shin-1さんの日記

○椎葉村は美しく

 10数年ぶりに鶴富姫の伝説が残る宮崎県椎葉村を訪ねました。私の思い出のアルバムにある椎葉村とは村に入るルートが違っていたため、随分違って見えました。狭い道は村だというのに粋なカラー舗装され、観光で生きる村を強烈にアピールしていましたし、川沿いにはバイパス道路が立派に出来上がり信号も設置されていました。でも回りの景色や屋敷は変わらない風情を醸していました。

 朝が早かったので素顔の椎葉を堪能しようと町中をカメラを提げてウォッチングしました。早朝7時だというのに村の道は弁当を持った工事関係者の車や人が無言で行き交い、慌しい一日が始まろうとしていました。

 石段を登ると古い民家に出会いました。国の重要文化財に指定されている木造の茅葺の家です。保存が行き届き椎葉民家独特の横長い造りになっていますが、一般公開は9時からなので残念ながら見学はできませんでした。

 民家の横にダイガラ臼がありました。椎葉は焼畑農業が今でも行われているようで、多分特産の蕎麦をつくものなのでしょうが、今では立派な観光資源です。

 その横に鶴富姫のお墓がありました。源氏那須与一しい伝説は今でも大切に保存されていました。椎葉村にはこのほかにも秋になると26の集落全てに無形文化財に指定されている神楽が今でも伝承されていると聞きました。

 駆け足で巡ったほんの触り部分しか紹介できませんが、鶴富姫のイベントは内外から3万人もの来村者がいる一大イベントだそうです。椎葉蕎麦を食べたかったのですがそれも叶いませんでした。今度はゆっくり妻と二人で旅をする下見旅にしたいような旅でした。

 椎葉にも過疎や高齢化の波が押し寄せ、守るべき伝統や文化が危険にさらされています。私の悩むことではないのですが、美しい日本のこの村を国の財産として残して欲しい気持ちでした。

  「美しい 日本の村の 風景も 守る人あり それが危ない」

  「もう一度 必ず妻と 訪ねたい そんな気がした 椎葉心に」

  「遠いから 不便だからと 行かぬ人 遠い不便は いいもの残る」

  「十年が あっという間に 過ぎました 村のアルバム 更新忘れ」

 

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shin-1さんの日記

○椎葉村の苦悩

 「おばちゃんちょっとお尋ねしたいのですが、高齢者センターは何処かご存知でしょか」。「ああ高齢者センターならそこですよ」と教えてくれたのは、降り出した雨の中で立ち寄った金物屋のおばちゃんでした。金物屋の店内はども町の金物屋さんも一緒で、何時売れるか当てもない商品が所狭しと並べられ、店は片付いてはいますが少し古い物が値札と一緒に吊り下げられていました。聞くでもなく相手のおばちゃんは椎葉村の現状を聞いてくれと言わんばかりに一気に話し始めたのです。急ぐこともないので立ち話のような形で話に相槌を打ちながら聞いたのですが、椎葉村は一昨年と昨年の二年続きの台風災害で、ちょっとした好景気のような錯覚にとらわれているそうです。椎葉村の台風災害は村が孤立するなどその爪あとは大きく、激甚災害に指定されたのです。激甚災害に指定されると国費が投入され公共土木工事が増えるのですが村内の業者はランクが低くて大きな工事はゼネコンが殆どの工事をするのだそうです。仕方がないので下請けや孫受けといった儲けの少ない場所でしか受注できないのです。しかも最近の公共工事は事業費見直しによって利が少なく、中には赤字覚悟の工事もあるやに聞いているのだそうです。

 村の中心部の対岸にこんな光景を見ました。土砂が崩壊し道をふさぎ、その土石流は川まで達しています。多分人命や交通に支障のないものは後回しにされるので、着工は早くても2年後ではないかと聞きました。ぐるっと見渡してもこんな土砂崩壊の爪痕はいくつも視界の中に入ってくるのです。

