shin-1さんの日記

○久しぶりの無人島探検記・ルポ②

?過去20年間にわたって夢と感動を求め続けた無人島由利島を去って7年があっという間に過ぎ去りました。その間平成の合併によって由利島は温泉郡中島町由利島から松山市由利島と所領呼び名も変わりましたが、それでも私の心の中には無人島で過ごした数々の思い出が今も心の中に鮮やかに焼きついて忘れることは出来ないのです。その思いは私が代表を務める21世紀えひめニューフロンティアグループや活動に深く関わった人たちにとってもやはり忘れられない思い出のようです。

 1ヶ月余り前に埼玉県北本市にに住む盟友の工藤日出夫さんから一本のメールが届きました。「もう一度仲間とともに無人島へ行ってみたい」というのです。無人島に渡るにはそれ相当の覚悟と準備が要るものですから、私は大野事務局長と旧中島町出身の豊田さんと相談して準備をしてくれないかと粗方の予定を連絡したところ、数日後企画者が届きました。その企画書を何度か練り直し双方の意見を集約しながら今回の無人島再訪事業は実現したのです。埼玉の同行者は当時無人島キャンプに深く関わった7人です。しかし時の流れとでもいうのでしょうか、工藤さんこそ北本市の市議会議員になっていますが、北本市役所の関係者の殆どは既に第一線から退いたリタイア組で、私も昨日同行してくれた北原君もリタイアしています。無人島に渡る船の都合でこちら愛媛側は大野事務局長と現地案内人の豊田さん、それに私の3人だけに絞りました。

 昨日愛媛入りし人間牧場で交流した北本組を朝8時、大野事務局長と私でホテルまで迎えに行き、三津浜支所に車を置かせてもらって三津浜桟橋9時の出発に備えました。心配された梅雨雨の心配もなく今日は絶好の日和に恵まれ、朝からカンカン照りです。

(大野事務局長の用意したライフジャケットを着用していよいよ無人島へ出発です)

(迎えの船は二神島の小さな船ですが、この船の船足は相当速く、柳井航路のフェリーより早いつわものなのです)

(さあ、船に乗って一路無人島を目指します。工藤さんと大野さん)

 やがて30分もすると船の波しぶきや朝もやの向こうに懐かしい姿の無人島由利島の白い灯台が見えてきました。仲間は総立ちで島を懐かしそうに眺めていました。

(無人島由利島のシンボル白い灯台が見えてきました)

(灯台の右側の島が雄由利です)

(左側が雌ゆりです)

(雄由利と雌由利は細い防波堤でつながれていて、人間牧場からの遠望では遠いためまるで二つの島のように見えます)

 漁船は雌由利の付け根にある天然の港へ到着しました。さあ接岸上陸です。久しぶりの無人島由利島は支持かな佇まいを見せて私たちを温かく迎えてくれました。潮池の直ぐ近くには夏の訪れを告げる島のシンボルオニユリの可憐な花が咲いていて、私たちを優しく迎えてくれました。

(島への上陸)

(由利島のシンボルともいえる野ばらの中に咲くオニユリの可憐な花)

 由利島はロマンの島です。この潮池の奥には縄文土器が出土する石ころの浜があって、私たちは直径10メートルの竪穴式住居を蚊帳1500束、孟宗竹150本を持ち込んで一泊二日の野宿を4回やって完成させ一週間この竪穴式住居で無人島シンポジウムをやりました。また長さ10メートル、直径1.6メートルのアラスカ産のモミの木を4ヶ月間かかってくり抜いて丸木舟を造り瀬戸内海航海もやりました。またメーンである無人島キャンプはサメ騒動で数年間無人島を離れましたが、その間大野ヶ原モゥーモゥー塾や佐田岬半島に挑む少年の集い、牛の峰に挑む少年の集い等をつないで再びこの島へ帰って活動した思い出の島なのです。その間多くの青少年やボランティア仲間とともに様々な感動を得ました。その模様は私が中心になって書き下ろしたフロンティアグループ出版の「今やれる青春」という本に詳しく記録されています。

 変りやすい梅雨明け間近な天気にも一喜一憂しながら随分翻弄されました。炎天下の活動ゆえかなり過酷なプログラムもありましたが、子どもたちは自然との葛藤や人間との葛藤、文明との葛藤などによく耐えてくれました。ドラム缶の風呂や手づくりの住まいは中々のものでした。タコや貝など自然からの贈り物にも舌鼓を打ちました。禁酒禁煙はリーダーにとってかなりきつかったようです。毎年マスコミが大々的に取り上げ、最初の年は愛媛新聞一面トップ記事になりました。また北本との交流は映画にもなりました。海に流したメッセージが遠く広島県三原市、福岡県行橋市の海岸まで流れ着き驚かされました。

 こうして振り返ると、手の指を余って数え切れないほどの思い出が蘇ってくるのです。無人島は私たちにとってはまさに「今やれる青春」そのものでした。

  「目指す島 心ときめき 近くなる みんな総立ち タイムスリップ」

  「今やれる 青春謳歌 過ぎし夏 無人の島に オニユリ咲いて」

  「目を瞑り 無人の島の 香り嗅ぐ 何処か懐かし 子どもの歓声」

  「あれも夢 これも夢だと 振り返る あっという間の 過ぎ去りし日々」

 

