTAは常任理事1年、副会長1年、会長6年と3人の子どもが相次いで同じ学校に在籍したことでついつい長くなり、県Pの副会長や中予の会長を兼務して様々な活動に参加したものです。やっと長い長いPTA活動が終わりそうでホッとしています。後は7月に開かれる総会で承認されれば全て終りです。

 それにしてもPTAに同窓会があるなんて他の学校では余り聞いたことがありません。旧交を温めるには最高ですが私はこの会を学校支援団体と思ってきました。毎年の総会では酒に酔ったことを利用して懐から何がしかのお金を出させ、学校支援に役立たせてきました。また全国大会への大会出場の度に寄付金を集める団体にもなりました。学校に物申す団体はPTAで沢山です。同窓会はかくあって欲しいと退任のあいさつをするつもりで、楽しい語らいを終えました。

  「PTA 今じゃ随分 様変わり 母しか参加 しないおかしい」

  「また一つ 俺の重荷が 取れてゆく 少し身軽な ウキウキ気分」

  「親・教師  参加してこそ PTA だのに親父も 教師までもが」

  「PTA 私にとっては 大恩人 学ぶことあり 人にも随分」 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○時刻表の文字が読み辛くなった

 出張で県外へ行く場合、最近までは大判の時刻表を繰って目的地までの予定を書き込んでいましたが、インタネットの使い方が分ってからは、出発日の出発地と出発時間時間か目的地と到着時間を入力さえすれば簡単に検索が出来るようになって、とても便利になりました。先日博多と人吉経由であさぎり町へ行く場合も、あらかじめデータを集めて、到着時間を相手に知らせておきました。ところが間に合わないと思っていた博多発の列車より一本早い列車が到着したので思い切って飛び乗りました。早朝だったので列車は空いた席も目だっていましたが、さすが日曜日、しかも父の日とあって特急の止る駅に着く度に乗客の数が増え、特急といっても僅か2両の自由席には立っている人もいるほど込み合って、球磨川沿いを走る頃には鮨詰め状態となりました。熊本駅の売店で買い求めたワンコイン500円の小版の時刻表を見ながら、旅の夢を追おうとしましたが、外は曇り空、しかも車内は室内灯の光も弱く、時刻表の数字がなかなか読み取れないのです。この歳になってもメガネの要らない私ですが、さすがに時刻表の文字は小さく、3と8、9や6と0などが判別がつきにくいのです。それでも目を細めながら最初のページの絵地図の中のページ番号を頼りにメー時をめくり、到着と発車の時刻を結んで行くのですが、これが意外と楽しいものなのです。

 「時刻表は空想の本」だとしみじみ思います。例えばわが町を基点に考えると予讃線海岸周りの載ったページを索引し、「いよかみなだ」の出発時刻を見ます。この時刻表ではまだ海岸周りが予讃線の本線で、内子線は支線として掲載されてます。宇和島発から高松着の上り列車の時刻がお行儀よく並び、伊予か松山からは特急に乗り換えるため「特急しおかぜ」の欄にリンクして時刻を追って行きます。何度も乗車経験のある私としては頭の中に駅舎や車窓の広がる風景を連想しながら、旅程を組み立てて行くのです。先日行った秋田などは松山空港まで車で行き、そこから羽田を経由して秋田空港に降り立つ巻末近くの航空ダイヤを索引しますが、航空ダイヤは季節によって発着時刻が変るので注意しなければなりません。また空港へ迎えに来てもらえる地方は心配ないのですが、羽田だと東京モノレールを乗り継いで再び列車の時刻表に戻らなければなりません。こうして次から次へとページを捲りながら夢を紡いでゆくのです。この作業をインターネットは条件入力さえすれば瞬時に作業をしてくれ、出発時刻の早い順に3案を提示し、しかも金額や乗り換え待ち時間まで出るのですから大したものです。旅の不安は時間と金額ですから、その二つの大まかな予定が立つと案外安心できるのです。