 おばちゃんの話は延々と続きました。これでは講演をしに来たのではなく、まるで金物屋のおばちゃんの講演を聞きに来たようでした。いい話を聞いたので何か買わないと、ブリキで出来たお茶の収納に使う道具を買いました。名前は忘れましたが椎葉村独特の見たこともないような道具でした。

 私が今回の旅で八幡浜~臼杵~日向・延岡~椎葉を選ばず三崎~佐賀関~竹田~一宮~蘇陽~椎葉のルートを選んだのは台風災害や通行時間制限が少ないルートだと思ったからです。それでも何ヶ所か無人の片側通行信号や、ガードマンに何度も止められました。その都度急ぐ旅でもあるのでイライラは募るばかりでした。大人気ないなと思いながらもガードマンに「あとどのくらいかかるの」と聞く始末です。

 昨年の台風はわが家の裏山も崩れ他人事ではないと同情しましたが、おばちゃんの話によると、山奥には想像もつかないような土砂崩壊の場所があるそうです。

 高齢化や過疎、それに長引く不況と田舎を巡る不安材料は幾つもあります。テレビではセレブなどという言葉が流行し、何か違う国の話を聞いているような錯覚さえ覚えます。また田舎の長男が故に嫁のない苦悩もまた、芸能人の離婚や結婚の話に打ち消されています。格差が問題になっているこの国の形は一体どうなっているのでしょう。

 この台風で3人の人が犠牲になった現場を見ました。旅館だった三階建ての家は壊されず無残にも台風の爪痕を残したままの姿でした。壊すのに8百万円要るのだそうです。椎葉村の苦悩は中山間地域の苦悩でもあるので心を痛めながら4回目に訪れた椎葉村に別れを憂げました。

  「若松さん 見知らぬ人が 声掛ける こんな田舎で 俺の名知るとは」

  「落ち込んだ 話を聞いて 落ち込んだ 深い悩みの 悲しい現実」

  「このルート 選んでみたが 結局は カーナビ案内 お前は偉い」

  「四百も 工事あるとは 驚いた 民宿おばちゃん 自慢顰蹙」

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○二人の旧友

 私には友人や先輩、仲間など数えれば家族全員の足と手の指を借りてもまだ足らないほどの数の人たちがいます。頻繁に交流している人も沢山いますが、もう何年も音信が途絶えている人もいます。歳を経てきたからなのでしょうか最近そんな懐かしい友人の顔が時々思い出され、パソコンを打ちながら「あの人は元気なのだろうか」などと思い出し、電話をかけたりするのです。

 数日前も宮崎県椎葉村へ講演に行くため調べ物をしていてふと「河口吉弘」さんのことを思い出しました。彼は椎葉村の役場に勤めていましたが、知的な行動派で椎葉村へ講演に行った縁で青年たちをわが町へ連れてきたこともあるのです。電話番号が分らず結局は役場に電話を入れました。電話に出た総務課の方の話によると彼は今春退職したとのことでした。詳しいことも聞けず早速彼に電話を入れましたがあいにく留守だったので夜に再びかけると、懐かしい彼の声が聞こえてきたのです。何でもまだ60の定年には2年間もあるのに「っくりしたくて」退職したとのこと、宮崎県を代表する彼を現場から失うことは寂しい気もしましたが「ゆっくりしたい」と言う彼の言葉の重みをかみ締めました。

 昨日の朝椎葉村を歩いていると見知らぬ役場の職員風の方から「若松さんではありませんか」と、思わず声を掛けられました。青天の霹靂、驚いたの何のって、言葉では言い表せませんでした。その方は村の文化郷土館の学芸員をしているそうで、何でも昔河口さんが縁で私の講演を聞き青年団で聞き双海町視察ツアーの一員としてわが町にも来られたとのこと、それでももう10数年の昔のことだし、私の風貌も13キロも痩せていてすっかり様変わりしているのに覚えてくれていたのです。嬉しさでついウルウルになりました。

 折から降り出した雨で会場の準備が遅れ会場へ着いたのは開会30分前でした。会場へ着くなり河口さんからの伝言とかで、「今日は所用で会えない。お土産を」と焼酎を託けてくれたのです。