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○埼玉県北本市からのお客さん・ルポ①

 松山着13時35分の全日空機で松山空港に降り立ったのは埼玉県北本市の7人です。このご一行と私をつなぐキーワードは「無人島」という3文字なのです。

 私が代表を務める「21世紀えひめニューフロンティアグループ」は20年間にわたって、無人島キャンプや大野ヶ原モゥーモゥー塾などの青少年キャンプを毎年実施してきました。中でも全国に先駆けて実践した無人島キャンプは参加した多くの青少年に夢と感動を与えてきたのです。平成2年からは埼玉県北本市青少年育成市民会議との共催事業として10年間、愛媛と埼玉の交流を無人島をフィールドに実施してきたのです。しかしメンバーの寄る年並みには勝てず目標通り20回を最後にその幕を閉じたのですが、今でもその成果を評価し終息を惜しむ声があるようです。

 そもそもこの交流のきっかけは私が北本に住む友人の工藤日出男さんの紹介で北本で講演したことから始まりました。私は既に始まっていた無人島キャンプを熱っぽく語りましたが、海のない街に住む人たちにとって無人島や瀬戸内海といった海への憧れもあって大きな反響を呼び、当時の市長さんをも動かし予算化され、市民会議主導による交流事業が誕生したのです。それからは市民会議とフロンティアグループの熱意ある行動によって新しい展開を見せ、多くの成果を上げてきたのです。

 今回の交流は旧交を温めることもさることながら、「夢よ再び」の心境で懐かしい無人島へ渡ることなのです。梅雨の真っ最中なので渡船で渡る今回のプログラムは多少の不安が残るものの、私たちフロンティアグループの仲間である中島町の豊田渉さんによって既に準備が進められており、明日が楽しみなのです。

(シーサイド公園にて記念撮影)

 今日は松山空港から伊予市双海町へ直行しました。私が深く関わった夕日へのこだわりと立派に整備されたシーサイド公園を

見学するためです。私の活動情報は工藤さんを通じて逐一埼玉には伝わっていますが、昔の双海町を知っている工藤さんにとっても埼玉のメンバーにとっても久しぶりに訪ねた双海町の変貌は大きな驚きだったようです。シーサイド公園の魅力ある物語を見学しながら話しました。またおばちゃんの作ったじゃこ天を食べたりしました。次にわが家へ立ち寄りました。妻も午後の休診時間だったので家にいて懐かしい顔々に出会い嬉しそうでした。北本のメンバーの中には私設公民館煙会所で酒を飲みわが家に逗留した人たちもいて、思い出をかみ締めていたようです。

 一行は私とこの春学校を退職した内海の北原さんの車に分乗して人間牧場へ向かいました。今日の交流会は人間牧場です。あいにくフロンティアグループのメンバーは仕事の都合で私と北原さんのみの参加となりましたが、運良く雨もあがって刻々と変わる人間牧場の眺望にすっかり魅了されていました。都会に住む人にとって人間牧場は大きな憧れのようです。ましてや青少年教育やアウトドア活動を経験している人たちにとってはよだれの出そうな施設なのです。

(ロケ風呂からの下灘豊田漁港風景)

(刻々と変化する海と空の間の水平線に浮かぶ由利島界隈)
 妻が用意してくれた心づくしの料理に舌鼓を打ちながら呑むほどに酔うほどに当時の思い出が蘇り熱のこもった3時間の交流会となりました。無人島を通じて知っている私の生き方に更にグレードアップして加わった人間牧場構想に感嘆しながら余韻を残して山を下り、松山のホテルへ送りました。その途中双海町の国道で幻想的な夕日を見ました。雨模様の空を押し上げて夕日が見えたのです。車の中から何気なく外を見ていた工藤さんの息子さんが「あっ夕日だ」と叫んで見た沖合い青島の辺りに夕日が見えました。あきらめていた夕日なので驚き一入といった所で、路側帯に車を止めしばしの間見学をしました。

(幻想的な暗闇の夕日)

 今宵の宿は明日のプログラムもあって松山での宿泊です。早朝に豊田さん~大野さん~私へと無人島への旅が可能かどうかの判断第一報が入る予定です。天気の回復を祈っています。

  「思い出の 顔々既に 年を経て それでも若い つもりで語る」

  「過ぎ去りし 日々の間に 人もまた あれやこれやの 消息変化」

  「普通だと 俺の生き方 思ったが 目を見張られて そうかうなずく」

  「過ぎ去れば 夢のようだが あの時は 燃えに燃えたな 若かりしころ」 

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○菜園は豊作です

 全国各地では大雨の心配がニュースで報じられているのに、四国地方は梅雨に入ってからもまとまった雨が降らず、夏の渇水が心配されています。最近まで親父は菜園に水をかける作業をしていましたが、水不足といってもそこは梅雨時、にわか雨のお陰でわが家の家庭菜園は急に賑やかになってきました。ナスに始まってピーマン、オクラ、トマト、カボチャ、サヤインゲンなど様々な野菜が採れて、家庭だけでは食べきれず近所や親戚におすそ分けをしているのです。

(カボチャ)

(ナス)
(トマト)
(ツルインゲン豆)