 役所に勤めていた最近までは、JRの駅にに電話をしたり前回の出張で計算した旅費明細を捲りながら旅費計算をしたものですが、今ではその必要もなく正確な普通料金と特急料金が出ます。今年の春先税金の確定申告の時、始めてこの便利なシステムのお世話になって重宝しました。例えば普通私が講演に行く場合、何がしかの講演料を貰います。その講演料と旅費を合算した金額から10パーセントの税金が差し引かれて手渡し若しくは振込みとなるのですが、私はこの方法は間違っていると主張しました。だって講演料の税金は理解できますが、旅費は税金を引かれるとその分だけ赤字になるのです。旅費は必要経費だからとお話したら、要った旅費を一覧表で提出するよう求められました。旅は終わっておりそんな難しいことを言われても出来ないと思っていたのですが、何とこの作業が瞬時に出来てしまい、一覧表を提出して税務署への申告を終わりましたが、何と何とこの作業によって凄い金額が還付されたのです。還付の通知ハガキを貰った妻は大喜び、小躍りしていました。

 私の旅はまだまだ続きそうです。折角手に入れた小版の時刻表は6月号です。そんなに長い間は使えないと思いますが、駅に備え付けの大版時刻表と共にせいぜい利用して旅の夢を膨らませたいと思っています。

  「これだけの 厚みと文字で 五百円 安いものだが 間もなく古く」

  「空想を 巡らせ捲る 時刻表 駅弁・風景 人の姿が」

  「特急の 名前全てに 物語 路線を走る 夢乗せ走る」

  「カバン提げ まるでフーテン 寅のよう 今日もどこかの 駅に降り立つ」


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○タマネギのインテリア

 昔の田舎家は薪の風呂が多く、冬の間に薪を割りその薪を風呂場の近くにうず高く積んだ姿はどこか田舎を演出する光景でした。また夏から秋にかけて収穫したトウモロコシの皮をむいで束ね、軒先に吊るす姿は干し柿とともにどこか懐かしい子どもの頃の光景として私の目と心の残像として残っています。トウモロコシの種を買うような余裕はなかっので、春が来るとそのトウモロコシの実を丁寧に取って種として蒔いた記憶がありますし、そのトウモロコシを炒って粉に挽いてはったい粉にしたり、時にはドン豆にしたり、時にはとうきび飯にして食べたりもしました。今でこそ雑穀はヘルシー食品として見直されていますが、お米のご飯が食べたい私たちが子どもの頃はトウモロコシは憎い食べ物として「またトウモロコシか」と敬遠をしたものでした。

 先日梅雨の前に収穫したタマネギの乾燥が終わって、そのタマネギがわが家の離れにある私設公民館「煙会所」の軒先に吊るされました。例年だとこの作業は年老いた親父と私の共同作業なのですが、このところ私が忙しく家を空けるときが多かったので、親父はそのタマネギを魚網を使って自分で作った袋に入れて軒先に吊るしていました。脚立にも上がれない親父がどのようにして吊ったのかは不明ですが、今朝起きて家の周りを散歩すると綺麗に吊り下げている姿に嬉しくなってカメラを持ち出し一枚パチリと撮りました。いやあいい風景です。絵になる田舎の風景だと思いました。

(軒先のタマネギのインテリアアート)

 私設公民館「煙会所」の窓は今でも和風な障子でできています。雨風が吹き付けないように北側の障子の外にはサッシ窓をはめ込んでいますが、サッシ窓を開ければ障子の風景が出てきます。白い障子と黒い焼き杉の板塀、むき出しの軒先にタマネギの吊るした袋が加われば、これは立派なインテリアだと思うのです。

 最近はどの町へ行ってもその町やその街に個性がなくなったと感じています。勿論最近は建築的には洋風の個性的な家がどんどん増えて見る目には楽しいのですが、家は群れを成してこそ町や街なので、どこかまるで住宅展示場のような違和感を覚えたり、個性ある地域の顔がないような気がするのです。

 先日熊本県のあさぎり町への道すがら人吉駅で降りました。時間があったのでそこら辺を散策しましたが、駅の近くに阿蘇神社というそれは立派な神社の森がありました。大きな楠木群や社群はそれは見事で思わず見とれてしまいましたが、その周辺の風景はこれまた遠い少年の頃にタイムスリップしたような懐かしさを覚えました。旅先で見つけたこんな日本の原風景に突然出会うとついつい嬉しくなるのは、私の心の中に日本文化のDNAが存在するのではないかと思ったりするのです。

(残念ながら満開を見落とした盛りを過ぎたくちなしの花)

(朝日がまばゆい初夏の庭)