 九州北部地四国地方が入梅というニュースを、谷間を縫うように走るためラジオ電波の状態が悪い中で聞きました。折から接近する低気圧の影響で雨は本降り、しかも風を伴った横殴りの雨、各地に暴風波浪警報が出される中、やっとの思いでフェリー乗り場のある佐賀関までたどり着きました。今回の椎葉村行きをブログで紹介していたので、愛読者の渡辺又計さんが読んでくれていて、「フェリーが欠航になでもなったらわが家へでも」とわざわざ風雨の中船着場まで訪ねてきました。彼とは旧三崎町の塩崎君を介して知り合ったのですが、漁師町の育ちで気心が合うのか、先日もわざわざ来県(来県といっても三崎とは目と鼻の先でフェリー代だと600円程度で、遠い県内よりよっぽど近い)し交遊を深めました。手土産にと関アジを持ってきてくれました。

 渡辺さんのことを私は「関のダンディーボーイ」と呼んでいます。こざっぱりした容姿は田舎臭さがまったくなく言う事なすことがしっかりと将来を見据えています。その姿はまるで俊敏に泳ぐ関アジ・関サバのようで好感が持てます。春の人事で課長級になったそうです。まずは昇進を喜びたい。大分市と合併し佐賀関という自治体はなくなりましたが、これからも佐賀関というブランドにこだわった地域づくりに努力して欲しいものです。

 人の出会いは不思議なもので、河口さんにしても渡辺さんにしても遠い土地に住んで空気のような存在でありながら、それでいてお互いが気にする存在にいます。私もそんな存在になりたいものだと二人を見て思いました。今回も小さな旅の中で二人の旧友の存在を確認することが出来ました。お二人さんお元気でご活躍ください。

  「旅先で 受けた恩の 有難さ 気配りできる あの人達人」

  「走らせる 車の中で  人思う 看板見る度 あの人元気」

  「味なこと するわいあいつ アジを持ち 味わえ言って 雨に消えゆく」

  「ふるさとを しょって生きてる 人に会う 風の便りに 昇進・退職」

  


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shin-1さんの日記

○椎葉村へのルートを調べる

 今夕から宮崎県の山奥深い椎葉村へ出発します。週末の逆手塾準備のこともありどうしても金曜日の朝までには帰宅しなければならないので車で行く事にしました。椎葉村へは過去の2度ばかりお邪魔しましたが、何せ遠いことと道が狭いことの印象が強く、公共交通機関利用だと完全に2泊3日の旅となるのです。そこで妻が愛用している九州全土の地図を広げ思案しました。妻は息子が鹿児島の大学へ遊学中に自分で車を運転して度々鹿児島へ行っているので九州南部については詳しいようです。普通だと八幡浜から臼杵にフェリーで渡り、日向か延岡まで国道10号線を南下して山道に入るのですが、地図を広げて色々なルートを探ってみました。

今回の宮崎行きにあたってはグリーンツーリズム協議会の招きなので宮崎県地域農業推進課の担当者から様々な情報を入れてもらいました。日向市や延岡市から入るルートは度重なる台風被害によるものなのでしょうか、工事のための時間規制があって中々上手く行けそうにもありません。

 そこで考えたのが三崎町から佐賀関にフェリーで渡り竹田市を経由して裏側から椎葉村に入るという案です。海の上に国道が走るこのルートだとフェリーの時間が一時間余り短縮できますし、このルートは途中まで走ったことがあるような気がするからです。今日は7時30分まで大学の講義日なのでそれからの出発になる関係で時刻表を調べ10時30分発のフェリーに乗るべく予約の電話を入れました。ところが今の時期は一隻が定期検査のドック入りとかでこの時間は運行されておらず、結局は11時30分の予約となりました。出だしからつまづいた感じですが、帰りの便も予約をして準備が整いました。

 宮崎県椎葉村は日本三大秘境にも数えられる平家の落人伝説の地です。今だから車で簡単に行けますが昔は隠れ里ゆえに様々な歴史と文化の残る素晴らしい所です。

 かつてわが家にも逗留したことのある旧友河口吉弘さんの顔を思い出し、役場に電話を入れました。電話に出た方から「河口さんは今春退職されました」とのことで、電話番号を聞いて夜電話を入れてみました。嬉しいいことに電話に出て、昔の話に花を咲かせました。まだ定年には2年もあるのに辞められたとのこと、宮崎を代表する方のお一人なので惜しい気もしますが、まあ人生色々だからと椎葉村での再会を約束しました。