 朝起きるとまず菜園に行くのが日課となりました。さも自分が作ったような顔をしていますが、実はこの野菜が収穫できるまでの世話は90歳になる親父が殆ど面倒を見ているのです。今朝も親父の隠居に朝のあいさつに行くと、「野菜がたくさん出来たので食べきれないからあげる人がいたら持って行け」とナスやトマトを既に朝早く収穫していました。今年わが家では何故かキューリが不作です。5本も植えたのに2本までは枯れてしまいました。また親父と私が蒔いた枝豆も芽が出た頃に野バトが新芽を食べてしまい散々な有り様です。その度に親父は今度こそと知恵を働かせてリベンジを誓うのですが、90歳の親父をあざ笑うように野バトの被害に遭ったり、減農薬を心がけているため虫や病気の被害に遭うのです。それでも親父の几帳面な性格が功を奏して近所のおばさんが羨むほど野菜はすこぶる順調に育っています。

 昨日は出張のついでに娘の家に立ち寄りました。娘から頼まれていたジャガイモを届けるためです。産後間もないこともあって娘は買い物には出られません。結婚して直ぐに始めた生協の宅配を使って安心安全な物を食べるよう心がけているそうで、マンションの入口にはそれを物語るような生協の発泡スチロール容器が幾つも置いてありました。私が1時間ほど孫をあやしている間に私の持参したジャガイモを使って夕食の準備に余念がありませんでした。何でも金で買える時代ですがやはり妻の教育が良かったのか娘はせっせと持参したジャガイモを使って手づくりの料理を作り、主人と幼稚園から帰る息子を待っているようで、少しだけ娘が賢く見えました。帰り際、「お父さん、今度来る時はナスを4~5本持ってきてね」とちゃっかり言われました。「ああ」と軽くいなしましたがナスも買ったところで200円か300円でしょうが、金で買えない安心安全や絆を求めているのかも知れません。

 今朝は妻の求めに応じてトマトを収穫しました。というのも次男がわが家から通勤しているので4月から毎日弁当が必要になったのです。聞くところによると娘も産休に入っているので主人の弁当を作っているそうで感心です。弁当に添えとして入れるにはミニトマト必要なのです。わが家では今年普通のトマトとミニトマト、それに細長いミニトマトを植えていますが、2週間前ころからミニトマトが出来始めました。特に細長い品種が沢山実を付けています。弁当には丁度良いので樹上完熟したものを毎日収穫するようにしています。里芋も、青紫蘇も順調に育っていますし、カボチャも野良生えを含めると5株程あり、黄色い花を付けて沢山実を付けているようです。

  「豊作で あちらこちらへ おすそ分け 野菜嫁入り お返し届く」

  「何処となく 安心安全 わが菜園 思わずガブリ 洗いもしないで」

  「美味いはず 取れたて野菜 料理食う 腕より素材を 褒めて不機嫌」

  「都会では こんな贅沢 出来ぬはず 田舎暮らしを 見せびらかして」



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○今治を訪ねて

 今年も愛大法文学部の非常勤講師をしていますが、昨日は私の教室の学生24名を連れてフィールドワークの授業で今治市を訪ねました。今治市といえば2年前1市11市町村が合併した、全国的にも大きな広域合併を街です。特にしまなみ海道沿線の島々にある町村が合併しただけに、合併後のまちづくりはどうなっているのか興味もあって学生も引率した私も楽しみにしていました。学生は私のこれまでの講義を予備知識としてグループ討議を行い、住みたいまち、訪ねたいまちそれぞれの4テーマ40項目、合計8テーマ80項目をリストアップして、これから訪ねる今治市、伊予市、西予市、双海町をそれぞれ点数評価して、まちづくりの成果と課題を見つけてゆくのです。

 昨日はその前哨戦として今治市を訪ねたのです。貧乏暮らしの夜間主学生にとって昼間の活動は苦手だし、旅費や食事代のかかる小旅行も敬遠しがちですが、これも学習であると位置づけ、県下を回って生きた学習をするのです。朝の弱い学生に朝8時18分JR松山駅発の電車はかなりきつかったようでしたが、それでも一人の欠席者もなく鈍行列車に乗り込みました。

 

 通勤通学のピークを過ぎた列車内は一両編成ながらかなりゆったりしていて、学生たちはまるで遠足にでも行くようにすっかりリラックスしていました。約1時間で今治駅に着きましたが、高架事業の終わっている今治駅はモダンな佇まいを見せていました。今回のフィールドワークの窓口となっていただいた市民まちづくり推進課の赤瀬補佐は昔からの顔見知りで、今回も無理を承知で受け入れをお願いしたところ、快く引き受けてもらい、既に駅まで出迎えてくれていて、気配りの人らしい姿は今も昔と変わって
いませんでした。赤瀬さんの案内で市役所10階の会議室が予定されていました。

 研修は渡邊企画課長さんがパワーポイントを使って今治について語ってくれました。約1時間実に見事な説明でした。私も色々な行政職員にお目にかかりますが、現状分析や構想説明のどれも新鮮で、合併というトンネルを抜けた後のまちづくりについての話は学生の心を揺さぶったようでした。会場は省エネでまだ冷房が使えず窓を開けての会議となりましたが、熱気はそのまま学習の成果となりました。