 毎日見ている何気ない風景のわが家の庭ですが、梅雨の晴れ間の今朝の庭にはまばゆいばかりの朝日が差し込んで何ともいえない季節感を漂わせています。この季節の移ろいを私は忙しさにかまけて毎日見忘れているのです。窓を一杯開け深呼吸をしましたが、「ああ俺は生きている」って感じのすがすがしさです。深呼吸をすると何やら芳しい匂いが漂ってきました。見ると盛りを過ぎたくちなしの花が沢山咲いていました。多分くちなしの花は冬の寒さを越えて一生懸命咲いたのでしょうが、見られることもなく、香りを感じてもらうこともなく秋の赤い実となって食用に摘み取られる運命にあるのでしょうが、この花も一枚撮りました。

 何気ない風景や何気ない季節の移ろいをもっと肌で感じ、もっと生きている実感を味わって生きて行きたいものです。

  「タマネギが 我家軒先 吊るされて ああ梅雨だなと 空を見上げる」

  「窓開け 匂いの向こうを 眺めれば 白きくちなし 既に遅しと」

  「梅雨晴れて 朝日緑を ことさらに 引き立てるよう 今朝のわが庭」

  「ああ俺は 生きてるんだと 思う朝 自分が自分に 気付く愚かさ」

 

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○同類なのか

 人間牧場を始めてから、アウトドアー志向の人の生き方や考え方が妙に気になり始めました。世の中に面白いもので、その目で見ると楽しい生き方をしている人が沢山います。そんな中に小野田自然塾理事長の小野田寛郎さんがいます。先日テレビの番組に出演されている姿を見ました。小野田さんといえば30年間もルバング島のジャングルで生活し昭和49年帰還された最後の日本兵として余りにも有名な方です。当時は「恥ずかしながら」で始まる第一声でグアム島から帰還した横井庄一さんとよく比較されたものですが、横井さんが普通の兵隊さんだったのに対し小野田さんは陸軍中野学校で教育を受けた小野田少尉として帰還の雄姿は今も私たちの目に焼きついているのです。帰国の翌年ブラジルに渡り牧場を経営、昭和59年から福島県で財団法人小野田自然塾を開いています。毎年春から秋にかけて帰国し日本に滞在、全国で講演活動を続けておられます。

 小野田さんの生き方については文章なども出ているようですが、私が共鳴するするのは生きること老いることへの考え方です。

小野田さんは現在84歳なのですが年齢のことは余り考えないようにしているのだそうです。「今何歳かは問題ではなく、また今までどれだけの事をやって来たかではなく今から死ぬまでに何が出来るかが問題だといいます。そういう目的がないと人間は怠慢な動物だから寝転んだしまって努力をしないものです。老いたら子どもに見てもらうという考えが日本人にはありますが、動物の世界では一匹一匹が餌を取って死ぬまで生きなければならないのです。人間は助け合って生きる動物ですから人のためにないができるかという生き方をするのが理想的ですね」と話されていました。同感です。

 健康についての質問には「命は天にあり、身は我にあり」と即答していました。「生命というのは自分ではどうにもならないもの、何時死ぬかを分っている人はいないのです。でも自分の健康を守るのは自分なのです。ルバング島では無意識のうちに満腹は避けていました。敵と遭遇したとき満腹だと走れないんです。自分が食べて一番美味しいと思ったものが一番自分の身体に良いのじゃないでしょうか」とも話されていました。

 小野田さんの生き方にはルバング島で常に死と向かい合って生きていたと思われるのですが市の恐怖について、「毎日毎日力いっぱい考えて実行して、それで死ぬなら仕方がないと思っていました。人事を尽くして天命を待つという一種の開き直りでした」と話されました。

 最後にアナウンサーが「団塊の世代の方がリタイアしますが何かメッセージは」の質問に、「もう一度生まれ変わったつもりで」と言われました。過去を引きずることなく不撓不屈の精神で挑戦すると、何をすればいいのか自ずと見えてくるものです」とくくられました。私は小野田さんの話を聞きながら「生まれ変わったつもり」という言葉に日本人に対する強いメッセージを感じたのです。