 旅馴れている私は年中旅をします。故に事前にこんな準備をしたことは殆どありません。今回ばかりは車での旅ということもあって、妻の心配は尽きません。しかも深夜の走行は体にこたえると反対しましたが、言うことを聞かない私ゆえ結局は妻が折れてしまいました。まあ「狭い日本そんなに急いで何処へ行く」てな感じで今回も旅を楽しみましょうか。

  「二度三度 訪ねし椎葉 久しぶり 思い巡らす 地図上の旅」

  「あの人は 元気でいるやら 浮かぶ顔 歳もとらずに 昔のままで」

  「今頃は デジカメ友の 一人旅 俺も随分 変わったものよ」

  「いい所に 行けてあなたが 羨まし 妻に反論 俺は仕事だ」

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○未公開施設の公開

 人間牧場第三期工事のツリーハウスについては、工事の推移をその都度紹介していましたが、足場も退いて防腐剤ペンキで化粧したツリーハウスの内部は紹介していなかったので、幾つかを紹介しておきます。

 ①生きた床柱

 ツリーハウスの由縁は木の上に家を建てる方法と木を室内に取り込む方法がありますが、人間牧場では木の立場に立って重い荷物の家を背負わさない後者の工法を選びました。生きたままの杉の木を室内に取り込んだので、まるで生きた木の床柱のようです。したがって畳三畳分の狭い室内の主要部分をこの木が独占しているような錯覚を覚えますが、生きた木に向かい合い木と語るまるで禅の修業場所のような感じがします。このツリーハウスのスポンサーは私が代表を務める21世紀えひめニューフロンティアグループと長年物心両面で私たちのグループを支援していただいている関奉仕財団です。

 最初この杉の木は7本の株立ちでしたが、屋根の始末や棟木の角度を確保するため工事の段階で比較的小さい3本の幹がご覧のようにあえなく伐採しました。残念ですがそれを含めた7つの教えとして付加し、大切にしたいと思います。

 ②四つの扉

 入り口に半間の引き戸、西・北・東に小さい窓が造られています。いずれも外壁の杉板鎧張りと同じで、外から見ると窓の存在には気付かないよう工夫されています。窓は押し上げ式で木のつっかえ棒を差し込んで開けます。

 これは西側の窓ですが、巻き込み式の手作り網戸兼ブラインドが棟梁手作りで設置されているのです。中々お洒落な雰囲気です。4方の窓を開けるとかなり採光が差し込んで明るい部屋です。この部屋にはあえて電気は引きこみません。むしろランプのような時代遅れな人間の文明で使うつもりです。

 ③3本の根上がり杉

 ①で紹介した株立ち杉の木には根元から不思議な枝がまるでタコのあしのように3本出ています。何かの拍子で芽が出て枝になりそのまま放置されて育ったのでしょうが何とも奇妙な光景です。

 この杉の枝は生きた床柱とともにこのツr-ハウスの名物になりそうです。水平線の家といい、五右衛門風呂といい急峻な地形を活かしたため下から見るとまるで2階建てのような雰囲気で、味のある施設に仕上がりました。

 周りにはハゼの木が沢山自生しています。そのハゼの木もカズラに巻かれて息絶え絶えと言ったところなので丁寧にカズラを切ってやりたいと思っています。海岸線は標高が低く暖地なので秋の紅葉は期待できないのですが、ハゼは何故か見事に紅葉します。秋を演出する工夫を凝らしたいものです。

 このツリーハウスにはまだ名前が付いていません。みんなの意見を聞くと人もめしそうなので、私の考えている名前に落ち着きそうです。行く行くは下の往還道路に小さな吊り橋でもかけるとアドベンチャーを楽しめるかもしれません。いずれにしてもいいツリーハウスが出来ました。日浅棟梁さんや協力してくれた様々な人にありがとうといいます。