 研修会の最初と最後のあいさつも十分だったし、約1時間課長さんに一人一問づつ質問させましたが、みんな素敵な話をしてくれました。そしてその一つ一つに課長さんはアドリブでしっかりと受け答えして返してくれました。

 室内での研修が終わると商店街の中にあるFM今治へ出かけました。若者には一番関心のある場所なので、意外と質素なそれでいて意外と乱雑な室内に一応驚いていましたが、スタッフの温かいもてなしの説明に十分満足したようでした。

 赤瀬さんは中型バスの運転が出来るので、旧波方の名前が入ったマイクロバスを自らが運転して市内視察をさせてもらいました。市民活動サポートセンター理事長の越智さんも同行して、糸山サイクリングターミナルまで行き、しまなみ海道の来島大橋を一望できるターミナルで、越智さんの話を聞きながら来島大橋を眺めながら美味しい釜飯を食べました。お釣りの関係で25人全てが一人ずつお金を払うとあってお店の人も目を丸くしていましたが、何事もなく全員がお金を支払うことが出来ました。

(越智理事長お話です)

(来島大橋を望むサイクリングターミナルで楽しい食事をしました)

 越智さんと赤瀬さんのチームプレーで市民まちづくり支援センターやJAが作った四国最大級の農産物市場を見学し、3時前の今治発の電車で松山まで帰って来ました。若者にとって大学での学びは机上学びが多いのですが、こうした社会を知ることも大切な生きた学問だと思うのです。

(所狭しと並べられている農産物を見て凄いと感じましたが、余りの大きさに少し疑問も生まれたようです)

(マーケットの裏側には貸し農園までありました)

(少し疲れたフィールドワークの旅は電車内での話題をさらい賑やかでした)

  「学生と 今治あれこれ 学びあり 知ってるつもりも 知らぬことあり」

  「驚いた わが教室の 学生は 質問鋭く バッチグーです」

  「緊張で 眠れぬ二時間 だったそう 話を聞いて いつもかくあれ」

  「行き帰り まるで表情 別の人 学びは人を こうも変えるか」 

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shin-1さんの日記

○マイ箸が理にかなっている訳

 昨日は愛媛大学法文学部総合政策学科の私の教室の学生を連れフィールドワークに今治まで出かけ、帰路えひめ地域政策研究センターの主催する会合に出席し、久しぶりに出会った高知県馬路村の東谷組合長と隣の席で旧交の盃を交わしました。参加した研修生と話が弾みましたが、「若松さん、あなたは一体何時寝るのですか」と唐突な質問に出会いました。私の答えは「4時間」でした。つまり日常は夜12時に寝て朝4時に起床します。「そんなに寝ないで大丈夫?」とも言われましたが、「まあ人に話す間に脳を休めていますので」と付け加えると益々不思議そうな目で見られてしまいました。

 さあぼつぼつ寝ようかと思い居間でテレビを消そうとすると、ニュースの特集で「箸」についてやっていました。日本の割り箸産業は安い中国産の割り箸に押されて壊滅状態だといわれており、ここにも日本の悲劇が起こっています。しかし中国の割り箸産業も例外ではなく、中国の山奥では割り箸の原料となる木材が切り尽くされ、丸裸のような山の状態が映し出されていました。中国の急激な経済発展は様々な場所にひずみが生じ、住宅の建築ラッシュで木材は枯渇状態にあるといい、割り箸の原料木材とともに、政府が資源保護のためにその原料をロシアに求めていましたが、ロシアはその事を察知して関税をかけ始めたため、割り箸は木から竹へと変化しているのです。日本でも里山を埋め尽くす勢いの竹の利用が問題になりますが、竹は成長が早く資源はまだまだ大丈夫なようです。

 しかし驚いたことに、日本人の求める竹の割り箸は白い色を好むのだそうです。今の今まで知りませんでしたが、竹本来の色は黄色味を帯びているのに、白くするためには漂白剤で漂白するのだそうです。その漂白に使われる亜硝酸が実は人間の身体に入ってはならない薬品なのです。私たちが何気なく割り箸を格好よく口と手で割って食べる仕草で、既に割り箸に染み込んだ薬品が知らず知らずのうちに体内に食物とともに入っているのです。

 コンビニで弁当を買うと決まって店員さんが「お箸はどうされますか」と聞きます。コンビニに供えてある見るからに安い箸も実は危ないのです。中国で作られた割り箸はダンボールに入れられて日本に輸出されますが、そのダンボールには「安全」を示す「無消毒安心安全」の文字が印刷されていましたが、実はこのダンボールは日本の商社が作って中国へ送り、その中に入れて日本に送っているのです。つまり紛れもなく「内容偽証」なのです。

 この実態をテレビで見た時、日本人の儲け主義からくる愚かな行動を垣間見る思いがしました。何気なく使い捨てている割り箸でさえもう信用できなくなっているのです。私たちは何を信用して暮らせばいいのか、報道特集は私たちに警告をしているようでした。しかし報道特集を組んだマスコミは昨日の段階では風評被害をあおるにしか過ぎないようにも思えました。マスコミの力は絶大です。ミーとホープ社のひき肉事件を見るまでもなく、食の安全性を警告し国や県の行政指導の在り方を根本から変えていく一助になったことはマスコミへ大きな拍手を送りたいと思います。出来ればこの報道がきっかけとなって安全な割り箸が一刻も早く実現する事を一国民として祈りたいものです。