これからでも遅くはないし、社会への貢献も出来るのです。私も生まれ変わったつもりで生きていこうと思いました。

  「ジャングルで 生きた少尉の 言葉ゆえ 重みひしひし わが身に染みる」

  「あと少し 一花ふた花 咲かせたい 小さな花で いいのですから」

  「人間は 誰も必ず 老いてゆく そんな幻影 怖るに足らず」

  「生き方は 百人百様 違うもの 己が行く道 自分で探せ」


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○shin-1さんの日記全部プリントアウト完了

 私のような学校でパソコンを習っていない年齢の人間にとって電子文字の文章は、「ひょっとしたら何かの拍子で文字が消えるかもしれない」という不安がいつも頭をよぎっています。多分それは基本も何も分らぬままうろ覚えでパソコンをどうにか使えるようになり、その途中で苦労して書いたはずの文章が登録もせず消えたり、バックアップも出来ない苦い経験をしているからだと思うのです。電子文字はパソコンやディスクにコンパクトに収まるから意味があるのであり、それをプリントアウトすると膨大な資料となって置き場所に困るのは当たり前なのですが、それでもペーパー化しないと気がすまないのがアナログ人間のやることだとしみじみ情けなくなることがあるのです。先日上京した折プリンターのインクを高いなあと思いつつ大量に購入してきたため、父の日の子どもからの贈り物である最新のプリンターに変える前にこのインクを無駄には出来ないと、急遽ペーパーにプリントする事を思いつきました。

 2005年9月8日から書き始めたブログの記録によるとその年の9月は29本の記事でしたが、10月51本、11月58本、12月83本、2006年1月64本、2月54本、3月91本、4月81本、5月64本、6月56本、7月50本、8月54本、9月52本、10月32本、11月34本、12月49本、2007年1月31本、2月35本、3月38本、4月45本、5月43本、6月28本と、驚くなかれ昨日まででその合計1122本という驚異的な数字が出てきました。一番多い月は昨年の3月に91本、12月に83本、4月に81本と書いて書いて書きまくっているのです。

 最初は気楽に考えてプリントを始めたものの途中で嫌になり止めたいような心境にもなりましたし、インクやペーパー切れの度に挫折しそうにもなりましたが、今朝方まで頑張って何とかプリントアウトを完了しました。百円ショップのダイソーで安物のバインダーを購入していましたので、パンチで穴を開け1ヵ月ごとに閉じこむ作業を行った結果、今月はまだ途中なのでプリントしていないものの21冊の読み物が完成したのです。少し苦労はしましたが今は「やったー」という心境です。

 さてこの本の活用ですが、もう少し時間が取れたら一冊ごとに目次を起こし人間牧場の備品にして、このエッセーを素材にして「若松進一ブログ夜話」というお話会でもしようかと考え始めています。拙文や誤字脱字はまだ校正していないので人間牧場からは門外不出にしなければなりませんし、知人友人の名前もかなり実名で出ているのでそのような取り扱いをしたいと思っています。それにしても塵も積もれば山となるもので毎日の積み重ねは平凡ながら続けると非凡になることもよく分りました。多分これからも続く限り頭の鍛錬のつもりで書こうと思っていますが、とりあえず目標にしていた2年間が9月の8日に満了となるので、グレードアップの方法をこれから3ヶ月足らずで考えてみようと思っています。

 ブログを始めて幾つかの事に気がつきました。私は拙文ながら文章を書くことは苦にならないのですが、ブログのように毎日書いていると、案外書くスピードが上がるのです。私の一日の日課は朝1本、寝る前一本てな調子で書いていますが、残念ながら長期で旅に出るとその日は否応なしに休止に追い込まれます。携帯用のパソコンを買い求めて旅先でブログを書くことも考えましたが、セミリタイアした私がまるで会社の営業マンのようにそこまでパソコンに身体を沈めてしまう必要はなく、まあ出張中はお休みくらいでいいのではないかと割り切っています。

 「書くの裏側に読むがある」、これもブログを書き始めて感じたことです。話題は身近なものほど面白いのですが、そうそうブログに書くような話題も落ちているものではありません。でも飛行機や列車の中で読んだ面白い本や新聞は格好の素材となるようです。これからもどんどん進化していいブログを書き続け、せめて10年くらいは書いてみたいなあと手の届きうるささやかな淡い夢を見ているのです。

  「これでよし 落雷なんか 怖くない プリントペーパー 高く積まれて」

  「使わずば 積読悪評 叩かれる 生かすも殺すも 知恵次第です」

  「読み返し あの日あの時 あんなこと こんなに書いて ウンウンウンと」

  「ブログ書き 少しは進化 したようだ 自分に納得 人はどうだか」

[ この記事をシェアする ]