  「七本の 枝が残った ツリーハウス 僅か三畳 杉と語りぬ」

  「四方窓 開けて周りを 見渡せば 緑と青が 程よいほどに」

  「踏みつけて 出来た畑の 細い道 ぬかるみ足を とられ懐かし」

  「家の下 まるでタコ足 枝が出て みんな関心 覗き込むよに」

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○蚊帳の装着実験

 畳20畳敷きもある超大型の蚊帳を寒冷遮を使って製作しようと試みて早くも3日間が過ぎました。多くの人の協力や手伝いもあって完成しその装着実験を行いました。水平線の家の脱煙装置を見てオーム真理教のサティアンではと勘ぐった人には、何教かは忘れましたがウエーブとかいう宗教団体が何やら白い布で施設を覆った再来かと言うに違いないと思いながらも、今週末の逆手塾に間に合わせようと夜を徹して造った労作にして大作の蚊帳なので、失敗は許されないのです。

外にしつらえたステンレスの骨組みにすっぽり被せて見ましたが、中々の出来栄えです。結果的には横幕を裁断もせずに縫い合わせていったので奥行きがほんの僅か足らなくなりました。その様子を中から見ればご覧の通り立派な出来栄えです。

 今日は孫と二人で朝から人間牧場へ出かけ、足らなくなった横幕に、昨日買ってきた寒冷遮を接ぎ足す作業をしました。家からミシンを運び、生地を裁断してかがりながら縫い合わせてゆくんです。孫は「おじいちゃん手伝ってあげる」と、頼みもしないのに様々な作業に首を突っ込み、すっかり足手まといとなってしまいました。「おしっこ」、「ウンコ」、「お菓子」、「ジュース」と親がいないことをいい事に私にねだって、結局はその都度作業が中断するのです。仕事が終わった頃関西汽船の浜田さんから一報が入り迎えて今日の作業は何とか終了しました。完成してからの装着実験はしていないのですが、多分バッチリではないかと思います。この大きな蚊帳、ステンレスの骨組みも含めるとかなり高いものになりましたが、それでも息子と二人で様々な試行錯誤を繰り返した結果出来上がったので喜びも一入です。

 中学校の家庭科で触りはしましたが、この歳になってミシンの使い方も始めて妻の手ほどきを受けましたし、久しぶりに漁師をしていた頃の網仕立てに似た作業をやりました。

 蚊や虫が来るのは自然が豊かだからと思っていましたし、今もその考えに変わりはありませんが、水平線の家の快適さを追求するにはやはり虫を寄せ付けない防備が必要なのです。一番虫の嫌いなのは孫で、先日地元の人を招待した時などは眠気をもよおしていたこともあって、虫が来る度にワアワアわめきたてるように泣きました。これで孫も少しは落ち着いてくれるものと、ミシンで縫いながら虫の話をしてやりました。

  孫の手を 借りて二人で 蚊帳を縫う 足手まといで 先へ進まず」

  「ミシンなど 見たこともない 孫の目が 縫い目追いつつ 眠気催す」

  「懐かしき 蚊帳をつりたる 思い出に 浸る私は 時代が古い」

  「ふと鏡 見ればすっかり 日焼けして 百姓顔に なってきました」

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○宮本常一に会ってきました

 私の友人に山崎由紀子さんというユニークな女性がいます。先日電話があって人間牧場を見学したいというのです。人間牧場の見学は申し込みが多く順番があるのですが、そんなことお構いなしにどんどん攻めてくるものですから、男性ならいざ知らず女性のことでもあるのでついつい案内しました。その日はどんな取り合わせなのか分らぬまま家具屋姫こと五十崎の成田幸子さんという旧友を伴っての来訪でした。伊予市と合併して良かったのは門田さんや山崎さん、木下さん、徳本さんなどと同じ市民になったことです。まあ山崎さんの場合は書店の経営者だけあって博学で目立ちたがり屋と思える程の活躍ぶりです。