 私のマイ箸運動は、使い捨てによる木材伐採から山を守り、それが水資源の涵養につながるから割り箸使用を少しでも減らそうとの考えくらいでした。でもこの話を聞いてマイ箸運動は理にかなった運動だと意を強くしたのです。毎日持ち歩くカバンの中でマイ箸はひとり納得して今日も出番を待っているようです。

  「えーこれも 危ない報道 聞く度に 何を信じて 暮らせばいいのか」

  「知ることで 心の不安 益々と 広がりまたも 不安増幅」

  「マイ箸を 使う自分が 誇らしく 思える暮らし 安心安全」

  「どれ程の 割り箸使う 日本人 無知もいいとこ 知らず知らずに」

 

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○300ピースのパズル

 娘と孫の床が上がって自宅へ帰ってから1週間余りが経ちました。赤ちゃんとお兄ちゃんの孫を加えた泣き笑いでわが家は、まるで蜂の巣を突付いたような喧騒から開放されたため、直後は何か拍子抜けの感じがしていましたが、それも次第になれて今は元の静けさに戻っています。それでも孫二人が気になるのはおじいちゃんとおばあちゃんたる私たち夫婦です。時々電話で会話が出来るようになった孫のところに電話をしては近況を聞いているのです。

 数日前、出張のついでに妻から頼まれた品物を届けに娘宅へ立ち寄りました。4歳の孫朋樹君はパズルに夢中で、私も誘われて手伝わされてしまいました。パズルの入っている箱の表蓋を見ると何やら子どもの好きそうなポケモンの絵が書いてあり、300ピースと表示されています。4歳ですから何が何でもこんな難しいパズルは大人の私にも難しく出来ないと思いましたが、絵の内容を覚えている孫はスイスイと組み立てて行くのです。私はまったく出来ず、「おじいちゃんの下手糞」なんて言葉を浴びせられ一蹴されてしまいました。仕方がないので色で識別し同じような色のピースを集めて一まとめにしながら作業をして、少しだけですがお手伝いしました。

 1時間余り手伝っておいとまする予定でしたが、孫の誘いに乗って2時間、3時間と長くなり、ついには完成間近かまで手伝わされる羽目になってしまいました。孫は幼稚園から帰って直ぐですからついうとうとしながらの作業です。6時近くになって食事の用意が出来たのでもう止めよと誘いますが今度は食事をしながら続けました。母親に叱られながらも殆ど完成した所でやっと開放してくれたのです。

 パズルは神経衰弱といわれるように、思ったようにことが運びません。時には出来ないためイライラしたり、出来た絵を見て歓声を上げたりするのですが、4歳の子どもが300ピースのパズルを仕上げる熱中根性には参ってしまいました。相手をした私はまるで人間牧場の草刈りをした時と同じような疲労感を覚えました。「お父さん昨夜はよっぽど疲れていたのね。寝いびきをかいていたよ」と妻が言うほどに疲れていました。私にとっては脳の疲れでも孫にとっては快感ですから、58歳の年の差は脳の構造さえも違うと実感させてしまうのです。

 帰り際、「おじいちゃんまた今度パズルを一緒にしよう」と孫に誘われました。内心はもうこりごりと思いつつも、「うんまた今度しようね」と言葉を返すと、「指きりげんまん嘘ついたら針千本飲ます。指切った」とされてしまいました。昨晩娘から電話がかかり、電話口に出た孫はパズルの約束を覚えていて、またまたの約束です。

 パズルのような細かい仕事は苦手なお年頃の私ですが、少しパズルを買って練習しなければ、また孫に馬鹿にされそうな雲行きです。

  「三百の ピース組み立て 絵を作る たかが四歳 孫に脱帽」

  「いびきかく 程に疲れた 孫相手 約束言葉 孫の小指に」

  「マゴマゴと してる私に 孫の手が 優しくピース 持ち上げくれる」

  「上昇の 孫に比べて この私 下りの坂を 何時の間にやら」

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○BY AIR MAIL

 こんな朱書きの文字を書き込んだ郵便物が先日わが家に送られてきました。ウィーンの日本人学校にこの春から勤務しているNAKAO HARUJI(中尾治司)さんからのエアメールなのです。JAPAN以下の文字は日本語なのですが、差出人の名前の上はWallrissstrasse98/1 1180Wien,AUSTRIAto英語で書かれています。多分オーストリア・ウィーンの空気も入っているだろうと、封筒の耳を3センチほど切って鼻に押し当てました。残念ながら香りはかぎ分けることはできませんでしたが、紛れもなくウィーンの街の雰囲気です。その後封筒の上を全て切って中から手紙と地元の新聞でくるんだ世界地図を取り出しました。