 下灘のコミセンで待ち合わせして人間牧場へ案内したのですが、家具屋姫の成田さんは可愛い花器をプレゼントして野の花まで活けてくれるサービスぶりでしたが、山崎さんは詩のコピーを持参して楽しいお喋りをしました。

 その折、人間牧場から見える周防大島の「旅する巨人・宮本常一」の話をしたら、山崎さんはえらい興味を示しました。そして必ず周防大島を訪ねたいと言うのです。始めての話でもあるし私が半信半疑になったのも無理はないことなのでした。ところが彼女は息子を連れて母の日に早速周防大島を訪ねたというのです。驚きました。そして先日周防大島での一部始終を私の元へ送ってくれました。

 普通の女性だとここまでを便箋にしたためて送るのですが、山崎さんはデジカメ写真をプリントし、もっと驚いたのは旅の記念になるであろう乗船券や三津浜・伊保田間の時刻表などミニグッズまで同封する念の入れようでした。彼女の行動力は伊予市民の知る人ぞ知るですが、こんな行動人間は滅多にいないとあらためて再認識した次第です。この封筒に入った周防大島見聞録や宮本常一に関する資料は早速人間牧場のお宝にしようと思っています。

 このところ忙しくて早速とは行かなかったのですが、今朝早起きをして山崎さんにお礼のハガキを書きました。勿論一日三枚のハガキ実践の一枚です。実は先日山崎さんにお便りを出したのに届かず舞い戻った経緯があります。私はその舞い戻ったハガキを山崎書店へ持参しました。「番地が少し変わっているぐらいで届かないあなたも無名じゃねえ。私なんぞは愛媛県・若松進一でも着ますよ」と冗談を言ったものです。

さて今回のハガキは確実に届くのでしょうか。少し心配です。

  「憧れて 宮本常一 生きた町 訪ねた旨の 手紙届いて」

  「切符まで 旅の思い出 あれこれと 送り届ける 気持ち嬉しく」

  「まず動く そして始まる 探す旅 やがて大きな 心の糧に」

  「ハガキ書く 顔を思って まず宛名 それからよろず 思いつくまま」 


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shin-1さんの日記

○わがまちを美しく

 私の住んでる愛媛県伊予市双海町灘町では毎年6月第1日曜日を一斉清掃の日と定めて区民あげて清掃活動をしています。昨年から灘町の区長、つまり世にいう自治会長という役職に赴いたこともあって、区長はその一斉清掃を仕切る事になっているのです。事前に27人いる組長さんを集めて一斉清掃についての説明や打ち合わせをしました。各組毎に計画をして清掃を行うのですが、ゴミ袋の配布や消毒液の手配の他、ごみ収集を行う収集者の手配、放送等の周知徹底などやるべき仕事はかなり多いようなのですが、昨日は好天に恵まれ大勢の参加で沢山のゴミや下水の土砂を取り除きました。

 毎年のことながら、今年も消防団が出動して日ごろ下水の滞留する平坦な場所をポンプで洗い流して貰いました。

 私と2名の副区長、それに会計の4人が軽四と1トンダンプに分譲して27組を回って集めたゴミと土砂を回収して回るのですが、これが半端な量ではなく、特に下水の土砂は昨年が雨の量が多かったこともあってかなり多かったようです。役所に前もって準備をしていたコンテナに回収ゴミを移すのも一苦労で、4人の中で比較的年齢と体力が若いと思われる2人が汗だくで車に積み込んだり下ろしたりしましたが、昼前になってやっとその目処がつきましたが、集めたゴミは車2台分にもなりました。

 ごみを集めて回ると、いい汗をかいて一仕事終わった組は、あちらこちらでジュースやお茶で、中には準備よく料理を囲んで小さな酒盛りまでしていました。まさにいいコミュニティ風景です。

 全ての作業が終わり、車を返した私たち役員も腹が減ったので集会所に帰り4人だけの小さな反省会を持ちました。こちらもノミュニケーションの話がまとまり乾物でビールです。酒の飲めない私は慰労のつもりで酒注ぎのサービスに余念なく働きました。