 私が日本の真ん中にない世界地図を初めて目にしたのは30歳のときでした。青年の船でアメリカへ行った時サフランシスコの博物館で一枚の政界地図を見た時の驚きは今も脳裏に強く焼きついているのです。その体験を双海町の若者に伝えようと人づくり10年計画なるものを発案し実行に移しましたが、中尾先生から送られて来た子の世界地図も考えこそ同じであれ、ヨーロッパに旅したことのない私にとっては初めて見る世界地図なのです。彼の住んでいるオーストリアは何処か虫眼鏡で探しましたが、確かにこの世界地図の真ん中にありました。しかし日本で見る世界地図のように自国を赤く塗りつぶして誇張していないところに隣国に陸続きで囲まれたヨーロッパらしさが見えました。

 私は早速この世界地図を人間牧場・水平線の家の教材に使おうと思っています。現在水平線の家には高知県馬路村産魚梁瀬杉150年生の切り株があります。また小さいながら方位を示す磁石コンパスとハーモニカを置いています。魚梁瀬杉の年輪からの学び、磁石コンパスが示す北極星という星からの学び、ハーモニカで吹く音楽の調べ、加えて古代から変らぬ水平線の家から見える島の位置関係などなど、様々な学びの空間に世界地図の真ん中に日本がない世界地図からの学びを加えたいのです。水平線の家の学びはこうしてどんどん広がるのです。

 ふとこの世界地図のオーストリアという小さな国で暮らしている中尾先生の家族のことを思い出しました。中尾先生の手紙には「現地自国4月6日16:00、わたしたちは日本から9000km離れたオーストリア・ウィーンの地に下り立ちました。その日以来、各々が仕事に、生活環境を整える事に、新しい学校になれる事に、それぞれ全力を尽くしております。・・・・・・・・後略。

 最近、こちらのデパートで見つけた世界地図を同封いたします。ヨーロッパ中心の地図をすでに持っているかとは思いますが、何かに役立てていただけたらと思います。2007年6月9日」と書かれてありました。

  「横文字で 書いた手紙が 届いたよ 匂い嗅ぐべく 少し開けて」

  「外国で 暮らせるなんて 夢みたい 三年間も 暮らせるなんて」

  「金貯めて 先生いるうち 訪ねたい ウィーンの街の あちらこちらを」

  「早速に 手紙書きたし 届くかな 不安だけれど やって見なけりゃ」


と書かれていました。

 




 


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○生協理事として早一年

 時の流れは早いものです。一昨年の6月29日の総代会で学識理事に就任して以来早くも1年が経過しました。理事といっても地域理事のように地元の組織を束ねたり活動したりする訳でもなく、毎月一回開かれる理事会に出席し、黙って座っているだけのいたって気楽な役目なのですが、その分私は私というもう一人の自分と心の中で葛藤しているのです。「私を指名してくれた大川理事長の期待に果たしてこの一年間応えて来たかどうか」ということを・・・・・。

 私はこの一年、生協の理事会や諸行事を通じて様々なカルチャーショックを受けてきました。理事さんたち女性の生き生きと輝いて活動している姿や、安心と安全という理想を追い求めて活動している姿に深い感動を覚えつつ、いかんともし難い自分とのギャップをどう埋めればよいのか大いに悩みました。勿論私が逆立ちしても皆さんの域には達しないと分っているものですから、開き直って「自分の特長でカバーしよう」と少なからず努力してきました。多分これからもそのスタンスで役割を果たしてゆくことでしょうがどうかご容赦ください。

 今日は一年に一度の総代会です。松山市道後の県民文化会館サブホールで開かれた会議には県下各地から沢山の総代さんが参加され会場を埋めました。

 昨年は会場の都合で真珠の間での集会でしたが、今年は私のような人間も理事として壇上に上がって雁首を揃えました。総代会は役員改選で少し混乱した昨年とは違い、多少の反対意見はあってもまあそれなりに厳粛な議決がなされ、古い年度の締めくくりと新しい年度の船出をすることが出来て、ホッと一息つきました。昨年の驚きが今年は安心に変ったのも理事としての責任の重さからだと納得しました。

 12時半を回った集会の後は会場を真珠の間に移し、いよいよお楽しみの会食交流です。生協出入りの業者さんがそれぞれ特長ある屋台を出し、様々な食べ物が用意され、参加者は思い思いの場所に出かけて食べるのです。驚くのは群集心理とでもいうべき女性のすさまじさです。さっきまでオホホとお上品にしていた女性たちがまるで別人のようにうごめくのです。ダイエットなど糞食らえといった感じでしょうか、チャッカリ組は屋台の品物を何食わぬ顔で手持ちの袋に仕舞い込むのですが、ここまでくるとオバタリアンむき出しで、何だかんだといいながら本心を見たような気持ちでした。




 ふと、女性だからわが妻もこんなんだろうかと思ったりしました。今日の話題は大川理事長や松本専務の話の中に、新聞やテレビで話題になっているミートホープ社の原料偽装問題が色濃く反映されていました。一方では生協運動としてこうした社会問題に大きな関心を寄せながら、一方では風評被害や群集心理を生み出す二重人格も持ち合わせているのです。

 まあ人間にはこうした二面性があることも承知しながら、二年目にチャレンジしようと思っています。

  「わが妻と ダブらせ見ると 面白い 女性の行動 裏と表が」

  「壇上で 参加者向けて パチリ撮る この人たちが 賢い消費者」

  「さっきまで オホホ美人の 女性たち オバタリアンに 変身パクパク」

  「如何です お茶を添え出す 気配りの 女性ちらほら 嬉し恥かし」

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○友遠方より来る有りまた楽しからずや

 今日は熊本県天草市から7名のお客さんがやって来ました。今年の1月15日に天草市経済同友会の招きで講演に行ったことが縁での視察です。時代の流れが早い現代にあっては半年も経つと、人の記憶など失せゆくものなのでしょうが、私にとって天草は忘れられない思い出の旅となっているのです。天草への講演は何故か妻と孫を含めた3人旅でした。というのも夫婦で行こうと計画していたのに出発の前日になって娘が切迫流産とかの危険で急遽入院してしまい、孫の面倒を見なければならなくなったからです。私はさて置いて、妻はこの旅を楽しみにしていましたし、孫にとっても始めての長旅でみんなワクワクの旅でした。結果は天草経済同友会の中川会長さん始め多くの方々に大切にしてもらい、良き思い出ができたのです。孫も妻も今でもあの旅のことは記憶の底に鮮明に残っているようです。今朝も天草の人たちが見える話をしたら孫などは、「幼稚園を休む」などと、すっかり天草モードでした。天草が孫にとって印象深いものになった原因は水族館でイルカやアシカに会えたこと、行きたくても行けなかった恐竜の化石の島へ今度行く約束をとりあえず納得させるためにしたからなのでしょうが、まあ天草となると嬉しそうに話すのです。

 天草からのお客さんは中川会長さんはじめ7名でした。朝9時にはシーサイド公園に到着され、そこら辺を散策されていました。私にとっては特別なお客さんですから、少し違ったシーサイド公園、人間牧場、翠小学校、海舟館という日ごろは考えられない視察ルートを案内しようと思いました。

 シーサイド公園を出発してまず人間牧場へ案内しました。この日は前日の雨模様とは違って、時折薄日の差す梅雨の晴間で、高温多湿でレンタカーを降りて少し歩き多少汗もかきましたが、人間牧場には心地よい風が吹き渡り、水平線の家でのリラックスタイムとなりました。参加者は議員さんや市役所職員さんたちでしたが、日本人は自由時間の使い方が下手だといつも思っているので、水平線の家ではあえて自由時間を取るように心がけています。解き放たれた自由時間の中で人間は何かを感じるものです。それが人間牧場の特徴なのです。今日は梅雨時特有の霞がかかって遠望はききませんでしたが、海も空も穏やかな感じがして瞑想には最適な条件でした。

(天草の人たち)
(翠小学校を訪ねる)

 昼近くまで人間牧場で過ごし、翠小学校へ案内しました。飛び込みの視察にもかかわらず校長先生や教頭先生、それに諸先生が手を振って快く迎えてくれて、いつもながらの気配りに感謝しました。天草の人もノスタルジックな学校の雰囲気に驚き、感動し、感嘆の声を上げていました。これこそ日本の忘れかけた原風景なのです。既にエコ改修の準備も着々と進んでいるようです。

 最後はわが家の海舟館や煙会所です。この施設も私にとってはありきたりですが、来訪者にとっては私設の施設だけに心を揺さぶる何かを感じて欲しいとの願いからの案内でした。結局はまちづくりは自分という原点に帰ってゆくものだと感じていただければ、今回のご案内はヒントになるかもしれないと思っています。

 シーサイド公園で遅い昼食を済ませ、長浜、大洲、内子を経由して松山へと帰って行きましたが、シーサイド公園では顔見知りの愛大学生が調査に来ており、道の駅のあれやこれやを4人の学生を相手に小1時間喋り、名物の夕やけソフトをご馳走して別れました。

 人に会い、人を案内し、人に語る。こんな出会いを繰り返す日々の中で、私自身も少しずつ成長してきたのです。これからも人と会い、人を案内し、人に語りたいと思っています。

  「遠いけど 天草だんだん 近くなる 人の思いは 離れていても」

  「このルート 人の生き方 探す旅 自由な空間 何を感じる」

  「人に会い 人を案内 あれこれと 対話しながら 軌道修正」

  「偶然に 出会う学生 道の駅 夕やけソフト なめつつ話す」  


 

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shin-1さんの日記

○柏島・大月町ルポ④

 今回の大月町への旅のもう一つの楽しみは柏島とコーラルフルーツの岡さんが経営する蜜柑園を見学することです。柏島は黒潮実感センターに勤めていた山下さんとの交流から一度は訪ねて見たいと思っていました。まず私は山本さんの車に便乗し海岸沿いの道を走りました。宇和海の入り口宿毛湾は今の時期は穏やかで、梅雨の晴れ間の蒸し暑さで汗ばむほどでした。

 山もさんが途中「ちょっと立ち寄ってみますか」と案内してくれたのは、小高い海を見下ろす丘の上にある彫刻のモニュメントです、殺風景な場所に威風堂々と建っている石造は実に見事なものでした。

(作者の想いによって建立されているモニュメント)
(イサムノグチと並び称される流さんの刻印が刻まれていました)