 今回の清掃活動が上手くいった背景には役所の全面的な協力があったからだと思います。役所の衛生担当は新人さんでしたが、実に気配りの出来る人でした。車や消毒液の手配など何度も相互連絡し、処理の仕方まで完璧でした。合併をして行政サービスが遠のいたと何かにつけて言われますが、今回はいい対応だったと思いました。私も含めて役所とはお互いが何か一線を引いているよな錯覚を持っています。これからは出来るだけ前向きに考えてお互いが話し合い協力し合って、町民のために努力したいものです。

 去年もあっあのですが、全てが終わって積み残しのゴミが3袋発見されました。それを片付け単車で町中をもう一回積み残しがないか調べて回りましたが、清掃の結果でしょうか町中がどこか輝いて見えました。

  「朝七時 町内あちこち 人が出て 一斉清掃 気持ちよい汗」

  「ゴミ集め あちこち回る 町内で 色々話し 聞くのも大事」

  「市役所の 担当さんは 熱心で 株が上がった みんな褒めてた」

  「町中が 輝き増した 清掃で 綺麗な町に 住める喜び」

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shin-1さんの日記

○梅を漬け込みました

 最近になって購入した人間牧場隣接の梅畑の梅の木から収穫した梅は何と60キロを上回りました。この3日間は梅の収穫から梅の漬け込み作業に至るまで、梅に翻弄された日々でした。近所や近くの親戚に2キロづつおすそ分けをして「まあ綺麗な梅」と褒められありがたがられましたが、それでも残りが50キロもあり、さてその始末どうしようかと思案しましたが、妻はいたって簡単に、「お父さん手伝って下さい」で梅干と梅酒作りの手伝いをしました。手伝いは主の妻がいて従は私ですから、梅を洗うことや梅のヘタを取ることの雑用は全て私です。妻はその作業を私に言いつけてさっさと容器の買い物に出かけてしまいました。しばらくして妻は梅酒のビン3個とポリ容器、それに氷砂糖や塩をどっさり買ってきたのです。「さあ始めましょう」と腕まくり、慣れた手つきで梅の重さを計力器で計り、手際よく容器に詰めてゆきます。

 梅酒は普通ホワイトリカーと氷砂糖でつけるのですが、酒が飲めなくなった私のために梅と砂糖を同量入れて梅酒というよりは梅ジュースを造りました。梅と氷砂糖を交互に入れ、香りと保存用にホワイトリカーを少し入れて、熱湯消毒した瓶の蓋を密閉するのです。梅ジュースの造り方については先日ブログ仲間の大河内さんから教わっていましたが、妻が知ってる造り方も同じだったので手際よく3キロ入りのビンが本出来ました。妻はこのほかにも花梨酒や紫蘇酒などを造っており、家の倉庫には年代物のような古酒が眠っており、この際愛飲したいものだと思っています。側で梅酒造りを見ていた息子が、「梅酒って砂糖ジュースみたい」と言う通り、砂糖を多く使うのには改めて驚きました。

 続いて梅干しの漬け込みです。こちらはいたって簡単な作業で梅を計量器で計ってその良に15パーセントかければ塩の容量が出るので、梅を入れた容器に塩を入れるだけです。昔は20パーセントもの塩を入れていましたが、減塩梅干しなので15パーセントにしました。最後はホワイトリカーをふりかけて防カビ用にしました。わが家は梅が好きで次男は一日3個くらい食べます。最近の市販のものは塩分をまったく感じさせないような梅干しが多く、また小梅系で次男には物足りないようです。今年の梅は多少小ぶりですがそれでも市販のようなものとは断然比較になりません。昨年は山梨県の仲間が沢山梅干しを送ってくれたので大助かりでしたが、やはり口当たりがいいのか直ぐになくなってしまいました。時折顔を見せる孫も梅干し大好きのようで、孫のためにもいい梅干しが出来ることを願っています。

 わが家では梅干しを料理用によく使います。苦汁菜やフキの佃煮には欠かせませんし、イワシやサバといった青魚を煮るのに必ず生姜と梅干しを入れて調理します。梅の酸っぱさが美味しい料理の隠し味なのです。またここは漁師町で夏になると漁師さんや親戚からハモが届きます。骨切りしたハモをさっと茹で梅肉で食べる食感はまさに夏食の大様といったところでしょう。