 ふるさと創生がらみの資金で建立されたそうですが、今は僻地ゆえ、またそれらしき誘導もなく訪れる人は皆無に等しいこの文化的モニュメントを町民はどう評価するか、かなり難しく投資効果としては疑問の残るものでした。まちづくりは町の格を上げる運動でもあります。こうした施設を文化の薫り高いまちづくりといくら声高に言っても町民の文化のレベルを上げない限り単なる石の置物でしかないのです。

 そこへゆくと、自然が作り出した芸術とでもいうべき大堂海岸は素晴らしく、先程見た何千万円もかけたモニュメントがまるで小さな存在にしか見えない観音岩を足のすくむような展望台から見下ろす姿は絶景で、思わず息を呑んでしまいました。私も色々な旅をして色々な自然を見ていますが、この大堂海岸は北陸東尋坊にも決して引けを取らない景勝地だと想うのです。

(観音岩)
(大堂海岸の絶景)

そこから少し走ると柏島の全貌が見えてきました。この島は釣りバカ日誌に高島礼子さんが出てくる島なのです。「あああの橋の上から高島礼子さんは海にダイビングしたなあ」と映画のワンカットシーンを思い出しつつ橋を渡って島に入りました。島のあちこちでは黒のウエットスーツを着た若い男女がダイビングに向かうの酸素ボンベを運んで船に乗り込んでいました。また民宿のあちこちでは若い男女が眠そうな目つきでたむろしていました。

?(柏島の全景)

(高島礼子さんが飛び込んだとされる橋の上)

(島と陸地部を挟む海峡、この上に2本の橋がかかっています。昔は木製の端だったそうです。橋の下の海はとても綺麗で魚が沢山泳いでいました)
(子宝に恵まれる安産のアコウ樹)
(碁盤の目のようにすっきりした通りの柏島集落)
(防潮堤の裏側に広がる海と海岸、絶好のダイビングスポットのよで既にダイバーが船から海中目がけて飛び込んでいました)

 山本さんの案内で少し島を歩いて見ることにしました。立派なアコウ樹の大木が茂る神社に車を止めアコウ樹の不思議な姿に感心しながら路地のような集落を裏手の海岸まで歩きました。高島礼子が出てすっかり有名になった大和屋旅館の前で山本さんが記念写真を撮ってくれました。

 それにしても柏島は島も島の周辺も海も人情までもまるで別世界のような雰囲気でした。出くわせた何人かのダイビングを楽しむ若者のような過ごし方もいいなあと思いつつ、一度ゆっくり民宿にでも泊まって地元の人と交流をしてみたいとも思いました。柏島には都会にはない魅力があって、都会の人の憧れがそこにあります。わたしたちがかつて都会に憧れた青春時代と同じように、都会の暮らしに疲れた若者もこの島や海で疲れを癒し都会の雑踏の中に戻ってゆくのでしょう。時計を気にせずゆっくりと流れる時の流れを体感したような一日となりました。

 次の目的地はコーラルフルーツ大月の農場です。岡さんと出会ったのは二年も前の事になりますが、当時岡さんの生き方に強いショックを受けました。彼の持論は「半年働き、半年遊んで暮らす」というのです。そんなことしたくても?と否定する人が殆どだろうと思うのですが、それを実践しているのです。しかも適当に海外旅行もやって人と交流しているのですから、羨ましいとしかいいようがありません。

 彼の農場は人里離れた場所にありました7ヘクタールと8ヘクタールともいわれる農場には12千本のみかんが配列よく植わり、園内を無尽に走る作業道を含めた姿はまるで青年の船で余りかに行った時カリフォルニアでみたアメリカの農場とまったく一緒の光景なのです。岡さんはいきなりトラックに積んだ消毒設備でデモンストレーションを見せてくれました。「凄い」の一言です。これだけ広い農場の防除でも僅か2時間半で終わるというのですから驚きです。


(コーラルの入口に架かった看板)

(私のためにデモンストレーションしてくれた噴霧の様子です。剪定はチエンソー、草刈は小さい草刈機ではなく大型の機械で草を刈るのだそうです)

(まるでブラジル移民にでも出会うような雰囲気の岡さんです)
(岡さんを象徴する岡さんの言葉が事務所の壁にベニヤ板に書かれ貼ってありました)

 「もし 龍馬が 百勝をしていたら 私と同じことを していただろう」という言葉には衝撃を受けます。今の農業は草との戦い、病害虫との戦いだといっても過言ではありません。その百姓が最も嫌がる重労働を軽便化し、一次産業を六次産業に仕組んで悠々と暮らす岡さんの理念はこの言葉で証明できそうです。


 山本さんと3人で大月町が作った海を見下ろすお洒落なホテルで昼食を取りました。かつて山本さんがその運営に携わったホテルです。今は指定管理者の手によって運営されていますが、田舎の暮しあり、お洒落な暮しあり、それでいて上手いものと生きることの意味を問いかける岡さんのような人ありで、また私の全知全能に新たな生き方への道が切り開かれたような旅となりました。

  「念願の 柏と岡に めぐり合い 新たな夢が 膨らみました」

  「人生を 龍馬にダブらせ 生きる人 おんしゃ何を しよるながか」

  「面白く ないと思えば 世の中は 面白くなし 心変えねば」

  「逆風は くるり反対 向けばいい やがて追い風 受けるだろうよ」

 

(大和屋旅館の前にて)

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