 梅雨が明ける頃に土用干しして漬け込むのもそんなに遠いことではありません。しかし梅の実を収穫してそれを梅酒や梅干しにする作業は、私の知らない所で妻は文句も言わずにちゃんとやっていたのです。今年だけの手助けでしたが主婦の苦労を垣間見る思いがしました。漬け込み終わったのは午後8時頃、少し疲れました。

  「梅干しの ひとつひとつに 苦労あり 始めて思う 漬け込み作業」

  「俺造る 胸張り威張る 梅ジュース 今年の出来は 多分いいはず」

  「キロ五百 計算すると 三万円 農業で得た 家計簿所得」

  「梅が好き 俺はやっぱり 日本人 食水あたらず 梅ある暮らし」

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○ほたる祭り

 日本人はよくよくお祭りが好きな人種だと思います。水仙や桜、つつじといった花は勿論のこと、食べ物や動物の冠をつけた祭りが二本中にはやたらとあるのです。隣の松前町などでは特産のネギを活かしてまちおこしをしようとネギ祭りなどを開いています。「ネギがどうしてまちづくりの主役になるの?」と首を傾げたくなりますが、やってる当の本人たちは結構真面目で、人も沢山集まって来るようです。近隣には砥部焼き祭りもあって窯出しの商品が安く買えると好評です。しかし全てのこうした祭りイベントが盛況かというとそうでもなく、まるで浮き草のように根無しで消え行くものもかなりあるようです。祭りは「何のために」という基本コンセプトがしっかりしていなければ長続きするものではありません。最初は地域資源にこだわって始めるのですが、そのうち段々変わった方向に向いて、客寄せパンダのような上滑りの祭りになり、地元からも外からも見放されて終末を迎えるイベントを何度も見てきました。最近は行政も財政難で予讃が付かず金がないから止めるイベントも多いようです。

 私が始めたイベントにほたる祭りというのがあります。最初はほたるの飛ぶ川を取り戻そうと始めたのですが、地域の大きな支えもあって今年で20周年目を迎えるほどに成長しています。始めた頃ある町外の人が見学にやって来て「あれぐらいのほたるでようほたる祭りをするなあ」と呆れていましたが、それでもほたる養殖や河川の清掃、環境教育に取り組んだお陰で環境庁ふるさと生き物の里百選に選ばれたり様々な成果を収めてきました。昨晩のほたる祭りは木造校舎の翠小学校が主会場でしたがこれ程どこから人が来るのかと思うほど沢山の人が来ていましたし、ちょうちん行列でほたるを観察をしましたが凄い数のほたるにどの人も感嘆の声をあげていました。

 双海町のほたる祭りはほたるを一匹も会場に登場させないのが基本です。普通だと会場に蚊帳で作った擬似草むらにほたるを放って参加者に見せるのですが、第一回目のほたる祭りの打ち合わせの時ある青年が、「ほたるはその寿命はたかだか20日間、そんな短い命を人間のエゴで見世物にするようなイベントはやっても無意味、ほたるに触らないのが一番」と提案しました。そのことがきっかけで県下に先駆けて「ほたる保護条例」が制定され他のです。

 昨日のほたる祭りもその方針はしっかりと守られ、ほたるが主役、みんなが脇役のほのぼのとしたイベントでした。私にとってこのほたる祭りは木造校舎の存在や、水車小屋の設置、環境問題への取り組みなど、忘れられない思い出のひとつとなっています。

 ほたる祭りには妻、娘、孫、息子夫婦で出掛け、懐かしいそうめん流しと季節遅れのイチゴ狩りを楽しんで帰りました。

  「アッほたる あそこここにと 指を刺す 孫の見つけし 光追いつつ」

  「ゴキブリの ようだと孫が 指を刺す 木造校舎に 蛍留まって」

  「ソウメンを たらふく食って 三百円 今年も薬味に 笑顔を沿えて」

  「一年に 一度のほたる 久しぶり 懐かし友の 顔々も見え」

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